蘇る記憶
自身の酒臭い息で目が覚めた。疎らに生えた顎髭を撫でながら横目をやるとカーテンが淡い光に包まれていた。
午前六時前後を想像して煎餅布団から這い出し、床に丸まっていた褞袍を拾い上げる。襟に付いた数本の白髪は指先で摘まみ、ゴミ箱に入れた。柔らかくて厚みのある敷布団のせいなのか。腰の部分に鈍痛を感じて適当に回した。
温かい格好で窓寄りの炬燵に入ると眼鏡を掛けた。愛用のノートパソコンを起動して次作の小説に関連する情報をネットで探す。該当する文章を見つけると丁寧に読み込み、関係する動画をじっくり観た。
数時間を費やしたあと、一階で遅い朝食となった。定番のパンとゆで卵、紅茶で腹を満たす。歯磨きを終えると再びネットを彷徨う。
目薬を差す。必要な情報は全て手に入れた。記憶から抜け落ちそうな箇所はアプリのメモ帳に保存した。
集中力が途切れて喉の渇きを意識した。億劫に思いながらも立ち上がり、のろのろと階段を降りる。踊り場の辺りで足を止めた。
上がり框に座った母がしゃがれた声で喋っている。話し相手は死角で見えないが掠れた低い声は年配の男性を思わせた。
私は身を潜めて会話の内容に耳を傾ける。母の話し相手は心臓の機能低下が原因で半年前にペースメーカー植え込み手術を受けたという。担当医から術後は日常生活を送れるようになると説明を受けていた。安心したのも束の間、次々に起こる不具合に怒りが収まらず、不満を言い立てる。熱心に聞いていた母は目に怒りを込めて、同意の言葉を軽く咳き込みながら返した。
私は足音を忍ばせて二階へ引き返す。自室の座椅子に腰を下ろして炬燵の中で両脚を伸ばした。瞼を閉じて軽く息を吐く。胸中で真っ白に朽ちた記憶が形を成し、ゆっくりと色付いて疼痛のような刺激をもたらす。
三十年以上、経過しても当時を思い出すと妙な気分になった。