湯の花2
ドキリと胸が高鳴り、甘やかなものを感じたのは僅かだった。
なぜなら私は『男』なのだと直ぐに気付いたから。
「やだ」
短く拒否を告げて、だるい両手を朱明の頤に宛がう。
「いやだね」
もう一度はっきりと言えば、目の前の魔から表情が消える。
私は失望して悲しかった。この魔も他の者と同じで、私を利用する気なのだと思ったのだ。欲しいのは葵の力なのだろう。『俺におまえをくれ』などと、私を利用したいと言っているようなものだ。
ああ、そうだった、絆されるところだった。所詮彼は無理矢理従わされているだけで、水羽のように親愛の情を持って私を護ろうとしてくれているわけじゃない。魔に憑かれた時だって、私を助けてくれたのは他の魔に利用されることを恐れた為だろう。
「分をわきまえろ、君は僕の従魔だ。なぜ主である僕が君のものにならねばならない?僕は君に利用される気はない」
「利用だと?」
「違わないだろう?それ以外僕に何を望むんだ?」
自嘲気味に笑みを浮かべて問えば、朱明が秀麗な顔を歪める。
「おまえ、だと言っている」
焦ったような声音に首を傾げる。意味合いが違うのだろうか。
「……………僕は男色は好まない」
「誤解するな、俺にそんな趣味はない」
「何にせよ、僕は誰のものにもならない。だが」
頤から顎へと手を滑らせ、軽く上向かせる。
「君は僕のものだ」
私の顔の横に置かれた手が、きつく拳を作る。
「勘違いをするな。僕は誰の自由にもできないが、君は僕だけが好きにしていい。思い上がって主を所有できると思うな」
「は………………そんな馬鹿な理屈、俺が知ったことではない」
「悪いが、僕が見返りなど君には分相応だ。君は僕の命令に逆らえないことをもう少し自覚して、僕を主と認識すべきだ」
結局何が朱明を不快にさせているのか分からない。私には一方的に彼が怒っている状況が釈然としないままだ。それが私を余計苛立たせていた。
「主、か。湯が熱いだけで、のぼせて動けなくなって俺に組伏せられているような奴が?」
同じように苛立っているらしく、朱明が嘲るように嗤う。
「僕に触れもしないくせに」
キッと睨み付ければ、彼の瞳が鋭利に光った。
チクリと首元が痛み手をやれば、いきなり指を噛まれた。
「あ?!」
朱明が私の指先に歯を宛がっているのに驚いていたら、こちらを見ながら今度は彼の舌がそれを舐めた。
「何をして、あ」
慌てて指を引っ込めると、また首に小さく痛みが走る。朱明が私の首に吸い付いているのが視界に入り、身体がふるりと震えた。
「さ、触るなと」
「触ってはいない」
命じた通りに両手は簀から浮かせず、朱明は唇を寄せてきただけだ。ちゅ、ちゅ、と音を立てて位置をずらしながら吸われると、その度に小さな痛みが浮かんでは消える。でもそこから次々と熱が生まれる。
「い、痛」
それなのに唇が柔らかくて気持ちが良くて、力が抜けそうになる。
「や、う」
首筋に埋もれる彼の頭に手をつき突っぱねるようにするが、全く気にも掛けずに耳下辺りを殊更強く吸われた。ぞくぞくとした感覚が背中を上り、意思とは関係なく身体が反るようになり喉元を差し出すようにしてしまう。思わず片手で相手の胸元の服を握る。
「ああっ、あ……………なぜ、こんな」
「なぜ?それは意味か、理由か?」
弾む息を口元に運んだ手で押さえている私に、耳朶を噛んだ朱明が囁く。
契約術が反応しない。
湯の中で肩を押さえられた時も、吸われて痛みを与えられている今も、なぜ『主を害する行為』が従魔に許されているのだろう。
しなやかな動きで身体を上へと移し、意図せず浮かんだ私の目元の雫を舐めとった彼は疑問にも思っていないようだった。
「簡単なことだ。俺は葵に危害を加えようとしてやっているわけではないからな………………理由は、おまえが考えろ」
「分からな………………んんっ」
身体を反転させて、俯せでずり上がって離れようとすれば、また首の後ろに吸い付かれた。拍子に打ち着が肩を滑り露になる肌に、急いで直そうとしたら朱明がのし掛かるようにして唇を寄せる。
「なあ、なぜおまえは俺に命じない?」
「え…………あ」
振り向いた先には、普段よりも艶を放つ瞳が間近にあった。
「それが葵の本当の答えか?そう捉えてもいいのか?」
「私は………」
思いもよらなかった。ただ一言『やめろ』と発すれば良かったというのに。
「葵」
朱明が戸惑う私の頬に指を伸ばす。だが寸でのところで決して触れない。
「葵、命じたことを取り消せ。俺におまえを触らせろ」
「あ…………」
もどかしげに眉根を寄せた男の熱い吐息が唇にかかる。
「………………葵」
頭に靄でも掛かっているようだ。何も考えられない。
長く細い指先が唇をなぞるような仕草をして、自然口を開けてしまう。
「……………朱明」
「葵、大丈夫か?!何かあったのか?」
突然外から星比古の声がして、ビクッとして戸の方を振り向いた。
「葵、入るぞ。いいか?」
「…………………あ」
起き上がり打ち着を手繰り寄せた時には、既に朱明の姿は消えていた。
「どうした、大丈夫か?」
返事を待たずに入ってきた星比古が、私を見つけると急いで近付き、肩を支える。
「………………大丈夫です。何でも、ありません」
肌に残された痕を見られまいと、私は胸元で着物の合わせをギュッと握り締めた。着直す前に垣間見えた肩にまで広がるそれは、まるで散らばる紅い花のように思えた。




