従魔の抗い
3日間の旅路を終えて帰路に着いた時には夕暮れが迫っていた。
「ああ、また堅苦しい日常へ戻るな。そなたといるのはとても楽しかったぞ」
「はい。星比古様もさぞお疲れでしょう。ゆっくりお休み下さい」
私が牛車から降りると、御簾を上げた星比古が顔を覗かせた。
「また近い内に、そなたの家に遊びに行くよ」
「わかりました。お待ち申し上げております」
「ああ」と応えた彼が、一度視線を外して顔を曇らす。
「………………葵、あの者と会うのか?」
「…………………はい、私の従魔ですから」
努めてはっきりと答えれば、彼は渋い顔をする。
「大丈夫、なのだな?」
「ええ、私を誰だと?」
「………………わかった、無茶はするな」
「星比古様こそ、第三皇子様とのことは大丈夫ですか?」
「ああ、今に始まったことではない。気にするな」
「……………そう、ですか」
彼はまだ何か言いたげではあったが、見送る私に頷き帰っていった。星比古と雪比古との仲が心配ではあったが、身内のことで他人が口を挟むことはできない。
神久地家の迎えの駕篭に乗り換えると、私は自宅へと帰った。
内裏の留守居をしていた父上は帰宅していなくて、聞けば今日は当直だという。私が女の格好をしているのを出立時に見ていた下働きの者達は驚くことはなかったが、鬘と打ち着を脱ぎながら歩く私に「もったいない」「うああ、葵姫様」と口々に残念がってくれた。
夕食を一人で食べると風呂に入る。やはり疲れているようで直ぐに休みたい気持ちもあったが、決断が揺るがない為に早めに実行せねば。だからみすぼらしい姿は見せたくない。
身を清め、白絹の寝間着の上に深青の着物を肩に引っ掛けると鏡を見た。
自分が他人にどう見られているかなんて、未だによく分からない。鏡に映る顔は男だと思えば少年のように、女だと思えば年頃の娘のように見える気もする。
不安と緊張が滲む自らの両頬を叩くと、私は自室に帰ろうとして気が変わり、廊下を歩き縁側に来ると草履を履いて庭の端にある蔵の前へと向かった。
父から譲られて保管していた大きな真鍮性の鍵で戸を開けると、カビ臭く湿り気のある匂いが鼻をついた。灯りを片手に入ると、床にある観音開きの扉の取っ手を掴む。神久地家の血にしか動かない扉を開け、そこにある石の階段を降りる。その先にまた一つ戸があり、開ければいつかの地下室だ。
私の先祖が代々魔と契約してきた特別な場所だ。
壁の蝋燭立てに火を移して、隅の床にも灯り皿を置いた。
以前と同じように肘掛けのある椅子に座り、一つ息を深く吐いた。
違うのは召喚石が無くとも呼べること。
「来い、朱明」
風など起こらないのに、灯りの火がふわりと揺れた。
「…………………………」
私から一定の距離を置いた場所に姿を現した朱明は、見覚えのある地下室に眉根を寄せた。
それから手に持っていた本らしき物を空間を開いて投げ入れた。読書中だったのか?
「…………………また最初からやり直そうかと思うんだ」
感情を抑えて言う私を見据えた朱明が口端を上げた。
「ちょうどいい、俺も試したいことがあったからな」
不敵に笑い、真っ直ぐに歩いて距離を詰めてきたが、私は座ったまま動かずにいた。
「おまえの命じたことは、一体いつまで有効だ?」
「………………僕が君に命じれば、いつまでも。僕が取り消さない限り君が死ぬまで命じたことは続く」
「なるほど。例えば『触るな』と命じれば、俺はずっと触れないのだな……………」
すっ、と両の肘掛けの先に手を置いて屈み込んで見下ろしていたが、私が真意を掴めずに黙っていれば、おもむろに朱明が片手を近付けてきた。
よく聞けば、小さく唇を動かして何かを唱えているようだった。
ゆっくりとした動作で、その手のひらが私の頬を包んだ。
「っ!?」
絶対に有り得ないと避けもしなかったのに、確かに触れた感触に思わず手を持っていって確かめる。
「な、ぜ?」
「ああ、触れたな」
満足気な朱明に、慌てて頬の手を掴んで剥がした。
「何をした?!」
「神久地家の者は自分の力に見合った、つまり同等の力を持つ魔を呼ぶことができるそうだな?葵、おまえが神久地家の血筋の中でも傑出した力を持つというのなら、俺も同等の強さを持っているということだ。以下ではない」
戯れに髪を一筋手で掬われたが、焦りに構っていられなかった。
「まさか契約術を破ったというのか?」




