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憂鬱な雨

 鏡色の水面が、か細い女の泣き声で波打つ。


「君が男に裏切られてここに身投げしたのは同情するよ。でもだからといって関係ない人まで水中に引き摺り込んで殺しちゃうのはやり過ぎだ」


 湖の岸に上半身だけを出し、下半身は水中に浸かったままの女の姿をした魔に、いつものように話しかける。

 吐き気のする腐臭が漂うのは、咽び泣く魔からだ。溺死した女の身体に憑いて、こびりつくように残っていた怨みの念を栄養に、湖畔を通る人を襲っていたのだ。

 実際に人を殺してしまうまで力をつけているのは、余程媒体の女の念が強かったのだろう。


 着物は傷んで細切れになり青白くぶよぶよに膨れ上がった肌に食い込み、浮草のような髪がベタリと貼り付いた魔は、生前の女の姿が想像すらできないほどに恐ろしげで醜かった。


「さあ今楽にしてあげるから、もうそんな想いに囚われることなく安らかに眠って」


 血の混じった体液が滴る白く濁った眼球に、手のひらを向ける。目蓋を閉じさせることはできないが、せめて覆ってあげたかった。


眠れ(ユアヌエ)


 泣き声が止んだ。

 靄のかかった湖にはさざ波も立たずに、シンと静まり耳が痛いほどだ。


「出てこい」


 立ち上がり見下ろしていれば、死体から流れた水と腐液の混じったものが塊を作り出した。それは小さな手足の付いた蛙のような形をしていて、色は緑で顔は無かった。這って逃げようとするのを素手で捕まえる。

 バタバタと力なく抵抗する様に多少憐れみを感じつつ、後ろへとそれを向けた。


「消して」


 私のする事を黙って眺めていた朱明が、差し出す私の手の下へと手のひらを添えるようにした。私が魔を握っていた手を緩め、それが朱明の手の上に落下する前に溶けるようにして消えていった。

 厚い雲からポツポツと雨が降り始めてきた。


 羽織っていた紺色の着物を一つ脱ぐと、足元にある女の死体へ掛ける。


「可哀想に。死して尚、情に捕らわれて苦しむなんてね」


 身を投げるぐらいなら、裏切っただろう男に復讐すればいいものを。


「それだけ深い情だったのだろう」


 いつもはこういったことに何の見解も示さない朱明が、そう呟いて意外だった。


「愚かだ。僕はそんなふうには決してならない」

「そうか?人間とはそういう生き物だろう」

「皆が皆、そんなふうに愚かなわけではないよ」


 じっと探るように見つめる彼から顔を背けたまま反論する。

 あれから私達は、最初の時のように仕事を淡々とこなしていた。必要な時だけ私が命じたことを朱明が為す関係。


「…………………分からないのは無理もない。なぜなら葵は半分人ではないのだから」

「朱明!」


 遮るように呼べば、挑むように薄く嗤われる。


「何が言いたい?!」

「生まれながらに魔の血を色濃く受け継いだから能力が高いのだと、おまえも気付いているのだろう?」


 まただ。

 時折朱明は、こうして私の心を波打たせて試すようになった。


「おまえの父親が、なぜおまえを恨んでいるのか知っているだろう?おまえの魔の部分が強かった為に、人間寄りの肉体しか持てなかった母親はまさしく命を削りながらおまえを産んだ。おまえに命を吸われながら」

「………………そんなこと、知っている」

「知っていながら、なぜ人の理にしがみつく?望むなら、魔の理で生きていけるだろうに」


 何を言っているんだ?


 言葉を無くす私の肩に、朱明が自分の上着を羽織らせてきたが押し返すことも忘れ、言葉を反芻する。


「魔の理…………」

「考えたことはないか?おまえの血に力が宿るように、魔である俺の血にも力がある。血は魔にとって重要だ。例えば、いつかの逆のように俺がおまえに血を渡したらどうなると思う?」

「う」


 グイッと両手で強引に顔を上向かされる。その近さに緊張する。


「俺の血を少しずつ長く飲み続ければ………………おまえは」

「手を放せ」

「………………………」

「従魔の分際で主を惑わせるな」


 相手の胸を押し返すと、朱明は予想していたとばかりに素直に離れた。


「僕は人間だ、二度とそんなことを言うな」


 踵を返して依頼人の待つ場所まで戻ろうと、来た道へと向かう。死体は依頼人が後で埋葬する手筈になっている。


「……………葵は自分に嘘をつきすぎだ」

「黙れ」


 煩わしい。

 朱明は、どうにかして契約術を諦めさせたいようだ。

 でも私は怖い。

 あの夜のように我を忘れてしまったら、きっと元には戻れなくなる。それなら憎まれたままの方が気楽だった。

 苦しくなんてならなかったのに。


「僕のことは僕が決める。君が口出すことじゃない」


 着せられた上着に、そっと指を這わす。


「…………………随分と優しくなったものだね、朱明」


 自分は何て嫌な人間だろう。

 一度口元に手を当ててから、ギュッと目を瞑った。


「……………ごめん、服ありがとう」


 礼を言うだけで、頬が熱くなった。

 命じた為に、彼は沈黙したまま私の後ろ姿を見つめていた。










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