憂鬱な雨3
「待っていたぞ、面を上げよ。弥生……………いや、今は神久地葵か」
一段高くなった上座にいるのは、第三皇子である雪比古だった。正体見たりとばかりに得意気な様子の彼を、表情を変えずに見据える。
「そなた一体男なのか女なのか、一度脱がして確認してみるのもよい。男ならば惜しいものだがな」
「…………………先日の御無礼、どうか御許し下さいませ」
さりげない風を装って話をかわせば、面白くなさそうに鼻を鳴らしていた。
「ああそうだな。確かに無礼だった。本来なら手打ちにしているのだが、可愛い弟の『想い人』ゆえ許してやってもよいぞ……………ただし私の要求を叶えるならばな」
そういうことだろうと思った。
「要求とは、何でございましょうか?」
「まあ酒でも呑め」
女官が徳利と猪口の盆を私の前に置き退出する。
両手で猪口を口元に運ぶが、酒の香が強くてそれだけで酔ってしまいそうだ。
チラリと前を見れば、雪比古の背後の壁に背を凭れて立ったままの朱明と目が合う。猪口へと数秒視線を向けた彼が頷くのを待ってから酒を飲み干す。
味はただの水になっていて、魔力で酒成分は飛ばされている。他に何か薬が入っていても中和されているだろう。
「ところで先日の女御の一件、見事だったそうだな。魔を言葉だけで操るとは神久地は恐ろしい。もしや今もこの部屋にも連れてきているのではないだろうな」
「どうでしょう」
あなたの後ろにいるけれどね。
こちらの反応を窺うように見ていることから、酒で私がどうにかなるのを期待しているのかもしれない。雪比古は脇息に凭れてちびちびと酒を呑みながら饒舌だ。
「だがおかしな噂でも立てば、いくら神久地でも窮地に立たされるのではないか?」
「恐れながら、それは脅しでしょうか?」
「いや、心配しているのだよ。そなたが実は男と偽って内裏に上がり込み、弟と爛れた関係を結んでいるのかと………………お?」
ミシ、と雪比古の手にあった猪口が縦に亀裂が入り真っ二つに割れた。
「な……………」
猪口を驚いて眺めていたが、雪比古が思い出したように私を見る。畳に破片がコロリと落ちた。
「お怪我はないですか」
「そなた……………いやまあいい」
「それで、私を心配して下さり、代わりに次期皇位でもお望みですか?」
「そ、そうだ。そなたなら兄上達を病を装って後継から引き摺り下ろすこともできるだろう?私は何人も術者を使ったが、第二皇子を落馬させた程度しか結果は得られなかったのだ」
あれはこの皇子の仕業だったのか。
「だがそなたなら私の目的を果たせるだろう。成功すれば報酬は弾む。神久地も今よりも更に取り立ててやろう」
「お断りします」
ニコッと笑って拒否すれば、呆気に取られたように言葉を失っていた雪比古だったが、すぐにカッとなって立ち上がった。
「考えもせずに拒めばどうなるか、そなた分かっているのか?!」
「ええ。ですが私に何かしらのことをする時には、お気をつけ下さい。貴方様も無事では済みませんよ」
「待て!」
これ以上はいいかと立ち上がろうすれば、雪比古が脇の太刀を抜きざまに私の顔面に突きつけた。
「このような話を聞かせておいて生きて帰れると思うか?拒んだからには死んでもらうぞ」
「私を敵に回すおつもりか」
刃越しに雪比古を睨むと、前触れもなく刃が半分辺りからパキンと砕けた。
「な、や、やはり魔か?いるのか?そうだな?」
太刀を下ろし動揺して周りを忙しなく見回す皇子を放って立ち上がった。
「警告です。今後もし私や星比古様に何かしようとされるなら、命を捨てるつもりでなさいませ………………宜しいですね?」
「………………分かった」
雪比古の怯えの滲んだ目を見てから部屋を出た。
閉め切った部屋から何かが割れる音と怒声を耳にして少しばかり不安になる。
「警告はしたけれど、弟である星比古様に害が無ければいいのだけど」
「またあの男か。放っておけ」
「でも」
「黙れ」
隣にいる朱明の不快げな様子に気付き、私はそれ以上は口には出さなかった。
だが父上には伝えた方がいいと思い、家に帰ると夜を待った。
「葵様、父上様がお呼びです」
「そうか、僕も話したいことがある」
帰宅した父上の元へ伺おうとしていたら、ちょうど鈴音が呼びに来た。
父上の自室の障子を開けたそこには、横手に父上が座り、意外なことに正面には星比古が座っていた。
「星比古様、どうされたのです?」
驚きつつ向かい合うように座ると、星比古が微笑んだ。
「葵、よく聞け」
「はい」
父上の低い声に、何か重要なことを聞かされるのだと察する。
私から逸らすように視線を床へ移した父上が、重たげに口を開いた。
「葵、おまえは今をもって女人として生きよ。髪を伸ばし、女人の着物を着ることを許す。そして第五皇子であらせられる星比古様と婚姻し、神久地家の次代を産むのだ」




