ムチでぶたれる
「ローマン様、どこですか?」
「だから、なんだ?」
「剃刀で切ってしまったのは、どこですか?」
「たいしたことはない。自分で出来る」
「ダメです。はやく見せてください」
ローマン様は、まれに剃刀で切ってしまうみたい。右目が見えないからというわけではなく、男性はみんなときどき切ってしまうのかもしれない。ときどき、ヨハンさんたちも顔に絆創膏をはっているから。
ローマン様は、わたしが傷のことを指摘したときと同じように、わたしから逃れようと大きな身をよじっている。それがまた小さなこどもが駄々をこねるような仕草なので、失礼だけどすごく可愛いと思った。
彼の前にまわりこむと、わたしからすれば丸太棒のような太い両腕をつかんだ。それから、せいいっぱい背伸びをして顔を見上げる。
「やめろ。いらぬ世話だ。離れろ」
「そういうわけにはいきません。傷は放っておくと黴菌が入って大変なことになります」
「それほどのことではない。わずかに血がにじんだだけだ。だから、離れろと言っているだろう。鬱陶しいのだ。おれにかまうな。ったく、どうしてこうお節介焼きなのだ」
「申し訳ありません。自分でもどうしてかわからないのです」
足がつってしまいそうなほどつま先立ちをすると、ようやく剃刀で切ったであろう傷がごつい顎にあるのが見えた。
ローマン様の言う通り、傷はそれほど大きくも深くもない。
消毒をして絆創膏でもはっておけば、数日で治るはず。
「見えましたよ。顎ですね。さあ、座って下さい。消毒をしますので」
つま先立ちで彼の腕にすがるように立っているのでバランスが悪い。
「消毒などいらん」
ローマン様は、頑固である。いまさら、だけど。
彼は、そう怒鳴るなり大きく身をよじった。その反動で、バランスが崩れてよろめいた。
「キャッ」
口から悲鳴が飛び出した。
そのときには、近くに置いてあるテーブルに背中からぶつかっていた。テーブル上にあった乗馬服とムチが絨毯の上に落ち、自分もゆっくり絨毯に倒れていく。それを踏ん張って倒れないようには出来なかった。
「イタタタ」
床が絨毯だったからよかったようなものの、実家のようにまがいものの大理石だと力いっぱい体を打ちつけたに違いない。
目の端でローマン様が絨毯に落ちた乗馬服とムチを拾い上げ、テーブル上に戻しているのが映った。
「おい、大丈夫か? だから、お節介を焼くなと言っただろう」
大きな影がさし、倒れ込んだわたしの頭上にローマン様の巨躯が立ちはだかる。
その手に握られているムチを見た瞬間、体が凍りついてしまった。
「おい、なんとか言え」
大きな手に握られているムチ。それが空気を切り裂く「ヒュンヒュン」という音がする。
昔の光景が、思い出したくない映像がいやでも頭の中に現れる。
「ご、ごめんなさい。許して。もうしません。だから、許して」
怖い。怖くて死にそう。ぶたれたくない。死ぬほどぶたれたくない。
無意識の内に体を丸め、何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。
『お仕置き用のムチ』
わが家ではそういう名前でそのムチのことを呼んでいた。
ただの乗馬用のムチ。本来なら、馬に乗ったときに馬をムチ打つ為に使うもの。
(馬がかわいそう。人を背中に乗せた上にムチでぶたれるなんて……)
幼い頃、そのムチを見て一番最初に思ったことがそれだった。
だけど、両親や姉のムチの使い方は違った。
「おまえの為を思ってぶつんだ」
「おまえがいけない子だからムチ打たれるんだ」
「おまえがいい子でいれば、ムチで打たれることはないのよ」
「おまえがバカだから。おまえが愚かだからぶたなければならないのだ」
家族はそう言い、ことあるごとにムチでぶった。顔や上腕部や首はぶたれない。なぜなら、見えるところだから。体や上腕部や足など、見えないところを執拗にぶたれた。
だから、体中痣だらけになっている。
ぶたれ始めると、どれだけ謝ってもやめてくれない。それこそ、気を失うまでぶたれた。いつになったら終るんだろう。すこしでもはやく終わってくれればいいのに。痛みを感じなくなった頭の中でボーッとなってきたときが気を失う前兆。
そして気を失って目が覚めたとき、よく死ななかったとつくづく思う。
体中の痛みに耐えながら。