武の夏
――あれは武が5歳くらいのときだった。
夏のある日、武は龍山神社の奥宮に友達家族と一緒にピクニックへ行った。神社の賽銭箱は古びて亀裂が沢山入っていた。境内といっても、ここは人の管理があまりゆき届いていない場所なので、雑草が猛威を奮うように生えていた。
母親達が談笑に興じて目を放している間に、武は武の友達の裕也と風子の三人で、川べりまで楽しそうに歩いていった。小石川の清流には、その透き通るような美しさの中に、力強い渦の流れがあった。武の三人は川べりで石を集めて遊んでいたのだが、彼はもっと形のよい石を探すために、一人土手を伝って上流の方へ向かっていったのである。
裕也と風子は武が居なくなってもお構いなしに、二人楽しく遊んでいた。それは長閑な信貴の夏の風情そのもののように思えた。
武が土手を伝って、信貴滝の近くまでやってくると、その土手の上に一人の女性が座っている。その土手の上から、女性の目の先には一人の男性が滝の傍で川釣りに勤しんでいる。武はそれをただ見ていたが、その視線に男性は気付いたのか、こちらを向いて微笑んでいる。しかし武はただそれを眺めていると、土手の所に腰を掛けていた女性が、武の方にゆっくりとやってきた。
「……どこから来たの?」
「……」
「あの、おじさんと一緒に遊ぼうか」
「……うん」
武はその女性に誘われて、男性の傍までやってきた。
「……おぉ、かわええの。どこから迷ってきたのかの」
と男性は言っていた。
武にはその男性がとてもとても優しい人のように思えた。男性は武の手を取ると、滝壷の近くの林まで連れてきて、その女性と一緒に平らな岩に腰をかけて三人でこんな話をした。
「君は武君というんだろう。おじさんはしってるよ」
「……」
「あんた、およしなさいよ」
「ははははは」
女性がそのように言うと、男性は笑っていた。
「……」
武がだんまりしていると、男性はこう言った。
「おじさんはの、この“山の麓にある家”にこの人と一緒に住んでるんだ。今日は誰とどこから来たのかの」
「裕也と風ちゃん、神社。西烏からママ、ママ……と来たの」
すると、男性の顔が一瞬強張ったように見えた。
「西烏……。時の流れを感じるの」
しばらく沈黙した後に男性はこう言った。
「武君、この山には龍の神様がおるんだよ。あの神社には…」
「あんた、およしなさい。……もう、武君ごめんね」
「……」
武は指をくわえて、女性の顔を見ていた。すると、女性が立ちあがってこう言った。
「ぼうや、ちょっと待っていてくれる?おいしい、おいしい、お菓子あげるからね」
「……、春。ええやないか、もうちょっとくらい」
すると、女性は林の奥に歩いていき、振り返って武に満面の笑みをした。それは武にはとてもとても優しい母の温もりのように感じられた。
武はまた振り返って男性の方を向くと、そこに男性の姿はなかった。武は不思議に思って、再び林の方を振り向くと、既にあの女性の姿も無かった。
しばらくすると、武はとてもとても寂しい気持ちになって嗚咽した。いま自分の居る場所がどこなのか?どのようにしてここにやっていたきたのか?が分からなくなっていたからである。そして陽は既に西に傾き、あたりは薄らと暗くなり始めていた。
武は急に怖くなって、大声で「ママ~!ママ~!!」と泣き叫びながら、清流に沿って歩いた。足場のよくない大きな石がゴロゴロと散乱していて、武は何度も転んで、膝を擦り剥いた。
しばらく歩いてから、武が何か視線を感じて振り返ると、滝壷のあった林の傍にあの女性が立ってこちらを眺めているのがおぼろげに見えた。しかし、幼い武にはもう何が何なのか分からなくて、何度も嗚咽を吐きながら、繰り返し母を求めて叫び続けた。
その頃、武の母親たちは裕也や風子が「武が居なくなった」という話をしたのを聞いて、動揺しながら神社の所から走ってきた。
母親たちは懸命に夕刻過ぎの青黒い小石川の清流を捜索していたところだった。
18時過ぎ、武は自力で母親たちの元まで歩いてきた。その大きな泣き声に気付いた母親たちも、声を頼りに上流まで歩いてきたからであった。武は裕也や風子に泣き顔を見られて、とても恥ずかしい想いをしたが、母親に抱きついてようやく安堵した。
そしてあの日、武があった男女が、信貴の民話に出てくる夫婦だとはいざ知らずに、彼は帰りの車の中で泥の様に眠っていた。
7月に書いていたものですが、今更第4話として更新させていただきました。5話は後ほど…。