3:婚約解消のち転生
すみません。
前話でリリーの母の名前を“メイナ”としていましたが“ビアンカ”に変更しました。内容に変更は有りません。
さて。お父様がトマス様のお父様と話し合いをした結果。
ええ、まぁ、スムーズに婚約解消致しました。トマス様はきちんとシフォン様なる方をお好きになった、と話していたようで。父親同士の話し合いで好きな相手が出来たら婚約解消、の取り決め通り婚約を解消致しました。
で。
わたくしはデビュー前でも有りますし、社交界デビューに向けてマナーを学びながら、王立図書館に通う日々を送っています。この辺はトマス様と婚約をしていた時と何ら変わりのない日常ですわね。お父様のお給金では、使用人を数名と家の生活費を差し引けば、あまり多くないお金しか残りません。基本的に金庫にそのお金を貯めてます。
我が国の主食である白パンは、平民も貴族も口に出来ますが、平民の男性が1日働くと白パンを5個買えるだけのお給金が貰えます。白パン1個は銅貨で10枚前後。小麦の値上がりや値下がりで価格も変わりますけれど。お父様が働いて残った金額は月によって多少変動は有りますが、銀貨3枚〜5枚程度の貯金です。
その銀貨は銅貨1000枚と同額なので、3枚〜5枚程度の貯金は大した額では無いのです。その貯金した銀貨で年に1回〜2年に1回くらい、家族皆の衣装を買い替えたり使用人に労いとして少しだけお給金を上乗せしたり……。
後はラークの学費のために貯金をしているのでしょう。ラークがお父様の後を継いで政務官になるとするなら、成人になってから、政務官になる為の養成所に通う必要が有るのです。お金に余裕がある貴族やとてもお金持ちの平民は成人前……ちょうど今のわたくしの年齢前後から学院に何年か通うそうですが。お金に余裕の無いわたくし達のような貴族の子や普通の平民の子は、学びたいのであれば王立図書館へ行きます。独学で学び知識を蓄えて、それぞれの将来へ足を踏み出すのです。
わたくしもラークもお母様がガヴァネスとして培った知識を元に、王立図書館にある本で勉強をして参りました。学院に通えない貧乏人にとって、王立図書館は知識の源なのです。そんなわけで、トマス様との婚約解消からおよそ1ヶ月程の本日も王立図書館に来ておりました。トマス様との婚約が解消されてから日々が楽しいと思えている時点で、まぁどれだけあの方との婚約は苦しかったのか、というものです。
お父様もさすがにわたくしが毎日楽しそうにしているのを見たら、本当に自分の判断が間違っていた……と思われたようで。改めて謝られましたが、まぁ終わったことです。お母様とラークとロードにアネット。それから他3人の使用人達と皆で仲良くやっていけたらそれでいい、と話しました。
「良い天気」
寒さが和らいでいるこの季節。太陽が出ていると上着など必要も無いので、王立図書館からの帰り道、少しだけ寄り道をしています。いつもは遠回りになるので通らない小さな川沿いの道。この橋を渡って帰ると15分程の差が出ます。貴族とはいえ端くれですから、お父様がお城へ仕事に行く時に辻馬車を乗るくらいで、普段のわたくしを含めた家族は、徒歩で移動。だから滅多に寄り道はしないのですが、まぁ良い天気に誘われての寄り道。
橋の上で足を止めて川面を見ていました。ボンヤリ眺めていたら、川の中心で溺れている犬を見つけました。慌てて犬を助けようと川に近づきます。犬はちょうど真ん中くらいで溺れていて。手を伸ばしても届かない。川の深さは判らないですが、底は良く見えます。周囲に人も見えないし……ワンピースの裾をたくし上げ、靴下と靴をその場に脱いで、そっと川縁に座って川の水に足を浸しました。
暖かい日ですが、川の水はまだまだ冷たい、と思えるところ。でもそっと足を伸ばして伸ばして。足が底に着きました。あら、意外と浅い? そっと川縁から立ち上がってみたら膝より下の脹脛辺りの水面。これならば……とわたくしは、未だ必死に踠いている犬へ慎重に近づき……抱き上げようとしました。
その際、犬は……近くで見たら子犬だと解りましたが……溺れていた所へ知らない人の手に捕まった事の恐怖なのか、かなり暴れました。逃げようとする本能でしょうが、それに負けて離してしまえば、今度こそ子犬は溺れて死んでしまう、と考えたわたくしは、必死に子犬を抱きしめます。でも暴れる子犬。その暴れ具合に、脹脛程度の深さとはいえ、川の中に入るのはこれが初めてのわたくしは、足を踏ん張る事が出来ず……
バシャン
と、転びました。
尻餅を付いただけですが、当然びしょ濡れ。子犬はその衝撃のおかげか大人しくなったので、これ幸いと慌てて川縁へ行き、片手に子犬。片手に靴下。素足で靴を履いて家へ急ぎました。通行人と何人かすれ違いましたが、人目を気にしてもいられません。家へ帰るとロードが目を剥き、アネットが軽く悲鳴を上げて、事情を説明するわたくしからロードが子犬を取り上げ、アネットに促されるまま身体を拭き服を着替えました。
お湯を使うには沸かさなくてはならないため、簡単には沸かないのでお湯が沸くまで待ちます。その待つ間にお母様とラークがやって来て、同じ事を説明すると、ラークは「子犬っ」 と喜びの声を上げて。お母様は溜め息を吐きながらも「命を救った事は偉いわ」 と褒めてくれました。それだけで子犬を助けた甲斐が有ります。
ですが。
やはり水が冷たい時期に尻餅とはいえ濡れて帰ったわたくし。お父様がお城から帰って来る頃には熱を出し……その夜はかなりの高熱に。熱に魘されながらも目を覚ますと家族の顔が見えて、心配かけてごめんなさい。と口に出せたかどうか……。
そんな中で夢現にわたくしは、これまでの主な出来事を思い出してました。お父様とお母様とお出かけした日やラークが生まれた日。誕生日会やアネットと仲良くお菓子を買いに行ったこと。そんな思い出が様々に浮かびながら、トマス様の事も思い出しました。すっかり忘れていたのに……。お茶会は遅刻か欠席。誕生日すらプレゼントも送って来ない。そんな婚約者である事が黒歴史にしか思えない日々でした。
やっぱり今でも思います。
「トマス様なんて、大っ嫌い! あんな人と婚約していたなんて、黒歴史だわ! 解消されて良かったぁっ!!!」
そう叫んだわたくしが、目を開けると……
「アリア! トマスとは誰だいっ⁉︎ お父様は、知らない人と婚約なんてさせてないよ⁉︎」
と、髪を振り乱した割と顔が整ったおじさまがアップでした。
いや、あなた、誰ですか!
「えっ、えっ、ええっ! おじさま、誰ですかー⁉︎」
「お……じ、さま?」
えっ、そうですよ。知らないおじさまです。
「アリアちゃん、何を言ってるの⁉︎ お父様のことが分からないの⁉︎」
ドアップのおじさまの斜め後ろからヒョコリと顔を出したのは綺麗な女性。リリーの人生史上初めて見る美しさ。
「綺麗なお姉さま、あの……」
「おねえさま……。わたくしの事をおねえさま……」
綺麗な、は、スルーですか。つまり綺麗な自覚はお有りなんですね。
そこへドタドタと走る音が複数。……いや、本当にこの状況なんなんですかっ!
「父上、母上! アリアの叫び声が聞こえて来ましたが……っ」
今度は眼鏡の似合う若い男性ですが……リリーの人生でこんな顔の整った男性と知り合った事も無ければ、そもそも親しくない人達が何故こんなに部屋にズカズカと入って来るのでしょう。
そしてもう1人入って来た人を見てわたくしは目をパチパチさせました。
「お父様⁉︎ あ、いえ、お父様にしては随分若いわね。とはいえ、ラークはまだ7歳ですし。いえ、でも、ラークが成長するとこんな感じにお父様に似るのかしら」
さっきから、わたくしを“アリア”と呼びかけるこの変な人達はさておき。わたくしはお父様よりも若く、かといってラークよりも年上に見えるラークとお父様に良く似た男性をジッと見つめておりました。
「えっ……俺をラークって知ってるって……もしかして、リリー姉さん⁉︎」
「えっ。あなた、ラークなの⁉︎ 嘘でしょう⁉︎ だって、あなたまだ7歳じゃないの!」
「えっ、本当にリリー姉さんなの⁉︎ いや、ちょっと待って。落ち着こう。うん、落ち着くべきだ。ローレンス、それからローレンスのお父上とお母上。勝手にアリア嬢の部屋に入ってしまい、紳士に有るまじき行動をお詫び致します。しかしながら、こちらのアリア嬢は、どうやら我が姉、リリーのことをご存知の様子。如何でしょう。少し、話し合いの場を設けてもらえないでしょうか」
「ラーク……。そうだな。俺も父上も母上も混乱しているし、アリアもなんだか様子が変だ。この様子から見るに、ラークとご両親も交えて話し合った方が良さそうだ。早速で悪いが、午後にでも話し合いの場を設けても構わないか?」
「こちらからお願いしたいよ。父上と母上に直ぐに声を掛けてくる。ローレンスのお父上とお母上は、それで宜しいでしょうか」
「あ、ああ、そうだな。ラーク君とローレンスの言う通りにしよう」
「そ、そうね。その方が良さそうね」
何がなんだか解りませんが、とにかく、こちらの変わった方達3人とラークらしき若い男性から諭されて、わたくしは少し休んでから話し合いをする事になったようです。少し休んで……そういえば、わたくし、子犬を助けようとして川に入り、尻餅をついてびしょ濡れになった所から高熱を出していましたね。
うむ。
身体が変に疲れています。お休みは確かに必要です。そんなわけで勧められるがまま、わたくしはまた眠りに落ちました。
そうして眠っている間に……今度は、わたくしは様々な記憶を夢に見ました。
ええ。つまり、アリアとしての記憶です。先程の3人はアリアの両親と兄……わたくしの家族でした。わたくしは、アリア・フォードネス。代々国の裁判官を務めるフォードネス伯爵の娘で現在10歳。フォードネス伯爵、つまりお父様もリリーのお父様であったララス男爵と同じく領地なき貴族ですが、その代わりフォードネス伯爵一族は王都や地方で必ず裁判官を務める家柄です。
世襲制ではなく、実力でフォードネス伯爵の座を捥ぎ取るのが一族の掟。裁判官という、法の番人ですから世襲制にでもして、実力の無い者や腐敗した考えの持ち主が当主になる事は許されざる悪なのです。
で。
わたくし、アリアのお父様は先代のフォードネス伯爵当主の甥にあたり、実力でフォードネス伯爵当主の座を捥ぎ取った方なので、髪を振り乱した割と顔の整ったおじさま……いえ、お父様は、外では冷徹な法の番人と呼ばれてます。
……アレで?
と、リリーの記憶を取り戻したわたくしは思いますが、アリアの記憶だった時を振り返ると、フォードネス伯爵であるお父様は、どうやら家族には甘々みたいです。とくに娘……つまりわたくし。ダメな父親じゃないですかね。
だって、わたくし10歳なのに、淑女教育をサボりがちでマナーもあまり覚えておらず、お転婆。庭師が水撒きしているのを邪魔してその水を被って熱を出して寝込んでいたわけですよ。……領地無しとはいえ、伯爵令嬢とは言えないですよね、コレ。まぁその高熱のおかげで、わたくしはリリーの記憶も蘇ったわけです。
ラークがあれだけ成長しているとはいえ、ラークが居て、ララス男爵とその妻……リリーの両親も居るという事は、リリーが死んでからそんなに時が経っていないということですね。リリーは、あの高熱で体力を奪われてそのまま意識不明に陥り……多分、死にましたね。
うーん……。
ララスの家族には申し訳ない事をしました。高熱で苦しんでそのまま死んでしまったリリーの事を心配し、悔やんでいるんじゃないでしょうか。
あと、ロードが取り上げた子犬はどうしたでしょうね。ロードもアネットも他の使用人達も悲しんでくれたのでしょうか。
というか、ロードとアネットは、結婚出来たのでしょうか。リリーの記憶だと、あの2人は互いに思い合っていて、でもお父様には結婚の申し出をしていなかったのですけど。……もしや、お互いの気持ちに気づいていなかった、とか? いや、交際はしていた、と思うのですが……。解らないな。
結婚していると良いなぁ。
なんて、夢でリリーとアリアの記憶を代わる代わる思い出していると、声を掛けられました。
「アリア、アリア? 起きられるかしら?」
お母様……先程の綺麗なお姉さま、と言ったお母様の声でした。
「お母様、おはようございます」
「……っ。ああ、アリア! わたくしの事が解るのですね⁉︎」
「はい、解ります。記憶を……思い出しました。これから、ララス家の皆が来るのでしょう? 全てを、お話いたします」
わたくしから“お母様”と呼ばれて、お母様は泣き出しました。記憶が混乱していたとはいえ、娘に知らない人扱いされたのは、ショックでしたよね、すみません、お母様。
全てを話すと言ったわたくしにお母様は水とスープを食べさせてくれました。それから着替えて、サロンへ迎えば、ララス家の皆が居ました。ちょっと歳を経たお父様とお母様と、だいぶ大きくなったラークが座り。
反対側には、今の……アリアのお父様とお兄様、そしてお母様とわたくしが座りました。
お読み頂きまして、ありがとうございました。