クズ女の一日A(1)
全四話の短めのお話になっております。
「恵ー?もう起きる時間よー」
「ババア、うるせえな……」
「ちょっと!聞こえてるわよ!」
十二月十五日の朝、中村恵の目覚めは一階にいる母親に起こされてのものだった。くそが。キンキンやかましい声出しやがって。そう思いながら枕元にある携帯を開く。表示された時刻は午前八時を少し過ぎていた。確かにそろそろ布団から出ないと学校に遅刻してしまう。
こんどは手元にあるアナログの四角型の目覚し時計を手に取る。こっちの時計はなぜかまだ五時二十分をさしている。しかも本来なら、常に回っていなければおかしいはずの秒針がまったく動いていない。
「チッ……。こいつのせいかよ」
いつもはこの時計の電子音で目が覚めるのだが、途中で電池切れか、時計その物の調子がおかしくなったかしたのだろう。当然ながら八時に目覚しをセットしているので、針が八時をささないかぎり、永遠にこの時計は音を鳴らさない。つまり、今の母親の甲高い声で目覚めるはめになったのは、この時計の仕業というわけだ。
「使えねえな!」
恵はそう怒鳴るとすぐにその時計をフローリングの床に叩きつけた。言わずもがな、ガシャーン!といった衝撃音が恵の部屋に広がる。それと同時に恵の心にもすうっとした気持ちが広がった。少しはイライラが治まった気がした。
いらつきの元凶であった時計をつかみ見てみると長針が外れていた。さっきの衝撃で取れてしまったらしい。ふん。私をムカつかせるからこうなるのだ。恵は時計を放り投げ、自分の部屋を出た。
階段を降り一階のダイニングキッチンに赴く。ダイニングテーブルの周りには、三つほどの椅子が並べられている。その椅子の一つには恵の父親が座っていた。
「おはよう、恵」
「ああ……。おはよ」
父親とは目を合わせないまま、朝の挨拶をかわす。本当はこんなじじいとは会話をしたくないのだが、無視をすると、両親共にキレられるので仕方なく、必要最低限のコミュニティは取っている。
父親の向かいにある椅子に腰をおろし、朝食が出てくるのを待つ。父親はその間ずっと新聞に目を通していた。
「はい、出来たわよ」
母親はそう言うとトーストの乗った皿三枚を器用に両手で持ちながら、テーブルのところまで運んだ。
そして母親も父親のとなりに座ると「それじゃあいただきます」と言い、次いで父親、恵が「いただきます」と食前時の挨拶を口にした。
「あ、そうだ。この前ね。駅前のスーパーで買い物したときのことなんだけど。醤油を買おうと調味料のコーナーに行ったらなんか変なおばさんに出くわしちゃって」
母親が至極どうでも良い話をしだした。昔からこんなくだらない話を毎朝聞かされてきたのだ。やかましいことこの上ない。前から何度も黙っていてくれと頼んでいるのだが、このババアはまったく聞く耳を持たないでいた。非常に耳障りだ。恵はこの雑音から逃れるために早々にトーストを食べ終えた。
「ごちそうさま」
恵はそう口にすると、皿を流し台まで運び、制服の上からセーターを着て、カバンを持って「いってきます」と一言告げ、玄関のドアを開けた。
寒過ぎだろ。恵みが外に出て、まっ先に思ったことがそれだった。十二月でこんな寒さは二、三年ほど味わってないはずだ。
まったくむかつくぜ……。なんで厚着をしてて、こんな寒いんだよ!恵はまたいらつきを覚えながら、家のガレージに停めてある自転車に乗り、ペダルに足を置いた。
いつものスピードでいけば目的地の中学校までは十分ほどで到着する。恵は自転車を走らせている途中も寒い、寒い!と内心文句を言い続けた。
ほどなくして、林立した建物とガードレールの間にある、細い歩道に入った。恵は白い息を吐きながら、ペダルを漕いでいると、恵の目に邪魔な人物が映りこんできた。
ババアだ。六十代ぐらいのババアが恵の百mほど先のところで、ゆっくりと歩いているのだ。当たり前だが、年配の徒歩と十代が漕いでいる自転車とでは、速度がまるで違う。あっという間にそのババアの真後ろまできてしまった。
問題はここからだ。ここは細道なので、このババアを避けて通れるほどのスペースがまるでないのだ。しかもこのババア、尋常ではないほどの足の遅さで、歩行している。こちらに気づく素振りはない。気配を感じねえのかよ。老いぼれ。
自転車のベルを鳴らしてこいつをどかしたい。恵はそう思ったがそれは叶えられない願いだった。ベルは二日ほど前に、スピードを出し過ぎたせいで、誤って自転車をこかした際に、壊してしまったのだ。修理に出すのも面倒だしこのまま放置していたのだが、まさかそのせいで、こんな足止めを食らう羽目になるとは。
依然、ババアは亀のような鈍さで前進している。恵を強制的に、ノロノロスピードで前に進まされている。やべえ。このババア今すぐひいてやりたい。恵はそんな思いに駆られた。しかしそんなことをすれば普通に犯罪になってしまう。ただでさえ寒さで腹がきているというのに。恵のイライラは募る一方だった。
そうだ、心臓発作かなんかで倒れてくれればこの邪魔な"もの"を端のほうにやって問題解決となるのにな。ふと恵の中にそんな発想が生まれた。が、そんな都合の良いことが起きるはずがない。恵はもう我慢が出来ず大声で『どけ、障害物!」と叫ぼうと思った。
そのとき、ようやく前のババアがこちらに目を向けてきて「ああ、ごめんなさいね……」とか細い声で謝罪してきた。鈍過ぎるんだよ。恵はなにも言わず、そのババアをにらめつけながら自転車を走らせた。そのときのババアの目は少し脅えているように見えた。はっ。自業自得だ。恵は心の中でそうつぶやいた。
ストレスから解放された恵は、家々が並んだ道に入り込んだ。もう少しで学校だ。そして教室には、もうストーブがつけられてあるはず。早いところ到着して、温まりたい。恵はそう思い自転車の速度を上げた。
そんなとき、ふと、道端の付近になにかもぞもぞと動く物体が視認出来た。なんだ?と不思議に思いながらブレーキをかける。自転車に降りてその物体の側まで寄ってみると、一匹の生物がそこにいた。
ハトだ。白いハトがグッタリと倒れているのだ。一応「ポー、ポー」と鳴き声を出しているので死んではいない。羽の部分も時折大きく動いている。見た感じそれほど重傷というわけでもなさそうである。足の辺りを軽くケガしているだけのようだった。カラスかなにかの、大きな鳥にでもやられたのだろうか。
まあ私の知ったことじゃないな。恵はその場を離れて、自転車に乗り直して、学校への道に走り出した。
ほどなく、我が校の校門に入り、恵は駐輪場に自転車を停めた。自分の教室は二つある校舎の内の古いほう、北棟の二階にある。恵は小走りで駆け上がり、廊下の端にある二年三組まで辿り着いた。
扉を開けて中に入る。そんな恵に待ち構えていたのは、ポカポカとした、穏やかな気温、まるでここだけ春がきたかのような錯覚を覚えるくらいの、温もりで構成された自分の教室だった。
恵は窓際にある自分の席につき、カバンから教科書諸々を机の中に入れた。教室の中央付近にある、石油ストーブの周りにはすでに、何人かが集まって身体を温めていた。
恵もその輪の中に入ろうと冷え切った身体を温めに行く。あー!生き返るぜ。メラメラと燃えているストーブを目にしながら、恵はそうつぶやいた。
「おはよー恵」
後ろから聞き覚えのある声がする。恵は振り返りながら言った。
「ああ、おはよう凛」
恵が挨拶を交わしたのは友人である斎藤凛であった。肌が白く、目もパッチリとしていて一見して可愛い子だとわかる。恵はそんな凛に正直嫉妬している。自分は非常に冴えない顔立ちだから。しかもそれは明らかに親のせいなのだ。
恵の両親の内、母親は、娘の恵から見てもそれなりに綺麗で目鼻の整った顔をしている。問題は父親だ。こいつのルックスはあまりよろしくない。顔のそれぞれのパーツの位置が普通の人よりもずれており、そのパーツの大きさも、一方が異様に大きくて、もう一方が笑えるほど小さく構成されてるなどしている。ハッキリ言って残念な顔の持ち主だった。
その証拠と言えるかどうかはわからないが、四十一歳という年齢なのに五十代に見られることが多々ある。どうしてこんなやつを生涯の伴侶として選んだのか、一度母親に聞いたことがある。その答えはこうだった。
「顔はイマイチかもしれないけど、私の作る料理をなんでも美味しいって言ってくれるし、結構男気があったりしたりもするのよ」
どうやら母親が優れているのは顔だけのようで、頭のほうはダメダメのようだった。料理を美味しいと言う?男気がある?そんなものは二の次、三の次であろう。
まずは顔。それから年収だ。だが父親はその年収も極めて平均的な数字なのだ。そこそこイケメンで父親以上に稼いでいる男性なんて探せばいくらでもいるだろう。そして母親ならその男性のハートを射止めることも可能だったはず。
あのババアにもう少し知能があれば良かったのに……。恵は母親の大きなミスを恨んだ。あんな父親と結婚したせいで娘である私の顔が地味な感じになっているのだから。無論元凶である父親のほうも大きく恨んでいる。両親共に恨んでいるのだ。恵は。
「そう言えばさ、私があげた目覚まし時計ちゃんと使ってくれてる?」
今朝恵が破壊した時計は、恵の誕生日に凛がくれたものだった。それまでは携帯の目覚ましで起床していたが、時計をもらってからはそいつに起こしてもらっていた。昨日の朝までは。
「ああ、まあね」
恵は即座に短く答えた。さっき壊しちゃったんだけどね、などとは口が裂けても言えなかった。
「それにしても雪子のやつ遅くね?休みかな」
凛が次に話題に出してきたのは、凛と恵の友人である田中雪子に関することだった。確かにもうそろそろ教室内に雪子が入ってきてもおかしくない時間帯だ。凛の言う通り体調を崩したかして、休みをとったか、あるいは……。
「ズル休みだったりしてね」
恵はぼそっとつぶやいた。しかし凛はそんな恵の言葉を否定してきた。
「雪子はそんなことするタイプの人間じゃないでしょ。愚直なくらい真面目な子なんだから」
凛の返しに恵はイラっときた。あいつは真面目なんかじゃないくて、真面目振ってるだけの女だ。私にはわかる。恵は内心そう毒付いていた。
「どうかな、案外あいつ……」
「もう、あり得ないってば!」
凛が断言する口調で雪子のズル休み説を否定してきた。結局その後、チャイムが鳴って、自分を含めた生徒たちが席についたあとも、雪子は現れず、彼女が教室にきたのは朝の会で担任教師が出席を取っている最中のことだった。
「すみません。遅くなりました!」
雪子がガラガラと扉を開けて、謝りながら入ってきた。生徒たちは一斉に雪子のほうに視線を向けている。無論私も凛も彼女に目をやっている。
「えっと……。その……」
みんなからの注目を浴び、どうして良いかわからない。そんな困惑に似た表情をしている。いやー困っているときのツラもひどいな。恵は今の雪子の顔に対してせせら笑っていた。
雪子はわかりやすく言うとブスだ。顔は馬鹿みたいに長く、いわゆる馬面。歯も前に飛び出している出っ歯だし、目も異常に細い。顔のパーツのバランスが悪すぎるのだ。その結果、文句なしのブサイクなフェイスに仕上がっている。
一応凛と三人で仲良く遊んではいるので友人ではある。が、その理由は別に気が合うからというわけではない。ブサイクの雪子と一緒にいると相対的に自分の顔が綺麗に見えるからだ。彼女と懇意にしている動機はただその一つだけだった。
寝坊か。恵が脳裏に浮かんだのはその二文字だった。しかし教壇に立っている男性教師が告げたセリフで、恵の予想が外れていることがわかった。
「田中は今日登校途中に、道端に倒れているハトを見つけたらしくてな。なんとかしてやりたいと思って、学校まで連れてきてくれたんだ」
生徒たちがしきりにしゃべりだす。ハト?そんなのいたっけ?そういやなんか見かけたような……。どの辺りにいたんだー?ざわめきはおさまる気配がなく、だんだんとみんなの声のボリュームがあがっていく。教師「静かに……静かに」と何度か口にし、ようやく教室内は落ち着きを取り戻した。
「まあそれで取り合えず、近くの動物病院まで連れていって、手当てすることになったんだが……。田中が病院までついていくと言い出してな、すぐに帰ってくることを約束して、運転係の教師と一緒に車に乗り込んだんだ」
教師が顔を右・左に動かしながら説明を続ける。
「だから病院からの帰りってことだな。それより、田中、ハトの容体についてお医者さんはなにか言ってたか?」
「え……っと。結構な大ケガを負っていてマズイ状態だったんだけど、ギリギリなんとかなる……って言ってました」
柔和な笑みを浮かべながら教師は言った。
「そうか、マズイ状態ってことは雪子が助けなかったら、そのハトは亡くなっていたかもしれないな。いや、なんにしても一命を取り留めたようで良かったな。えーまあみんなも田中を見習って、外で動物なんかが弱ってるところを見かけたら、知らんぷりなんかせずに誰かに相談なりなんなりして、救済してあげる。そんな優しい心の持ち主になってほしいなと先生は思います」
ハハハ、なーにくさいこと言ってんだ。この男は。恵はそう思いながら、運動場が見える窓に目をやった。雪子が救出したハトは間違いなく、恵が登校時に目撃したあのハトであろう。それを私は助けずに雪子は助けた。いやぁ。本当に偽善者だよな雪子は。
雪子の狙いは弱ってる動物を助けて、私は人格者なんですーっていうアピールがしたいだけ。つまりただの良い子ちゃん振ってるやつだ。まったくタチが悪い。これでクラスの中で、雪子の株が急上昇したことになるのだから。こんなことになるのならあのハト助けておけば良かったぜ。恵は内心そう毒付いた。
それにしても……。ふと恵の中で一つの疑問が湧いてきた。今朝自分がみたハトはそれほどの負傷には思えなかった。といってもそれはあくまで素人の恵の所見なので実際は違ったということなのかもしれないが……。どうにも恵は腑に落ちなかった。
教師が雪子に言った。
「それじゃあ田中、席について、まだ出席取ってる途中だから」
「あ、はい」
言われた通り、雪子は自分の席にまで移動し、椅子に腰をおろした。出席確認が再開され、一時間目の授業--授業と言っていいかは微妙であるが月に一度、行われる席替えが開始された。
このクラスの席替えの仕方は、教師がまず黒板の前に席の表を書き、目の悪い人物たちが、前列のどの席にするかも選ぶことが出来る。そして残りの席に番号を割り当てて、生徒らが十数人ごとに教卓の前に並んで、その番号が記されたくじを引く。その後、黒板に書かれた番号の下に自分の名前を記入する。基本的にそういう流れだ。
恵はそれほど視力は悪くない。といって別段そこまで、遠くのものが見えるくらい良いというわけでもない。が、最後列でも黒板の文字はちゃんと読めるし、どの席でも授業に支障をきたすことはない。
しばらくして自分たちがくじを引く順番が回ってきたので、恵を始めとした十名の生徒が一列に並んだ。恵は今いる席にはそれほど不満はなかった。なぜなら隣の男子生徒の伊藤がまあほどほどのイケメンなので、クソつまらない授業を受けている間の目の保養になっていたからだ。
頼むから変な男が隣にこないでくれよ。恵はそう祈りながら箱の中のくじを引いた。二十二番。すぐさま黒板に目をやる。二十二番の隣は二十一番だ。その番号にいう引かれたあとだったらしく、名前が書かれてあった。その名を視界にとらえた瞬間、恵の中で絶望が渦巻いた。
田口四郎。このクラスの中でキモさランキングを行ったら、おそらく上位三位以内に入るであろう男子生徒だ。見た目、口調、行動、すべてが気持ち悪い。恵は心の底からそう思っていた。オマケに恵の大嫌いなオタクな人間らしく、アニメキャラのストラップを携帯につけている。その事実を知ったとき本気で引いてしまったことは今でも鮮明に記憶に残っている。
そんなやつと隣になるなんて。恵は衝動的に舌打ちをした。ふざけんなよ。罰ゲームじゃねえか。恵の心の中は怒りと悲しみが折り混じっていた。どちらもマイナスの感情なので、恵の精神はもうズタボロ状態だった。嫌々、本当に嫌々、二十二番の下に自分の名前を書いた。
クソ……。クソ……。誰にも聞こえないほどの声で恵は悔しさの言葉を口にした。席に戻ったあと、隣のそこそこハンサムの男に目をやる。同じ男なのにどうしてこうも差が出てくるんだろうか。やっぱり親の遺伝による影響が大きいのかもしれない。だとすると田口の両親はさぞ醜い面構えだろうな。恵は何度も指で机を叩きながらそう決めつけた。
ふと目線を黒板にやった。もう半数以上の人が人間がくじを引いたあとだったらしく、ほとんどの番号に名前が書いてあった。雪子と凛はどの席になったんだ。恵は必死で二人の名前を探した。
斎藤の字はすぐに見つけた。窓際の、前から三列目の席になっている。そしてほどなく、田中の字も発見できた。後ろから二列目の席だ。はぁ?……。恵は思わず首をひねった。その理由は田中の隣の席の名前にあった。伊藤。そう、今恵の隣にいる二枚目男の名だ。
なんだよ。なんであいつの隣がこのハンサム男になるんだよ。恵は雪子の隣席が伊藤になるのを気に食わなかった。私はあのキモキモ男の田口の隣になるというのに。恵は思わず机を蹴り飛ばしたい衝動に駆られたが、グッとこらえた。
伊藤の隣が、これがまだ美人である凛なら我慢も出来ようが、よりにもよってクソブスの雪子になるというのがこれまた気に入らなかった。おかしい。なんで顔も酷くて性格も偽善者の雪子の隣が伊藤になって、雪子より多少はマシのルックスである私の隣が田口になるのだ。世の中不公平だ。恵ははらわたが煮えくり返る思いだった。
恵が心の中で不満をつぶやいてる内に、全員がくじを引き終わり各自、机と椅子を動かすことになった。恵もしぶしぶ、本当にしぶしぶ席を移動させた。




