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琥珀色のカルテ ―不器用な訪問医・久世健斗の記録―   作者: かーすけ


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第1話 最期の嘘と、サバの味噌煮 第3章 家族の肖像と、止まった時計

 翌朝、久世は約束通り、診療開始前の時間を割いて源造の家を訪れた。

 手には往診鞄と、昨日金物屋で購入した最高級のサンドペーパー、そして——小さなタッパーが入った手提げ袋がある。

「失礼します。本田さん、体調はいかがですか?」

 昨日よりもさらに声を落とし、久世は玄関先で静かに頭を下げた。返事の代わりに、激しい咳き込みが奥の部屋から聞こえる。

「……入れ。勝手にしろ」

 

 土間に上がると、源造は作業台の前に座り込んでいた。手にはのみを握っているが、その先は微かに震え、木の表面をなぞるだけで精一杯のようだった。

 久世はすかさず、源造の背後に回り込み、聴診器を取り出した。その動作は、まるで舞うように無駄がない。

「少し、失礼しますね。……呼吸が浅い。肺の音が昨日より湿っています。本田さん、無理に動こうとしないで。今は、この酸素吸入器を使ってください。僕が調整しますから」


 久世は携帯用の酸素ボンベを手際よくセットし、カニューレを源造の鼻に装着した。

「……余計な世話だと言ったはずだ」

「ええ、分かっています。でも、これは治療じゃありません。あなたが『職人』として椅子を完成させるための、いわば潤滑油のようなものです」

 久世は穏やかに笑いながら、源造の隣に腰を下ろした。そして、作業台の端に置かれた一枚の古びた写真に目を留める。

 そこには、若かりし頃の源造と、幼い少女、そして優しそうな女性が写っていた。背景には、この家の土間にあるものと同じ、見事な細工の施された箪笥が見える。

「……娘さん、ですか?」

 久世の問いに、源造は苦々しく顔を歪めた。

「……十年前、勘当した。俺の仕事に口を出して、勝手に出ていった女だ。今さら、顔も見たくねえ」

「そうですか。……それなのに、この椅子は、その娘さんのお子さんのために?」

「……誰がそんなことを言った」

「いえ、この椅子のサイズ。ちょうど三歳くらいのお子さんが、自分で座って、足がつく高さです。……そして、この写真。奥様が座っている椅子の形と、脚の曲線がそっくりだ。本田さん、あなたは思い出を作っているんじゃない。繋ごうとしているんですね」


 源造の手が止まった。

 久世は、自分のカバンからタッパーを取り出し、そっと作業台の隅に置いた。

「これ、昨日のサバの味噌煮の改良版です。本田さんに教わった隠し味……お酒を少し多めに入れて、生姜を叩いて入れてみました。まだ味は保証できませんが、少しでもエネルギーを摂っていただかないと、腕が動きませんから」

 源造は黙ってタッパーを見つめ、それから震える手で、久世が持ってきたサンドペーパーを手に取った。

「……へたくそだな、医者のくせに」

「ええ、料理も、人との付き合いも、どうにも上手くいかなくて。だから、せめて目の前の人の『願い』だけは、正確に診ていたいんです」


 その時だった。

 玄関の格子戸が激しく開き、一人の女性が飛び込んできた。

「お父さん! 何やってんのよ、こんなところで!」 

 写真の少女がそのまま大人になったような、気の強そうな女性。源造の娘、奈緒なおだった。

 彼女は久世を鋭く睨みつけると、源造の肩を抱きかかえようとした。

「包括の人から聞いたわよ。癌だって……なんで黙ってたの! こんな埃っぽいところで作業なんてして、死ぬ気なの!?」

「……帰れと言ったはずだ、奈緒!」

 源造の声が、怒りと苦しみで裏返る。

 張り詰めた空気の中、久世はゆっくりと立ち上がった。その表情は、いつもの穏やかな微笑みではない。

 

「……佐倉さん、血圧計を。本田奈緒さん、少し、静かにしていただけますか」

 久世の声は低く、氷のように冷たく響いた。奈緒はその気迫に押され、言葉を失う。

「今、お父さんの心臓は、この椅子を仕上げるためだけに動いています。あなたの怒鳴り声は、今の彼にとっては劇薬以上の負担だ。……娘としてお話ししたいなら、まず、彼が何をしようとしているのか、その『目』で見てください」

 久世は、源造の荒い呼吸を整えるために、静かに、けれど厳格な手つきで薬の準備を始めた。

 

「……三日。三日だけ、僕に時間をください。それが終わるまで、あなたはお父さんの『観客』であってください。医師として、これ以上の介入は許しません」

 その場にいる全員が、久世の気迫に呑まれていた。

 不器用な男が、命の瀬戸際で守ろうとしている「意地」。

 久世は再び、柔らかな表情に戻ると、呆然とする奈緒に向かって小さく頭を下げた。

「……すみません、少し言い過ぎましたね。でも、お父さんの作った椅子、本当に素晴らしいんですよ」

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