妹は、頭を抱える。
「本日より、エセルバート王太子の側近となります。エドワード=エド・ハワードでございます」
膝をついて、深々と頭を下げて挨拶をしたエドワード、否レイチェルはこの執務室の主人、エセルバート=セルジュ・サニファン・アラフォーディエに最上級の挨拶をとる。
彼はこの先この国を担う王太子殿下であり、今日からレイチェルの主人だ。
遠目や、絵画などでは、何度も見たことはあったが、濡鳥色の髪を後ろにかきあげて、左右で色の違う瞳は、右は紺青色、左は金褐色をして、初めて間近に見てみれば、その人間離れした美しさには、感嘆のため息が溢れそうになる。
流石兄妹と言うわけで、リリアンヌと彼はよく似ている。けれど決してエセルバートが美しいしだけではないと、男性的な体格や、骨格を見ればすぐわかる。
(ま、まあ、私のリリアンヌ様には敵わないけど!)
ぶんぶんと頭を左右に振り、見惚れてしまった自分を叱責しながら、心の中でリリアンヌを思い出した。
「ずいぶんと、他人行儀になったな」
そこでやっと、執務室の椅子に腰掛けて書類に目を通していたエセルバートが顔を上げた。
驚くような一言と共に。
(ん?どう言うこと)
それはまるでレイチェル、いやエドワードのことを知っている口ぶりだ。
「5年ぶりだ。そうかしこまられても、気持ちが悪い。普通にしてくれ」
そう言われても困った。
レイチェルは、頭を抱えたかなるのを頑なに耐え、この状況をどう打開するか考える。
(そう言えばエドは、一度エセルバート殿下の近衛にいたんだった・・)
それからしばらくして、何故かリリアンヌの近衛に配属されたらしい。人から、聞いた話だからレイチェル自身もあまり詳しくは聞いていなかった。それがこんなところであだになろうとは考えもしない。
(いや!考える必要なんてないじゃない!)
そうだと、レイチェルは頭をふる。
そもそも今日自分が何をしに来たのか、まずそれを明確にしなくては。ただ、彼の側近に成り下がるためにここまで出向いたのではないのだ。
レイチェルは1つ咳払いをして見せると、晒していた視線を、エセルバートに合わせた。
「・・、昔の話は置いておきましょう殿下。私が今日ここへ来たのは、貴方の側近になるためではなく、リリアンヌ姫の親衛隊に戻していただきたく、お願い申し上げに参ったのです!!」
昨日の晩、えんえんと考えた。
どうすればリリアンヌの親衛隊に戻れるのかと。いくら国王陛下からの命令だとしても、こればかりはレイチェルが納得できていなかったのだ。昨晩はアンセムにも嫌々納得させられたふりをした。いや、もしかしたら彼は気づいていて、知らないふりをしたのかもしれない。とにかく彼は、自分の面白そうなことには何も言わなければ、何もしない。こう言う時に、彼の裏の顔が垣間見える。レイチェルの4つ歳上で幼馴染で、今年21になる彼は、すでにこの国を支える有望株という噂があるが、それはどうだろうと思う。
だって今からすることは、例えレイチェルがエドワードでなくても、護衛かつ元隊長と、元副隊長の間柄だ。本当はアンセムは止めなくてはならない立場にいたのだから。
「私は、リリアンヌ姫に忠誠を誓っております。あの方こそ、私の全てなのです。ですからどうか、一介の近衛に戻していただいても構いませんから、姫の側に」
一気にまくし立てたレイチェルは、言い切りエセルバートのその色の違う宝石のような瞳を、見上げた。
その時は、言い切った達成感でホッとしていた自分は、たぶんまだまだ甘かったのだと思う。
「・・ほう」
顎に手を当てた彼は、考えるように眉を寄せた。その瞳の奥は、何を考えているのか全くわからない。けれどどことなく、楽しそうにしているように見えるのは何故なのか。
(なんなの・・?)
とことん訝しげな顔をしていただろう。
エセルバートは急に口角を上げたかと思うと、肩を揺らして笑い出した。
「5年ぶりが、ククっ、それか」
「???」
苦しそうに言葉を詰まらせているエセルバートを、はてなの浮かぶ頭を抱えてレイチェルは困り果てる。
(何か間違った・・?)
不安でいっぱいになったレイチェルは、合わさっていた視線を、サッと晒せてしまった。
思わずといった行動だった。衝動的とも言うのだろう。
もちろん本能的に逃げに走った自分を、彼は逃してはくれなかった。
「・・変わったな、お前」
不思議そうな、それでいて残念そうな声音だ。
(なんでそんな顔するの?)
寂しそうに細められた瞳は、レイチェルを映しながらその向こうの何かを見ているようである。
「まあ、いい」
1つため息をこぼしてから、彼は納得させるように頷く。
「5年前の約束、今果たしてもらうぞ」
(・・・・、え・・)
思わず声を出さず、眉一つ動かさず、真顔のままエセルバートを見返すだけにとどまった自分を、褒めて欲しい。バクバクと心臓が痛いぐらい、鳴り響いている。それは甘い響きではないのは確かで、手のひらはいつのまにか汗だくだ。
(ど、どういうことなのっ?)
まったく見に覚えのない話に、戸惑いたくても戸惑えない。
今の自分は、レイチェルであってエドワードであるのだ。
エセルバートの約束は5年前のものなら、まだ兄であるエドワードが、エドワードであった頃のものだろう。
(これ、私頷いていいのかしら・・エドったら何約束しちゃったのよ!!)
ただでさえ身代わりで3年。窮地に追い込まれたことは何度もある。そのたびに、アンセムが助けてくれていた。けれど、その頼みの綱の彼はいない。
どうすればいいのかわからず、ただ見上げるだけだったレイチェルに、王太子は再び問う。
「どうした?」
差し出された手のひらを、見上げる。
この手を取ってしまったら、たぶん何も知らない自分はもう元には戻れない気がした。きっと、あの兄のことだ。とんでもない約束に決まってる。それは双子の妹である自分が、一番よくわかる。
ただ、エドワードは馬鹿じゃない。とんでもなく頭の切れる人だ。
だからこの約束には何かある。
それはレイチェルの感であるけれど、間違ってもいないはずだ。
(ねえ、エド。私あなたを信じてるわ)
それは双子だからじゃない。彼が兄だからでも、家族だからでもない。
信用するだけの価値を彼は昔から気づきあげていたのだ。
3年前、レイチェルは兄エドワードに助けてもらった。それは、妹を助ける兄としては普通のことだろう。
――聖女協会。
そのわけのわからない組織に、頭から突っ込んで行って、今も身代わりを続けてくれている。もしかしたら今そこにいるのは、レイチェルだったかもしれない。いや、実際そうだっただろう。今でもレイチェルは、癒しの力を存分に使うことができるのだ。そう考えると、少しだけ身震いする。
昔、小さな頃に聖女行進を見に行った。華やかなそれに、子供ながらに心奪われたものだ。けれど、その中心。一番華やかな真っ白な美しい馬車に揺られて、笑顔を浮かべる周りとは次元の違う彼女は、凍りついた水色の瞳で、ただ一旦のみを見つめていた。
子供ながらに、恐ろしくなった。
瞳の色と同じ美しい水色の髪を持つ彼女は、美しいけれど、その顔に生気は感じられなかっただからだろうか。
それからは一度も、パレードを見に行ったことはない。まあ、何年かの月日が経って、聖女協会からレイチェルが追われる羽目になったのだから、仕方ないかもしれないが、今でもレイチェルは思い出すのだ。
あの何も映さない、碧水色の瞳を。
(エド、借りを返すなら今よね?)
それは助けてもらった借りだ。
けれど、はいそうですか、でエセルバートの手は握れないけれど。
「――わかりました」