1 爪を隠したい
あたしと同じ新入生が、ぎこちなく先輩の振り付けを真似ている。手取り足取り教えてもらって、何度も最初のエイトカウントを繰り返していた。そのうち振り付けに慣れてきて、上手くなっていく。そんな姿を微笑ましく感じて、心の中であたしは頑張れと応援した。
ここはダンス部の部室。高校は今までと違う部活に入ろうと思っていたけど、やっぱりダンス部が魅力的で、つい覗きにきてしまった。
「あの、あなたも一緒にやりませんか?」
ずーっとみんなが踊っているのを眺めていたら、声をかけられた。目線を上げると、ショートカットの女の子がにこにことしながらこちらに手を出していている姿があった。シワもなく、綺麗な制服を着ているから、あたしと同じ同級生のようだ。
「あたしは見るだけで充分だから......あっ」
なんとも歯切れの悪い返事をしていると、音楽の種類が変わった。あたし好みのダンスナンバーだ。一瞬腰が浮きかけたのに気づいて、そっと腰を下ろす。
「でも、せっかくなんですし、体験した方が楽しいと思いますよ......?」
一緒に踊りませんか? と、ショートカットが可愛らしい彼女はもう一度誘ってくれる。それに対して上手く断る言葉が見つからなくて、とりあえず、曖昧な笑みを浮かべた。そして、「誘ってくれて、ありがと。でも時間だから今日は帰るね?」とだけ返す。鞄を掴み、足早に部室を後にする。部室からは、楽しげな声と、ツーカウントが変わらず聞こえ続けていた。
危なかった。誘われた時、とっても嬉しくて、すぐにでも踊り始めそうなあたしがいた。でも、高校では踊らない。その方があたしは楽しい青春を送れるんだ! せっかくあたしの事を誰も知らない場所に来たんだから、ダンスじゃなくて、違う部活をしてみたい。そう思ったんだけど......
あの後、どの部活にも魅力を感じなくて、結局見学したのはダンス部だけだった。他にあたしがのめり込めそうな部活を見つけることが出来なかったのだ。
普段は飲まない微糖のコーヒーをごくりと一口。うわ、甘いなぁ。やっぱり無糖に豆乳が一番美味しい。少し休む為に、自販機の近くにある長椅子に腰掛ける。
「部活は入りたいなぁ。放課後暇だし」
甘いコーヒーでリフレッシュしながら、何かいい部活はないかと思いを巡らせた。けれど、入りたい部活の候補はゼロのまま。頭を抱えながら、オリエンテーションで配られた冊子で、部活の一覧を確認しようとカバンを探る。
「あれ?」
ファイルをめくっても、出てこない。見学したのはダンス部だけだから、置き忘れたのならそこしかない。急いでコーヒーを飲み干し、ひょいと空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
もう日が暮れるような時間帯らしく、白い廊下には橙色が差し込んでいた。置いてきてしまった冊子を取るためにダンス部の前まで戻る。部室から軽快な音楽や、楽しげな声は聞こえなかった。
ゆっくり近づき、引き戸を開ける。部室には誰もいなかった。開けた戸から光が部室に入り、壁一面に取り付けられた大きな鏡に反射して、部室が橙に染まる。綺麗だけど、ずっと見ていると、なんだか物悲しい気分になってくる。
忘れた冊子は誰かが気づいてくれたようで、落とし物としてホワイトボードに貼ってあった。誰もいないし、このまま持って帰って今日はもう寮に戻ろうかな。鞄に冊子を入れて帰ろうとすると、鏡の中のあたしが目に映った。最初の頃はこういう鏡がないと自分がどんな動きをしているかわからなかったっけ。軽く腕を振ってみた。小さい頃の思い出を懐かしみながら、鏡に映るあたしを見る。
誰もいないなら、少しぐらい踊ってもいいじゃないか。最近踊っていなかったからか、踊りたい欲がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。軽く体を動かしてみる。あたしの想像した通りに体がリズムを刻んだ。
少しだけ、ちょっとステップを踏むだけ。そう自分に言い聞かせて、軽く跳ねて体の力を抜く。それはもう体の芯が柔らかくなるように、ぐにゃぐにゃとした感じで。それからすーっと息を吸って、鋭く吐く。もう少しで倒れてしまいそうな、そのギリギリまで体の力を抜く。
新品の上履きが、擦れる音が部室に響いた。新品だから、足にあんまり馴染んでなくて、大きな音が出てしまった。まず足を交差させて、ターン。その流れに合わせて、脱力した状態で体を下に落として、また上げる。
ここに腰から上だけをずらしてみたり、エイトカウントで激しめにしたりすると、単純なのにかなりカッコよく見えるから、あたしはよくアレンジして踊った。
一拍分少し跳ねた後、足を滑らせるように横にステップを踏んでいく。とにかく、カッコ良く見えるように意識して体を動かす。途中から、内股から足を外に開いたりして、細かく細かくリズムを加えてゆく。キリのいいポイントで、クラップを入れて、サッとステップを切り替えた。
両足で交互にキックをしながらリズムを取る。キックした足を真横にずらし、体をキュッと足の方向に水平に移動させて、ポップコーンステップと呼ばれる有名なステップを踏む。
約一年ぶりくらいのダンスはとても楽しくて、頭の中のパーカッションは鳴り止まないし、もう体は止まらない。馴染みのある簡単な振り付けを、今のあたしの実力をフルに使ってなぞる。力を抜くところは抜いて、ロボットみたいに、ガクッと止めるところは止める。体全体を動かしたら、今度は体の一部だけを動かす。手足の動き全てを意識して踊る。
そういえば、制服のままだった。せっかくの新品の制服が汗だらけになる前に止めよう。キリが良いところで、反動をつけて思いっきりターンを決めた。
完璧に決まった。もっと踊りたいけど、今日は制服しかないので、これぐらいにしておこう。息を整えようとしたその時だった。
「わぁ......すごい......!」
「桃ちゃんすごいね!」
突然響いた澄んだ声に、吸った息が変なところに詰まりそうになる。ちらりと目だけで鏡を確認すると、二つの人影が部室に入ってくるのが見えた。慌てて振り返ると、ショートカットの可愛らしい子とポニーテールのキレイな子がいた。ショートカットの方はさっきあたしを誘ってくれた子だった。
「えっと、ももさん? とってもかっこよかっです」
ショートカットの子がそう言って瞳を輝かせる。ていうかあたしは桃ちゃんじゃないんだけど......。
「えっと、あたしは桃じゃなくて、秦野みよっていいます」
「え......?」
驚いたように目をぱちくりさせたあと、ポニーテールの子の方を見たあと、慌てて口を開く。
「ご、ごめんなさい、莉央さんが桃ちゃんって呼んでたからてっきり......あ、わたしは五十嵐珠緒です。よろしくお願いしますね、秦野さん」
こちらこそ、と返すと、あたしのことを、「桃ちゃん」と、そう呼んだキレイな方の子が話しかけてきた。
「ごめんねぇ、その可愛い毛先の色を入学式で見かけてさ、心の中でそう呼んでたんだ」
「え?あぁ......目立つもんね」
そう言われたのが少し恥ずかしかった。自分の鮮やかな桃色の髪の毛先に手を通し、ゆっくり梳く。枝毛もなくて、指通りのいい自慢の髪。お気に入りのシャンプーの香りがふわりと香った。
「あ、アタシは華城莉央。よろしくね!」
ドキッとするような、可憐な笑みを浮かべながら、彼女はそのままあたしにハグをする。元気の良さを示すようにポニーテールが揺れる。華城さんは初対面でも、壁は全くないみたいだ。
「秦野さんは、ダンス部に入部するんですか?」
ハグの後、どこか期待に満ちた顔で五十嵐さんがそう尋ねてくる。
「ううん、本気でやりたいわけじゃないからね」
「そうなんですか......」
先ほどとは一転して、五十嵐さんは納得いかない顔で言い、そのまま目線を少し下げた。華城さんが一瞬口を開きかけたので、理由を聞かれる前に、こちらから話を振ることにした。
「五十嵐さんはもうダンス部で決まり?」
「はい、そうですよ」
やってみたかったんです、と五十嵐さんははにかんだ。その話の間、華城さんは静かにこちらをじっと見つめていた。
「えっと、みよっちは部活決めたの?」
「ううん、やりたい部活がなくてね。どうしようかなって思ってたとこなんだ。」
「そっかぁ......」
少し真面目な顔で、華城さんは考えるような素振りを見せた。そして、何かを閃いたように瞳が煌めく。
「あ、ならアタシと映画部とかどう? 明日来なよ!」
「映画部?」
そうだよ、と華城さんはにっこり笑うと、あたしの手を両手で包みこむようにしっかりと握った。
「うん、アタシ映画部だからさ、きてよ!」
「う、うん、わかった......」
勢いに押されうなずくと、華城さんは「明日待ってるね! それじゃあバスの時間あるから、じゃあね!」と言い残して、部室から飛び出していった。
華城さん程の明るさと積極性を持ち合わせていないあたしは、ようやく名前を覚えたくらいの子と、何を話せばいいのかが分からなくて、つい無言になる。
「えーと、わたし達もそろそろ帰りましょうか」
その声にこくりと頷くと、優しくにこりと五十嵐さんは微笑んだ。