虎と少女と時計台 3章
「ん? ね、ねぇヴァン! アレって……!」
肆は先ほど自分が見た影に驚きを隠せず、ヴァンの肩を揺らす。
「……う、ぷ。やめ、てくれ。朝食った玉子焼きが……!」
「あー、肆。さすがの僕もそれはやりすぎだと思うんだが……」
道真が青を通り越して白くなっている――実際に霜で白くなっている――ヴァンを不憫に思い、注意する。
「違うって! ほら、あそこに虎がっ」
そう言われて道真とヴァンは肆の指さす方向――自分たちを乗せた車の左前方の建物の上を駆ける虎を見た。 虎は自分たちに併走するように駆けており、その視線の先には、
「――おいおい、マジかよ」
ヴァンは虎が何を目標にして走っているか分かってしまい、呻いた。
「時計台、か。こいつは面倒なことになりそうだぞ」
道真はため息をつくと、虎から離されないように、さらにアクセルを踏み込み、どうにかして追いつこうとする。
しかし、どうにも付かず離れずといった距離はなかなか埋まらない。空を飛ぶように自由に翔る虎と地を這いずるように疾駆する車、空を往く虎は何にも縛られることは無いが、地を往く車はそうはいかない。通行量が少ないため、邪魔になるような他の車はあまり無いが、そのスピードに対する風速、カーブを曲がるたびに発生する慣性、そして何より――
「……やばいな」
道真のぼそりとこぼした呟きをヴァンは聞き逃さなかった。
「何だよ? 何がヤベェんだ?」
「燃料も尽きそうなんだが――車が時計台までもちそうにもない。このままじゃね」
唸るを通り越して叫びをあげているエンジン、弾けてしまいそうな外装、時たま聞こえてくる異音……様々な不協和音を奏でる楽器と化した車は何時動きを止めてしまうか分からない。
その話を聞いた肆はこの状況を打破しようと考え、考え、考えて、ピコン!と何かに閃き、自信満々の顔で道真に、
「道真さんっ、私をぶん投げて!」
道真は今日一番の呆れ顔で肆を見つめた。
「本当にいいんだな? 肆」
道真は片手にハンドル、片手に肆の腹部を鷲掴みにし、最終確認を肆にとる。
「……やめたほうがいいんじゃねェか? 言っとくが俺は止めたからなー」
ヴァンは『止めた』という所を強調し、その後は我関せずといった態度を取ることにした。
「いいからホラっ、男は度胸、女は酔狂!」
「愛嬌だろうに……じゃあ、いくぞ?」
肆はコクリと肯定を示し、それを確認した道真は、呼吸を整えて腕に力を込める。
ドグッ、ドグッと左腕に血が集まってくるのを道真は感じた。コートの中で膨れ上がった左腕は今にもはちきれてしまいそうだ。
「――フンッ!!」
「あっ――ひゃああぁぁぁぁ!!」
はたして、肆は放物線を描いて屋上の虎へ向かって飛んでいった。その様子を見て、
「なーんか、楽しそうだな……」
ヴァンは眩しそうに宙を舞う肆を眺めて言った。
「ひゃああぁぁぁぁ!!」
肆は自分が道真に放り投げられ、上が下に、下が上にとくるくる目まぐるしく変わる自分の視界に、恐怖よりも愉悦が先行していることに肆は気づいた。
やがて、放物線のもっとも高い位置へたどり着き、不思議な浮遊感を得た。まるで時間が止まったかのように世界がゆっくりと動き、秋晴れの空に自分の体がふわりと浮いている。そして視界の端に先ほどまで自分の乗っていた車が見えた。
……よし、格好良いところみせてやろうっ。
そう肆が決めたと同時に、自分の体に重力がズシリとのしかかり、一気に下降し始める。
「――氷法二の陸……氷翔天女!」
その言葉とともに肆の背中から氷の翼が生え始めた。二翼だと思われたそれは、あっと言う間に六翼となり、彼女の身の丈より大きい巨大な翼となった。そしてその翼は圧倒的なまでの空気抵抗と重量を生みだし――落ちた。
「あ、あれっ!? 想像と……あっれええええ!?」
釣瓶落としとはこのような事を言うのであろう。肆は先ほどまでの慣性を強引に変えて真っ逆様に落ちていき――激突音を鳴り響かせた。
その様子を一部始終見ていた道真とヴァンは努めて何も無かったかのような顔をしていた。
「……なぁ、ヴァン。今、恥ずかしい事この上ない決め台詞が聞こえたと思ったんだが、僕の気のせいか?」
「奇遇だな、俺にもその空耳聞こえたぞ――多分、風の音だ」
そうだな、と道真は口を閉じる。しばし、二人の間に沈黙が流れ、次にヴァンが口を開く。
「……アイツって今いくつだっけか?」
「僕の記憶が正しければ今年で19のはずだ」
「19か、そうか。……なんつーか、その、あいつの将来がスゲェ不安だ」
道真はその言葉にあえて肯定も否定もせずまぁ、と前置きして、
「人数が減って車に掛かる負担が減った。これで良しとしよう」
「お前も大概にヒデェなオイ!!」
そりゃ君もだろうに、とは口には出さないで車に幾分かの軽快さが戻ったことを確認し、虎を追った。
時計台――稀に”鐘鳴らず”とも呼ばれる――は”塔の足”ほどでは無いがそこそこに古く、高さも200mにも満たない。この時計台は当時の人々の「自分たちは既に”塔の足”よりも高い建造物を作る技術を持っているのだ」というそれだけの動機で建てられたものであり、その証明のためだけに存在するただ過去の遺物である。
最初期は鐘を鳴らし、時間を知らせていたが時が経つにつれてその役割を担う者も居なくなり、今はただ時を刻むだけである。
その時計台を睨むように見上げている虎と少女は想う。これで『終わり』なのか、これが『始まり』なのか、どちらにせよ自分たちは先に進まなければならない、と。
「――往こう」
――うん。
今の二人にはこれだけで充分だった。
虎は柵を飛び越え、門を破り、時計台の中へと入っていった。
「おいッ! マジにあの虎、時計台に入って行きやがったぞ!?」
ヴァンは風を全身に受けながら立ち上がる。
「……ヴァン、君は外から屋上まで駆け上がれ。僕は中から追いかける。そうすれば――挟み撃ちだ」
道真のその言葉にヴァンは牙を剥き出しにし、愉快そうに笑う。
「クックックッ! 燃えるなそいつはッ! いいぜ! スゲー燃えるぜそれ!!」
何が琴線に触れたのか、どうやらヴァンの心に火がついたようだ。
……やっぱり肆と似ていると思うんだがな。
車は柵を跳ね飛ばして敷地に入り、蛇行しながら時計台へと近づいていく。
「合図したら跳べ」
「は?」
「合図をしたら跳ぶんだ、ヴァン」
「は? あ、いや車は当然停めるんだよな?」
そうしている間にどんどん時計台は近づいてくる。
「合図をしたら跳ぶんだ、ヴァン」
「おい、ちょっと待て! それとこれとは話が……!」
時計台は目の前まで迫り、
「合図をしたら跳ぶんだ、ヴァン」
「あーもう!やっぱお前はおかしいッ!!」
「――跳べ!」
「覚えてろよ! クソッ!!」」
ヴァンが時計台へ跳び移ると同時に、道真を乗せた車は壊れた門を踏み越えて時計台内部へと入っていった。
中は螺旋状に階段が伸び、広間やバルコニーが何カ所か設置されている。
道真は階段を駆けている虎を見上げ、溜息一つ。
……やれやれ、後でクロさんにドヤされるな。
ブレーキを踏むと床とタイヤとの摩擦でけたたましい音が鳴り響く。道真は悠々とした動作で車から降り、数度コートの裾を手で払う。
「さぁて、と……!」
両手で車を掴み、
担いで、
――投げた。
道真に力任せに放り投げられた車は、まるでその重さを失ったかごとく、非現実的とも思える速度で――虎の目の前の階段を砕き、壁に突き刺さった。
虎は驚きに満ちた目で道真を見つめ、笑った。その目は喜びに満ち、道真に語りかけてくる。
昇ってこい、と。早くここまで昇ってこいと。
そうすると虎は先にある広間へと駆けていった。
その誘いに道真は帽子を被り直し、
「やれやれ、だ」
と、階段をゆるゆると昇り始めた。
道真が広間に入ると虎は丸くなり、蹲っていた。その様子はまるで誰かを慈しむようであり、
……あれは何だ?
道真は自分が抱いた疑問を晴らすべく、目を凝らす。
虎に誰かが寄りかかっているように見える。限りなく色が薄れ、まるで世界に溶けてしまっているかのようだがあれは――
「――幽霊、か」
幼く、どことなく猫にも見える少女がおぼろげながら見える。幽霊は言わば人の感情の付喪神だ。強い感情が時間と共に凝り固まり、形を成す。大抵は負の感情に染まって悪霊になると聞くが……。
『あれは違うみたいだね』
連絡以外で木蓮が話しかけてくるのは珍しいことだ。
「木蓮、か。君はどう思う?」
『うん、直接見ないと分からないけど……多分あの木の虎に憑いてる』
「虎に、か? つまり、あの幽霊が虎を動かしているってことかい?」
『ううん、あの木の虎も付喪神になってるから……うー、何だろう?」
木蓮にも良く分からないらしい。
……どちらにせよ、自分が確認すれば良いことだ。
そう決めると道真は話題を変えた。
「ところで、木蓮。二人はどうした?」
「肆ぃちゃんはこっちに文句を言いながら走ってきててヴァンも文句を言いながら昇ってるよ」
その情景が容易に想像できて思わず道真は頬を緩ませた。
「だったら、大丈夫だな。じゃあ往ってくるよ」
「……うん、気をつけて、ね?」
木蓮との会話を打ち切り、道真はカツカツと靴を鳴らして虎へ向かって歩く。
「――む、来たか」
道真が目の前まで来ると虎は背伸びをし、起き上がった。
「あぁ、誘われたからね。僕は蓮乃惣一郎・道真。大帝都所属局地的人災対策部第六治安維持課に所属している清く正しい公務員だ。今後ともよろしく」
「おおっ、聞いたか少女よ! やはりこの男は一味違うぞ! 余の言ったとおりであろう!!」
木の虎がさも当然のように喋りだしたことには驚かなかったが、
「……む? 確かにそうだが……。いや、この男は闘争の本質を! 余に任せておけばっ……」
恐らく幽霊の少女と話しているのだろう。理屈では分かるが、一見するとただの危ない人、いや危ない虎にしか見えない。
……危なくない虎なんているのか?
そう自問自答して道真は、
「あー、すまないんだが」
そう言葉を投げかけると虎はこちらに意識を向けてくれた。
「何だ? 余はいま、この少女に"男の世界"について説明していたんだが」
「残念ながら僕にはその少女の声が聞こえないんだ」
ナヌッ!? と虎は驚いた様子で背中にしがみ付いている……ように見える少女に振り返り、
「どういうことだ少女よ! キミはまさか余の幻想!? 余はまさか虎ではなく、ただの患者さんなのかっ!?」
また虎は道真を置いてきぼりにして、少女に対して機関銃のように質問をし始める。
そうすると少女が大変そうな顔をして言葉を返し――道真には口がパクパクと動いてるようにしか見えないが――次第に顔は曇っていき、最後は頭を抱えた。
……何故だろう、少女の今の状況が他人事には思えない……。
脳裏に肆とヴァンがすごく良い笑顔で映ったが、何かが感染りそうなのですぐにその映像を遮断した。
「……むぅ。何だか良く分からんが余は虎なんだな? ならば全て良し!!」
そう言うと虎は何かが吹っ切れたようで、爽やかな顔でこちらを向く。
「道真とやら、貴公は余たちを捕らえに来たのだろう? だがそうはいかない! そうはいかない、が……貴公とは誇り高き闘いが出来そうだ! 余は虎! 余は貴公という壁を打ち砕き、必ずや少女を彼の地へと送り届けるだろう!!」
さぁ次はお前の番だと虎が睨んでくる。
道真はやれやれと帽子とコートを脱いで放り投げた。
「蓮乃惣一郎・道真、母と父の名に懸けて……というよりかは自らの薄給のために公僕としての務めを果たそう」
「金のためか! 下らん!!」
「生活のためと言ってくれないか?」
虎は弾かれるように、道真はどしりと腰を落とし――激突した。
「少女よ! 余の中に隠れているのだ」っ!」
――……分かった。その、頑張ってね。
それだけ言うと少女は黙って、以前現れた時とは逆に姿を消した。ただ、存在だけは己の内に感じている。虎はそれを確認し、目の前のデカブツ、もとい道真に走り寄る。
こいつは違う、そう虎は直感で理解する。目に怯えはない、だからと言って闘いの狂喜に染まってもいない。腰を落としてはいるが構えらしい構えは取らず、力を抜いている。先ほどまでの三下とは格が違う。だから、だからこそ――
「グオオォォォォォ!!」
吼える。己を勇気付けるために、己を勝利へ近づけるために。そのために吼える。
それを道真は涼しい顔で受け流す。眉一つ動かさない……全く憎たらしい!
その顔を苦痛やら恐怖やらその他諸々の屈辱に満ちたものへ変えるべく、顔に尻尾を叩き込む。
「食らうがいいッ!」
防ぐなり避けるなりするだろう、そう虎は思っていたが、
グシャ、と鈍い、肉が潰れる厭な音が聞こえる。当然、その感触は虎にも伝わっており、
「なッ……――ッ!?」
気付いたときには遅かった。直撃するとは思わなかったという驚きから生じた隙は決定的なチャンスを道真に与えてしまった。
道真は尻尾の一撃を食らったが全く動じることは無かった。彼にとってそれは"耐える"ことさえ覚悟しておけばどうと言うことの無い一撃だった。そして顔色一つ変えることなく、そのまま尻尾を掴み――振り回した。
虎は自分の軽率さを呪った。車を楽に放り投げるような男――巨鬼族という種族――を侮ってはいけなかった。だがそれ以上、後悔する時間を虎は与えられなかった。
「フンッ!」
道真に尻尾を掴まれた虎は、一度フワリと自分の身体が浮いたという事を認識した直後、床に顔を叩きつけられた。
「グ、ガッ……!」
顔が砕かれ、木片が飛び散る。そして息つく間もなく、
「……ッ!」
また叩きつけられる。何度も何度も叩きつけられ、顔が半ば無くなった頃、
「――やれやれ」
その言葉とともに尻尾を両手で握られ、広間の壁に目がけて全力で投げつけられた。そして石壁にぶつかり、大きな風穴が時計台に開いた。
「…………」
横たわる虎はその衝撃で自分の身体がバラバラになったと錯覚した。実際に顔の半分は無くなり、胴体には大きな亀裂が入っている。その上身体は砕けた石壁の一部が落ち、埋もれてしまった。
……無様だ。
虎は思う。
……全く無様だ!
胴体のひびは繋ぎ止められ、その胴体から余剰分を削り出して顔の部品を補填する。以前は前足を治してくれて有り難いと思った能力だが、今はこの能力が憎くすら感じる。自分を罰するための痛みが欲しかった。油断した自分を戒める傷が欲しかった。だからあえて顔の傷は活動に支障が無い程度に残すことにした。
――……いじょうぶ!?ねぇ!?大丈夫って聞いてるのっ。
少女の声が頭の中で鳴り響いている。身体はもう修復されている。虎は少女に答えるように瓦礫を蹴散らし、立ち上がる。
「――すまない」
――え?
「すまない、と言った。余はキミとの約束を破りかけた」
虎は道真を睨む。道真は何をするでもなく佇んでおり、目が合うと肩を竦めた。
「だからこそ、肝に銘じよう! もう二度と油断しないと!! この傷はその誓いでありけじめだ!!」
――あ、いや、元気だったら良いんだけどね……。
「む?何故面倒くさそうなのだ?余はいま、歴史に刻まれるような名文句を遺したのだぞ!?」
――あーうん、ふぁいと☆
「な、納得いかないぞ余はっ! もっとこう、涙をぼろぼろ零して『もうやめてよぅ!』とか言わんのかキミは!!」
――だってどこも怪我してないでしょ?
「……余の心と誇りがたったいま怪我した。大怪我だ。しかも全治八ヶ月」
――もうやめてよぅ……
「ニュアンスが違う!余はもう泣きそうだぞ!?」
少女と舌戦を繰り広げ始めているのであろう虎に道真がおずおずと声をかけ、
「……なぁ、僕はいつまで待っていればいいんだ?痴話喧嘩ならお縄になってから……」
「「痴話喧嘩じゃないっ!!」」
二人に怒鳴られて降参、と両手をあげて引っ込む。何故か道真の耳にも、少女の声が聞こえたような気がした。
「よし分かった! 余が勝ったら褒めてくれ! 余の誇りの為に!」
そう言うと虎は道真のほうを向き、悪びれず話しかける。
「すまんすまん、待たせたな!」
「話は纏まったのかい?」
「あぁ!聞いて驚け!なんと余が貴公を倒せば5フレーズ相当の賞賛が少女から授与されるのだっ!!」
ふふん、と自慢げに語る虎。それを聞いた道真は訊ねる。
「じゃあ僕が勝ったら何がもらえるのかな?」
「余が勝つ」
虎は断言する。
「僕のほうが君より強いと思うが?」
「余のほうが強い」
またも断言する。その発言に対して道真は少し嬉しそうに口元を綻ばせる。
「じゃあ僕は君を大人気なく叩き潰すことにしよう」
「じゃあ余は大帝でありながら本気をだそう。そう、狐を狩る虎かの如く!」
二人は目で合図を交わし、またも両者は立ち合った。
道真は虎が立ち上がり、また向かってくることに些かの驚きと喜びを感じた。
……充分、痛い目に合わせたつもりなんだがな。
それでも心が折れず、なおかつまだ戦おうとするその姿に道真は素直に喜んだ。頑張れ、と。負けるな、と。
……まぁ、だからと言って手は抜かんがな。
理由はどうあれ、彼は本気だ。それに対し手を抜いたら失礼にあたる。ならば本気で、だからこそ大人げなく、
「じゃあ次は僕から往くかな?」
――叩き潰す!!
地響きを立てながら道真は走り始める。
虎は先ほどとはうって変わって身を低くし、今にも飛びかからんといった体勢で待ちかまえている。何かを隠そうとしているが、
……瓦礫を尻尾で拾っているな。
見逃さなかった。見逃すつもりもなかった。ネタさえ分かれば耐えることも対処することも容易だ。そのまま走り続ける。
虎が石を投擲する。それに対し道真は選択した。石の投擲に耐えて、手で掴み、投げ飛ばすという選択肢を。
――シンプルなのが僕の好みでね!
言葉にするつもりは毛頭無い。する意味も無い。
石が顔に当たる。耐える。
虎はもう一つ投擲する。それにも耐える。
――これでおしまいか?
道真は胸にジワリと失望感が広がった。こんなものかと。そして、次に虎が取った行動はさらに道真を失望させた。
虎は焦った顔をすると、追い詰められたように飛びかかり、右前足の爪で顔を凪ごうとしてきたのだ。
その足を掴んだ道真は溜息を吐きながら、
「残念だが、終わりだ」
そう言って力を込めて持ち上げようとすると――
「――え?」
掴んだ足が、もげた。
正しくは"取れるようにしてあった"だが、道真は一瞬呆気に取られ、虎のことを意識の外に置いてしまった。それがいけなかった。自分が騙されたことに気づいたときには、視界から虎は消えていた。
――後ろか!?
もう、遅かった。
ドシン! と、強かに背中へ体当たりを食らうと同時に、道真は先ほどとは逆に自分が一本取られたことに気づいた。
……僕も甘いってことかな。
背中に、虎が死に物狂いでぶつかってきた。声も出さず叫びもせず、ただ熱い息を吐きながら。道真は後ろ向きではロクに踏ん張ることも出来ず、そして不意打ちだったこともあり、あっさりと突き飛ばされ――
「――まいったな」
道真は自分が開けた穴から、空へと放り出された。
いや、本当にまいった。さすがにこの高さから落ちたら痛いだろうな。落ちながらそんなことを道真は暢気に考えていた。自分の体の事だから中身がぐちゃぐちゃになって両手両足が明後日の方向を向くだけだ。どうにかなる。どうにかなるが――
「――木蓮に泣かれる、かな」
心配されるのはともかく、泣かれるのだけは厭だ。どうしたものかな、などと考えていると、
「氷法四の玖――雪女郎蜘蛛!!」
恥ずかしい声が聞こえてきた。だがこの時ばかりは道真は彼女の存在が頼もしく感じた。
サァ、と氷で出来た蜘蛛の巣――正しくは巨大な氷の結晶の形だが――が漏斗状に広がり、そこに道真が落ち、中心へゴロゴロと転がっていく。
中心部にたどり着き、肆の足が見えた。道真は立ち上がりながら体の埃を払い、
「本当にありがとう。礼を言うよ……だが、よく僕が落ちてくると分かったな」
地面から伸びた巨大な氷柱の上に立つ肆へ礼を述べる。
あははっ、と笑う肆は鼻血を出したのか、凍らして止血しているため鼻の両穴から赤いつららを垂らしており、とても年頃の女の子とは思えない。
「そうだったら格好良かったんだけどねっ。木蓮が教えてくれたんだよ!」
いやいや、と肆が前置きをし、
「私が時計台に入ろうとしたらさ、『道真が死んじゃうぅぅぅ!!』って木蓮が大きな声で教えてくれてね、いやぁ旦那、愛されてますなぁー」
うりうりと肆が道真の脇を肘で小突いていると、
『だって、心配だったんだもん……!』
木蓮が恥ずかしさに堪えきれなくなったのか、会話に入り込んできた。
『落っこちたら死んじゃうと思って……そう思ったらアタシ…………』
最後のほうは消え入るようなか細い声だった。
「木蓮、聞いてくれ」
道真が言い聞かせるように力強い声で木蓮に話しかける。
『……なに?』
「僕は死なない」
はっきりとそう言った。
『え……?』
「僕は死なない、絶対に。せめて木蓮――君の花嫁姿を見るまでは絶対にね」
『……っ!!』
肆が先ほどよりも強く脇腹を小突いてくる。
「だから木蓮、心配しないでくれ……というと少しさびしいな。そう、僕のことはそれなりに心配してくれるだけで充分だよ」
そう言うと木蓮は、
『うんっ、うん! 待ってるから! 道真と肆が帰ってくるの、待ってるから!!』
……ヴァンのことを忘れているがまぁ木蓮が元気になったし、良いだろう。
道真があぁ、と答えると木蓮は安心したのか、それで会話は終了した。
「……何かたまにヴァンが不憫に思えて仕方ないんだけど……」
「それに対しては僕も同意見だ……。さて、これからどうするんだ?」
二人は未だに地上に降りず、巨大な氷柱の上に立っている。
「んー、ちょうど半分ぐらいだし……時計台のてっぺんまで伸ばしてみようかなっ」




