第48話 口八丁手八丁
とりあえず、ラッキースケベ的展開を迎えることもなく平和に、そして無事に風呂から上がったわけだが――、
「暑い……」
そりゃそうだわ。
いま八月なんだわ。
夜でも全然暑いんだわ。
それなのに、かなりしっかり浸かっちゃったんだわ。
いやマジでこれはコンビニアイスが現実味を帯びて来たな。
よし、買いに行こう。
さすがにこの恰好ではまずいから一旦着替えて――、
と、再び廊下をぺたぺたと歩いていると。
薄暗い廊下の奥で、うっすらと光が漏れている部屋があることに気付く。行きも通った道だったのに、その時は気付かなかったのだろうか。それとも、いまたまたまドアの閉め方が甘いだけかもしれないけど。
かといって開けるわけにもいかない。特に気になるわけでもないし、さっさと通り過ぎるだけだ。
そう思っていたのだが。
バサッ、と鳥の羽ばたきのような音がして、「ひえっ」と思わず声が出た。これがもし羽ばたきだとしたらかなり大きな鳥になるんだけど、いや、さすがに室内にそんなデカい鳥はいないでしょ。それよりは、何かこう、ふさふさしたものがついた棒っていうかね、そう、それこそ神主さんがバサバサ振ってる白い紙のついたアレよ。アレって何ていう名前なんだろ。
まぁそう思うのはここが神社だからであって、普通なら例えば……ええと……新聞紙の束を振る、とか? いや、それもどんな状況よ。洗濯ものをバサッと広げる感じの音じゃないんだよねぇ。草をかき分ける音のかなり派手なバージョンっていうか、いや、やっぱり束になっている紙を振る感じっていうか。もうあの神主さんの白いバサバサしか浮かんでこねぇ! これはもう明らかにロケーションが悪い! それ以外浮かばんって!
こうなるともう気になって仕方がない。
何なのよ。
マジであの白いやつなの?
だとしたら誰がバサバサしてんのよ。歓太郎さんか? いや、あいつもう店じまいだー、つって部屋着だったぞ? シンプルな白Tにハーフパンツとかだったぞ? そんでもちろん『発光バター』とかじゃない、普通のちょっとおしゃれなやつだったし! 自分だけそれは汚ねぇだろお前!
まぁ、あたしは神主さんの仕事なんてわからないから、そんなリラックスウェアでも全然バサバサするのかもしれないけどもだ。
えー、気になるじゃん。
どうすっかなぁ、と思いつつもちゃっかりその薄く開いている引き戸に手をかけたその時である。
「誰だ?!」
「――おわぁっ」
すい、とそれは開かれた。
聞いたこともないような鋭い声のその主は、あたしの姿を認めると、途端に肩の力を抜いて、「なぁんだ、はっちゃんでしたかぁ」とふにゃりとした声を出した。この口調からもわかる通り、慶次郎さんである。何だ、ここにいたのか。
「ごめん、覗くつもりではなかったんだけど」
いや、覗くつもりだったけど。
だけど、この場合、「ごめん、覗くつもりでした」とはなかなか言えたもんじゃない。それに。
「何ていうか……何してたの、その恰好」
「え? あ! いや、あの!」
その言葉で自分の恰好を思い出したのか、全身やら頭やらをペタペタと触り出した。いや、触らなくてもわかるでしょうよ。そして、右手にはしっかりとその白いバサバサを持っているものだから、動きに合わせてバサバサとうるさい。
「ちょっと落ち着きなって。良いじゃん、ちょっとじっくり見せてよ」
「い、嫌ですよ。恥ずかしい!」
「恥ずかしいもんなの? だってそれが正装なんでしょ?」
正装、っていうか歓太郎さんは『本気の恰好』って言ってたっけ。何にせよ、これは彼が本気で陰陽師っぽいことをする時のやつなのだ。
この――、真っ白い平安貴族みたいな恰好は。
「ううう、そうですけどぉ」
「良いじゃん。似合ってるよ、慶次郎さん。映画に出てくる平安貴族みたい」
「それは喜ぶところなんでしょうか。いま令和ですよ」
「令和だけどさ。いや、マジで慶次郎さんは和装が良く似合うって。自信持ちな?」
「和装は和装ですけど、これはまた何か違うじゃないですかぁ」
しょぼ、と肩を落として頭を垂れると、やたらと長い帽子が刀のように振り落とされて危ない。バサバサも力なく項垂れている。マジでこれ何て名前なのよ。
「ええ、何かごめんって。顔上げなよ。ていうかこの長い帽子危ないからマジで顔上げて?」
そう言うと、彼は「わぁ、すみません」と勢いよく顔を上げた。いや、見れば見るほどこのちょっと時代錯誤な長帽子も似合うこと似合うこと。あんまり言ったら泣きそうだから黙っとこう。
「それで? 何してたの? 陰陽師の何か?」
「まぁ、そんなところです。あの、実は、ちょうどはっちゃんをお呼びしようと思ってた、と言いますか」
「何だ、それなら結局この姿でご対面だったんじゃん」
「きっ、着替えてからの予定だったんです! いま! いま着替えてきますから!」
「わざわざ着替えんの? 何? 長くなる感じ? あたしいま着替えてアイス買いに行こうと思っててさ。長くなるなら先に買って来て良い?」
何なら慶次郎さんの分も――、と言おうとしたところで、ぐい、と手を掴まれた。もちろんバサバサを持ってない方の手だ。
「よ、夜ですよ!?」
「そうだよ? 知ってる」
「危ないです! 女性一人で出歩くなんて!」
「近くのコンビニだよ? 別にいっつも出歩いてるし」
「駄目です! 危ないですから!」
「えー、だってアイス食べたいんだもん」
「アイスならおパがきっと買い置きしてますよ」
歓太郎がいつも湯上りに食べるので、と視線を外してぶつぶつ言う。
「うーん、でもそれは歓太郎さんのでしょ? 悪いよ。それにほら、ちょっと夜風にも当たりたいっていうかさ」
「じゃ、じゃあ、僕も行きます! 僕がついて行きます!」
「え? まぁ良いけどさぁ。その恰好で行くの?」
「まさか! 着替えてきますよ!」
「まーたあの『発光バター』?」
ぶっちゃけ恥ずかしいんだけど。
「いえ、違います」
どうやら着替えも近くに置いてあったらしい、部屋の隅にさささと移動してしゃがみ込み、「ほら!」とそれを広げて見せた。胸の辺りに『口八丁手八丁豆腐八丁』とプリントされた白Tシャツである。多い多い。豆腐八丁は多いって。
「歓太郎が、もう一枚買って来てくれました!」
今度のは大丈夫ですよね? みたいな顔をしているけど、それもアウトだからな。




