その7「こ ろ し て く れ」
ヨシダさんがN県のある都市に住んでいたころ。季節は秋の終わり。山がちな土地でスキー場に近く、忙しくなるのはこれからと言う時でした。
ある晩。
ヨシダさんはお客を乗せて繁華街から静かな住宅街へ向かいました。 紺色の背広をくしゃくしゃにして酔っ払った会社員の男と、その連れらしき女。後部座席で酔いつぶれた男を、赤いルージュの女が健気に介抱しています。 道案内も慣れた様子でしてくれました。
(中々気立ての良い女の子じゃないか)
ヨシダさんは感心して、彼らを送り届けました。
それから数日後の夜。やはり同じようにお客を乗せて走るヨシダさん。その日のお客はでっぷり太った中年の会社員でした。このお客がまた雄弁で、ヨシダさんは相槌を打ちながら彼の若い頃の自慢話を聞いていました。
しかし。ふと気が付くと、中年の話し声に混じって、何か聞こえています。
(ラジオを切り忘れたかな?)
と思って手を伸ばしても、ちゃんとスイッチは切ってあります。無線でもありません。
喋り続ける中年の話を聞くふりをしながら、ヨシダさんはさらによく耳を澄ませました。
すると中年のだみ声に混じって、誰かがブツブツ呟いているような気がします。 なんだろう。さっきまで軽く鬱陶しく思っていた中年の話し声が、急に心強いものになってきました。ゲンキンなものです。しかし中年は目的地に着くと気前よくチップまで渡して下りていってしまいました。
中年には聞こえていなかったのか、それとも自分の話し声で気付かなかったのか。ともかく一人になったヨシダさんは直ぐにラジオをつけ、大して興味も無い喋りでもボリュームを上げて帰ることにしたそうです。しかし1キロも走らないうちに
(ボソボソボソボソ)
!?
今度はハッキリと、少し音の割れたラジオの音声に混じって聞こえてきました。これは、いったい……?
反射的に、ヨシダさんはルームミラーを覗きました。
(うわ!)
そこには目を真っ赤に充血させ凄まじい形相で苦しむ男の顔が大きく映っていました。
(わぁぁーっ!)
車の中で幾ら叫んでも、声になりません。恐怖のあまりハンドルをぎゅっと握って、薄い手袋がミシリと嫌な音をたてました。
チラッとミラーを覗くと、まだ映っています。男はヨシダさんをじっと睨んで、口をパクパクしています。
(そうか、さっきの声はこいつのだったのか)
相変わらずボソボソという声も低く、確かに続いています。そしてそれは、男の表情と妙な合致を持って響いてくるのです。
何ゆえの死者からのメッセージなのか。ヨシダさんの体は恐怖で強張っていました。恐る恐るミラー越しに、男の口の動きを見ていると、口の端にうっすらと血がにじんでいます。まるで物凄い力で締め付けられているような、悪鬼のごとき形相。
ヨシダさんはいつの間にか、男から目が離せなくなっていました。じっと睨まれたまま、視線をそらせず……そしてだんだんと、男の言葉が見えてきました。
唇が、一定の動きをしているのです。では「彼」は、ヨシダさんになんと言付けたかったのか。その動きをゆっくり追っていくと
こ……
ろ……
し……
て……
く……
れ……
こ ろ し て く れ!?
ヨシダさんは戦慄します。一体何なんだ!! 堪らず振り返ると、後部座席には誰もおらず。ミラーの顔も消えうせていました。安心したのち、やっとのことで路肩に寄せて停めたタクシーの窓から辺りを見渡します。なんとなく見覚えのある場所ですが、怪しい人物も気配もなさそうです。ちょうど目の前に建っている家の、2階のカーテンの向こうから明かりが漏れています。時刻は真夜中の1時少し前。
(疲れてたんだ)
ヨシダさんは憔悴しきった自分にそう言い聞かせて帰りつきました。
次の日の朝。
ニュースを見たヨシダさんはびっくり仰天。昨夜この街で男性が首を絞められて殺される事件が起こったのです。その場所は、ヨシダさんが昨日、路肩によって停まっていた時、目の前にあったあの家だったのです。そして犯人は女性だという事でした。
営業所に出勤すると、その話題で持ちきりでした。地元の新聞には詳しい場所と被害者・加害者の顔写真が出ていました。それは数日前、ヨシダさんが乗せた泥酔した会社員と、それを介抱していた女性でした。
殺害されたのは午前1時ごろ。死体が発見された時、男の体には無数の傷跡や痣があったといいます。1時といえば、昨夜ヨシダさんがあの顔を見て、殺してくれといわれたのが1時少し前でした。いかなる心の暗闇か、女性は殺人鬼となり、男を散々に痛めつけ、ついには殺してしまったのでしょう。事件後、ニュースなどで事実や事情が次々に明らかになっていきましたが、ヨシダさんはこれ以上、何も知りたくはなかったと言っていました。
鏡に映った男性は、どれほどの苦痛を受けていたのか。女性の心には、本当に悪魔が巣食ってしまったのか。なんとも後味の悪い話でした。