失うもの2
父上の自室をいつ退出したか覚えていない。気が付けば、私は自分の部屋の前の濡縁に立っていた。まだ雨は降っていて、風が吹く度に爪先を濡らした。
「葵」
後ろから肩を掴まれてのろのろと見上げれば、追いかけてきたのか星比古が心配そうに私を見ていた。
「大丈夫か?」
「ええ………………疲れたので休みます」
横を向いて答える私を、星比古は両手で頬を包むようにして自分へと向けさせた。
「黙って話を進めてしまって本当にすまない。だがこのままそなたを放っておく気にはなれなかった………………そなたは、とても痛々しくて危うくて…………私なりに守りたいと思ったのだ。だがそなたは怒って当然だ。勝手に決めてしまったこと許せとは言えぬ」
「怒ってなどいません。むしろ私の方こそ申し訳ないのです。皇籍を離れて神久地に入るのです。相応の覚悟がいったことでしょう………………私のような者を嫁にして下さるのです。勿体無い話です」
「覚悟など……………そうではない。ああ、違うのだ。これは私の我が儘なのだ」
コツン、と額に星比古の額が合わさる。思わず目を閉じれば「そなたを慕っている」と告白された。
「星比古様?」
「先程の話は建前に過ぎぬ。私はそなたを慕っているのだ。だから」
「だから道具になれと?」
突然割って入った凍えるような声に、ドキンと胸が跳ねた。濡縁の向こう、いつの間にか庭に立ってこちらを見ている朱明がいる。
「朱……………!」
「葵の気持ちなどお構いなしで勝手に決めておいて、よくも言えたな!」
「星比古様!」
朱明の魔力が怒りのままに蠢くのを感じて、咄嗟に星比古の胸を突き飛ばした。
一瞬で彼のいた場所に煙が立ち昇り、濡縁の一部は焦げて穴が開いた。
「おまえもおまえだ、葵!」
拍子で膝をついていた私を、距離を詰めた朱明が見下ろしてきた。
「俺がおまえの下僕なら、おまえは道具だ!おまえには自分の意志はないのか?周りに生き方を決められて、なぜ腹が立たない?抗おうとしない?!」
「私は神久地の人間だ。家の為になるなら従うまで、っう!」
朱明に着物の合わせを掴まれて乱暴に引き上げられた。闇に爛々と輝く暁色が、私を刺すようにして捉えていた。
「誰のものにもならないと言った癖に、最初からおまえはおまえ自身のものではなかった。滑稽だな、葵!」
ああ、そうだ。私は生まれた時から、私ではなかったんだ。
虚ろな心持ちに、悲しいような悔しいようなものが湧く。
「私に、どうしろと言うんだ」
「聞くな、葵!」
抜刀した星比古が背後から朱明へと振り下ろすが避けられる。
「星比古様、止めて!」
「すまないが聞けない」
スッと片手を上げるのが合図だったようで、庭の奥と屋敷から武装した者達が現れた。
「葵を惑わすのならここで滅するのだ、魔よ」
私には見せたことのない星比古の冷たい表情。
「人間のやりそうなことだ」
両手に魔力を灯して、せせら笑う朱明に戦慄する。
「だ、ダメだ。誰も殺してはいけない!朱明、戻るんだ!」
「………………嫌だ」
私の命じたことに従い掛けた朱明だったが、彼が合間に唱えていた術が作動し、私の契約術を拒む。
「俺はおまえとは違う。自らの意志に従う」
跳ぶようにして庭に降りた朱明を、数本の矢が降りかかる。
「朱明!」
魔力で跳ね返した矢が、そのまま射手へと刺さった。短い悲鳴が雨音に紛れて聴こえ、柱に寄りかかるようにして立ち上がる。
朱明は、ここにいる人間を全て排除する気だ。止めなければならない。でもそうすれば、今度は彼が傷付く。
「もっと強く命じるのだ、葵」
ゆっくりとした足取りで奥から歩み出た父上は落ち着いていた。
「主であるおまえが楽にしてやれ」
「な、にを」
耳を疑い問う私に、父上はやはり淡々として話す。
「自滅を従魔に命じるのだ」
「…………………」
息が詰まって苦しい。
私は夢を見ているのだろうか。
雨の庭に、朱明が次々放たれる矢を空中で掴み、或いは避けて跳ね返し、魔力の攻撃にまた一人倒れていく。
「朱明……………」
「葵、命じるのだ」
重ねて父上が私に、声を大きくしてそう命じた。
ガリッと柱に爪を立てて、私は顔を背けて叫んだ。
「もう止めろ朱明!誰も傷付けるな!」
「っ!」
「攻撃するな!」
魔力を放とうとしたところに私の言霊が被さり、朱明の動きが止まった。星比古が腕を一度引くのを目にした時には、私の脚は動いてくれていた。
構え直した刀が突き出されるそこへと身を踊らせた。
「あ、うぐ!」
左腹に刃が潜り込み、直ぐに視界が曇る。
「あ、葵!」
「馬鹿なことを!」
星比古と父上の声が聴こえる中、糸が切れたように力が抜けて朱明に凭れたまま身体がずり落ちる。
「葵…………………」
濡れた地面に倒れると思ったら、肩を掬うようにして抱き止められた。
「………………行け…………朱、明」
このままにはさせておけないので力を振り絞って命じれば、朱明は私を抱き上げた。
「分かった」
ホッとして笑う私の額に、俯いた朱明の唇が当たった。
まだ続きます




