その5「あなたはだあれ?」
タクシーの運転手さんと言えばお客さんの話を聞くのも立派な仕事。長距離のお客さんに色々とお聞きするなんて事もしばしば。そんな中には、巻き込んだんだか巻き込まれたんだか、その場で奇怪な出来事に出っくわすこともあったそうです。
コレは比較的新しい(と言っても10年ぐらい前の)お話。 当時ヨシダさんはY県のある田舎町に居たそうです。郊外にはマンモス団地が広がっていて、そこへ帰るお客さんを乗せたのは、初夏の涼しい夜のことでした。
駅前のロータリーから国道を走ること10分。大きな四つ角の交差点を右に折れるとそこが団地で、電話ボックスと交番の前をもう一度右に曲がりそのまま50メートルまっすぐに進んで、車をスーッと滑らせるように駐輪場の前に停める。お客さんはそこで降りて行きました。階段を登っていくお客さんを目で追って、姿が消えたのを見計らってヨシダさんも走り出しました。その時点で時間は午前0時。さしものマンモス団地も静まり返って、灯りの点いている部屋もまばらでした。
そのまま団地を出ようとして、交番の前を右へ。あ、間違えた。まあいいや、もう一回りして出よう。街灯がポツリポツリと立ち並ぶ静かな団地の通路を、ヨシダさんのタクシーがスイスイ走って行きます。
(あ、誰か立ってる。お客さんかな? 珍しい)
停まってドアを開けると
「あれっ、運転手さん」
素っ頓狂な声を出したのはなんと、さっきのお客さんでした。
「ああ、どうも。さっき帰ったんじゃ? 」
「いやあ、どうやら家を間違えたみたいで」
「ああそうでしたか(笑)」
「それで隣の階段かと思って行ってみたら、やっぱり違うんです」
「はあ」
「ですから、部屋を間違っていたのに、ホントはその部屋で合ってるんです!」
「ええー? 」
怪訝な顔をするヨシダさんに、お客さんは興奮したまま説明を続けます。
「いや~あの時、確かに家に帰ったんです。だけどカギが合わない。それで登る階段を間違えたのかと思って。いや間違うはずはないんですけど、それで隣へ行ってみて部屋番号を見たんです。そしたらちゃんと合ってるんですよ!」
「ほうほう」
「それで、あのアタシが降りた場所はB棟なんですが、棟を間違えたかと思いまして。隣のC棟まで歩いたんです。だけど、やっぱりC棟はC棟なんです。もうわけがわからなくて、交番に駆け込もうかと思ったんですが、そんなこと言っても信じてもらえないでしょうし」
(ははあ、この人酔っ払ってるのかな?)
ヨシダさんはお客さんの話を聞いても、まだあまり気にしていませんでした。
「じゃあ、私が一緒に行きましょう。今度こそ大丈夫かもしれないじゃないですか。ね、もう一度帰ってみましょうよ」
どうせヒマだし、とまでは言いませんでしたが、ヨシダさんはお客さんと二人でB棟の階段を登って行きました。
「ここの3階なんです」
「この部屋ですね?」
「ええ。じゃあ、開けますね」
ガチャガチャ。お客さんは手に持っていた鍵をドアに差し込みました。
ガチャガチャガチャ、ガチャ。
開かない。
「ホントにこの部屋なんですね? 」
「間違いありません!」
「そういえば、お客さん一人暮らしですか? 」
「はい。アタシ一人で住んでます」
「じゃあ、知らない間にカギを取り替えられたってこともないんですね? 」
「はい、たぶんないはずですが」
「家賃を滞納したとか?(笑)」
「そ、そんな馬鹿な!」
あまり冗談の通じなさそうな、いや、真面目そうな人です。ヨシダさんをからかっているようでもありませんでした。
(ふうむ)
とにかく、ここで話し込んでいては近所迷惑です。ヨシダさんはお客さんを促して、もう一度階段を下りました。
駐輪場の車止めに腰掛けて、ヨシダさんはふと、さっき目の前まで行った304号室の窓を見ました。 男性一人暮らしの部屋は当然真っ暗で、窓の向こうにもココと同じ夜が閉じ込められているだけ。
の、ハズでした。
304号室の窓にかかった薄いカーテンに、街灯の明かりが僅かに反射して、内側にぼんやりと黒い人影を映し出しています。
(!!?)
ヨシダさんは我が目を疑いました。
(誰か居る!?)
その視線を追って、お客さんも部屋の窓を見ました。が、怪訝な顔をしてヨシダさんの方を向き直る辺り、どうやら見えてしまったのはヨシダさんだけのようでした。
(一体アレはナンなんだ)
そして何故、部屋の鍵が開かなかったんだろう。疑問はつのるばかりです。
「あの、運転手さん? どうかしました?」
お客さんはまだきょとんとしています。
もう一度窓を見ると、やはりぼんやりと何かが映っています。自分達や他の誰かの影が映っているようではありません。では一体誰だ。
「お客さん、もう今日は私の部屋に来ませんか?明日改めて大家さんに連絡して、鍵を開けてもらいましょうよ」
ヨシダさんは少し恐ろしくなり、また疲れていたのでそう持ちかけました。
「いやいや、そんなご迷惑を」
「いいんです、私も独り者ですから。お構いなく 」
「そうですか、有難う御座います。」
「いえ。夜も遅いですから。どうぞ」
「どうも申し訳ありません」
結局、そのままヨシダさんは車にお客さんを乗せて、自室で夜を明かしました。
翌日、お客さんもヨシダさんも会社を休み、大家さん立会いのもと鍵を開けてもらうことになりました。しかし。
ガチャリ。
昨日は押しても引いてもビクともしなかったドアが、何の抵抗もなくアッサリ開きました。こうも呆気ないと、事情を聞いてやってきた大家さんも逆に驚いていました。
お客さんとヨシダさんは、念のため部屋の中を改めに入りました。真っ先に預金通帳や印鑑を取り出したお客さんを尻目に、ヨシダさんは昨夜の窓の前に立ってみました。
薄手のカーテンが静かに垂れ下がっています。
しゃっ。
カーテンを開けて外を見ても、うす曇りの空が見えるだけ。
(なんだったんだろう)
そう思って後ろを振り向こうとした、その瞬間。
目の前の窓に映っていたのは、ヨシダさんでもなく、お客さんでもなく、管理人さんでもありませんでした。
それは、真っ黒な人影。今度はハッキリと見えました。ビックリして振り向けないで居ると、お客さんが後ろから声をかけてきました。それで漸く振り返ったヨシダさん。
反対側の窓からも、うす曇りの初夏の空が見えました。結局、ヨシダさんは窓から見た黒い陰のことも、そしてやはり部屋の中にいた影のことも、ついに明かさなかったそうです。
「アレはナンだったんだろうな~」
と、のん気に話してくれたヨシダさん。あれから約10年が経ちました。今でもあの影は、部屋の中に居て。誰の目にも映らず、ひっそりと佇んでいるんでしょうか。