ゴキブリ文庫
目を覚ますと、ゴキブリが視界に入った。間違いなくそれは、ゴキブリであった。残念なことにそれは、夢でもなんでもなく、紛れもない現実での出来事であるようで、起床後早々に、僕を絶望させた。清々しく真っ直ぐな朝日を、彼、あるいは彼女の華麗なボディーは、見事に反射させていた。
そんなゴキブリは今この瞬間も、部屋の中を高速で移動している。対ゴキブリ戦を展開しなくてはならないわけであるのだが、これにおける最重要事項は、絶対にゴキブリを見逃さないことである。ここでゴキブリを見逃してしまえば、最悪の場合、引っ越す事を強いられるであろう。
というわけで、ゴキブリを追尾する事を始めてみる。ゴキブリは現在、天井から壁を使って降下して、床を移動しはじめている。備わっている6本の足を、素早く動かしながら、僕の目の前を高速で、それでいて平然と前進している。どこへ向かっているのであろうか。
ゴキブリだって生き物の部類に属しているわけであるから、意思であったりとか、哲学のようなものを持っているのであろうか。ひたすらに前進するゴキブリの姿を見て、そんなことを考えた。
これまでも度々、ゴキブリは僕の前に姿を現した。それらが今この瞬間、僕の目の前を歩いているゴキブリとは全く別の個体であることは確かなのだけれど、僕とゴキブリとの間には、大切な物語があった事を思い出した。
僕にはリナという幼馴染がいる。僕らは、互いが幼稚園生であった頃から、家族ぐるみでの交流を持っていた。それは、僕が大学受験で無事に玉砕して、浪人生として勉強をする日々を過ごしていたある日の出来事であった。その日は僕の両親が、仕事のために家を空けていて、夜遅くまで帰宅する事ができないという状況であった。
であるから、僕の夕食を作る人間がいなくなってしまったのである。事実上の無職である、浪人生という立場であっても、人間をやっている以上は空腹を感じるし、食事を摂る必要があった。外食など100年早い、極力出費を抑えなくてはならない。そのため、自分で食事を作ることが現状における最善の解決策であるように思われた。しかし、食事の作り方など分からないし、無理に作ろうとすれば、かえって危険を伴うために、家族や自分自身に、不都合をもたらす可能性がある。仕方がない、今日の夕食は食べずに我慢しよう。そんな決意を固めつつあると、インターホンが鳴った。宅急便か何かであろうと、勉強を中断して、立ち上がり、玄関前を見渡せる室内モニターに目をやると、そこにはリナが映っていた。
「どうした」
少し驚いたが、極力人と会うことを避けていた当時の僕は、無愛想な口調で、挨拶もなしにそう言ってしまう。
「久しぶり。あの、もし良かったら夜ご飯作ってあげようと思って」
リナはそう言った。僕の浪人が決まって以来、彼女には一度も会っていなかったので、リナの声は久しく聞けていなかった。
それどころか、高校に進学して以降は、互いに親しく接することを恥ずかしいと感じていたし、僕たちは別々の高校に通っていたために、自然と疎遠になっていたのだ。
「あ、ありがとう」
リナの訪問は、完全に予想外の出来事であった。久しぶりの対面であるから、上手く話せる自信もない。
「これ、駅前で買ってきたよ」
そう言ってリナは、駅前の惣菜屋のレジ袋を僕に見せた。どうやら具材まで買ってきてくれたらしい。
「あ、そうなのか。ありがとう」
近頃は日に日に寒さが増してきているから、この場における最適解は、彼女を家にあげることであろう。先ほどまで現代文の読解問題に取り組んでいた僕の頭を、現実世界へと連れ戻す事には、時差ボケを正常化する時のように時間を費やした。
「とりあえず、鍵開ける」
僕はそう言った。
「うん」
リナは短くそう答えた。モニターのあるリビングから出て、長い廊下を歩いて、僕は玄関に到着した。鍵を開ける前に、念の為魚眼レンズを覗く。視覚的に少し歪んだリナが、まっすぐにこちらを見ていた。鍵を開ける。
「久しぶり」
リナが僅かに視線を落として、僕にそう言った。僕もリナの目を直視することがなぜだかできず、思わず視線を落として、久しぶりと言った。
「お邪魔します」
リナはそう言って、僕の家、正確には僕の親が10年ローンで購入した、駅前のマンションの一室にあがった。リナは履いていた白のブーツを丁寧に揃えてから、僕に続いて長い廊下を歩いた。
「じゃあキッチン借りるね。すぐ作っちゃうから」
リビングまでやってくると、リナはそう言って、手を洗ってからキッチンへと向かった。
「うん」
僕はそう答えて、勉強の続きに取り組んだ。現代文の演習問題の続きをはじめる。野菜を切る音が、鍋で湯を煮込む音に変わって、部屋中にカレーの匂いが立ち込め始めたあたりで、演習問題には区切りがついた。炊飯器は、米の炊けた旨を伝える電子音を発し、食器達は、使われる事を喜ぶかのように高い音をあげて場を賑わせた。食事の時間が始まるのだという予感は、キッチンを起点に、部屋中へと広がった。
「できたよ」
リナはカレーを皿へとよそった。
「ありがとう」
僕は立ち上がって、カレーが盛られた皿を2人分、テーブルへと運んだ。続いて、冷蔵庫から取り出した天然水のボトルと、食器棚から取り出した2つのガラスのコップを、テーブルに並べた。
リナは2つのコロッケを皿に盛り付けて、テーブルへと運んだ。僕らは向かい合わせに座った。コロッケ用のソースが、まだテーブル上に出されていなかったから、僕は再び立ち上がって冷蔵庫からソースを取って戻った。
「ありがとう、こんなに」
僕は再び座ると、そう言った。リナは首を横に振って、いいのよと短く言った。
「じゃあいただきます」
リナが言った。
「いただきます」
僕もリナに続いて、食事を始めた。リナの作ったカレーは、僕の好みと比べると、僅かに水分量が多いような気がしたが、心から美味しいと言うのには、十分すぎる美味しさであった。
「美味しい」
僕はそう言った。
「ありがとう」
リナがそう答えた。だがそれ以上に、僕らは会話を続ける事ができなかった。リナと何を話したら良いのか、僕には分からなかったのだ。よく見ると、リナは化粧をしていた。髪型も服装も、昔のものとは全く違っていた。少し香水の匂いがするような気もした。
僕らは、確実に違う人生を歩んでいた。僕たちは、黙々と、食事を続ける。沈黙が長くなればなるほど、話しかける事が躊躇われた。僕がカレーとコロッケを平らげた少し後でリナも夕食を平らげた。皿でも洗おうかと思い、僕は食器を流しまで運び、キッチンへと向かう。するとその時、リナの短い悲鳴が聞こえた。
「どうした、大丈夫か」
僕はそう言って、慌ててリナの方を向く。リナは特定の方向を指さしながら
「蒼くん、あれ」
怯えたようにそう言う。蒼くんと言うのは、もちろん僕のことである。僕は蒼太と言う名前なのだ。
そんな事はさておき、今はどうやら緊急事態。リナの指先の延長線上に目をやると、黒い光沢がものすごい速さで移動をしているではないか。考えるまでもなく、僕はそれが例の害虫代表、つまりはゴキブリであることに気がつく。生で見るのは久しぶりであった。暑い季節が終わって、トラップ、つまりはホウ酸の設置を怠ってしまったことが原因であろうか。いやいや、原因分析など今はいい。ただちにゴキブリへの対処を始めなくてはならない。
殺生をする事は極力避けたいから、駆除ではなく捕獲を目標に、作戦を立案する。
「リナ、適当な容器をその辺から持ってきてくれ」
我ながらに雑な物言いである。
「うん」
リナはそう言って、小走りで室内を物色する。僕はその間、ゴキブリを目で追いながら、蛇口を捻り、両手を使って手の内側に水をため、そのままゴキブリの上空にまで走る。動きを鈍らせるべく、水を少しずつゴキブリにかけてみる。水攻めの効果は絶大で、ゴキブリの移動速度は見事なまでに低下する。
「容器見つかった?マジでなんでも良いぞ」
たかがゴキブリ1匹を逃すために、必死になっている事がおかしくて、僕は思わず笑ってしまう。
「ないよ、どうしよう。何笑ってるのよ」
リナは少しムッとしたような物言いで僕にそう言う。
「じゃあそのタッパーで良いから持ってきてくれ、頼む」
食材を入れるためのタッパーをさして、僕はそう言う。
「これ勝手に使っちゃって大丈夫なの?」
「緊急事態だから仕方ない頼むよ」
僕の真下ではゴキブリが暴れ回っている。飛行でもされれば、もう手には負えない。事態は一刻を争うのだ。
「わかったよ、ちょっと待って」
リナは少し背伸びをして、棚におかれたタッパーを手に取ると、小走りで僕の元へ走ってきて、素早くそれを手渡す。
「頑張って」
「ありがとう」
僕はそう言って、ゴキブリをタッパーの中に誘導する。幾度かの失敗ののち、僕はようやくゴキブリをタッパーに収めることに成功した。
「こいつを逃しに行こ」
僕はリナを見てそう言う。
「うん」
僕とリナは部屋を出て、エレベーターを下って、マンションの近くの草むらに、ゴキブリを逃した。作戦成功だ。
「久しぶりだね、こういうの」
リナは、部屋へ戻るエレベーターの中でそう言った。園児と呼ばれていた頃、毎日のように泥まみれになるまで遊んだ僕たち。暗くなるまで遊んでは、一緒によく叱られていた事を思い出した。月日が離した、そんな僕たちの心が、少しだけ元のように近づいたような気がした。それが、1匹の、名もなきゴキブリの功績であることは言うまでもない。
そんな事があったものだから、僕は今、目の前を移動するゴキブリの、駆除でななく捕獲、を目指して頑張っているのである。