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アリア・アルデル物語

この赤茶髪の魔女、金貨六枚の価値。(短編)

掲載日:2025/12/18

 ランドール王立学院の生徒会は、各学年で最も高い身分の者たちが集う場所だ。


 ここで言う「最高」というのは、単に能力の高さだけを指すわけじゃない。社会的地位も含めた、総合的な意味での頂点――そういう連中ばかりが揃っている。


 だが、今の学年はちょっと……いや、かなり癪に障る奴らが多すぎる気がする。


 その代表格が、ティーとフィーの甘ったるいカップルだ。あまりのラブラブっぷりに、周囲の人間は午後の紅茶と菓子さえ味気なく感じてしまうほどである。


『フィオナ・レンベルク』――彼女は、王宮高位魔術師である「ドーガ伯爵」の次女だ。

 伯爵家は代々魔術の名門で、彼率いる軍勢は災厄級魔獣を何度も討伐してきた実績を持つ。


 フィオナもまた、その血を濃く受け継いでいた。

 幼い頃から、彼女の体内には常人離れした膨大な魔力量が宿っていた。

 だが、その才は悲しい限界を伴っていた。彼女は魔法をほとんど修得できなかった。呪文を唱えるたびに、必ず何かが壊れるのだ。


 父である伯爵でさえ、苦笑いを浮かべてこう言ったことがある。

「お前は魔術師にならなくてもいい。幸せでいてくれればそれで十分だ」


 少女は、そう言われて短い杖をそっと置いた…


 しかし、心のどこかでドーガ伯爵は密かに願っていた。娘がいつかその高い壁を乗り越え、高位魔術師へと成長してくれる日を。


 だからこそ彼は、娘を学友であり魔獣研究の協力者である「マクマン侯爵」の息子――『テオドール・マクマン』との婚約を決めたのだ。

 テオドールは、頭脳明晰で誰よりも努力家だった。父であるマクマン侯爵でさえ、次期当主として彼を育て上げるつもりでいたほどだ。


 だからこそドーガ伯爵は、この少年が娘を「限界の谷」から引き上げてくれると期待していた。


 だが時が経つにつれ、二人の関係は義務から始まったものではなく、本物の恋へと花開いていった。

 ランドール王立学院に入学してからは、テオドールはますますフィオナへの愛を隠さなくなった。

 特に生徒会では、自分の婚約者をこれほどまでに大切にする者など他にいない、と言われるほどだった。

 しかし、どれだけ熱心に魔法の指導をしても、フィオナは一向に上達しない。


 それがテオドールを少しずつ追い詰めていく。彼は密かに、自分の価値を問い始めていた。


 俺は本当に彼女を救えるのか?


 だが、心のどこかで別の感情が芽生えていたのも事実だ。ほっとしている。満足している。むしろ早く彼女を妻に迎えたいとさえ思っている。

 テオドールは、何の取り柄もないフィオナを抱きしめていたかった。だからこそ、彼女が自分より強くなってしまったら怖い。もしそうなったら、自分は彼女に相応しくない存在になってしまう……


 一方、フィオナの胸の内は、婚約者とは正反対だった。


 そして最悪の事態は、誰の予想よりも早く訪れた。

 フィオナに退学の危機が迫っていた。

 生徒会からの除名処分と厳重注意――次回の魔法試験に落ちたら、退学処分が下される。

 そしてテオドールに対しても、彼女への支援を一切禁じる厳しい命令が出された。


 フィオナは薬草園の片隅で、ひとり静かに泣いていた。


 ここは人通りがほとんどない場所だ。貴族たちは草の香りよりも、高級な香水の匂いを好むから。

 だからこそ、誰にも弱いところを見せたくないときは、ここで泣くのがちょうどいい。

 だが、すすり泣きの音に混じって、茂みから小さな影が現れた。


「セリア……」


 フィオナが震える声で呼びかけると、金色の髪が淡く輝く小さな少女が、茂みから顔を覗かせた。

 彼女の顔もまた、憂いを帯びて曇っていた。



「フィ……大丈夫……?」


 セリアはフィオナの手をぎゅっと握りしめた。友人の嗚咽に、心が一緒に揺れてしまう。胸の奥が苦しくて、悲しくて、張り裂けそうだった。


「私…...でき、な……い……テオ、なの……に……」


 フィオナは言葉にならないまま泣き続ける。父はほんの少ししか期待していなかったかもしれない。でも彼女にとって退学は、本当の意味で家名の汚点になる。


「私……テオを失望させたくない……家をダメにしたくない……」


 彼女は賢者家のエリートと婚約している。あんな汚点だらけの自分を、本当に受け入れてくれるのだろうか?

 最悪の場合、正式に婚約破棄となって、二つの家に癒えない傷を残すことになるかもしれない。

 セリアは何も言えなかった。自分だって魔法は「使える」程度でしかないし、生徒会の仕事だってろくな成果を上げていない。

 ――使える程度の魔法?

 ふとセリアの頭に、ある記憶がよみがえった。

 自分もつい最近まで、魔法がほとんど使えなかったのだ。

『アーニャ』――その名前が、真っ先に脳裏をよぎった。


「フィ!! セリア、絶対に助けてくれる人がいるって信じてる!」


「だ、誰……誰なの……?」


「古い紅茶屋の魔女さん」


 セリアは、悲しみに沈むフィオナの手を優しく引いて、薬草園からほど近い一軒の木造小屋へと向かった。

 しかし、近づくにつれてフィオナの震えは激しくなっていく。

 彼女はこの先の場所を知っていた。『呪われた紅茶屋』――誰も近づいてはいけないと学院中で噂される場所だ。邪悪な魔術師がここに呪いをかけ、学院がどれだけ浄化を試みても解けなかったという。

 呪いに逆らって足を踏み入れた者は、重傷を負うか命を落とすか……やがて完全に放置され、廃墟と化していた。

 だが、実際に着いてみると、想像していたような恐ろしい雰囲気は微塵もなかった。古い木造の建物は丁寧に修繕され、飾り気はないものの、清潔で落ち着いた佇まいを保っている。


「大丈夫だよ。悪いものはもう全部取り払っちゃったから。こちらへ」


 案内する友人は、朝の小鳥のように無邪気に微笑み、フィオナを正面の固く閉ざされた扉ではなく、裏口へと連れて行った。


「アーニャ、アーニャ! セリアを助けて!!」


 彼女は元気よく呼びかけながら、何度もドアを叩く。

 すると中から鍵を外す音がして――セリアがそっと扉を押し開けた。


 魔灯の柔らかな光が、古びた淡い黄色の木目に優しく降り注ぐ。

 古い時代の匂いと、香ばしい紅茶の香りが混じり合って、心地よく鼻をくすぐった。

 かつて呪われた紅茶屋だったこの場所は、今は寝室兼居間として整えられている。


 狭いベッドの上に、赤茶色の髪を適当に編んだ三つ編みの少女が膝を抱えて座り、本を読んでいた。

 大きな丸眼鏡の奥、翡翠のような澄んだ瞳が静かに文字を追っている。

 細い指先でページをめくる姿は、質素でありながらどこか高貴で、言葉では表しがたい魅力を放っていた。


「アーニャ~~」


 可愛らしいセリアの声が小屋に響くと、彼女はゆっくりと顔を上げた。


「今日も『他人』を連れてきたの?」


 誰それとは聞かず、「他人」と呼ぶところに、興味がないことが伝わってくる。

 それでも、彼女には優しさが欠けているわけではない。


「入って。今日はクッキーも焼いておいたよ」


 その声は、木の葉を撫でる春風のよう――柔らかく、それでいて不思議な引力を秘めていた。

 穏やかで芯のある響きに、二人は自然と足を踏み入れてしまう。


 セリアとフィオナは、小屋の中央にある応接テーブルへと歩み寄り、磨き上げられた木の椅子に腰を下ろした。

 足元に敷かれた古い絨毯が、優しく足を包み込む。まるで昔日の物語をそっと語りかけてくるように。

 丸眼鏡の少女は右手にお菓子の籠を持って近づいてきた。

 小柄で華奢な体つきには、女性らしい曲線はほとんどないのに、そのしなやかで優美な動きが、不思議と目を奪う。

 彼女は籠をセリアとフィオナに差し出す。中にはクッキーやさまざまなお菓子が、たっぷりと詰まっていた。


「おいしい……」


「おいしいですわ……」


 小さな砂糖衣のクッキーは柔らかな光を浴びて、琥珀の粒のように美しく輝いている。セリアとフィオナは次々と口に運び、甘く香ばしい味にうっとり浸った。

 まるで昔、評判だった古い紅茶屋の物語の中にいるみたいだった。


「お茶も飲む?」


 アーニャは答えを待たず、細い指を優雅に動かした。まるで空に美しい絵を描くように。

 すると、古い彫刻の入ったティーポットが、穏やかな風に抱かれるようにふわりと浮かび上がる。

 彼女はもう一方の手で風を導き、ティーカップをそっとテーブルに置かせた。そしてポットの取っ手を掴むと、ほんの数秒で湯気が優しく立ち上り始めた。

 アーニャは、愛する旋律を奏でる音楽家のごとく、優雅に紅茶を注いでいく。

 セリアとフィオナは、目を輝かせて見つめていた。まるで魔法のショーを観ているかのように。


「ところでセリア書記生、また生徒会のメンバーを連れてきたけど……何か用?」


 ふわっとした声で赤茶色の魔女が言うと、セリアは頬をぷくっと膨らませて目を細めた。


 ――一緒にいるときは普通に話してるのに! ただ人を連れてきただけで、なんで皮肉っぽく言うのよ!?

 心の中で文句を言いながらも、口には出さない。


「この子はフィオナ・レンベルク。すごく大変なことになってて……セリア、アーニャに助けてほしいの!」


「私の報酬は高いよ」


 セリアが連れてきた友人を紹介すると、アーニャは平然とした声で返した。皮肉っぽく聞こえるのに、どこか親しみ深いのが不思議だ。


「大丈夫! ちゃんと払えるから!」


 セリアは自信たっぷりに親指を立てて宣言する。アーニャは小さくため息をついた。


 ――前回もこう言って、結局分割払いだったけど……まあいいか。


 彼女は優しい視線を、一番緊張しているフィオナへと移した。


「あ、あの……」


 フィオナは固い声で口を開く。

 先ほどの見事な手さばきに、まだ感動が冷めやらぬ様子だ。

 セリアといるとき、アーニャはあれを「冒険者の日常」と呼ぶけれど。

 フィオナにとっては違う。あのしなやかで優美な仕草は、ただ軽く手を振るだけでも、まるで上流階級そのものに見えた。


「魔女様の仕草は、まるで魔法の舞踏のようで美しいですわ」


「でも私は『魔女』じゃなくて『冒険者』です」


 アーニャはわざと唇を尖らせて、先ほどの優雅なイメージを全部ぶち壊した。でも効果は薄かった。フィオナは変わらず、憧れの眼差しを向けたままだ。

 イメージチェンジがうまくいかないと悟ると、彼女は話題を本題に移した。


「それで、生徒会のお嬢様フィオナさんは、この『冒険者』に何をお手伝いしましょうか?」


 アーニャの言葉が終わると同時に、フィオナの表情が一気に曇った。


「わ、私は……魔法をちゃんと使いたいんです」


「魔法を使うことって、貴族の皆さんにとっては当たり前のことじゃないの?」


「いえ……私、魔法が……全然、習得できなくて……」


 フィオナは絶望に満ちた声で呟き、すすり泣きながら悲しみを吐き出した。


「今、生徒会から除名処分を受けていて……この補習試験に落ちたら、ランドール王立学院を退学になって……すべてを失って……家名の汚点に……」


「家名のすべてを背負う、か。貴族って本当にそういう遊びがお好きよね」


 それを聞いてアーニャはため息をついた。視線をベッド脇に掛けてある緑色の制服に移す。

 彼女は「冒険者レベルの魔力がある」と偽って、緑色の制服を手に入れた。

 こうして、どんな束縛も期待もなしに、魔法を学べるようになった。

 対して、目の前の二人が着ている青い制服――それは貴族の証。重い期待を肩に背負う象徴だ。

 だからこそ、ついこの間もセリアが慌てて助けを求めに来たのだ。


 ――他人に期待を押し付けるのが、貴族の娯楽ってわけ?

 アーニャは心の中で少し乱暴な言葉で毒づき、それから新来の少女に視線を戻した。


「それで、君には何ができるの?」


「えっと……」


 フィオナは恥ずかしそうに呪文を唱え始めた。彼女の手のひらの上で、水の塊がゆっくりと形作られていく。


 それは魔力をほとんど必要としない、極めて簡単な魔法だ。懸命に集中するほど水球は大きくなったが――次の瞬間、ぽたりと手のひらから零れ落ちた。


 だが、それがテーブルに触れる前に、アーニャは軽く指を振った。水の塊は瞬時に霧散し、何も濡らさずに消えてしまった。


 この子を見ていると、昔のことを思い出す。

 かつて、うるさいけど楽しい騒ぎを連れてきた、あの小さな子……

 こういう子、結構いたっけ。

「はぁ……リース……って」


 アーニャの唇から、かすかな名前が漏れた。彼女は恋する少女のように柔らかく微笑む。その笑顔に、フィオナとセリアは頬を赤らめてしまった。


 一瞬、部屋が静まり返る。魔灯の光がテーブルに落ちるのも止まったかのようで、紅茶の香りだけがゆったりと漂っていた。

 優しくも真剣なアーニャは立ち上がり、フィオナの隣に寄り添う。肩が触れ合うほど近くに。


「フィオナ。魔法を唱える前に、まず魔法の本質を理解して」


 世界の秘密を囁くような、甘く低い声で。


「それはただの力や言葉じゃない。万物が持つリズムに触れて、自分の内側から自然に流し出し、思い描く形に作り上げるものよ」


 彼女の手がフィオナの手をそっと包む。温もりが伝わり、心まで熱くなる。

 再び水の塊が浮かび上がり、今度は二人の手が一緒に奇跡を抱えているようだった。

 そしてアーニャは、いつもの言葉を口にした。すべての依頼人に告げる、あの約束を。


「私の報酬は金貨六枚。そして――この世に私がいることは、女神様にさえ言わないと約束して」


「は、はい……約束します」


 こうして、古い紅茶屋に満ちる不思議な魅力の中で、一か月の月日が流れていく。

 アーニャはフィオナに魔法の芸術を教えた。

 賢者としてでも、魔女としてでもなく――風と踊る冒険者として。


 補習試験の日、フィオナはかつて彼女を嘲笑っていた教授たちを震撼させるほどの成果を見せつけた。

 ティーポットを滑らかに操り、強力で正確な魔法を放ち、しかも詠唱は極端に短縮されている――問題児にとっては「不可能」な領域だった。


 ——これはどういうことだ。


 テオドールは奥歯を噛み締め、心の奥底で驚愕を押し隠した。


 ―ずっと、彼女は魔法を使えないと信じ込んでいたのに……たった一ヶ月で、どうしてここまで跳躍して!?

 無力感が胸を覆い尽くす。

 賢者と呼ばれる自分が、問題児の少女にあっさり抜き去られるなんて。


 その後、彼はフィオナに対して距離を置き、冷淡になった。

 書物に没頭し、生徒会の業務に身を捧げ、心をどこかへ置き去りにしたかのように。


 そんなある日、心臓を貫く雷のような知らせが届いた。

 教授陣――特に学長が、フィオナに父と同等の高位魔術師認定試験を受けるよう提案したのだ。


 そこで、古い木造小屋で急遽、フィオナお嬢様の非公式紅茶会が開かれた。参加者はセリアとアーニャだけ。他に誰もいない。


「アーニャさん……私、試験を受けてもいいんでしょうか……」


「受けなさい」


 大きな丸眼鏡をかけたアーニャは、即座に断固とした自信たっぷりの声で答えた。


 彼女はティーカップを優雅に口元へ運び、静かに一口含むと、洗練された仕草でテーブルに戻した。

 大きな眼鏡に雑な三つ編みという姿でも、二人は心から――この人は本当は高貴な家の令嬢なのではないかと信じていた。


 だがアーニャは冒険者だ。


 カップを置いた後、彼女はフィオナに視線を移す。それは「続けてごらんなさい」という無言の許可だった。


「でも……テオドール様が、私を避けているんです。私の試験が彼を不機嫌にさせて……婚約破棄に繋がってしまうかも……」


「その程度の価値しかない男なら、捨ててしまえばいい」


 アーニャは鋭く切り捨てた。


「でもアーニャ、フィオナはテオ様のことが本当に好きなんです。そんな簡単に捨てるなんて……それは……」


 セリアが心配そうに反論する。

 もしフィオナが愛を失ったら、深い傷になるのではないかと恐れた。

 そして高位魔術師になれば、家の重い期待を背負い、自由のない孤独な人生が待っているかもしれない。

 そうなればフィオナはずっと泣き続けることになるかもしれない。

 だがアーニャはそうは思わない。

 彼女にとって人生とは自由そのものだ。

 たとえ裏では高貴な家の令嬢だったとしても、彼女はそれを捨てたのだから。

 ――捨てた、なんてどこがだよ。

 赤茶色の魔女は額を押さえた。

 セリアの言葉に、つい乗せられてしまった。

 フィオナは本当に自分と同じように自由になれるのだろうか?

 さっきのきつい言い方が、少し後悔されてきた。

 だからもう一度、優しく声を落として言った。


「あなたはテオドールの愛を、信じているの?」


 フィオナは黙り込み、セリアは慌てたように視線を送る。アーニャは静かに言葉を続けた。


「聞いて。今のテオドールは、君に追いつけなくて転んだだけの男の子よ。君がどれだけ先を走っても、本当に彼を愛しているなら――振り返って、手を差し伸べて一緒に走らせてあげればいい」


「転んだ男の子の気持ち……?」


 セリアがぽつりと尋ねる。それは恋愛経験ゼロの少女にとって、まったく新しい視点だった。


 その言葉に、セリアはある名前を思い出した。

 アーニャの唇から、かつてこぼれた名前 『リース』。

 もしかしたら、アーニャもかつて転んで、リースという人が彼女を引き起こしてくれたのかもしれない。

 誰なのかすごく知りたいけれど、今は触れてはいけない話題だと感じた。


「でも、振り返っても反省しなかったら? そのときは捨てればいい。遅くはないわ」


 アーニャは悪戯っぽく微笑んで締めくくった。

 ――あ、あの凛々しいお姉さまイメージはどこへ……

 セリアは乾いた笑いを漏らし、眉をぎゅっと寄せて悩むフィオナを見つめる。


「はい……信じます。そして、試験を受けます」


「いいね」


 アーニャは短く答えた。


 それから後――フィオナは自分の力を堂々と見せつけた。

 若き魔術師には極めて難しい、四属性の魔法を同時に融合させる技を披露したのだ。

 彼女は即座に試験を突破し、高位魔術師の称号を手に入れた。


 テオドールが絶望の底へと沈んでいく

 高位魔術師の認定の知らせを聞いて以来、彼は生徒会から姿を消した。

 誰も、彼がどこへ行ったのか知らなかった。


 そして、ある雨の降る日。

 魂が抜け落ちそうな姿の少年が、呪われた場所――古い紅茶屋へと引き寄せられてきた。

 金髪の少年は膝を抱え、固く閉ざされた木の扉に背を預けていた。

 内側の痛みで腫れ上がった赤い瞳。

 息も絶え絶えに、疲弊しきった傷ついた獣のよう。

 腕や足には魔法の爆発による火傷と傷が無数に刻まれている。

 両手は力なく、拳すら握れない。

 ずっと自分こそが天才だと信じていたのに、問題児とされていた婚約者に、抜き去られてしまった。

 彼女が本当の力を現し始めてから、社会は二人のことを比べ始めた。


「君は最初から演技して、俺を馬鹿にしてたんだろ……」


 震える声で呟くと、涙が頬を伝う。


「前はどんなに教えてもできなかったのに……本当はできてたんだろ」


 嗚咽が、傷ついた犬の遠吠えのように響く。


「わざと俺と家を捨てるつもりだったんだな?」


 三度目の叫びは、熱した鉄を背中に押し当てられたような、悲痛な絶叫だった。

 誇りなど、もう微塵も残っていない。

 だが突然、声が響いた。


「おい、そこのガキ」


「……誰だ」


 テオドールはびくりと体を震わせ、耳元で響く声に慌てて左右を見回す。

 ここがどこかを思い出し、恐怖が襲う。呪われた紅茶屋の怨霊、人の命を奪う悪霊――

 息が乱れ、恐怖が心を支配する。


「婚約者がちょっと上手くなっただけで、子供みたいに泣いてるの?」


 嘲るような声に、続いて下品な笑いが重なる。


「て、てめえ……何が目的だ!」


 テオドールは叫び返すが、霊は聞いていない。ただ嘲笑を続ける。


「賢者を目指してたのに、少し抜かれただけでそんなに恥ずかしいか?」


「てめえに何がわかる!! ……あれは俺の家の名誉なんだ!! なのにフィオナに奪われた!!!」


「お前のそのしょぼい努力が、『名誉』だって?」


 悪霊の言葉に、テオドールは言葉を失う。胸の奥の重しが、さらにのしかかる。

 自分の努力が名誉じゃないなら……それは何なんだ?


「お前にはまだ……時間がある」


 今度は悲しげに、声が言った。そう、まだ時間はある……


「でも……もしその時間が尽きて……俺はまだできなくて……」


「そのとき死ねばいい。遅くないだろ?」


 呪われた小屋が答える。

 テオドールは――すべての努力を放り出した。

 そうだ。未来は空っぽだ。前にある道は消えた――いや、最初から存在しなかった。


「はは……そうだな。そのとき死ねばいい……」


 少年は悲しげに笑う。呪われた霊も一緒に笑う。

 そうだ……自分はもう呪われている。

 ただ……時間が尽きるのを待てば、死ねる……テオドールはそう思った。

 だが――


「ほら、見ろよ。あの子が来たぞ。お前を探しに来たんだ」


 悪霊の声がそう告げると、テオドールはゆっくりと顔を上げた。

 フィオナが遠くから雨を突っ切って駆けてくる。彼女は高貴なマントも制服も着ていない。ただの町娘が着るような、質素な服――貴族の娘が決して選ばないようなものだ。

 テオドールを見つけると、彼女は優しい微笑みを浮かべた。

 少年の心臓が激しく鳴る。でもそれは愛ではなく、怒りと嫉妬が渦巻く音だった。


「今だって……あいつは俺を……見下してる……」


「うるせえよ、黙れ!!!」


 声が怒号を上げ、テオドールはびくりと体を震わせた。


「よくあの顔を見てみろ」


「うっ……」


 テオドールはフィオナの笑顔を見つめる。それは嘲笑ではない。心配と優しさに満ちた、本物の微笑みだ。

 彼女は試験の知らせ以来、自分が落ち込んでいるのを知っている。心配している。愛している。自分の成長を、誇りに思ってほしいと願っている。

 だからこそ、こんな場所まで探しに来た。抱きしめて、褒めてほしいと――

 なのに自分は。


「お前は馬鹿だ!! お前のくだらないプライドが、あの娘の本気の笑顔に勝てると思ってんのか!?」


 紅茶屋の悪霊が狂ったように叫ぶ。罪人を鞭打つような、容赦ない声だ。


「貴族の娘があんな服を着るわけがない!! 街の外までお前を探しに来たからだ!!」


 テオドールは両手で顔を覆い、豪雨のような号泣を爆発させた。


「お前が婚約者を上回ることを『女性の名誉』だと思ってるなら、人間やめた方がいい!!」


 悪霊の重い言葉が、傾いていた天秤にのしかかる。

 それでようやくテオドールは気づいた。

 自分が、何を見失っていたのかを。


「俺……何をやったんだ……」


 罪悪感が胸いっぱいに溢れ出す。惨めなテオドールは、涙と嗚咽を解放した。

 もし愛する人に毒を吐き続けたら、二人とも傷つくだけだ。そして結局、お互いの存在を失ってしまう……


「行け!! 行けよ!!!」


 呪われた紅茶屋の悪霊が咆哮する。謎の力が背中を押し、テオドールを立ち上がらせ、前へと駆り立てた。

 少年は愛する人を強く抱きしめる。二度と離したくない、という想いを込めて。


「フィ……ごめん……俺はただ、君がそばにいてほしくて……でも嫉妬に飲み込まれて……君を傷つけてしまった……」


「テオ……私……あなたを置き去りにしたくなんてなかった……一緒にいたかったのに……自分を止め方がわからなくて……」


「怖かったんだ……フィ……今君を離したら、俺たちの世界が壊れてしまう気がして……」


「信じてる……もう、私たちの世界は壊れないって……」


 二人は長い間、抱き合って泣き続けた。他の誰の目も気にせずに。


 少年と少女の背後には、固く閉ざされた古い紅茶屋。

 怨霊と呼ばれた存在は、静かに壁に寄りかかり、切なげに体を預けた。

 彼女は目の前のカップルを妬んでいるわけじゃない。

 ただ、去ってしまった恋人のことを想っていた。


「リースよ..私のリースよ..もしあなただったら、あの二人を私がしたように結びつけてくれたよね」


 次の日、また急な紅茶会が開かれた。今度はフィオナとセリアが、心から幸せそうに笑っている。

「アーニャさん、本当にありがとうございます。愛と信頼の大切さを教えてくださって……」


「うん、まあ……ただ言っただけよ」


 アーニャは疲れたようにため息をついた。今日の二人は、青春の美しい恋バナばかり。

 甘くて、幸せに満ちていて。


 でも冒険者の恋なんて、そんなに綺麗じゃない。ダンジョンで相手を置き去りにしたり、モンスターから逃げる途中で見捨てたりするカップルだってざらにある。


 それなのに……あの傷だらけで死にかけのリースは、わざわざ助けに来てくれたのに……


「ところでアーニャって、恋愛経験豊富そう! ちょっと聞きたいな、教えてよ」


 セリアが明るく手を挙げて言う。簡単に「リース」の名前が出てくるとは思っていないけど、他の恋バナでもいいから聞きたかった。


「わかったわかった。じゃあ、他の冒険者の恋バナでも話すわね」


 アーニャは適当に返事をして、冒険者のギルドでこっそり聞き耳を立てていた話を、セリアとフィオナに語り始めた。


 時々、誰かが古い紅茶屋の前に菓子を置いていく。まるで何かを祈るように。

 お菓子はもらえるけど、嬉しくない。まるで墓前に花を供えるみたいだ。


 ……あんな奴らのトラブルに、わざわざ首を突っ込むんじゃなかった。

 アーニャは、自分の愚かな行動を少し後悔していた。


この短編は、『あの人、勇者の物語にはいない。』のベータ版を元にリメイクした物語です。

リースと離れ離れになってしまったアーニャのお話になります。


実は当初、アーニャをメインヒロインにする予定で、設定も「追放もの」ではありませんでした。 どういうわけか、長編の方は今のような全く別の方向へと進んでしまいましたが……(笑)。


これからも「琥珀色の魔女」と、今後登場する彼女の仲間たちをどうぞよろしくお願いします!

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― 新着の感想 ―
特にアーニャさんの魔法を表現したシーン。紅茶を淹れる流れが綺麗で魔法をこういう風に描写出来るからこそ、世界観に深みや説得力が増してるように思えました。言い回しもひねりが入っていてただ流れるように書いて…
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