第一話 沙羅の手紙
アスファルトの向こうに立つ陽炎。
その先でツクツクボウシの声が飽和する。
健は汗のせいで湿ったシャツが張り付き、鬱陶しそうに目を細めた。
零れそうな焦燥に駆られ、溶けかけの棒アイスを噛み砕く。
ラムネを薄めた木片が口内に広がり、唾と共に吐き出した。
「……サイアク」
シトラスと伽羅が混ざり合ったような声は、虚しく空気に滲む。
使えない『アタリ』と書かれた棒が地面に落ちていく。その隣で蝉が死んでいた。
健はビー玉のような瞳で、それをぼんやり見下す。
そのまま視線を逸らすと、古びた掲示板が飛び込んだ。
「またダム建設反対の紙が増えてるじゃん。こんなことしたって無駄なのに」
様々な筆跡で『ダム建設反対』と書かれた紙。その上から機械的な赤文字で『撤去命令』が貼られていた。
下を見ても横を見ても心を削る光景。思わず健の薄い唇から、深いため息が漏れる。
憂鬱な茜色で照らされた顔に影が落ちていく。
その瞬間、切り裂くように錆びたコントラバスのような太い声が鼓膜を侵す。
「健ちゃんおかえり」
健は体を強張らせ、唾を飲み込む。
ぎゅっと手を握り締めると、ゆっくりと振り返る。
そこには黄ばみが染み付いたシャツを着る小太りなおじさんが、人良さげに笑っていた。
「ただいま、竹田のおじさん。まだ足が痛むんですか?」
「あぁ、心配してくれてありがとう。この時期になるとどうしてもね。自分のことよりも、健ちゃん東京の大学に行くって聞いたよ。おばあさんも喜んでいると思うぞ」
竹田の声が健の鼓膜を震わす。その度、足元からじわじわと水が迫ってくる感覚に陥る。
一度も竹田から嫌がらせを受けたことはない。むしろ親切にしてもらえている自覚がある。
それなのに健の中では、村で一番会いたくない存在だった。
竹田の澱んだ瞳に映る怯える自分が情けなく見え、顔を俯かせる。
「……すみません。そろそろ帰らないとおばあちゃんが心配するので」
「あぁ、ごめんね。もう健ちゃん以外の子どもいないから、つい構っちゃうんだよね。おばあちゃんによろしく」
チクリと刺す胸の痛みが、僅かに呼吸を奪う。
健は軽くお辞儀をすると、駆け足で家へ帰っていく。
聞こえないはずの蝉の鳴き声が、逃げる健を嗤い続けているのを遠くに感じた。
******
木造で出来た平屋の実家が視界に映ると、健は思わず安堵のため息を吐く。
取り付けの悪い引き戸を開けると、ふんわり香る煮物の香りが鼻をくすぐる。
お腹の虫がなったことに気が付きながらも、健は声を張り上げた。
「おばあちゃん。今帰ったよ」
暖簾の奥から腰の曲がった老婆が、ゆっくりと顔を覗かせる。
老婆は健の姿を確認すると、道に咲く野花のような笑顔を咲かせた。
「健ちゃんおかえり~。疲れたやろ。ご飯の準備しとくからね~」
「ありがとう。今日の晩御飯は煮物?」
「お迎えの笹木さんがね、ナスを沢山くれたからお浸しにしよるんよ。生姜のは健ちゃんも好きやろ。受験生やから夏バテには気をつけないとね」
「あぁ、笹木さん嬉しそうに、沢山実ったと言っていたもんな。先に荷物を部屋に置いてくるよ」
陽だまりのような暖かな声に、健は肩の力が抜ける。
リュックを降ろすためにも、自室へと入っていく。
乱暴にリュックを床に投げると、重たい音が響いた。
健は何も気にせず、軽くなった体をほぐす様に背伸びをする。
「あー、めっちゃ重たかった。腹も減ったし、さっさと食べよ。……んっ?」
使い古された勉強机に、可愛らしい白い花の絵が描かれて手紙が置かれていた。
「こんなのばあちゃんは書かないし、母さんが自分にこんな手紙を書く訳ないよな」
手紙を手に取るも差出人が浮かばず、不思議そうに見つめる。
確認の為に裏面を見た瞬間、世界から音が消え去った。
「……なんで死んだ沙羅から、手紙が来るんだよ」
薄っすらと掠める線香の香り。自ら犯した過ちが鮮やかに蘇る。
健を夏の檻へ誘おうと、見えない白い手が優しく抱き留めた。




