狐うた
田村麻呂を暗殺しようとしたその黒幕、物部織部。許しません。だけど天姫が?何があった、天姫。
悲蝶はすべてを話した。
物部織部という貴族が、犬吠弦弓という男の率いる暗殺者集団の奴田一族を使って田村麻呂を殺そうとしたこと、まだ他にも仲間がいて、暗殺する機会をうかがっていること、などを。
「すべてを話した以上、わたしは殺されます。その前に、あなたの手で殺してください」
悲蝶はそう言って、ひれ伏した。
田村麻呂は黙っていた。八尾も何も言わない。非常な一族の掟。そういうのは理解できる。修羅に生きる者たちには当然に、修羅の中で死なねばならないのだ。誰一人、それは逆らえない。
やがて鈴鹿が立ち上がる。妖刀『血吸』を持っている。
「うだうだするのは面倒だから、あたしがやってあげる。いい?」
悲蝶はただ、うなずく。
「来なさい」
鈴鹿が外にでると、悲蝶もついていく。庭のはずれに、悲蝶は座った。
「ダーリンは女は切れない。バカだから。だからあたしがあなたを殺してあげる。でもいい?あたしは第六天の魔王の娘。魔族に殺されると魂は浮かばれないのよ。永遠に虚無をさまよい続ける。それでもいい?」
悲蝶は長い髪を束ねた。首を落としやすくするためだ。
「おねがいします」
それだけ言うと、悲蝶は頭を下げた。
鈴鹿は『血吸』を抜いた。刀身に赤みが帯びてきた。魔力が注ぎ込まれているのだ。
「いい覚悟ね。いいわ。殺してあげる。でもその前に、ひとつ聞かせてくれない」
悲蝶は少し首をかしげたが、やがて細い声で言った。
「なんなりと」
「あなたほどの者だったら自分で死ねるはずじゃない?なんであたしたちに殺されようとしてるの?」
「田村麻呂さまに、いえ、そのお仲間に殺されれば、わたしのことは少しは記憶にと残りましょう。わたしはあなたたちの記憶にと残り、業の深いこのわたしの慰めとできます。お手を煩わせて申し訳ありませんが、名もなき女の最後の願いと、お聞き届けください」
「素直に仲間にしてほしいと言えばいいのに」
「そんなこと、言えるわけがない」
「なんでよ」
「わたしは田村麻呂さまを殺そうとしたんですよ?」
「あたしだって最初は殺そうとしたもん。ダーリンを」
「え?」
「でね、許してくれたのよ」
「まさか」
「ほんとだもーん。ね、ダーリン」
「ダーリンって言うな」
田村麻呂がいつの間にか後ろに立っていた。
「お前の居場所がないのなら、俺らと来るか」
「いいんですか?迷惑になりませんか?」
「迷惑ならもうかけられてるし」
悲蝶はうなだれた。
「そうだな、さっき自分のこと名もなき女と言っていたが、悲蝶は名前じゃないのか?」
「それは仲間内の符丁みたいなものです。名前は本当にありません」
田村麻呂は少し考えこんだ。
「じゃあ、名前を付けなくちゃな。そうだな、胡姫という名にしよう。『月屋戸の胡姫』だな」
「つきやどのこひめ?良い名ですね」
「じゃ、きまり」
「ダーリン、なんで胡姫なの?」
「まあ、最初に胡蝶って名乗ったしね」
「ふーん」
中国のダンサー兼ホステス的な存在として、詩人の李白もうたってる。いわゆるキャバ嬢の元祖みたいなもんだ。こひめ、ではなく、こき、という。
こひめ、こひめ、とつぶやいている。うれしそうだ。鈴鹿は、やれやれ、という顔をしている。また変なのが増えちゃった。
さて、そうなればその物部織部という貴族と、犬吠弦弓一味をどうにかしないとならない。いつまでも田村麻呂や胡姫を狙わせるわけにもいかない。手分けして片づけることにした。
「じゃあ、俺と鈴鹿で犬吠弦弓を迎え撃つとして、物部織部はだれが」
「あたしがやる」
天姫が手を挙げた。待っていたかのようだった。
「いや、スサノオにでも頼むから」
「あたしがやりたい」
いつになく真剣な天姫に、田村麻呂はちょっと戸惑った。
「神にこういう荒事はなー」
「おねがい、主さまー」
主さまというのは久しぶりに聞いた。やはり何かあるようだ。
「しょうがない。じゃ、頼んだけど、無理はしないこと。いちおう貴族なんだから勝手に殺さないこと。いいかな?」
「わかってるって。ちゃんと捕まえてくるわ」
「もう、頼んだよ」
不安そうな田村麻呂をよそに、天姫は殺すなとは言われたが、無傷で捕まえろとは言われていないと、ほくそ笑んでいた。
「じゃ、行ってくる。ミコチ、お願い」
「ほいよ、行ってくるがいいさ」
空間の穴の中に天姫は消えていった。田村麻呂には天姫のあどけない笑顔の奥にある、深い悲しみに気がついていた。気がついていて、なにもできないでいた。きっとあの頃の、ことなんだろう。ただそれだけ思った。
ミヤコの大路。そこに天姫は立っていた。奈良のミヤコを思い出していた。そのまえは、何もない、山だったのだ。
きつねはたくさんの兄弟たち、そして優しい母親と暮らしていた。父はいない。きつねの世界では父親は子供がある程度大きくなるとどこかに行ってしまう。きつねは弱い。イヌ科だが犬と比べて牙も力も弱い。だから子孫を多く残すため、父親は一か所には留まれないのだ。
最初に目にしたのは雪だった。暗い巣穴から出ると、一面の白くて冷たい物。母親は他の兄弟とともに雪をかき分け、土を掘り、虫や木の芽を探して、食べる。小川の魚も捕った。水が冷たくて、まだ動きの悪い魚たちを捕まえるのは簡単だった。ときおり鷹が襲ってきた。母は常に空を警戒していて、鷹が見えると鋭い声を出して子供らに教えた。それでも妹がさらわれた。
鷹だけではなかった。おおきな熊もいたし、最も怖いのは人間の猟師だった。弟二人と兄がいなくなった。
春になり、山には食べ物が溢れた。きつねは見違えるように大きくなった。兄と弟もいた。母はそんな兄弟たちを愛おしそうに眺めてくれる。夏が過ぎ、秋になり、野山に冷たい風が吹くころ、異変が起きた。人間が押し寄せてきた。やがてミヤコというものができた。
きつねたちの生活にも変化があった。野山を探さなくても獲物が簡単に手に入るようになった。人間たちは鶏を飼う。畑を作る。どうしてそれをいただいてはいけないのか。人間はきつねたちを目の敵にした。きつねたちの棲家の上に自分たちの家を作ったのにもかかわらず。
罠で弟が捕まった。助けようとして兄が矢で撃たれた。
冬。雪が降っている。目を覚ますと、母がいない。きっと食べ物を探しに行ったのだ。兄と弟がいなくなってから、ずっと隠れていた。でももう食べ物がなかった。
母を捜しに巣穴を出た。足跡が平原からミヤコまで続いている。いやな予感がした。母を追いかけた。足跡に沿って走った。やがて馬に乗った数人の人間を見つけた。馬の鞍には数匹のきつねがぶら下がっていた。そこに母もいた。
怒りで我を忘れた。飛び跳ね、吠え、走った。母を返せ。あの、優しい母を返せ。馬に乗った人間は矢を撃ってきた。かわしながらなんとか母に近づこうとした。先頭にいた身なりのいい人間の腕には、鷹が乗っていた。鷹はきつねをめがけ襲ってくる。ちきしょう。ちきしょう。悔しさが胸いっぱいに広がってゆく。怒りと、悔しさと、恐怖。狂いそうだった。いいえ、狂った。きつねは、狂った。
馬の脚を噛んだ。馬は驚いて走り出した。人間のいうことは最早きかない。母をつれて走っていく。あとを追ったが、追いつけなかった。
鷹が空をぐるぐる回っていた。
それから百年が経った。
ミヤコのはずれの荒れ寺にきつねは棲んでいた。狂い、恨み、怨念のなかできつねは生きた。やがてそれは少しずつ妖気となり、ついには妖狐となった。恨みや悲しみはきつねに強い力をもたらした。地上天上最強の妖獣、九尾の狐に勝るとも劣らない最強、最悪の妖狐が生まれたのだ。人々は恐れ、それを『天狐』と名付けた。
面白かった。人々が逃げまどい泣き叫ぶのを。懲らしめてやる。懲らしめてやる。兄弟を奪った。母を奪った。今度はお前らの番だ。
人間の世界は寂しかった。いくさ、飢饉、天変地異。理不尽に命を奪われることはざらにあった。人が次々と死んでいく。年寄りも小さな子も。きつねがわざわざ手を下さなくても、勝手に死んでいく。死んでいくため、殺されていくためにだけに人間は生まれてくるのだ。
やがて荒れ寺に引きこもった。人間に関わりたくない。もうどうでもよかった。母も兄弟たちも、もう戻ってはこないのだから。ひとりぽっちなのだ。これからも、ずっと、永遠に。
荒れ寺に坊主の集団が来た。また奪いに来た。そう思った。懲らしめなくちゃ。
一番偉そうな坊主に化けて、ミヤコに行った。屋敷に入り込み付け火や盗みを繰り返した。人々は混乱し恐怖した。愉快だった。生きている実感がした。人に恐怖を与えることが、こんなに快楽だなんて。
ある日、ひとりの少年に出会った。一目見て大きな力を持っていると感じた。だが戦わなくてはならない。でないと殺される。そう思った。あらゆる妖力で少年を倒そうとした。しかしどれもきかない。ついにきつねはおいつめられ、力も尽きた。
「なんでミヤコを荒らす?」
そう少年は聞いた。母を殺し兄弟を殺し、棲家まで奪おうとする人間に、立ち向かって何が悪い。そう、きつねは答えた。
「そうだな。おまえが正しい。だが、なにも関係ない人間を困らすのはよくないことだ。それはわかっているのか」
わかっている。だが、どうしようもないじゃないか。どれだけ悔しい思いをしても、誰もわかってくれないじゃないか。
「おまえは間違っている。だれかにわかって欲しくてそんなことをしているのなら。お前の気持ちはお前自身にしかわからないのだ」
だから人々を脅し、同じ気持ちにさせたかった。それが復讐なのだ。
「そうか。なら仕方がない。お前も優しい母や兄弟のところへ行け」
ここで殺される。そう思った。少年は優しかった。母や兄弟のところに行け、と言った。ありがたかった。それだけで幸せになれた。今まで生きてきて、一番幸せな気持ちになれた。礼を言おうと少年の顔を見ると、とても悲しそうだった。きつねは不思議だった。今までで一番幸せな時をくれた少年が、なぜ悲しがるのか。
「お前を殺すことが悲しい。そんなに大きな力を持っているのに、なんでみんなのために使おうとしないのか」
意味がわからなかった。人を憎んでつけた力を、なんで人のために使わなくてはならないのか。
でも、自分に幸せを与えてくれた少年を悲しませるのは嫌だった。人間は嫌いだが、少年は別だ。
助けてください。そうすれば、あなたの言うことは何でも聞きます。
きつねは心からそう言った。
少年は笑った。
「じゃあ、今日から俺の家来だな」
少年はなんのわだかまりもなく、にっこりと笑って言った。何の穢れもない笑顔。それを見るだけで、きつねはまた幸せな気分になれた。
「はい。よろしくお願いします、主さま」
「主さまって、なに?やめて」
「主さまは主さまです。お断りします」
「家来のくせに逆らうのか」
「そこは譲れません」
「がんこ狐」
「はい」
きつねは喜びにあふれた。この感情はなんだろう。いったいこの少年は何なのだろう。
「おい、名前は」
「別にありません」
「そうか。じゃあ、お前はみんなから『天狐』って呼ばれてんだから、テンコな」
「安直ですね」
「ほっとけ」
「で、主さまのお名前は?」
「松尾丸。坂上松尾丸だ」
長岡京に目指す悪者がいる。坂上田村麻呂を殺そうとする悪いヤツ。いつまでもテンコだった。いつまでも心には松尾丸がいた。いまでも変わらない彼の気持ち、心、優しさ。だが特別なのだ。少年の頃であった思い出は、テンコの宝なのだ。鈴鹿も高子もそれはかなわないだろう。ミコチにはちょっと負けるが。
だからこのミヤコ、全てを焼き払っても田村麻呂を守る。そう決めていた。なにしろ神なのだ。
庭に降りた。贅をつくした庭だ。人から搾り取った金で繕ったのだろう。そんなことはどうでもいい。屋敷には何百人もいた。一斉に向かってきた。神に逆らう愚か者ども。もう、あの小さなきつねではないのだ。お前らに安楽な死を与えることができるのだ。
人々は立ち尽くしていた。恐れを抱いたのだ。天上の力を垣間見てしまったからだ。
ひとりあがこうとする者がいた。物部織部。そう。母を殺したあの人間の息子。テンコは知っていた。知っていたが今まで手を出さなかった。田村麻呂に迷惑をかけるだろう。でもきっと彼は止めない。きっとあたしのしたいようにさせてくれる。田村麻呂との永遠の別れとなっても。だからいままで殺さなかったのだ。
みなあたしを知っている。坂上天姫と。もう田村麻呂とは一緒にはいられなくなるだろう。最後の御奉公です、主さま。テンコは幸せでした。
『楚葉矢』の剣。かつて田村麻呂の兄、広人の持っていた秘剣。『騒速』とは兄妹剣。それを薙刀にした。音速を超える剣筋は、全てを薙ぎ払う。いま振るえば、一瞬で片が付く。
天姫が構えると、空が大きく雷鳴した。
ぎゃっ
人の悲鳴だ。天姫が訝しんでいると、空間から手が伸びて、物部織部をつかんでいる。
「捕まえた。さあ、白状してもらうよ。弟麻呂将軍も来てもらったからね。嘘ついたら、死ぬよ」
田村麻呂だった。ああ、田村田村田村。
「さあ、テンコ、帰ろう」
雷鳴が消えた長岡の空は、茜色がさしていた。透き通った空は遠く、天竺まで見通せそうなほどに。
結局、何もしていないテンコ。でもこれでよかったのです。