笑う母
団地の朝は、毎日同じ匂いがする。
味噌汁。
洗濯洗剤。
どこかの家の焼き魚。
小学五年生の美咲は、その匂いを吸い込みながら玄関を開けた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母・良子は笑っていた。
いつもの笑顔だった。
──その日までは。
学校から帰ると、母は台所でコロッケを揚げていた。
「おかえり」
笑っている。
夕飯のときも。
「今日はテストどうだった?」
笑っている。
夜、テレビで芸人が転んでも笑っている。
ニュースで事故が流れても笑っている。
父が仕事で叱られたと話しても笑っている。
同じ笑顔。
同じ口の形。
同じ目。
まるで写真だった。
美咲は首をかしげた。
(お母さんって……こんな笑い方だったっけ。)
翌日も。
その翌日も。
母は笑っていた。
近所のおばさんが転んでも。
スーパーで財布を落としても。
包丁で指を切って血が流れても。
「大丈夫よ」
笑ったままだった。
赤い血が白いエプロンを染めても、眉一つ動かさない。
美咲の背中を冷たいものが這った。
夜。
布団の中で目を閉じても眠れない。
そのとき。
ギ……
廊下が鳴った。
母の足音だった。
こんな時間に。
喉が渇いた美咲は、そっと部屋を出た。
洗面所の灯りだけが点いている。
鏡の前に母が立っていた。
笑っていた。
鏡に向かって。
ゆっくり。
ゆっくりと。
母の指が頬へ伸びる。
爪が皮膚の境目へ入り込む。
ぺり……
湿った音がした。
美咲は息を止めた。
母は、自分の顔を少しだけ持ち上げていた。
その下から、別の肌がのぞいていた。
深い皺。
垂れた頬。
乾いた唇。
疲れ切った老人のような顔。
母はその"顔"を布で丁寧に拭き始める。
磨く。
磨く。
磨く。
そして再び笑顔をかぶせた。
鏡の中の母は、また何事もなかったように笑っていた。
美咲は声も出せず、その場にしゃがみこんだ。
翌朝。
「どうしたの? 顔色が悪いわ。」
母は笑っていた。
昨日とまったく同じ角度で。
美咲は誰にも話せなかった。
話しても信じてもらえない。
けれど学校帰り、団地の階段で気づく。
五階の山本さん。
三階の佐藤さん。
一階の中村さん。
みんな笑っている。
同じ角度。
同じ目。
同じ口。
同じ笑顔。
(……同じ。)
ある日、ボールを追いかけて団地の裏へ入る。
そこには誰も近づかない古い棟があった。
窓という窓が新聞紙で塞がれている。
奥の一室だけ、障子が少し開いていた。
中には、小さな鏡が何枚も並んでいる。
鏡はどれも少し曇り、誰かの笑顔だけが映っているように見えた。
「見つけたのかい。」
背後で老婆の声がした。
振り返ると、小柄な老人が立っていた。
その人も笑っている。
まったく同じ笑顔で。
「泣くとね、顔は醜くなる。」
老婆は静かに言う。
「怒るとね、もっと醜くなる。」
一歩。
また一歩。
近づいてくる。
「だからみんな、笑うことにした。」
美咲は逃げた。
全力で。
団地中に笑顔が並んでいる。
どの窓にも。
どのベランダにも。
誰も追いかけてこない。
なのに逃げなければいけない気がした。
その夜。
母が夕飯を並べる。
「いただきます。」
笑っている。
父は新聞を読んでいる。
笑っている。
美咲は、その日初めて気づいた。
父も、ずっと笑っていた。
それから何年も、美咲は団地を離れた。
結婚し、娘が生まれた。
新しい町。
新しい家。
もうあの団地のことは忘れたつもりだった。
ある夜。
鏡を見る。
笑っている。
疲れているのに。
泣きたいのに。
笑っている。
指先で頬を押す。
硬い。
まるで乾いた革のようだった。
そのとき、玄関のチャイムが鳴る。
宅配便かと思って開ける。
誰もいない。
足元に、小さな鏡が置かれていた。
裏には文字が刻まれている。
「よく似合っています。」
美咲は震えながら鏡を伏せた。
翌朝。
娘が不思議そうに尋ねる。
「お母さん、ずっと笑ってるね。」
美咲は答えようとした。
「違う」と言いたかった。
「助けて」と叫びたかった。
けれど口角は下がらない。
頬は動かない。
声だけが漏れる。
「あなたも……」
笑顔のまま。
「大人になったら……きれいなお母さんになろうね。」
娘は小さくうなずいた。
窓の外を見る。
向かいの家。
その隣。
さらに遠くのマンション。
朝日に照らされた無数の窓辺で、母親たちが静かに微笑んでいた。
誰も泣かない。
誰も怒らない。
ただ、美しく笑い続ける。
鏡の奥で、美咲ではない誰かが、ゆっくりと目を閉じた。




