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変節の宰相:馮道:8章:劉知遠時代①

〇風に逆らいて――馮道、孤影の帰還


ふゆわり、河北かほく荒野こうやにて。


耶律徳光やりつ・とくこうは、ついに旅路たびじ途中とちゅうほうじた。


それはあまりに唐突とうとつで、しかもしずかなであった。りょう大軍たいぐん中原ちゅうげんからげてゆく最中さなかかれはただひといき氷風ひょうふうかっていたのち、ねむるようにまぶたじたという。


それが帝王ていおう最期さいごだった。いくさも、号令ごうれいも、さくもなかった。ただ、たび途中とちゅうあしめたかのように――。


________________________________


それからまもなく、りょう諸将しょしょうたちは皇族こうぞく会議かいぎり、徳光とくこうひつぎくにおくとどける準備じゅんびにとりかかった。そのなかにあって、漢人かんじん老臣ろうしん馮道ふう・どうは、一人ひとりことなるみちえらぶ。


わたくし中原ちゅうげんかえります」


そうって、かれしずかにうまかえした。


だれめるものはいなかった。北方ほっぽう寒風かんぷうはげしく、そらひくくもっていたが、その宿やど覚悟かくごが、かれちいさな背中せなかをどこまでもおおきくせていた。


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馮道ふう・どう苦難くなん帰途きと


馮道ふう・どう帰途きとは、まさしく苦難くなん一途いっとであった。


随行ずいこうする部下ぶかも、名代みょうだいうまもない。徳光とくこうしたがりょう本国ほんごくかう予定よていだったかれは、唐突とうとつ進路変更しんろへんこうまえに、わずかな携行品けいこうひん記録書きろくしょのみを背負せおって、ひとたびたのである。


ふるふで幾巻いくかんかの書簡しょかん、そしてふところ仕舞しまった数枚すうまい布札ふさつ――それがかれ全財産ぜんざいさんだった。


「……まずみなみへ。いずれ黄河こうがられよう」


おのれかせるようにつぶやいて、かれ雪解ゆきどけぬ山道やまみちあるいた。


北国きたぐにかん筆舌ひつぜつくしがたい。こおったかわわたり、さらしのおかえ、よるには盗賊とうぞくけて村外むらはずれのはやしせる。かた相手あいても、たよ知己ちきもない。ただ、夜風よかぜおとと、とおくでえるおおかみこえとをきながら、かれふるわせてよるしのいだ。


あるときは、あしすべらせて小川おがわち、れたきぬのまま吹雪ふぶきさらされた。あるよるは、空腹くうふくのあまり野草やそういのちつなぎ、あるには道中どうちゅう農民のうみんなかうようにしてかゆめぐんでもらった。


それでも、馮道ふう・どう一度いちども「もどろう」とはわなかった。


しょは、だれかがしるさねばならぬのだ。いくさおうえようとも、記録きろくのこらねば、ひとおなあやまちをかえす」


その言葉ことばを、かれ何度なんど胸中きょうちゅうかえした。疲労ひろうくずちる寸前すんぜんよるあお星空ほしぞらしたじてはかえす。


中原ちゅうげんかえる。 そして、しるす。 このみだを。 このくるしみを。 ひといとなみを――。


________________________________


ふで英雄えいゆう馮道ふう・どう


やがて、三月余さんげつよりの苦旅くろて、黄河こうが南岸なんがんいたころかれきぬはぼろぼろとなり、ひげび、凍傷とうしょうのようにひびれていた。


とある宿場町しゅくばまち辿たどいたその客吏かくりかれいてまるくした。


「お、おぬしが馮道ふうどうさまであらせられるか!? かつての尚書令しょうしょれいたみちちうたわれしおかたが……まさか、このようにお姿すがたで……」


おどろ役人やくにんをよそに、馮道ふうどうはそっと微笑ほほえみをかべて、ほうすそただした。


われはただの筆持ふでもちです。役人やくにんでもなければ、貴人きじんでもない。ただ、しるすべきことをしるしにまいりました」


そのよるかれ宿やどかりのしたふでり、ようやく一枚いちまい白紙はくしった。


あのふゆきたみかど崩御ほうぎょいくさえにいた人々(ひとびと)のこと。


それらすべてを、かれしずかにふでたくしていくのだった。


________________________________


時代じだいなみがいかにれようとも、一人ひとりいし文士ぶんしえらんだみちは、どこまでもまっすぐであった。


馮道ふう・どう――そのは、けんかずして五代ごだいを生きいた、ふで英雄えいゆうである。


そしてかれのようなものがいたことを、せんねんのちきるわれらもまた、るべきなのかもしれません。




〇風は南へと還る――馮道、洛陽にて再び筆を執る


馮道ふう・どう後漢ごかん成立せいりつ


とき天福てんぷく十二年じゅうにねん西暦せいれきにして九四七年きゅうひゃくよんじゅうななねんのこと。中原ちゅうげん大地だいちみにじったりょう騎兵きへいは、みやこ開封かいほうり、きたへと姿すがたしていました。


みかど耶律徳光やりつ・とくこうは、唐突とうとつたび途中とちゅうりました。その崩御ほうぎょとともに、りょういきおいは一転いってんしてしずまりかえり、かぜふたたび、漢人かんじん大地だいちへともどりはじめます。


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劉知遠りゅう・ちえん即位そくい後漢こうかん建国けんこく


そのとし正月しょうがつ関西かんさいゆう劉知遠りゅう・ちえんが、太原たいげんにおいて皇帝こうてい僭称せんしょうし、後漢ごかんてました。もと後晋こうしん節度使せつどしにして、沙陀さだ武人ぶじんあらぶるいくさをくぐりけ、知勇ちゆうひいでたかれは、中原ちゅうげんのこされた漢人かんじんたちの期待きたい一身いっしん背負せおい、あらたなはたかかげたのです。


みやここそいま奪還だっかんならぬも、その黄河こうが以北いほくひびき、たみこころつかんではなしませんでした。


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馮道ふう・どう帰還きかん再出仕さいしゅっし


そのほうを、北地ほくちからもどりし老臣ろうしん馮道ふう・どうが、洛陽らくよう南郊なんこうにていたのは、ちょうど春先はるさきのことでありました。


「……後漢こうかん、か。劉知遠りゅう・ちえんどのが、ついに」


としかさねたかれかおに、ふかしわきざまれていました。しかし、その眼差まなざしはなお、んだままとおくを見据みすえています。この十余年じゅうよねんかれ幾度いくたび王朝おうちょう興亡こうぼうてきました。とう終焉しゅうえんはじまり、りょうとうしん、そしていまりょうまでも――。


それでもふでかなかった。それでも「まつりごと」のつづけたのです。


いま一度いちどしるさねばなるまい」


その言葉ことばとともに、馮道ふう・どう洛陽らくようまちへとうますすめました。


洛陽らくようは、かつてのかがやきをもどしつつありました。遼軍りょうぐんはらったあとのまちは、て、瓦礫がれきやまでありましたが、それでも人々(ひとびと)はもどってきました。いちでははやくも野菜やさいならび、路地ろじではらのこえこえます。ひとは、おもいのほかはやく、そしてつよがるものです。


その馮道ふう・どうもどってきたとあって、老若男女ろうにゃくなんにょおどろきました。


馮公ふうこうが……! りょうれてかれたはずでは……」


「いや、遼主りょうしゅくなってかえられたそうな」


「また朝廷ちょうていもどってくださるのか……ありがたや」


たみは、かれ姿すがたわせ、なみだすらかべました。それほどに、馮道ふう・どうというは、中原ちゅうげんにおいて信頼しんらい象徴しょうちょうであったのです。


________________________________


馮道ふう・どう決意けついふで記録きろく


やがて劉知遠りゅう・ちえんかいほうり、後漢こうかん正統せいとう主張しゅちょうすると、馮道ふう・どう正式せいしき再出仕さいしゅっしめいじられます。老臣ろうしん帰還きかんは、新帝しんていにとってもみやこたみにとっても、おおいなる吉報きっぽうでした。


馮公ふうこうほどの人物じんぶつを、いまふたたびこのみやこむかえられたこと、これ以上いじょうこうはない」


そうかたった劉知遠りゅう・ちえん眼差まなざしも、またしずかにねつ宿やどしていました。


馮道ふう・どううなずきました。


陛下へいかしんたみおぼすならば、われもまた、くさねばなりますまい」


それは、政治せいじというよりいのりのような言葉ことばでした。


ふたた洛陽らくようやかたまいをかれは、朝政ちょうせい参与さんよするかたわら、ふでる日々(ひび)をおくりました。中原ちゅうげん蹂躙じゅうりんしたきた覇者はしゃりょう記録きろく乱世らんせいた民草たみくさ姿すがたほろびゆく王朝おうちょうと、それをささえたもなき人々(ひとびと)のざま。それらすべてを、馮道ふう・どう記録きろくしました。冷静れいせいに、丁寧ていねいに、そして誠実せいじつに。


ふでは、いずれのちわれよう。このみだれし時代じだいを、どのようにしるしたか――と」


そうつぶやいた背中せなかは、やがて夕陽ゆうひつつまれていきました。


________________________________


乱世らんせを生きいた賢者けんじゃ


耶律徳光やりつ・とくこうとともに、りょう支配しはいまくじました。そして、劉知遠りゅう・ちえんはたのもと、後漢ごかんふたた大地だいちったのです。


その時代じだいのただなかにあって、しずかにふではしらせる一人ひとり老臣ろうしん――馮道ふう・どうかれこそは、かたなたぬまま幾度いくたび乱世らんせわたり、その記録きろくをもってひといかけた、しん賢者けんじゃであったのかもしれません。




〇老臣の独白――馮道、劉知遠を語る


馮道ふう・どうかた劉知遠りゅう・ちえん


――はるかぜが、洛陽らくよう城壁じょうへきをやさしくでていました。


にわうめえだが、しろくほころびはじめる。としかさねてもなおきよらかなそのかおりに、老臣ろうしん・**馮道ふう・どう**はほそめ、ふでめました。


そして、長椅子ながいすこしあずけると、にわ一隅いちぐうをやりながら、ぽつりとひとごとのようにかたします。


「……劉知遠りゅう・ちえんというおとこは、不思議ふしぎ器量きりょうぬしであった」


________________________________


劉知遠りゅう・ちえん器量きりょう


劉知遠りゅう・ちえん――そのは、いまや後漢ごかん皇帝こうていとして中原ちゅうげんとどろいています。しかし、かつてかれを「知遠将軍ちえんしょうぐん」とんでいた時代じだいものは、いまでは数少かずすくないでしょう。


かれは、沙陀族さだぞく武人ぶじんでした。胡人こじん勇猛ゆうもうさと、漢人かんじん繊細せんさいさをあわ稀有けう人物じんぶつわかくしてぐんひきい、太原たいげんったかれは、五代十国ごだいじゅっこく動乱どうらんのさなかにあっても、その武名ぶめい威信いしんによっておおくの兵士へいししたがえました。しかし、なによりもいたのは、かれの「忍耐にんたい」でした。


つ」ということのできるおとこ――それは、いくさ世界せかいではまれ資質ししつです。


帝業ていぎょうものとは、ゆうだけではりぬ。ときり、じっとてるものでなければな……」


そう、馮道ふう・どうしずかにつぶやきました。


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後漢こうかん建国けんこく劉知遠りゅう・ちえんの「


やがて、後晋こうしん瓦解がかいし、りょう騎馬きば中原ちゅうげん乱入らんにゅうすると、劉知遠りゅう・ちえんうごきました。かれ太原たいげんにおいて皇帝こうてい名乗なのり、「後漢ごかん」をかかげたのです。それは、空白くうはくとなった中原ちゅうげんに、漢人かんじんはたふたたてる行為こういでした。


りょうるをて、すぐに名乗なのりをげた。だが、それはただの野心やしんではあるまい。たみつかてていたからこそ、安寧あんねいのぞんでいたからこそ、あのおとこは『みかど』としてかかげたのだ」


ときに劉知遠りゅう・ちえん冷徹れいてつひょうされることもあります。しかし馮道ふう・どうには、かれけっして「つめたいおとこ」ではありませんでした。


非情ひじょうえて、じょうてぬ。にこだわらぬようでいて、く。つよく、しかし、ぎてはならぬことをわきまえておる」


それが劉知遠りゅう・ちえんというおとこでした。


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ふでめるたみへのおも


「……おもえば、つかえたみかど幾人いくにんのぼることか」


とう終焉しゅうえんより今日こんにちまで、幾度いくど王朝おうちょうおこり、そしてほろびました。りょうとうしんかん――そしてりょうにすらしたがったです。


みだれ、うしなわれたかにえた。だが、劉知遠りゅう・ちえんどののなかには、たしかに『』がづいていたようにおもう」


ふいに、馮道ふう・どうがり、庭先にわさきます。うめえだをそっとでて、すこわらいました。


ひとうえものとは、たみこえけるものでなくてはならぬ。かれがどこまでみみませてくれるか……老骨ろうこつとて、もう少し(もうすこし)だけ見届みとどけたいものだな」


そして老臣ろうしんは、ふたたふでにしました。すみかおりとうめかおりが、ゆるやかにまじじるはる午後ごご。その一文字一文字いちもんじいちもんじが、やがて時代じだいつづる「ふみ」となるのでした。

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