スティル ステイ(イン・ストップド・タイム)
廃墟には感じるものがある。
忘れ去られ、時間の止まった空間。
放置されたいろいろな“もの”は逆に強く人の存在を感じさせる。
その場所にどんな物語があったのか。俺はそれを感じたいのだ。
廃墟巡りが流行っている。どこにどんな建物がある、そんな情報がネットに溢れ、それを見て沢山の人が向かう。
俺は廃墟が全く関連のない意味と時間で上書きされていくことを寂しく感じる。
「忘れ去られた場所」は二度と思い出されることはない。
しかし、それでいいのだ。
俺はいつも、自分だけの廃墟を探していた。
航空地図を眺めていて、地方の郊外に廃ホテルを見つけた。
地元は昭和の終わりまでそこそこ人気のあった観光地だ。建物は少し離れた山中にあった。
俺はバイクで向かった。
街は想像していたよりも廃れていた。シャッターの閉まった商店が左右に並んでいる。国道から山道に逸れてしばらく走る。思った通りだった。ただでさえ狭い道路に草木がせり出して、車では通れなくなっていた。
地方の廃墟に向かう際には、整備を放棄された道に阻まれることがよくある。だからバイクを使うのだ。
アスファルトが剥がれて波打つ道、薄暗い濃緑の森を登っていくと白い建物が見えてきた。目的の廃ホテルだ。
建物の周りには背の高い雑草と低木が生い茂っていた。近くにある電気設備の建屋は下半分が見えなくなっている。かつては前庭もあったのだろうが、今は雑木林との境目もわからない。
俺はエントランスの脇にバイクを停めた。
ツタの這う壁面はあちこちが欠けたり崩れたりしている。着実に風化の途中にあった。ヒビの補修痕が申し訳程度の抵抗に見える。
俺はエントランスをくぐり、ロビーに足を踏み入れた。途端に空気が冷たくなった。埃と湿ったコンクリートの匂いがする。
ゆっくりと見まわす。壁は至る所、塗装が剥がれて灰色の地がむき出しになっていた。天井からは照明が落ちかかっている。床のタイルは土埃で汚れているものの、辛うじて大理石模様が見て取れた。背もたれの破れたソファーとテーブルが無造作に置かれ、黒くなった絨毯が丸まり転がっている。
割れた窓から差し込む光に埃が漂っている。他には何も動くものはない。
ロビーの端に長いカウンターがあり、その奥の壁にはホテルの名前が書かれていた。金文字のメッキは所々剥がれてしまっている。ここがフロントだったのだろう。
Prestin Hotel
We promise you a peaceful time.
フロントの奥、正面からは見えないところにドアがあった。少し開いた隙間から光が漏れている。俺はカウンターを回り込んでいった。ドアを押すと、蝶番を軋ませながらゆっくりと開いた。ロビーに響く音に、改めてこの場所の静寂を感じる。
事務所にはスチール製の机と椅子が並び、その上に台帳やファイルが積み重ねられていた。部屋の奥ではすりガラスの窓が眩しく光っている。風雨に晒されていないこの部屋は当時のままなのだろう。
部屋の隅にブラウン管モニターのパソコンが置かれていた。横には大型のプリンターがある。その上に乗ったFAXには紙が差し込まれたままだ。
壁には大きなカレンダーが掛けられていた。商店や旅館の広告が載っている。麓の観光地のものだろうか。いずれも、今はもう存在しないのだろう。
ページは平成3年6月だった。
反対の壁際に鍵が刺さったままのキャビネットが並んでいた。
背に「宿泊者名簿(H3.2~)」とラベルが張られたバインダーがある。俺はそれを取り出して開いた。ひと月毎にインデックスで区切られている。他に名簿は見当たらない。この一冊だけが残されていた。
宿泊者/代表者 住所 電話番号… 客室番号 到着日 出発日
手書きの文字は、最後のものでさえ三十年以上も前に書かれたものだ。
6月、客はほとんどいなかった。
手に持ったバインダーから紙束が落ちかかった。厚紙の表紙に「長期滞在」と書かれている。この束は新しいバインダーが作られる度に送られていったのだろう。黄ばんで傷んでいる。
最初の宿泊票は昭和26年のものだった。日付以外はインクが掠れて読めない。
俺は一枚一枚、見ていった。どうやら一ヶ月以上の宿泊客が綴られているようだ。なかには一年近く滞在している者もいた。ページを追うごとに紙の状態が良くなっていく。一束に四十年余りが綴られているのだ。
宿泊者/代表者 ** **子
807号室
平成 元 年 11月 14日 より 年 月 日 迄
最後の宿泊票。
名前の部分は、まるで鑢で削ったかのように紙が毛羽立ち、読めなくなっていた。
住所と電話番号は書かれていない。
この一枚だけ、出発日が空欄になっていた。
備考欄にメモ書きがある。
“ご希望により、ここに残られるとのこと”
どういう意味だろうか。
俺は上の階に行ってみたくなった。
錆びた鉄材、劣化したコンクリート。いつ崩れるとも知れない。
歩き回るのは危険だ。まして滞在するなど。
廃屋は人がいないことで、その「形」を保っているのだ。
それでも興味が勝った。
俺は事務所を出てロビーを横切り、入口正面にある階段を上っていった。階段は上に向かって幅が狭くなっていく。
二階はレストランだったのだろう。広いスペースの端にテーブルとイスが重ねられていた。
客用の階段は見つからなかった。俺はエレベーターの横にある無機質な扉を開け、非常階段を上って行った。
八階の扉を開ける。ロビーよりもさらに暗くて肌寒い。廊下のつきあたりには窓があったが、差し込む光は頼りなく、周辺だけを照らしていた。
左右のドアのプレート番号を確かめながら、赤黒い絨毯を歩いていく。
803、804、805… すぐに目的の部屋に辿り着いた。
807
俺はドアの前に立ち、息を吸い込んだ。ノブは軋むことなく回った。
俺はゆっくりとドアを開けた。眩しい。光が廊下に伸びていった。
きれいに整えられた部屋は廃墟の一室とは思えなかった。
この場所の他の全てと切り離されて、別の時間が流れているようだった。
その人は静かにベッドに横たわっていた。
足元には花束が置かれていた。手に取ってみると造花だった。
俺は花々の淡い色合いに“優しさ”を感じた。
ここにどんな人生があったのだろうか。
俺はこの人の最後の選択の理由を知りたいと思った。
窓があった場所にかかるカーテンが風に揺れている。
———ご希望により…
俺は静かにドアを閉めて、階段を降りた。
そしてそのままホテルを後にした。
彼女はこれからもここに居るのだろう。時間が止まった部屋に。
それを望んだ誰かの想いとともに。