死の谷編 3
男が何かを叫びながらこっちに近づいてくる。
その言葉は日本語ではなかった。
圭太と知美は顔を見合わせた。
状況的には助けられたとはいえ、得体の知れない男が、見知らぬ言語を使っているのは、気味が悪かった。
「中国語よ」
母親が言った。
「たぶんだけど。顔を見てもアジア系だし。間違いないと思う」
「中国語?」
「異世界で?」
男がこちらにたどり着いた。
そして、中国語と思しき言葉で何かを話す。
「すいません。私たち日本人なんです。言葉が分からないの」
母親が頭を下げる。
すると男は相好を崩した。
「なんだ、あんたら日本人か」
少し片言気味だが、それは確かな日本語だった。
「日本語が話せるんですか?」
圭太は驚いて言った。
「ああ。多少な。俺は中国人だ。楊という」
「椎名恵です」
「圭太です」
「知美です」
それぞれに自己紹介を交わす。
「珍しいな。日本人の転送者か」
「あなたも転送されてきたんですか?」
「ああ。そうさ。この辺は日本人はほとんどいない。中国人ばかりだ。あんたら、運がいいな。多少日本語がわかる俺と偶然に出会って」
楊は、若い頃、日本の工場に出稼ぎに出ていたことを教えてくれた。
そこで日本語を覚えたらしい。
「中国にも『扉』があるんですか?」
「そこらじゅうにあるさ。国中にな。まるで雨後の竹の子だ」
楊は物事を大げさに言うのが好きらしかった。
だが、言葉尻から、中国でも『扉』を使った違法転送ビジネスが横行していることが知れた。
それは日本よりもずっと大きなビジネス規模なのかもしれない。
楊の説明によると、転送される先は、『扉』の種類によって違うらしい。
この荒れた固い土の土地は、黒い『扉』を抜けた者たちの世界。
「絶対数が多いんだ。中国人の方が。だから、この周辺では俺たちが支配的だ。言葉が通じんから、やりにくいと思うぜ。あんたらは」
「この世界は、他の『扉』を抜けた者たちが飛ばされた世界とも地続きなんでしょうか?」
「さぁ。それはわからんな。見ての通り、ここはかなりの不毛の土地だ。生き抜くだけでも一苦労だ。俺たちは小さなコミュニティを形成していて、遠くに行ったことがない。風のうわさでは、『谷』を超えた向こう側に別のコミュニティがあるらしいがな」
「谷?」
「あぁ、そうさ」
楊が嫌らしく口元を歪めた。
「谷があるんだよ。谷が。このずっと先にな。俺たちはそこで暮らしている。水があるだけ、ここよりはましだからな」
「水……」
「限られた資源を効率よく使わなきゃならんだろう。そのために多少の役割分担もしているんだ。谷のそばに村を作っている」
「それじゃ、今日は……」
「肉を狩りに来たのさ」
楊はそう言うと、土に転がった先ほどの野犬のような生物の前にしゃがみ込んだ。
「あ~あ、ガキとしゃべってたら、血を抜くの忘れちまってたわ」
腰に差していたアーミーナイフを野犬のような生物の首筋に突き立てた。
そのまま、のど元をすぱんと切り裂く。
鉄の匂いがした。
首筋から切り目に沿って血が流れる。
「こうやって血抜きしてな。切り刻んでパックに詰めて帰るんだ」
圭太たちは、男が動物を解体するまで待たねばならなかった。