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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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その8「二十世紀の聖域」

 ヨシダさんは幼い頃、両親を失いました。とても、とても悲しい別れ方をされたようです。その後、某県の山奥にある児童施設へ預けられる事になりました。遠い親類がそこの管理者と昵懇であったこと。そして親戚が誰もヨシダさんを引き取って育てる余裕も無く、かと言って路頭に迷わせる事も出来ず。結局大人同士で話し合い、お金を出し合って預ける事になったとか。それが決まるまで親戚中をたらい回しにされたヨシダ少年の悲しみは、筆舌に尽くしがたいものだったと思います。

 施設に入所したヨシダさんは誰とも口を利かず、管理者であるTさんにも心を開こうとはしませんでした。結局の所、Tさんが親類と知り合いだったのでココへ送られたわけでもあるのですから。しかしTさんに落ち度など無くてもヨシダさんは自分の中に沸々と湧き上がる感情を、表情や言葉と一緒に封じ込める事しか出来なかったのです。

 施設に来て1ヶ月は何事もなく過ぎていきました。周りの子達も、職員も、みなヨシダさんには腫れ物に触るようで、自分から声をかけるものはありませんでした。ヨシダさんも、自分から声をかけようとはしませんでした。


 施設の周囲には広大な森林が広がっていました。急斜面に聳える深い木々の間に、背の低い植物が茂っています。施設裏手の勝手口を出ると、もうそこは雑木林のようになっていて。ヨシダさんはそこで昆虫を捕まえたり、木立をぬって飛ぶ小鳥を見たりして一日をやり過ごしていたと言います。


 ある日。

 ヨシダさんは退屈な食堂で昼食を済ませ、いつものように勝手口へ向かいました。 蒸し暑い夏の日のこと。雑木林の中は蝉の鳴き声でいっぱいでした。見渡す限り、きっと凄い数のアブラゼミが一斉に鳴きとめどなく響く木々の中で、ヨシダさんはふと見慣れないものを見つけました。急斜面の遥か上の方、生い茂った植物と木立の中を赤い布切れが跳ねるように進んでいくのです。赤い布切れの上には、黒くて丸いものが乗っていて、「それ」が跳ねるたびに、ふさっ、ふさっ、と揺れていました。

(アレは一体なんだろう?)

 ヨシダさんは一瞬にして目を奪われ、好奇心がもたげるよりも早く急な斜面を駆け出していました。

 目の前の深い草むらの斜面にはうっすらと植物を踏み均した後が見えます。施設の職員が山菜やキノコを取りに行く時に使っているのでしょう。そのうっすらとした道を、ヨシダさんはしゃにむに走ってゆきました。

しばらく走り続け、ある程度距離が詰まってくると、赤い布の正体がわかりました。それはヨシダさんと同じぐらいの年恰好の、おかっぱ頭の女の子だったのです。

 おかっぱの女の子は赤く派手な着物を着て、山道を跳ねるように走っていきます。運動神経には自信のあったヨシダさんですが、何故か女の子に追いつけません。山育ちだから、慣れているのかな…などと思って、尚も走り続けました。女の子は上半身だけが常に数歩先の草むらからのぞいている状態で、ヨシダさんの数メートル手前を走ってゆきます。


 このままでは追いつけない……ヨシダさんは追うのをやめて、思い切って声をかけようと立ち止まりました。

 ガサッ、はぁ。はぁ、はぁ……。

 その物音に気付いた女の子が、不意にヨシダさんの前に

 ぴょん。

と飛び込んできました。

(ひっ!)

彼女には足が一本しかありませんでした。

驚いたヨシダさんを珍しそうにじっと見つめるたった一つの目。 おかっぱ頭を乗せた、やけに白い顔の額の真ん中やや下辺りに、奇妙に形の整った目玉が一つだけきょろりと動いていました。ヨシダさんはあまりの出来事に立ち尽くしています。

 すると

(コワイ?)

 突然、聞こえたはずの無い声、掠れたカセットテープを早回しにしたような甲高い声が、響いてきました。

(コワイ?)

 もう一度。ヨシダさんは勇気を振り絞って、ゆっくりと首を横に振りました。

 いつの間にか一斉に鳴きだしたヒグラシが、絶え間ない輪唱を繰り返しています。そのヒグラシの渦の中に、いま存在しているのは自分と、このおかっぱの少女だけ。そんな気がしてくるほど、長い時間を過ごしたようでした。

 おかっぱの少女はたった一つの目をきょろきょろさせながら、ヨシダさんを見つめていました。そしてもう一言だけ。

(マタネ)

 と言い残して、山奥へと跳ねていきました。木立の向こうに少女が隠れてしまうまで、ヨシダさんはそこを動くこともできなかったと言います。

 後に残ったのは、無数のヒグラシの声と自分だけ。ヨシダさんは、なぜだか涙が零れてとまりませんでした。あの少女は別れ際、ほんの一瞬だけ、確かに笑ったそうです。かすかに。確かに。

 その後、ヨシダさんは散々迷って施設へと帰りつきました。職員、生徒総出で探し回っていたにもかかわらず、ヨシダさんは何でもない木立の間からひょっこりと現れ、そこに居た人々を安心させたやらあきれさせたやら。そしてその場で、ようやく両親を失った悲しみを表に出せたと言います。つまりTさんの下へ駆け寄り、みんなが居る前で大号泣したとのこと。

 不思議なもので、それからは周りとも打ち解けて、そこでの数年間を無事に過ごす事ができたと言います。

 しかしその後、ヨシダさんは二度と、あの少女を見ることはなかったそうです。マタネ、という約束を、いつか果たしてあげたいなあ、と。ヨシダさんは少し酔いの回った二つの赤い目を夜空に向けていました。


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