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琥珀色のカルテ ―不器用な訪問医・久世健斗の記録―   作者: かーすけ


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第1話 最期の嘘と、サバの味噌煮 第4章 震える手と、受け継がれる「目」

 久世が宣言した「三日」の二日目。あけぼの町を、湿った重い雲が覆っていた。


 源造の家の中は、昨日までの怒号が嘘のように静まり返っている。娘の奈緒は、土間に置かれた古い丸椅子に腰を下ろし、父の背中をただ黙って見つめていた。

 源造の呼吸は、明らかに昨日よりも浅く、速い。

 カニューレから送られる酸素だけでは補いきれない苦しみが、彼の細い肩を絶え間なく揺らしている。それでも、源造の手は止まらなかった。小さな椅子の背もたれに、滑らかな曲線を描くためのヤスリがけ。それは気の遠くなるような反復作業だ。

「……本田さん、少し代わりましょうか」

 久世が、そっと傍らに膝をついた。その声は、春の陽だまりのように柔らかい。

「……医者に、何ができる」

「昨日、診療所の裏で少し練習したんです。……ほら、ここ。この角度で力を抜いて滑らせるんですよね?」

 久世が差し出した手には、細かな木の粉が白く付着していた。昨夜、彼は結衣が呆れるほど遅くまで、廃材相手にヤスリがけを繰り返していたのだ。

 源造は鼻で笑い、震える手でヤスリを久世に押し付けた。

「……やってみろ。一箇所でも形を崩したら、叩き出すぞ」

 久世は慎重に、まるで心臓の弁を形成するかのような精密さで、木肌を撫でた。

 シュッ、シュッ、という規則正しい音だけが土間に響く。

「……先生、上手いじゃない」

 後ろで見ていた奈緒が、ぽつりと呟いた。

「いえ、本田さんの仕事が正確だからです。設計図が完璧なら、僕のような素人がなぞっても、迷いが出ない」


 久世は手を止め、奈緒に向き直った。その目は、再び「医師」の鋭い琥珀色に変わる。

「……奈緒さん。お父さんのバイタルは、今、限界を超えています。医学的に言えば、即座にモルヒネなどの強い鎮静剤を使い、眠らせるべき状態です」

 奈緒の顔が青ざめる。

「……そんな。じゃあ、今すぐ入院させて!」

「いいえ」

 久世は静かに、けれど鋼のような強さで否定した。

「それをすれば、この椅子は永遠に未完成のままです。お父さんの魂は、未練という名の苦しみに縛られ続ける。……僕は、それを『救い』とは呼びません」


 久世は源造の痩せこけた手首を取り、脈を測る。

「本田さん。あと、どこを仕上げれば終わりですか?」

「……座面の裏だ。そこに……刻印を入れる。それが終われば、俺の仕事は、全部だ」

 刻印。それは職人がその道具に命を吹き込んだ証。

 だが、その時。源造の身体が大きくのけ反り、激しい咳が彼を襲った。

 口の端から、鮮やかな血が滴る。

「お父さん!」

 奈緒が叫び、駆け寄ろうとした。

「動かないで!」

 久世の怒号が、狭い土間に響き渡った。その迫力に、奈緒は金縛りにあったように足を止めた。

「佐倉さん、エピネフリンと吸引の準備! 本田さん、僕を見てください。深く吐いて。……そう、ゆっくり。僕のリズムに合わせて」


 久世は源造の身体を支え、自らの胸の鼓動を伝えるように強く抱きしめた。

 普段の控えめな姿からは想像もつかない、圧倒的な統率力。彼は死神の鎌を、その細い腕一本で食い止めているかのようだった。

 数分後。源造の呼吸が、奇跡的に落ち着きを取り戻した。

 久世は額の汗を拭い、再びいつもの穏やかな顔に戻って微笑んだ。

「……お騒がせしました。本田さん、刻印の道具、僕が持ちます。あなたは、ただ場所を指し示してください。……二人で、仕上げましょう」


 源造は、涙で潤んだ目で久世を見つめた。

「……お前、本当に……変な医者だな」

「ええ、よく言われます。……さあ、最後の一仕事です」

 外では、厚い雲の切れ間から、夕刻の琥珀色の光が差し込み始めていた。

 それは、源造が一生をかけて向き合ってきた、木の温もりと同じ色をしていた。

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