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信貴町

昭和62年、そこには信貴(しぎ)町と呼ばれる町があった。

この町は人口3万人弱ほどの小さな町で、東西3キロ、南北5キロほどの町である。信貴は畑作や果樹栽培を中心とした産業活動を展開していて、春は山桜が咲き美しく、山の清流にはアマゴではなくヤマメがまだ生息しているという近年では珍しい自然環境に恵まれていた所だった。冬が近づくと町民は冬支度を整えるために、昔ながらの保存食を作り、餅を練っては乾燥させ、白菜や大根の漬物のなどをこしらえる家々もまだ存在した。

町は中央に小石川という清流を挟み、東西に分かれていた。西方は山の手から順に、普賢地区、田折地区、西烏地区というように、東方は山の手から順に龍山地区、泉地区、東狐地区というように分かれていて、西烏地区と東狐地区は信貴北橋という橋で結ばれ、国道204号線が東西に突きぬけている。その国道の界隈には、新設された町役場や図書館が建っていた。

南へ下り町境を越えると日出市という市があり、信貴町の住民は何か大きな買い物や病院への急患などがあると、その市へお世話になることが多かった。それで、信貴町の若者は十八歳を超えると上京する者も多く、高校進学の際は県立信貴高校ではなく、大体日出市にある市立近江高校へ進学する者が目立った。

信貴高校のある西烏地区は、役場や小中学校が安置されている東狐地区とは異なって庶民的な地区であり、商店街や飲み屋街なども一部見られ、人口の増加と共に華やかな賑わいを幾分か見せていた。

一方で、街を北へ上るに従い、果樹栽培や畑作などの農業地帯が広がる田折地区、泉地区では比較的高齢者が集い、更に清流の湧き出る山の手へ上ると普賢地区には町民から愛されている西ノ牧温泉、龍山地区には古くから町民に信仰されている龍山神社奥宮が存在した。小石川に沿って存在する県道56号脇にあるこの神社は、古くからの言い伝えでは背後にある雷塚と呼ばれる山に降り立つ龍神を祀る神社だと言われている。この神社の前宮は西狐5丁目に存在していて、1月にはそこで祈願祭が毎年行われる。そして、この奥宮の脇にある清流の土手を伝って道無き道を奥へ進むと、信貴滝と呼ばれる滝と滝壷があって、年配者などのごく一部では口を揃えて「あそこには近づくな。」と子供たちに言い伝えているという。それはつまり、今からおよそ100年前に起きた、理と小春の哀しい事件が根本にあり、それがいつの間にか民話となって当時の若年者に広まっていたからであった。今ではその民話を伝承する者はほとんど居なくなったが、役場の前にある信貴の図書館にはその文献が残っているという。その事件は綺麗な民話に整えられていたが、年配の一部の方々には曰くつきの話としての記憶が未だ薄らと残っているのであった。

信貴町東烏2丁目に住む、木下武(きのしたたける)はその民話の数少ない伝承者の一人であり、木下医院という個人病院を営む医者だった。妻の紗枝(さえ)は武の補佐役であり、木下医院を支える左腕であった。この二人もまた地味な夫婦で、ごく平凡な街医者の夫婦として町民から頼りにされている。ただこの医院の特徴は貧相な作りの建物ながらもとても良心的であることだった。そして今日も患者が来院されて来られた。

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