血と貴族と意地っ張り
ヴァンは今、自分が置かれている状況が全く理解できなかった。目の前には立派な門を構えた"秋皇"古来の屋敷が建っており、周りには畑と森、そして少し離れたところには鳥居が立ち並び、どこからどう見ても田舎、地方の村だ。確か先ほどまで九〇課の給水室にいたはずだが……
彼の横に立っているひなたは屋敷の表札を確認しており、
「うーん、『スニーラーク』だよねー? この家で合ってるはずなんだけど……?」
パタパタとあちらこちらへ行き来している。
「なぁ、ひなた。取り合えずここ何処だよ? つか何でこんなとこに? それに何か体中痛ぇよ!」
何故か痛む節々をさすり、ヴァンは塀を飛び越えようとしているひなたに怒鳴る。
「むー、何で何でうるさいよー? ここはスニーラークさん家の前で、これからここのお嬢さんを"怪人赤マント"から護衛するのっ」
「か、"怪人赤マント"!? あの鼻輪野郎をやった奴だろ? それをもしかして俺とひなただけで……?」
嫌な予感がしたヴァンはひなたに確認する。そうするとひなたは不思議そうな顔をし、
「え、何で? 何か困ることあるー? あ、二人だと話が続かないっていうのはあるかもねー」
くすくす笑う。彼女にはヴァンが心配していること、つまり『"怪人赤マント"に二人だけで適うのか?』という懸念が根本的に理解出来ていないらしい。
「あぁもう! あぁー……俺はマトモなんだけどなぁ。ま、しょうがねェなぁ。で、だ。何で俺の体がこんなに痛むんだ? それに服も泥だらけだし。まだ答えてもらって――おいっ」
ヴァンの話に飽きたのか、ひなたは門を叩き始めていた。
「出ないねー。うーん……面倒だし、こいつでチョチョイと……」
何の反応も無い木製の門に、何を思ったのか懐に手を突っ込み、ズルッと小汚い包丁を取り出した。
その包丁はくすみ、歪み、刃こぼれし、とても実用に足るものには見えない。その包丁には刃物特有の冷たさは無く、刃とは無縁であるはずの暖かさがそこにはあった。
「おいおい、やべェって! こんな道ばたで堂々と刃物を出すんじゃねェよ。ほら、ひなたおばぁちゃん、落ち着いて」
ヴァンは、まさに今、包丁を門に突き立てようとしていたひなたを、子供をあやすようにひょいと持ち上げた。
「むー、切る切る斬るー! ついでに年寄り扱いしたヴァンくんもメッタ刺しにしてやるーっ!」
……あぁ道真、お前って本当に苦労してるんだな……。
ヴァンは普段、道真がやるようにやれやれ、と頭をふるふる振った。
しばらくバタバタとヴァンの手の中で暴れたひなたは、不承不承ながらも包丁をしまう。
「じゃあどうするの? このまま門の前で"怪人赤マント"が来るまで待つ? あたしはイヤだなー」
ぷらぷら足を揺らしながらひなたは頬を膨らませる。
「じゃあ、俺がやるからひなたはホレ、そこの畑で虫でも捕ってろ」
そう言うとひなたを下ろし、ヴァンは分厚い木の門をドンドンと力を込めて叩く。
「おーい! 誰か居ねェのかっ!? 治安維持課っつーか護衛なんだがーっ!!」
少しの間そうしていると、門の横に備えられている小さな引き戸がガラリと開き、
「うるさいッ! 何か用さね!?」
白と黒を基調とした"秋皇"のものとは違う、お仕着せを着た女性が現れた。その機能的なのか、そうでないか良く分からない作業着は、この田園風景では恐ろしいほど浮いてしまっている。
「ん? 誰さねアンタら?」
門の前に居るヴァンに気付いたその使用人風の女は、扉を潜って敷地から出てきた。
先ほどまで、顔と上半身しか見えていなかったため、気付くことが出来なかったが、ヴァンは彼女の下半身が、そのスカートからはみ出んばかりの触手で構成されているのを認めた。
……海乙女か? その割にゃ顔に鱗が無いな。ったく、"秋皇"以外の人種なんて良く分からねェな……。
その場に道真が居たならば「それは君もだろう?」と突っ込みを受けそうな事を考えながら、ヴァンは彼女を観察していた。
短く切りそろえた髪、爬虫類のそれのように黄色い目、服の上からでも確認できる逞しい筋肉。その目がぎょろりと動いてヴァンを睨め付けた。
……すげー喧嘩売ってきてやがる。自己紹介しねェと殴られそうだな、こりゃ。
そう判断したヴァンは、彼女に先に何か言われる前に、と口を開いた。
「俺はヴァン・ヴァルク・ルーグ・グーン・グェフ・ロボフ・ファン。大帝都所属局地的人災対策部第六治安維持課所属の人狼なんだが……。あぁ何だ、"怪人赤マント"からここのお嬢さんを護衛するように言われて来てる」
ヴァンの説明を聞いてもまだ警戒を解かないの使用人風の女は、とんぼを捕まえようとして指をクルクル回しているひなたを一瞥して、
「本当に護衛さね? 胡散臭い……。それに弱い護衛ならいらないさね。それに――そんな汚い犬を家に上げるつもりも無いさね」
"汚い犬"扱いされたヴァンは、自分の血が一瞬で沸騰するのを感じた。頭の何処かで「試されている」と囁く声が聞こえたが、そんなことがどうでも良くなるほど腸が煮えくり返っていた。
――全く、俺は駄目だッ!!
ヴァンが自分の怒りをぶつけようと地面を蹴った。彼にとって、この程度の距離など無いに等しい。それに対し、女は先ほどまで組んでいた腕を解き、拳を作り、構える。それだけだ。
――それもどうだっていいッ!
「――ラァ!」
ヴァンは右足を鞭のようにしならせ、蹴りを放つ。力の先は、その女の顔であり、彼は一切手加減しなかった。だが――
「それっ」
上半身を反らした女に難なく避けられ、軽い声と共に顔に拳を叩き込まれた。
「それそれそれっ」
続けざま、女は遊ぶように腹、脇、鳩尾に拳を突き刺すように放ち、
「そぉれっ」
最後は顎に拳が直撃した。ふわり、と浮いたヴァンの体は、殴られた衝撃でそのまま反り返っていく。
……こんなもんさね。
女は自分の力を過信していた訳では無いが、計四発放った拳は、一撃でそこらの喧嘩自慢を沈ませる威力がある。女はこの人狼の青年は当然このまま倒れるものだろうと思っていた。
……お嬢様も訳を話せば分かってくれるさね。
『護衛が来る』と電話を受けたのは自分だが、それを自分は了承していない。お嬢様に話を通していないがその程度の雑事で手を煩わせる必要も無いだろう。ならば、その護衛を激昂させ正当防衛とし、その申し出を突っぱねてしまえばいい。そう彼女は思っていた。
「まぁ、悪かったさね……」
ヴァンと名乗った人狼を挑発し、一方的に殴ったことに少しの罪悪感を覚えたが、それも仕方ないことだろう。目を伏せ、倒れているであろうヴァンに目もくれずに背を向けた。しかし、
「おい」
倒した、と思っていた男に声をかけられ、驚いて振り向くと、
「よし、こっち向いたな。――食らえッ」
ヴァンの掌底が女の顔に打ち込まれた。女の目の奥でチカチカと火花が舞う。突然の衝撃に女がよろめくと、
「……どうする? まだやるか?」
ヴァンが女の腕を掴み、引き寄せて問う。女が一撃で鼻血を垂らしているのに対し、ヴァンの方は殴られた箇所がうっすら赤くなっているのみである。
ヴァンの問いかけに、女は歯が軋むほどに噛みしめ、睨み付けている。
ぽたぽたっ、と女の鼻から出た血が顎を伝って地面に流れ落ちるのを見て、ヴァンは申し訳なさそうに鼻を掻き、
「――悪い、少しやりすぎた。でも、悪いのはお前だ」
そう言うとヴァンは彼女から手を離し、後ろへ一歩引く。
女はポケットからハンカチを取り出して、顔に付いた血を拭い、
「……最後のくだらない一言で完全に小物さね」
なにっ、と歯をむき出したヴァンを掌を突き出して宥め、
「――だけど、まぁソコソコ強いさね。アタシの名前はウェッジ・ピンクバブルズ。この屋敷でメイドをやってるスキュラさね」
聞き慣れない言葉に、ヴァンは腕を組んで首を傾げる。
「メイド? スキュラ? つかウェッジってその……女らしくないというか、変わった名前だな」
ウェッジは血に染まったハンカチをポケットにしまい、ヴァンの疑問に答えた。
「メイドってのは家政婦、スキュラってのはアタシの種族、名前が女っぽくないのは種族のしきたりさね。生まれたのが女なら男の名前っていう」
その答えを理解したのかしてないのか、それともどうでもいいのか、ヴァンはもう一つ訊ねた。
「で、何で俺を怒らせた? 殴られたのはどうでも良いが、汚い犬扱いされんのは気分が良くねェぜ」
ははっ、とウェッジは笑ってそれにも答える。
「そりゃ当然、メイドにやられる弱い護衛なんてただのお荷物だからさね。"怪人赤マント"だか何だか分からないけど、この屋敷の警備はしっかりしてる……問題無いさね。それと、汚い犬は……ごめんなさい!」
頭を下げられたヴァンがしどろもどろになって答える。
「あっ、いや、別に謝ってくれたんならいいんだがよぉ……」
頭を上げたウェッジに目を合わせるの何となく気まずく思い、ヴァンは明後日の方向を向く。そのヴァンの足をクイクイと引っ張られる者がおり、
「ねーねー。ヴァンくん、ほらこれオニヤンマだよ! すごいでしょー! えっへんっ」
ひなたが片手にオニヤンマを持って満足げに胸を張っていた。畑や畦道を走り回ったのか、足や着物の裾が土で汚れていた。その姿を見たヴァンは思わず頭にぺし、とチョップを入れた。
「え!? 何すんのー! ヴァンくんのいけずー!」
「違ァう!! ひなたァ! お前は少なくとも俺より年が上だろ!? それをお前、あぁー……こんなに服を汚して……」
ヴァンはひなたの両脇に手を挟み、自分の目の高さまで持ち上げる。
「それにお前、俺が殴られてたとき何してた? アレだが、お前が止めてくれよ。俺は自分で抑えが効かねェんだから」
「えー? だって、どっちでも良かったし」
「あぁ? どっちでもって何だよ?」
ヴァンはひなたの言っていることが分からなかった。
「どっちでもって言うのはー、ヴァンくんが負けたら、あたしがあのお手伝いさんを殺すし、あのお手伝いさんをヴァンくんが倒したのならそれで良いし……ね? どっちでも大丈夫ー!」
手に持ったオニヤンマを笑顔で見つめながら答える。
「殺す、なんて言葉を簡単に使うんじゃねェよっと……っ」
ヴァンは、くるりとひなたを手の中で回してウェッジの方へ向ける。
「こんなんだが俺より強いし、年も食ってる。なぁ、護衛として認めてくんねェかな。そんでスニーラークのお嬢さんとやらに会わせてくれ」
「えーっと。もっかい、ヴァンくんを馬鹿にしたら……ね?」
頼むヴァンと脅すひなた、その対比に思わずウェッジは笑い出す。
「ヒャーッハハハッ! 分かった分かった認めるさね! アンタらなら足手まといにはならないだろうし、何より死にそうにない! これなら"怪人赤マント"も裸足で逃げ出すさね!」
突然のウェッジの変わりように、ヴァンとひなたは呆然としていると、
「ほらほらっ。早く入るさね! そんで服を着替えるっ!」
グイグイとウェッジに押され、無理矢理引き戸を潜らされるヴァンとひなた。
「お、おい! お前どうしたんだよ! 何か怖ェよ!」
「あっ、オニヤンマ! オニヤンマがー!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ二人をニコニコ笑ったウェッジがまぁまぁ、と押して行き、三人が往来から消えるとピシャリと引き戸が閉められる音だけが人通りもない田舎道に響いた。




