線を引くこと
なだらかな山に雲の影がゆっくりと横たわる。
優しい風が吹き下ろし、木漏れ日が揺れ動いた。
今思えば、私の学生生活は
山に囲まれてばかりだった。
金色の葉が移ろい、朱に染まるさま。
山奥の豪雨や、激しい雷に憂う級友たち。
あの教室からは、
輝く日の出だって見えた。
ぼーっと空と山の境目を凝視しては、
あれは何色なんだろうと、いつも考えていた。
昔から絵を描くことが好きだった。
自由帳の一ページに描きなぐった大きな迷路。
他の子にイタズラ書きされて、大泣きした。
小さなノートを貰えば、棒人間で溢れかえり、
教科書の四隅には、陽気なパラパラ漫画。
運動場での待ち時間になると
棒や靴底で地面に線をひき、
手遊びするなとよく説教をくらった。
でも、誰にもできないことができる。
沢山描いてきたからこそ、自信があった。
絵が得意なこと。密かな私の自慢。
だけど、
井の中の蛙大海を知らず。
やはり上には上がいるものだ。
衝撃的だった。
同じ歳でこんなにまで差があるのかと。
分かってしまった。
自分にはない、線の引き方、色の感覚。
あの子って、絵うまいよね。
言われたかった言葉が、通り過ぎる。
運動も人望も技術も、敵わなかった。
いつからか、絵は描かなくなった。
下手な絵が悔しかったわけじゃない。
比較されるのが恥だったわけじゃない。
自分のやっていることが
追いつけない相手に、
追いつこうともがくことが
無駄だと思った。
できる人とできない自分の間に、線を引く。
同じ道を行くことは、無駄なんだと。
時間をかけても、意味がないんだと。
私は写生が嫌い。
存在するものを改めて描く行為。無駄だ。
校舎や道路、プール、体育館。
そんなものは描きたくもなかった。
視線のずっと奥、
窓から見える、名前もあるか知らない山。
とても綺麗な線だと思った。
山と空の境界。
稜線と呼ぶ。
吸い込まれそうなほど
幾重にも色が連なり、重厚な線を引く。
広い空と山の隙間に、何があるのか。
変わらない景色が、
無限に想像をかきたてる。
ふとキャンパスに目を落とした。
不甲斐ない、私の鉛筆の線。
電線やフェンスは描けた。
だけど稜線だけは、黒じゃない気がした。
黒だけは、いけない気がした。
好きだった4Bを走らせながら
私はそんな世迷言を考えていた。
馬鹿馬鹿しい。この絵も、
そんな考え方も。
白く広い空に、無限の色が広がる山に、
私は濃い黒を落とした。
自分と他人に引いた線のような、
重く鈍い色。
深い傷跡。
本物の真似をしてなんになるというんだ。
紛い物を描き続ける意味なんて、どこにあるんだ。
勝ることなんて、ありえないのだから。
轟音が響き列車が通過する。
鉄の塊に押し出された風が、
ホームに並んだ人々を薙ぎ払った。
空は遠く、ビルの隙間を縫うように
風と人が行き交う都会。
自分の周りには
すっかり山はなくなってしまった。
灰色のビルが陰りを見せると、
煩雑とした明かりが街を照らす。
どこにもみあたらなくなった。
ありふれていた景色。
日の出を背に、光り輝く輪郭。
夕焼けが終わる頃、
暗い空と一つになる姿。
綺麗なあの線を
いつまでも見ていたかった。
何も知らず、囚われず、
自分だけを信じていたかった。
美しい、あの線のままでいたかった。
真っ黒だった。
諦めては線を引いて、
諦めては線を引いて。
濃い黒に染まった、自分の体。
黒い線から染み出す濁った汚水。
何をしても、到達できず、
上ばかり見上げて、動けなくなった私。
諦めては線を引き、また諦めて。
どれだけ進んでも、どれだけ努力しても
本物にはたどり着けやしないのだから。
色を失った人間には、
もう描けないかもしれない。
あの日見た、空の色を。
あの日聞いた、風の音を。
ずっと続いていく、稜線を。
無駄だから、何なのだろう。
意味がないから、何なのだろう。
どうだっていいじゃないか。
絵を描くことが、好きなんだから。
諦めずに続けていけばいい。
そんな強い気持ちを昔持っていたら。
自分の輪郭は、
稜線は、
何色だった。