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笑う母

作者: 菊池まりな
掲載日:2026/07/25

団地の朝は、毎日同じ匂いがする。




味噌汁。



洗濯洗剤。



どこかの家の焼き魚。




小学五年生の美咲は、その匂いを吸い込みながら玄関を開けた。




「いってきます」




「いってらっしゃい」




母・良子は笑っていた。




いつもの笑顔だった。




──その日までは。




学校から帰ると、母は台所でコロッケを揚げていた。




「おかえり」




笑っている。




夕飯のときも。




「今日はテストどうだった?」




笑っている。




夜、テレビで芸人が転んでも笑っている。




ニュースで事故が流れても笑っている。




父が仕事で叱られたと話しても笑っている。




同じ笑顔。




同じ口の形。




同じ目。




まるで写真だった。




美咲は首をかしげた。




(お母さんって……こんな笑い方だったっけ。)




翌日も。




その翌日も。




母は笑っていた。




近所のおばさんが転んでも。




スーパーで財布を落としても。




包丁で指を切って血が流れても。




「大丈夫よ」




笑ったままだった。




赤い血が白いエプロンを染めても、眉一つ動かさない。




美咲の背中を冷たいものが這った。




夜。




布団の中で目を閉じても眠れない。




そのとき。




ギ……




廊下が鳴った。




母の足音だった。




こんな時間に。




喉が渇いた美咲は、そっと部屋を出た。




洗面所の灯りだけが点いている。




鏡の前に母が立っていた。




笑っていた。




鏡に向かって。




ゆっくり。




ゆっくりと。




母の指が頬へ伸びる。




爪が皮膚の境目へ入り込む。




ぺり……




湿った音がした。




美咲は息を止めた。




母は、自分の顔を少しだけ持ち上げていた。




その下から、別の肌がのぞいていた。




深い皺。




垂れた頬。




乾いた唇。




疲れ切った老人のような顔。




母はその"顔"を布で丁寧に拭き始める。




磨く。




磨く。




磨く。




そして再び笑顔をかぶせた。




鏡の中の母は、また何事もなかったように笑っていた。




美咲は声も出せず、その場にしゃがみこんだ。




翌朝。




「どうしたの? 顔色が悪いわ。」




母は笑っていた。




昨日とまったく同じ角度で。







美咲は誰にも話せなかった。




話しても信じてもらえない。




けれど学校帰り、団地の階段で気づく。




五階の山本さん。




三階の佐藤さん。




一階の中村さん。




みんな笑っている。




同じ角度。




同じ目。




同じ口。




同じ笑顔。




(……同じ。)




ある日、ボールを追いかけて団地の裏へ入る。




そこには誰も近づかない古い棟があった。




窓という窓が新聞紙で塞がれている。




奥の一室だけ、障子が少し開いていた。




中には、小さな鏡が何枚も並んでいる。




鏡はどれも少し曇り、誰かの笑顔だけが映っているように見えた。




「見つけたのかい。」




背後で老婆の声がした。




振り返ると、小柄な老人が立っていた。




その人も笑っている。




まったく同じ笑顔で。




「泣くとね、顔は醜くなる。」




老婆は静かに言う。




「怒るとね、もっと醜くなる。」




一歩。




また一歩。




近づいてくる。




「だからみんな、笑うことにした。」




美咲は逃げた。




全力で。




団地中に笑顔が並んでいる。




どの窓にも。




どのベランダにも。




誰も追いかけてこない。




なのに逃げなければいけない気がした。




その夜。




母が夕飯を並べる。




「いただきます。」




笑っている。




父は新聞を読んでいる。




笑っている。




美咲は、その日初めて気づいた。




父も、ずっと笑っていた。






それから何年も、美咲は団地を離れた。




結婚し、娘が生まれた。




新しい町。




新しい家。




もうあの団地のことは忘れたつもりだった。




ある夜。




鏡を見る。




笑っている。




疲れているのに。




泣きたいのに。




笑っている。




指先で頬を押す。




硬い。




まるで乾いた革のようだった。




そのとき、玄関のチャイムが鳴る。




宅配便かと思って開ける。




誰もいない。




足元に、小さな鏡が置かれていた。




裏には文字が刻まれている。




「よく似合っています。」




美咲は震えながら鏡を伏せた。




翌朝。




娘が不思議そうに尋ねる。




「お母さん、ずっと笑ってるね。」




美咲は答えようとした。




「違う」と言いたかった。




「助けて」と叫びたかった。




けれど口角は下がらない。




頬は動かない。




声だけが漏れる。




「あなたも……」




笑顔のまま。




「大人になったら……きれいなお母さんになろうね。」




娘は小さくうなずいた。




窓の外を見る。




向かいの家。




その隣。




さらに遠くのマンション。




朝日に照らされた無数の窓辺で、母親たちが静かに微笑んでいた。




誰も泣かない。




誰も怒らない。




ただ、美しく笑い続ける。




鏡の奥で、美咲ではない誰かが、ゆっくりと目を閉じた。


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