虎と少女と時計台 1章
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ぽつぽつ、と雨が降っている。その上霧まで出ているおかげで朝だというのに陽光が差さない。何とも朝から憂鬱だ――蓮乃惣一郎・道真はコートにまとわりつく水滴を散らしながら歩く。可能ならば走って職場まで行きたいが、濡れた歩道で滑りそうなので止めた。
横を路面電車が通り過ぎていく。車内は雨を嫌った人々で満たされている。自分も雨は嫌いだが乗ったら他の人に迷惑がられるのが目に見えている。我慢して歩こう。そう道真は決めると帽子を目深に被り直して早歩きで職場に向かった。
霧が晴れて太陽が申し訳程度に顔を出す。その少ない陽光が照らしている古い建物の二階が自分の職場だ。階段の昇り、【九〇課】とプレートの掛かった扉を開ける。
「お早うございます」
部屋の中は暖かい。壁にコートと帽子を掛けていると、
「おはよー! 相変わらず道真クンは早いねー。ご褒美にお茶を煎れてあげようっ」
こちらへパタパタと寄ってきた少女……と言っても年齢は依然不明だが見た目は童子にしか見えない。彼女は道真の元へ来ると周りをくるくる回り始めた。
「あぁ、ありがとう、ひなた。その……うっかり踏んでしまいそうだから退かすぞ」
そう言うと道真はひなたと呼ばれた少女――黒塚ひなたをひょいと抱え、自分の肩に座らせた。身長が優に2mを超える巨鬼族の彼にとってはひなたなどぬいぐるみ程の重さしかない。
「あ、こら! やめ……高い高ーい! 天井に触れるーっ」
最初は嫌がったが今は嬉しそうなので良いとしよう。
「ひなた、僕と君以外にちゃんと定刻に出勤している人はいるかい?」
「んーっ、いつものように道真くんとアタシ、木蓮ちゃんとクロくんだけだよー。多分ヴァンくんはもう少しで来ると思うけど、しーちゃんは……」
やれやれ、と道真は首を振った。
「あの雪娘は一年中睡眠不足なのかい?これで三日連続か」
いくら緩い職場と言えども遅刻は推奨されていない。だが、以前説教したときはしたり顔で職場に住み込んで、ボヤを起こしたあの雪娘をどうするべきか。そんなことを渋い顔で考えていると、
「……お腹、痛いの? お薬、飲む?」
また一人、少女がこちらへやってくる。彼女は土師木蓮、地に着きそうなほどのボリュームのある長髪で自らの姿を隠している姿はまるで影法師のようである。
「……それとも、頭が痛い、の?」
ちらりと髪の隙間から見える幾つもの目からこちらを心配してるのが見て取れる。
「いや、問題ない。肆の寝坊癖をどうやって治すか悩んでいただけだからね。木蓮こそ大丈夫かい? 顔色が悪いようだが」
「んーん、気になった、だけ。道真が、痛かったら、嫌だから」
ほっとした顔でそれだけ言うと木蓮は自分のデスクに戻っていった。人一倍頑丈な自分が心配されるなんてこそばゆいな、などと道真が考えていると、それを遮るようにひなたが顔をぺちぺち叩いてくる。
「いやいや焼けますなー愛されてますなー」
「君ほどではないさ。さぁ、そろそろ退いてくれ。クロさんに会ってくる」
自分で乗せたくせになまいきだーっ、と暴れるひなたをよそに、道真はコの字型に規則的に並べられたデスクの、一番奥に鎮座する黒い物体の元に向かった。
遠くから見ると、デスクの上の座布団に何やら手ぬぐいが乗せられた黒い物体にしか見えないが、近づくとそれは座布団に体を埋め、手ぬぐいを掛け布団にして寝ている黒猫であった。
「クロさん、お早う」
「んぅ? あぁ……道真か。だからいちいち挨拶しに来なくて良いって言ってるだろうがよぉ……」
クロと呼ばれた黒猫は大きなあくびをした後、目をショボショボさせながら答える。
「そもそも猫はよぉ、一日二十時間は寝る生き物なんだ。しかも今日は雨だ。眠くて眠くてかなわんよ……」
普通の猫がやるように顔を洗い始めたクロを見て道真は殺人的に可愛いと思ったが、本人に知れたら酷く怒られるのでその事は黙っていることにした。
「クロさんはこの課の長なんだから起きているべきじゃないか? そもそも昨日は『太陽が暖かいなぁ。眠いのも仕方がないなぁ』とか言って一日中寝ていたのは誰だい?」
二叉に分かれた尾を舐めていたクロは心底面倒臭そうな顔をしてため息をついた。
「あぁもう、お前はアレかぁ? 俺のお袋かっての。まだ仕事の時間じゃねぇから良いだろうがよぉ。それにあの馬鹿と阿呆が来てねぇだろうが。取りあえず眠いお終い後で起こせ」
それだけ言うと手ぬぐいを器用に前足で掻き抱いて顔を隠して眠ってしまった。呆れながらもそれもそうだと思って道真も自分のデスクへと向かった。
ひなたが汲んでくれたお茶を啜っているとタッ、タッ、と軽い音が階段から聞こえた――あぁ、この足音はヴァンだな――道真はそう思った。あの階段を二歩で昇りきるのは彼だと。
「よぉし! 間に合ったっ! 間に合ったか!? 間に合ったことにしよう!!」
バタンッと勢いよく扉が開くのと同時に体中の体毛から滴を垂らす人狼の青年が入ってきた。息遣いは荒く、口を大きく開いて舌をダラリと垂らし、肩で息をしている。道真は彼――ヴァン・ヴァルク・ルーグ・グーン・グェフ・ロボフ・ファン――がボタンも留めずに羽織ったシャツにビショビショに濡れたズボンという出で立ちであるのを見て呆れた表情で口を開いた。
「……五分遅刻だ、ヴァン。しかし君のその格好は何だ? 追い剥ぎにでも逢ったのかい?」
あぁん? とヴァンはシャツを絞りながら答える。
「違ぇよ。家出た時は上着も着てたんだがな? このままじゃ間に合わんかもなーと思って屋根の上跳んで来たら途中でちぎれて落ちた。嘘だと思うなら眠り橋辺りの路地裏見てこい……多分、落ちてるから……」
心なしか哀しそうに見えるのはヴァンにとっても上着を失うというのは不本意だったのであろう。
「あーっ!? ヴァンくん床濡れてる! この馬鹿! 間抜け! 濡れ鼻ーっ!」
「さ、最後のはどうしようも無くねェ!?」
騒ぎに気づいてこちらへやって来たひなたに怒鳴られ――怒鳴ると言っても非常に可愛らしくだが――ヴァンが狼狽える。
「ヴァン……少し、うるさい、よ?」
「んな事言われてもよー・・・・・・」
後からやって来た木蓮にまで注意され、ヴァンは気まずそうにそっぽを向いた。そして雨に濡れたためか、あろうことかその場で身震いを――彼にとっては無意識的に――してしまった。飛び散る飛沫は床、壁、そして――近寄っていたひなたの全身にかかった。
「…………あ」
「も、木蓮、そろそろクロさんを起こそう。手伝ってくれるかいわぁい有り難いなぁさぁ行こう」
道真はこの後起きることを恐れて木蓮を抱えて避難した。
「そのぉ、ひなた……さん?」
あぁ何でこのバカは疑問型なんだろうか。それよりも全身、特に顔が濡れて不快だ。そもそも遅刻してきても悪びれないこの態度、職場と人生、両方において先輩である自分が教育してやったほうが良いのではないだろうか? あぁそうだ、この馬鹿を真人間もとい真人狼に矯正するのは先人の務めだ。そうひなたは考えるとこちらの様子を窺っていたヴァンの首根っこを掴んで一言。
「――表に出な小僧」
道真と木蓮は扉の向こうから肉を殴打する鈍い打撃音とひなたの哄笑、そして途切れ途切れに聞こえるヴァンの謝罪を耳にした。
「違うんですっ! 妊娠したお婆さんが大金持ちでって……あれ? なにしてんのさ?」
ヴァンより遅れること十分、九〇課についた二三肆は自分の職場が異様な空気に包まれているのに気づいた。
奥のデスク前で向かい合ってお茶を飲む道真と木蓮。心なしか表情が強ばっているような気がする。問題は今、自分の目の前で行われているやり取りだ。
「ほらー隅々拭くーっ。磨くように! 舐めるように! 少しでも汚れてたら……また教育するよー?」
「……ッ!? …………」
「あれ? 返事は? もしかして――まだ足りない?」
「ハ、ハイ! お掃除大好き! ひなたさん大好き! うわぁもう本当に楽しいな畜生ッ!!」
何故か上半身は素っ裸で自分のシャツを使って雑巾掛けしているヴァン。そしてひなたがそのヴァンに馬乗りになって指示を出している。
きっとヴァンがまたくだらないことをしてひなたを怒らせたのだろう、自分は関わらないほうが得策だ。そう考えた肆はそそくさと道真たちの居るところへ行こうとする。
「あっ! ひなたさんアレッ! あの霜娘、遅れてきやがりましたよ! 教育してやってくださいっ」
「うわ、巻き込まないでよヴァン! それと霜娘って言うなっつーの!」
「はははバカめ。こうなったらお前も道連れだざまぁ見ろ! 痛覚を持って生まれたことを後悔しやがれ!」
何でこの人狼は半裸四つん這いで偉そうなのだろうか、と肆が疑問に思っていると、
「やっと肆が来たか。ふあぁー…眠いが仕事始めるかぁ。ほれ、ひなたもやめてやれ……そろそろヴァンが悦び始める」
クロがあくびをしながらヴァン達の元へやって来た。その後に道真と木蓮がついて来ている。
「うん! クロくんが言うならやめるー。――気持ち悪いし」
ひなたがヴァンから降りてトコトコとクロへと寄っていく。そして何故か顔を赤くした肆が一言。
「えっと……悦ぶの?」
「よ、悦ばねェよ! 馬鹿か!!」
……あの場に入るとロクな事にならんな。
そう考えていた道真はズボンをクイクイと引っ張っている木蓮に気づいた。木蓮は不思議そうな顔で道真に訊ねる。
「ねぇ、道真? 何で、ヴァンは怒られると、ヨロコぶ、の?」
「あぁ、それは簡単だ。ヴァンは病気なんだ。他人に蔑まれたり踏まれたりするとな、ヴァンの心のスイッチが入ってヒャッハーってなるんだ。ちなみに治らない」
「ヴァン、可哀想……」
そして未だに四つん這いになっているヴァンの肩に手をポンと乗せて、
「頑張って、ね。私も、手伝ってあげる、から」
「お、お嬢まで……!?」
ヴァンが木蓮からとどめの一撃を食らい、ぐにゃりとうなだれた。
「あー、クロさん。本当にそろそろ仕事にしないか? 誰かに見られたらまたグチグチ文句を言われるぞ」
道真にそう言われ、クロがそうだなぁ、と頷く
「よぉしお前等。取りあえず並べー。……ふむ、今日もみんな元気そうだな。ん? 何だヴァン? お前ついにバカこじらせて服も着れなくなったのかぁ?」
ヴァンが何か言っているが聞こえないことにした。
「今日の業務内容は――待機だ。昨日と同じくな」
みんなが予想した通りだ、と苦笑した。それもそのはずだ。クロはそっぽを向いて思う。これで四日連続だ、どうにかしてやりたいが自分にはどだい無理な話だ。
「でもよぉ、このままじゃ身体が鈍っちまうぜー? ゴミ拾いとか巡回とかじゃなくてよう、こう……ガッ! ってきてズバッ! とやってバーンッ!! みたいな事件は無いのかよ?」
何故かヴァンが身振り手振りも加えて話し始めた。
「おいヴァン。僕らは一応刑事だぞ? 不謹慎なことを言うもんじゃない。僕らが暇ってことはそれだけこの帝都にまともな奴が多いってことさ」
「うんうんっ。道真くんは偉いねー賢いねー。どっかの半裸擬音とは大違いだねー」
「……ハンラギオンって、何かの、怪獣?」
「あぁ木蓮、ハンラギオンとは今ぐらいの季節、秋ぐらいになると出没する怪獣でね、上か下かどっちか常に裸なんだ。そして突然いけしゃあしゃあと人の前に現れて体液をまき散らす。ちなみに死なない」
「……怖い、ね」
「おいテメェら! お嬢に変な知恵入れ込むな! あっ、ちょっ、肆ぃ放しやがれっ。あの凸凹コンビに怒りの鉄槌を……!」
「だ、駄目だって! 次はズボンも取られちゃうよ!? ゼンラギオンに進化しちゃうよっ!?」
肆がヴァンを羽交い締めにして止める。ひなたは流石に全裸にまではしないのになぁと内心考え、クロに訊ねる。
「ねぇクロくん、本当に何も無いの? 雑用とかも何も無しの待機?」
「んあぁ、そうだ。上から待機って言われたら待機だ。――何に待機してるのかは分からんがなぁ」
ぎゃあぎゃあ騒いでいるヴァンや肆を尻目にクロは答える。
「まぁ、九〇課なんざ余り物の寄せ集めだからなぁ」
そう言うとクロは床にぺたんと顎を乗せた。確かに彼の言うとおりなのだ。この九〇課――大帝都所属局地的人災対策部第六治安維持課は他の課と違い、ただの寄せ集めに過ぎないのだ。
――稀少種とされ、保護されるべきである猫又のクロ。
――愚鈍とされる巨鬼族なのに理知的な蓮乃惣一郎・道真。
――短気で不器用な人狼のヴァン・ヴァルク・ルーグ・グーン・グェフ・ロボフ・ファン。
――自らの力を嫌い、他人を嫌う百々目鬼の土師木蓮。
――正義を尊び、それ故に孤立する雪鬼族の二三肆。
――人に畏怖され、そしてそれを無上の喜びとする山姥の黒塚ひなた
彼らと言えども、最初は他の者と同じく普通の課に配属していた。しかし月日が流れるうちに拒絶し、拒絶され――能力がある故に、他者よりも優れていたために――どこにも属せず、どこにも馴染めず、流し流され最後に辿り着いたのがこの九〇課だった。例え、他の課の者たちから陰口で”クズ課”と囁かれようとも彼らにとっては最後の聖域であった。
「まぁアレだ、たまに七面倒くさい仕事を回されるんだ。普段はこんな感じでも誰も文句は言わんさ」
ふあぁっ、と大きなあくびをするとクロは自分のデスクへとさっさと戻ってまた眠り始めてしまった。
「全く、しょうがないんだからー……」
そう言うひなたは心無しか嬉しそうだった。
……まぁ、この子たちと一緒に過ごすのも悪くないしね。
そう心の中で呟いたひなたの目は優しいものだった。
朝会が終わり、皆思い思いの時間を過ごしていた。クロは相変わらず眠り続け、ひなたは箒とちりとりを手に掃除、道真と木蓮は黙々と何かを読んでいる。
「――で!白狐仮面が怪人エキノコックルをちぎっては投げ、ちぎっては投げ! そうすると親玉のサナダ伯爵が現れて『グヌヌッ。今に見ておれ白狐仮面! 必ず貴公の腹を食い破ってやる!』って言って闇の狭間に消えていくの!」
肆がヴァンに対して熱弁を振るっている。見る限りヴァンは無理矢理つき合わされているようだった。
「いや、『消えていくの!』じゃねェよ。何だその白狐仮面って? 強いのか?」
「泳ぐと海が割れて歩くと地が割れて飛ぶと空が割れる」
「……なんつーか割れてばっかだな。てか海が割れたら泳げねェし地が割れたら落ちるし」
ヴァンが呆れ気味に答える。
「大丈夫大丈夫! 本体は仮面だから。肉体は毎回見ず知らずの通行人のものを借りてるだけだしっ」
「嫌なヒーローだなおいっ!!」
あははっ、と笑う肆と地べたに座って話していたヴァンは、ズボンの埃を払いながら立ち上がる。
「ん? どっか行くの? かわや?」
「いや、屋上行ってくる。シャツ乾いてるかもしれないしな」
じゃあ私も行くー、と肆も立ち上がって着いてくる。ヴァンは道真に上へ行ってくるとジェスチャーを送り、九〇課を出て、屋上へ向かった。
空は朝とは違い、秋晴れで澄み渡っていた。心なしか遠くの建物がよく見えるような気がする。肆はゆるゆるとした風に身に感じながら柵に寄りかかった。
今、自分の目の前に広がる風景――秋皇の首都にあたる帝都、皆”大帝都”と呼ぶが――は相変わらず変わった都市だと思う。景観の保護、美化という言葉を免罪符にいつまでも変わることがない。中心部は街頭、路面電車が配備されているが少し離れると地面は石で整備されたものではなく、地面が剥き出しになる。さらに離れると田園風景が広がっている。建物も特定のものを除いて高さが決められているし、派手な色彩のものも認められていない。しかしまぁそれがいいかな、と肆は思う。揃いも揃って高い建物を建てられたら空は見えなくなるだろうし、さらに自分はこの世界が窮屈に感じられるだろう、と。
「乾いてる。乾いてはいるが……何故かこれを着たら人として駄目なような気がする……」
ヴァンがぶつぶつ文句を言っている。しかしシャツを着ているということは羞恥が誇りに勝ったということだろうか。
……しかし羞恥が誇りに勝つっていうのも不思議な話だなぁ。
肆はヴァンを励ますつもりで話しかける。
「じゃあ私が凍らしてあげようか?煮沸消毒の逆みたいな感じでっ」
そう言うと肆は手のひらから氷柱を生やす。それを見たヴァンはしっ、しっ、と手を払う。
「お前に任せるとズタズタにされた挙げ句、何故かひなたにしこたま殴られる俺が想像出来る。頼むから近寄るな」
その言葉に手をワキワキしながら近寄ってみる。
「まぁまぁお姉さんにまっかせなさーいっ」
「おい! だからやめろって……あ?」
何故かヴァンが肆の上の空間を見つめている。
「そんな手でこの雪鬼族の氷姫、二三肆様の目を騙せるとでも――ん?」
この時になって肆は何故か自分に大きな影が掛かっていることに気づいた。何だろう?先ほどまで自分に掛かる影など無かったはずだが。何気なく後ろを振り返る。そこには――
喧しい二人が消え、九〇課は静寂に包まれる。聞こえる音といったらひなたの箒を掃く音とクロの寝息だけだ。
――平和なことは良いことだ。出来ればこのままであって欲しいものだな。
道真は改めてそう思う。彼自身、確かに言われてみればこの現状は退屈だと判断するだろう。しかしそう思えるのはやはり、時として自分たちが非日常に巻き込まれているからだろうか、それもこちらの思惑などお構いなしに。だがそうして不条理に巻き込んでいくのが非日常であり、自分からそれに巻き込まれていく場合は、当人にとってそれは日常に過ぎないのだろうか。
「僕らしくも、ないな」
そう呟き、ため息を吐いて顔を上げる。
「…………」
木蓮が必死に何かを読んでいる。小説だろうか? 出来れば彼女には退屈な日常を過ごしてもらいたい。そう道真が思うと同時に電話のベルが鳴り響いた。
「んぁ? もしもし、俺だ」
先ほどまで寝ていたとは思えない速さでクロが受話器を取る。二叉の尾で器用に挟み込んで自分の耳に当てている。んぅ? あぁ? などの応答を繰り返すたびに、その顔がうんざりしたものへと変わっていく。
「――ふぅ」
受話器を置き、息を吐くクロ。そこへ木蓮が心配して話しかける。
「……な、に? 何か、あった、の?」
「そうだなぁ……おい、道真! ひなた! こっち来いっ」
普段の眠そうな彼からは想像できないはっきりとした声で呼ばれ、道真とひなたはすぐ馳せ参じた。
「なぁにクロくん? 何か事件ー?」
「あぁそうだ。それもとびきり面倒だ。二人が居ないから簡単に言うと――虎が暴れてる」
クロの言葉を聞き、道真は自分の日常は至極あっさりと壊されるものだと改めて思い知った。
――そこには巨大な虎がいた。ただし全身木の、だ。
「……ウゥ」
その虎は普通は動かないものだ。大陸みやげとして有名な虎の木彫りであり、確かに肆の目の前にいるものは主流のものより随分と型が大きいようだが、このように決して生きているように動いたりしない!目が、ギョロリと動いて肆を捉えた。
「フシャアアアアーー!!」
肆は木の虎が自分に飛びかかるのを見た。いや、正しくは見ることしか出来なかった。だが、それと同時に
「――フッ!」
ヴァンに乱暴に腰を抱かれ、ふわりと宙に浮いていた。タッ、と軽い音と共に給水塔に着地。
「ったく、何だよアイツ。アレか? 新商品の玩具か?」
ヴァンが片手で肆を抱えながら頭をポリポリ掻く。木の虎は眼下で恨めしそうにこちらを睨んでいる。
「あのぅ、ヴァン?」
これがお姫様抱っこならともかく、今の状況ではただの荷物だ。それもその、下半身の防護壁ともいえる布が盛大にめくれているような気がする。
「ん? 何だ。後じゃ駄目か?」
「その、即刻下ろしてもらえないかな? もしくは手を離す」
あぁん? とヴァンが呆れる。
「馬鹿かお前? アイツに食われちまうぞ? いや食うのかアイツ?」
「いや、そうじゃなくて……いや、そうなんだけどさ!」
「何だよ、もしかして――どこか怪我したのか!?」
「えっ!? いやそうじゃなくてね、スカートが――」
「スカート? 足かっ!?」
焦った様子で首を捻って確認するヴァン。そして、
「……パンツが丸見えじゃねェか! お前、こんな時に何考えてんだっ!?」
思わず反射的に手に氷をまとわりつけて作った鈍器でヴァンの顔面を殴りつける。
「うおっぷ!? 何しやが――ッ!?」
「えっ!? きゃああっ!!」
ヴァンは鼻っ面を強かに殴られて足を滑らせ――給水塔から落ちた。
「……ってぇな馬鹿!」
ヴァンは肆を抱き締め転げ落ち、どうにか自分が下になることで、肆を直接的な衝撃から守った。馬乗りになった肆が慌てて謝る。
「ご、ごめん! つい……ッ!」
木の虎が唸り声を上げながらこちらへ迫ってきていた。大きく開いた口からは禍禍しい黒光りする歯が見え隠れしており、あと数秒でこちらに喰らいつくというところまで肉薄している。
「あー……やっべぇ」
何故か間延びした口調のヴァン。それに対して肆は目を閉じて静かに息を吸い、
「氷法四の参……」
自分たちを取り巻く大気の温度が急激に下がるのをヴァンは感じた。その冷やされた大気はシュルシュルと肆を中心に駆け回り、
「――氷山嵐!!」
そう肆が叫ぶと、まるで最初からそう形作られていたかのように周りの空気は一気に凍結した。それは二人を覆うように固まり、氷の枝は外側の空間に暴れ出るように――突き刺した。
「グオオオルゥ……!?」
氷槍は飛びかかった木の虎の前足を突き刺し、さらにその傷口から枝を強引に伸ばし、内側から破壊しようとする。しかしそれを察知してか、木の虎は強引に、貫かれた前足を氷槍から抜き、後ろへ跳躍した。
「……やっぱ、木なんだなアイツ。血が出てねェ」
ヴァンの言うとおり、強引に引き抜いた前足からは血は一滴も出ておらず、わずかに木片が散らばっているだけだ。
木の虎は数秒、肆を睨んでいたが諦めたのか、こちらに背を向けたと思うと身を屈め――跳んだ。九〇課の屋上から別の建物の屋根へ、そしてそれを何度も繰り返し、瞬きするころにはもう姿は豆粒のようになっていた。
――身体が木で出来てるからってあんな身軽に動けるか?
否。ヴァンは考える。木だとしてもあんな風に飛び回れるわけがない。じゃあ――
「あの、さ。身体大丈夫? さっき落っこちたとき」
肆が不安そうにヴァンを見つめている。思考を中断した彼はそれに、あぁとぶっきらぼうに答える。
「それよりさっきのヒョーホウ? ホーホウ? とかいうの何だよ?」
訝しげに聞くヴァンに、肆は彼に跨ったままでえっへんと胸を張り、
「私が考えたのっ。格好良いでしょ!」
「スゲー恥ずかしい。頼むから他の奴の前でやるなよ。やるとしたら俺のいないときな」
ヴァンの言葉に肆は猛然と抗議し始めた。
「何でさ!? いかにも正義の味方っぽいでしょ! 私と一緒にポーズまで決めればモテモテだよっ」
「あーはいはい、もう分かったお前は馬鹿だ。頼むからそこを退いてくれ。馬鹿が感染る」
「なっ、ヴァン! あんただって馬鹿でしょうに! むしろ私が被害者のはずっ」
何だとっ、とお互いに罵倒し合い、取っ組み合いを始める。そのときガチャリ、と扉の開く音と同時に――ひなたがひょこっと顔を出した。
「ねぇー、クロくんが――きゃ、ごめんなさい! あたし知らなくて……」
ひなたがわざとらしく両手で顔を隠す。二人は余りのことに呆然としていたが、いち早く立ち直った肆が大声で、
「ひ、ひなたさん違う! 全然違う! 勘違いだからねっ!?」
それを聞いたひなたが邪悪な笑顔で扉に手をかけ、
「うんうん大丈夫っ。絶対誰にも言わないからっ。絶対に! 誰にも! 言わないからー!!」
バタン、と扉を閉めて、絶対にー! という言葉にエコーをかけながら戻っていった。
ヴァンとひなたは数秒、見つめ合い、
「おおおおおおおい! どどどどどどうするんだっ!? いやどうなるんだ俺たち!?死ぬんか? それとも皇海に沈められるんかっ!?」
ヴァンが見るに耐えない姿で混乱している。心なしか鼻がいつもよりも濡れているような気がする。
「落ち着いてっ! ほら、1+1は?」
「む、無限大!?」
「私もそういうの好きだよ! ――って今はそんな浪漫溢るる答えは求めてないっ! ほらっ、今から急いで戻ればまだ……!」
肆の言葉に幾分冷静さを取り戻したヴァンがどうにか立ち上がった。急いでひなたの後を追うが、
「……え?」
扉からぬぅ、と道真が出てきた。彼の身長ではこの扉は小さすぎるようで身を縮めて通り抜けたようだ。あー、と前置きをして、
「ヴァン、僕は君のことを誤解していた。君は確かに要領は悪いが根は良い奴だし木蓮とも仲良くやってくれている。だが君はあれだ、とんだ――変態野郎だ」
「ちょ、なっ、待ってく・・・・・・」
「と、言うのは冗談だ。驚いたかい? なに、ひなたの言うことをいちいち信じてたらロクなことにならないからね。さて、アレはどっちへ逃げた?」
またもや虚をつかれて呆然としている二人を尻目に、道真は屋上に散らばっている木片をつまんで掲げている。
「……これだけあれば十分だな。二人とも、クロさんが呼んでる。戻ろう」
今の今まで混乱していた二人は道真に呼びかけられ、やっと落ち着きを取り戻し、ヴァンはうんざりした顔で一言。
「ったく、朝からついてないぜ」
これからもっとついてない目に遭うのに、と道真は心の中で呟いた。




