その8「まぼろしの旧多米トンネル」
今回の舞台となった旧多米トンネルは近在で隠然と語られている幻のトンネルです。豊橋にある私設図書館「夜に歩けど」館長の大石さんから噂をお聞きしたのが端緒となり、自分なりに方々で聞き回ったり文献を当たったりしましたが手掛かりは杳として掴めず…シビレを切らして
〝誰も知らねえなら書いちまえ!〟
と、いうことで出来上がったのが今作です。
大石さん、ありがとうございます。
私設図書館・夜に歩けどさんには拙作の書籍
「怪奇話集 タクシー運転手のヨシダさん」
も蔵書に加えていただいております。
お近くの際は是非お立ち寄りくださいませ。
秋も深まろうという頃。
僕は明け方の名神高速を東に向かっていた。と言ってもすっかり乗り慣れた白いスカイラインの助手席に収まって、さっきから文句を垂れている。ハンドルを握る年の離れたこの親友に向かって。
「ホントに来ることないじゃんか!」
「タダで乗せてやってんだから文句いうな!」
「じゃココまでの運賃払うで上郷で降ろいてよ」
「るせえ、大阪難波発豊橋行の直通運転だコノヤロー!」
「えー!? 藤田屋の大あんまきぐらい買おうよ」
「んなもん着いてから駅で買え!」
「お亀堂のブラックサンダーあん巻きもあるでね」
「お前ほんと甘いモン好きだな」
「ど美味いでヨシダさんも食べりんよ」
遡ること十数時間前。大阪。
千日前通と堺筋が交差する日本橋一丁目は平日の夕方過ぎでも人でごった返している。信号待ちのバイクがコレ見よがしに空ぶかしする。ドラッグストアが客を呼び込む、恋人や友達は待ち合わせしてる、あっちでは喧嘩してる、子供が笑ってる、何があったのか泣いてる人も居る。
「おう」
その中でも頭一つ抜けて背が高いヨシダさんがヒョイと僕に手を挙げて、そのままチョイチョイと手招きする。挨拶もそこそこに「ちと早いな、ボスのとこ行くか」と歩き出す。ボスのとこ、とは日本橋パールビルの立ち飲み 毘である。
店に入ると無数の酒瓶の間からボスの柔和なスマイル。飲み物を頼むとヨシダさんが如才なくボスにもイッパイ勧める。そして響きだす。グラスとグラスが当たる、包丁がまな板を叩く、油の中で揚げ物のコロモが弾ける、そうこうしているうちに誰かが店の引き戸を開ける。賑やかな夜のはじまりに僕らは再び歩き出し、禁じられた遊び、酒物語、トリップステアと来て、ちょこPARTYで本日2回目のごはん。
真っすぐな明るい茶髪と黒目がちな笑顔にエクボを添えて、華奢だけどメリハリのある体を胸元の開いたカラフルなワンピースで包み、よく気が付いてよく動き回ってよく食べよく笑うちょこさんが良く通る丸っこい声で出迎えてくれる。
ヨシダさんはどうもこの陽気で働き者のお姉さんが気になるのか最近ひとりでもお店に通っているらしい。横で聞いてて気持ちが悪くなるような声で話しかけるときもあるし、周りのお客を(見知らぬ人であっても)巻き込んで真剣に議論したり爆笑したり普段あまり見せない顔をしている。もっとも、ちょこさんの方は誰にでも分け隔てなくそうしているからヨシダさんにしたってよもや自分だけだと思っているわけじゃないだろう。手際よくカウンターの中で料理と飲み物を作っているちょこさんを見つめるヨシダさんの目が、いつになく優しい。
やがてBARプカプカの年季が入ったドアを開けたのはバーテンダーが美しくなる時間。「あれ、今日は呑んではらないんですネ」
開口一番、カウンターの椅子に腰かける僕たちにおしぼりを出しながらダイゴローさん。剽軽だが落ち着いたトーン。ここに座るといつもほっとする。
「そういえば今日ずっと飲んでないね」
「まあな。あ、ジャスミン茶で……お前コーラか?」
「うん」
「すみませんね二人とも愛想ナシで……そのぶんダイゴローさん、よかったら」
ヨシダさんが右手でグラスを持つカタチでクイっと上げる。
「ごそさんです、それじゃ」
手際よく用意された3つのグラスをカチリと合わせて飲み干す。米朝の「池田の猪買い」を低く聞きながらボンヤリと天井のポスターを眺めていると突然ヨシダさんが切り出した。
「それでなあ、お前んとこに心霊トンネルあるだろ」
「???」
怪訝な顔をする僕に追撃を浴びせる。
「旧道の、あのほら三ケ日に抜ける」「ああ~、本坂トンネルね」
また始まった……どこから聞きつけてきたんだろう。本坂の旧トンネルというのは僕の地元じゃ有名な場所で、何度か行ったことがある。愛知から静岡に向かってくと県境の山があって、新トンネルの手前で分岐してくと狭い峠道の頂上付近にある短いのが旧トンネルで、さらに豊橋側から登ってくと山の中腹にある浅間神社も別名首狩り神社と呼ばれてて。どちらも行くと色んな良くないことが起こるとか、先輩の友達の彼女が酷い目に遭ったとか、物騒な噂だけは絶えない縁起の悪い場所だ。けどヨシダさんが今更わざわざ行くような「違ぇんだよ。話は最後まで聞け、デブ」
椅子の下で僕のスネを器用に蹴りながらヨシダさんが続ける。
「俺が聞いたの、んな名前じゃなかったぞ。トンネルってそこだけか?」
「んや、多米トンネルってのもあるよ」
「じゃそっちだな。なんでも旧トンネルが〝出る〟ってハナシでよ」
「ふーん。ほいでも多米トンネルに旧道なんかありゃせんに。やっぱり本坂のほうじゃないの」
「その本坂じゃねえほうには旧道って無のかよ」
「聞いたことない」
「じゃ聞きに行くぞ」
「何処へ……?」
嫌な予感がグラスのなかであぶくになってカランと鳴った。
「豊橋」
わざと僕のイントネーションを真似て告げられたのは故郷の街。というか
「僕さっき着いたとこなんだけど」
「どうせもうあとJさんとこで寝て帰るだけだろ」
「起きたらCafé SPiKA行きたかったんだけど」
「また今度な」
「何で勝手に決めるのさ!」「るせえ、いいじゃねえか」「帰りは近鉄特急アーバンライナー乗ろうと思って」「切符は」「買っとらんけど」「じゃ構わんな。あっおかわりください、ダイゴローさんも」
「はいはいっと、どぞ」
「どうもどうも。地元民のお前でも知らねえとなると、ますます怪しいじゃねえか。ん?」
「ほいだって多米トンネル自体が古いもんで旧道なんかありゃせんて」
「ごそさんです……古い地図とか書いてあったりせえへんですかネ」
「あー、どっかにねえかな」
「そういえば」
しまった。と思ったがもう遅い。
「なんかあんのか」
「いや、ウチの爺様なら何か知らんかなって」
「決まりだな」
「ウチ!?」
「決まりですネ」
ビールのグラスをぐいとあおったダイゴローさんがニッと笑う。
「うーーし行くぞ」
「今日お酒ずっと飲んでないだで今からでも飲めば?」
「豊橋でカタが着いたらな」
「お気をつけて。どうだったか、また聞かせてくださいヨ」
「ごちそうさま! 行ってきますわ」
「お邪魔しました」
そういうわけで例によってローズリップスの裏の高いコインパを出て、そのまま阪神高速を走り続け、夜も白々と明け……ヨシダさんの白いスカイラインは音羽蒲郡インターを降りて。
この時間なら、ここから僕の家まで国道一号線で30分もかからない。愛知県に入って如実に増える大型トラックとハシゴつきハイエース、派遣会社のコースター、我が物顔のオートバイ。プリウスとヴィッツ。その群れの中を泳ぐスカイライン。
やがて適当な信号を右折して東海道に入って、細いながらも静かな道を東へ。飯田線の踏切を跨ぎ、豊川の放水路を越え、豊橋を渡って駅前に入る。
「おーおー駅ビルも派手んなって……あのロケット、まだあんのか」
ヨシダさんが指さしたのは閉業したパチンコ店に残されたままの、スペースシャトルのモニュメント。営業中はウチの婆様も随分と注ぎ込んでくれたので、多分あの尾翼の一枚ぐらいは我が家の金だ。
「クルマどこ停めっかな」
「駅前だと高いでウチ停めりん」
「おー助かるよ」
路面電車の線路に沿って郵便局の手前で折れて水上ビルを越えて左手の「あっ姉ちゃん居るわ」
「あ? んだよ結局ダメかよ」
「しょーがないじゃん!」
「ちゃんと連絡しとけよ!」
「自分が勝手に来たんじゃんか!」
「ぐーすか寝てやがって、メールぐらいしとけってんだ!」
「いーーじゃんかコインパぐらい」
むっつり黙って不機嫌にアクセルを踏み込んだヨシダさんは結局、駅近くの、しかし若干お値打ちなところを目ざとく見つけるとそこにスカイラインを落ち着けた。
「ついたついた」
「何年ぶり?」
「わかんねえ」
なんとなく水上ビルを辿って我が家を目指す。
「おっ、メロディと伊勢路まだあるんだな、横にコーヒー屋が出来てら」
「焙煎研究所さんね、シェイクもあるよ」
「ニイハオってラーメン屋なかったか?」
豊橋ビルを抜けて信号を渡ると大豊ビル。
「ああ懐かしいな、この靴屋まだあるんだ。くるまやラーメンも……龍鳳もう無いか。あれ、小鳥屋なかったか?」
「だいぶ前にやめちゃったよ」
「よく山本でタバコ買ったよ。ヤマミツの婆さんは元気か。ああイシグロってお前の友達ん家だろ、キャロンも何回か行ったなあ」
歩いていると色々思い出すようで懐かしそうにしている。信号の角に自転車屋さんがあったのも覚えていたし、ハヤシ楽器にも一度だけ来たことがあるそうだ。そして、その斜向かいにある昔ながらの小さなオートバイ屋が──
「ねえちゃーん、ただいま!」
「……」
「ねえちゃん!」
我が家こと新川オートだ。およそ半世紀前に祖父が始めたお店で、今は僕の姉が3代目店主として腕を振るっている。面倒な修理や手の込んだカスタムは好きだが売る方にあまり熱心でないのが代々の特徴でもある。
道路に面した2階建ての旧家屋兼店舗がふた間あって、1階向かって右に工具や機材がぎっしり詰まった作業場、左が簡単な応接セットにスチールデスクと椅子だけの事務所。ちなみに上は物置と姉の部屋である。店に駐車場は無いので近所の月極を借りている。我が家の祖父と母と来客用。もっともバイク屋に車で来るお客は滅多に居ないから、専ら使ってるのが「早かったじゃねえか。連絡しろよ」僕のねえちゃんだ。
「だでさっきっからただいまって言っとるじゃん」
「来る前に言え、朝から忙しんだバータレが」
スパナを動かしながらYAMAHAの青いツナギの背中が吐き捨てた声が低く掠れているのは生まれつきだが、ヘビースモーカーなせいもあると思う。
「じいちゃんは?」
「婆様つれてモンキー」
「あらま」
東三河のお年寄りの朝は喫茶店のモーニングで始まる。店によってまちまちだが、大抵は飲み物代だけでトーストや茹で卵が付く。
ちなみにモンキーとは祖母の妹夫婦が経営している喫茶店モンキーポッドのことで、我が家の行きつけでもある。
「で」
「?」
「誰だん」そういって白いオトガイをしゃくった先には「どうも」「あ?」ぼんのくぼに手をやって立ち尽くすヨシダさん。
僕が言うのもナンだが姉ちゃんは母に似て小柄な美人だ。幼げな丸顔に俗にいうジト目……いや愁いを帯びて伏し目がちな相貌と澄んだ黒い瞳は丸いフチ無しのメガネで飾り、色白のもち肌に艶のある黒髪を乱暴なポニーテールで括って背中に垂らしている。子供の頃からオートバイに熱中し中学校に入る頃には修理に整備、改造とナンでも覚えた生粋のバイク職人……であるが故か見た目によらず男勝りのガラッパチである。大人しそうに見えるが性格も物言いもキツイ。決して悪い人間ではないのだが何しろ興味のないことには見向きもしないし気に食わない人に対しては氷よりも冷たく容赦がない。僕より2年も前から実の父親で散々苦労させられたせいか男性に対しては特に顕著で、これまでも見た目だけで言い寄って来るケーハク連中は全員コテンパンにされている。
そんな姉が今またCHI.NA.THUとネームの入ったツナギと同じ真新しいオイルの染みを左のほっぺにもつけたまま、身長が30cm以上も高いヨシダさんにメンチを切りまくっている。
「えっと、あの、コイツの」「ヒトの弟つかまえてコイツとはナンだ」「いやだから、あの」珍しくヨシダさんが押されている。
「……」
眼鏡の奥の冷たいジト目がぎらりと光る。
「なあ、おい」
流石のヨシダさんも思わず僕を見た……が、面白いのでこのまま放っておこう。僕は二人を残して店を通り抜けて自宅に向かった。飛び石を敷いた通路を挟むように狭いながらも緑の庭があって、使ってない鹿威しが信楽焼の向こうでコケむしている。
「かあちゃん!」
「おっ、おかえりー」
風呂上りらしき母ミワコがグレーになった長い髪をタオルでわしわし拭きながら僕を出迎えた。
「輝さんは?」
「もう仕事いったー」
「そうか。輝さんにも聞いてみたかったけどな」
輝さんというのは新しいお父さんの呼び名で、トラックの運転手さんだ。元不良で免許より先にバイク買ったような人だし、もしかして知ってるかなと思ったが仕方ない、じゃあ朝ごはんのついでにモンキー行くか。
店に戻ると古い溶接機のトーチノズルから青白いスパークが放たれ、赤々と燃える火花が散っていた。
「……」
「……」
姉ちゃんは黙々と溶接してるしヨシダさんは古いバイクのボデーやカタログを見るともなく見てる。溶接機の唸りとスパッタが弾け飛ぶ音だけが殺風景な作業場に響く。往来をトラックが行くと壁や窓が震えて揺れる。
「……」
「……」
しまった、やり過ぎたかな……早いとこズラかってモーニングと洒落込むか。
「ヨシダさん、ばあちゃん居ないや。行こ」
「……」
「……」
「ヨシダさん!」
「……」
「うし、出来た」
「おっ、早いな」
顔を上げて溶接用のマスクを外した姉は、この寒い朝に汗をかきつつ満足そうな顔をしていた。
「まあな。餅は餅屋だよバータレが」
「ひとこと多いんだよ、黙ってりゃ別嬪なのに」
「ゴチャゴチャ言うと金取るぞ」
「いいよ払うよちゃんと修理代ぐらい」
「バータレが」
あれ、姉ちゃんもしかして溶接の腕前を褒められたから……「おい。コイツに何か用じゃねえのかよ」
「え、ああ。ヨシダさんモンキー行こ」
「もんきー?」
「うちの親戚の喫茶店。じいちゃんもばあちゃんもそこだって」
「そうか。じゃあな、ありがとよ」
「夜通し大阪からだろ。寝なくてヘーキなのかよ」
「まあな」
白く光る戸口に立ったヨシダさんがひらっと手を振って店を出て、僕も後に続いた。
「お前のねえちゃん怖えけどイイ奴だな」
「まあね」
モンキーまではウチからすぐ。
青と白の市営団地が立ち並ぶ一角。信号の角のコンビニの向い、青い砂利の駐車場に浮かぶ白いタイルと大きな黒い三角屋根がモダンなお店だ。出窓の向こうは日当たりのいいテラス席で、天井には年代物のサーキュレーターがクルクル回っているのが見える。
「おはよーー」
カランカランと景気のいい音を立ててドアベルが鳴る。振り向いたのは店主の金本さん家の美人姉妹、ボーイッシュな妹のワカナちゃんだった。
「あっカズヤくんいらっしゃい」
「ジジババ来てない?」
「いつものとこ」
手に持ったトレイでスイと指し示したのはカウンター正面の窓際の四人掛けで、そこが我が家の指定席。広いソファ席には今日も常連たちが陣取り茶飲み話に興じている。トンくんとオッタンの夫婦、まっちゃんとカネ子さん夫婦、カズちゃんとトシユキちゃんも居る……みんな親戚や顔見知りばかりだ。そんな一座の中心で今まさにアメリカンコーヒーを飲んでいるのが我が家の祖父母だ。ずんぐりむっくりのもじゃもじゃヘアーのおばあちゃんと、対照的にヒョロっと瘦せ型の禿げ頭がおじいちゃん。
「カズヤくん来たよ」
姉のユウキちゃんがおばあちゃんの前にモーニングのトーストを置きながら快活に手招きする。僕を目視するや開口一番おばあちゃんは「アンタも食べりん」とモーニングをオーダーしてくれた。さらに
「ありがとう、この人ヨシダさん。友達」
「どうも」
「ほいじゃアンタのぶんも。孫が世話になっとるだもんで」
一つ奥の二人掛けに僕とヨシダさんが向かい合って腰かける。厨房の四角い覗き窓の向こうでマスターの金本さんがニッと笑う。おヒゲと黒縁メガネがトレードマーク。
「いらっしゃい。なんにする?」
奥さんのユーちゃんがオーダーを取りに来た。今日は金本家もフルメンバーだ。
「僕アイスコーヒーで」
「オレも。ブラックで」
「アイスふたつね、カズヤくんもブラックでよかったよね」
「うん」
「今日みんな居るのよぉ。賑やかいでしょお」
嬉しそうにカウンターへ戻ったユーちゃんがコーヒーの支度をしている。長年の営業でしみついた薫りと、店じゅうで響く話し声や食器の音が天井のサーキュレーターにかき混ぜられて、テラス席の窓から差し込んだやわらかな遅い朝の光を浴びたカーテンがほほ笑むように揺れている。
「じいちゃん、多米トンネルって旧道ある?」
出し抜けに訪ねた僕を見ておじいちゃんが怪訝な顔をする。
「ありゃせんぞぉ」
「本坂じゃないだかん」
「違うじゃん、多米にも旧トンネルがあるって」
「まっちゃん、ほい!」
「なんだァ~」
「多米トンネルっちゃあ、旧道なんかあったかねえ」
「ありゃせんだろォ」
年季の入ったYAMAHAのツナギに白くなった髪を乱暴にくくったまっちゃんが白くなった口ひげでぶっきらぼうに答える。ちなみに新川オートの2代目店主だ。
「あのトンネル自体、古いでなあ」「戦前とか、まーっと大昔に掘ったかもしれんな」「ほいでも道なん残っとらんじゃん」「手前に金網してあったで、あの奥がそうじゃない?」
総白髪で恰幅の良いトンくんが腕組みして思案する。カネ子さんやカズちゃんも話に加わるけど結局は
「新川のおじちゃんが知らないならみんな知らないんじゃない?」
ユウキちゃんが僕のおじいちゃんをそう呼んで、改めて訪ねる。
「昔っからよぉ通るけど、トンネルの上に旧道なんかないと思うぞぉ」
物静かなおじいちゃんだが旅行やツーリングが趣味で、この辺りの道路には詳しい。そのおじいちゃんが知らないというのだから「ね、だからやっぱ」「行くしかねえな」
「は?」
「はーーい、お待たせえ!」
ユーちゃんの運んでくれたトレイにはアイスコーヒーのグラスと分厚い三角トーストにサラダの小鉢、小さな藤のバスケットにはウズラの茹で卵がゴロゴロ入っている。
「おっ、パンがデケえな!」
「いただきまーす」
「ひとの剥いたタマゴ取るんじゃねえよ!」
「いいじゃん沢山あるだで!」
「バータレが。それ食ったら行くぞ」
結局そうなるのか。
コーヒーとモーニングを平らげた僕たちはモンキーを出て、いよいよ多米トンネルを目指すことになった。混みあう道路をノロノロ走る合間に聞いてみた。
「で」
「?」
「旧トンネル……あるか知らんけど、何のイワレだん」
「ああん? んなもん知るか」
「知らんでヒトん家まで来てこんな、僕まで巻き込んで……は~~トロくさい、この人ワヤだでかんわ」
「るせえ、着く前からオバケのこと考えるバカが居るかよ!?」
「オバケのために夜通し走る奴がバカだよ!!」
「なんだとコノヤロ!」
信号待ちで右折レーンに並んだ赤い軽自動車からの視線が気になるが、ヨシダさんはお構いなしだ。
「じゃあテメェ気にならねえのかよ」
(まあ、気になるかと言われたらそりゃあ)
「ほーれみろ!」
「なんでわかるの!?」
お見通しか……観念しているうちにスカイラインは多米峠に向かって県道4号線を突き進んでゆく。市電沿いに坂道を上って、井原のカーブを通過して、赤岩口の電停も越えて、県道の向こうに聳え立つ弓張山地に向かって走る。やがて峠道に差し掛かり、豊橋側中腹の展望台兼休憩所に……入るかと思いきや素通りするヨシダさん。
「え、そこ入らんの?」
「は、あんだよ先に言えよ!」
「だって!」
「しょーがねえな、いっぺん走って様子見だ」
僕にとっては見慣れた光景だが、ヨシダさんは初見同然。なるべくゆっくり走りたいが後続車両が居る。青いスポーツクーペがさっきから僕らのスレスレに鼻先をこすりつけるような運転をする。要するに
「ヨシダさん」
「ほっとけ」
「女の子乗っけてイキってるのかね」
「知るか。そいつのために運転してるんじゃねえからな」
トンネルや山道だから速度なんか落とし過ぎなければゆっくり目の方がいい。ここは対向車線からバイクやトラックがはみ出してくることも多いし。
が、青いのは煽るだけじゃ我慢ならなかったか遂にあてつけがましくアクセルを吹かすとトンネルの中で猛然と僕らを追い抜いて行った。しっかり隣に並ぶとき、ちょっと並走して睨んでいくオマケつきだ。
(ンの野郎!)
腹が立って睨み返すと、男がギョっとした顔をして走り去っていった。女の子のほうは素知らぬ顔をしている。案外あの男だけがイキってたのかもしれない。
「アイツ、なんかびっくりしてたよ」
「お前見てタヌキニンゲンか何かだと思ったんだろ」
言ってる間にトンネルを抜けた。そんなに長くもないのだ。静岡県側に出るとみかん畑のなかをカーブして下ってゆく。こちらにはしっかりした脇道が幾つかあるが、畑や民家への入り口で全て私有地だ。
結局ドン突きの浜名湖畔の丁字路を右に。そこにあるローソンに入った。
「別に変ったところはないねえ」
「お前しょっちゅう通ってんだろ」
「まあねえ」
「じゃあやっぱり」
「無いんだよ、そんなの」
「歩いて探すしかねえか」
ガックリ。
来た道を戻って、さっきの展望台の駐車場に入ってクルマを降りた。
「うーし」
身体を伸ばしながら歩き始めるヨシダさんのあとをノタノタついてゆく。トンネルに向かう坂道にも道らしきものはなく、また豊橋側のトンネル付近にはフェンスに阻まれた場所も確かにあるが、おそらく管理用の通路か何かだろう。古ぼけた看板や目印らしきものもなく、それは反対側も同じだった。
長らくの豊橋市民だが、このトンネルを歩いて通るのなんか初めてだ。多米トンネルは本坂に比べると少し狭いが、豊橋から三ケ日方面に抜けるのに便利なため交通量はそこそこある。轟音とともに行き交うヘッドライトやテールライトを横目に、僕たちは何度もそこを往復した。
が、やはり変わったところはない。
はずだった。
「おっと!」
「あれっ…こんな所に扉なんかあったかな?」
後ろから迫るヘッドライトを精一杯に避けようとトンネルの丸まった壁に身体をくっつけようとした僕は、横向きにタタラを踏んだ。
いつのまにか待避所のような凹みがあって、奥の暗がりに古い鉄扉が見える。何度も通ったはずなのに。何年も前から通っている道なのに。
「ヨシダさん」
「……」
半ばパニックになりかけている僕を尻目に、ヨシダさんは躊躇うことなく扉に近づき砂埃のこびりついたドアノブを掴んで押し下げて重く乾いた音を立てた。
鉄の扉が砂を噛みながら開いてゆく。中は真っ暗だ。コンクリートの無骨な階段が上に続いている。白く眩しいライトがふたつ、そっと灯される。
「なに、これ……?」
「そういうことか」
「へ」
「多分この先だ」
「ええ……」
ということは、この真っ暗で急な、何処に繋がってるかもわからない階段を「行くぞ」「やめようよぉ」うよぉ、よぉ、ぉ……冷たく湿った空気のなかに僕の声が反響して小さくなってゆく。
ツカツカ進むヨシダさんの後ろからおずおずと歩き出すと埃やカビが舞い上がってくるのか、息を吸い込むたび鼻や喉に違和感と不快感がへばりつき、やがてそれが肺まで届いて根を張るようで。
「何処に続いてるんだろうね」
「さあーな」
「何のための階段なんだろ」
「さあーな」
「だってさあ、さっきから何度も通っただに。こんな階段無かったじゃん」
「……」
「結構長いね、まだあるのかな」
「……」
「なんとか言ってよ!」
「るせぇな、黙って歩け!」
「だって怖いじゃん!」
「チキン野郎!!」
「いつもブタ呼ばわりするくせに!!」
「オイ」
「?」
ヨシダさんが黙って耳に手を当ててハルク・ホーガンみたいなポーズをした。ビタミンを摂れ、というわけではなく耳をよく澄ませと言っているらしい。
大騒ぎする僕たちが黙り込むと、一瞬の残響のち真っ暗な階段は静まり返った。はずだった。
「下から……足音?」
「やっぱ聞こえるよな」
懐中電灯で下から照らした顔を突き合わせた僕とヨシダさんを探してるような足音。ぴた、ぺた、ぴた……でも妙に湿っぽいし、なんか変だぞ。
「水音じゃないの」
「いや」「あっ」
「「裸足か」」
それに気が付いた瞬間ヨシダさんは脱兎の如く階段を駆け上がっていて、僕もそれに続いた。足音は明らかに近く、大きく、そして多くなっていた。何者かが裸足のままで、真っ暗闇の階段を走って追いかけてきている。なぜ……どうして「知るかバカ、早く来い!」「うわっ、うわわわわ!」
無数に増えた足音が背後すれすれまで迫って来ていた。
唸り声や叫び声も混じり合い混沌としている。が、相変わらず狭く真っ暗な階段には僕たちだけ。そして
「走れ、カズヤ!!」
細く長い暗闇で狂ったように踊るライトが照らしたのは、足元から壁から……まるで蒸気のように湧き出て蠢く無数の真っ黒な手だった。そいつが僕の爪先、膝から肩へ、腕や首元をめがけて音もなく伸びてくる。
心のどこかで、これは質量のないコケ脅しだとばかり思っていた。僕にもヨシダさんにも見えてる聞こえてるけど、この世のものでないならば干渉するにも限りがある。きっと逃げ切れる。この階段さえ抜けてしまえば……だがそれも僕の踝を掴む冷たい指先に捕まるまでだった。思わず縮み上がり、脚の停まった僕を影どもが見逃すはずもなく、壁から伸びた腕が僕を背中から引きずり込もうとする。体に食い込んで来る濡れた鉄のような感触に僕は堪らず叫んだ。
「ぃヨシダさああああん!」
「横山剣さんみてえな呼び方するんじゃねえ!」
いくらか上の段からヨシダさんのあんよが真っすぐに飛んできて壁の手を踏みつけた。するとちゃんと手の方も痛いのか指先が離れた。
「早く!」
「……!!」
怖いやら苦しいやらで言葉にならない叫び声をあげて、必死で残りの階段を駆け上がった。意外とすぐ出口に着いた。そこにも錆びついて重たい鉄の扉が待ち受けていた。丸いドアノブは回らないし幾ら押してもビクともしなかった。ただただ無表情な壁になって僕たちの行方を遮るばかり。声と腕と足音が迫る。真っ暗闇が唸る。
「カズヤ、やれ!!」
ヨシダさんが叫ぶ。
「があああああ!」
僕はドアに力いっぱい激突する。
「痛たたたた」
が、当然はね返される。服や手に土ぼこりがべっとり着いたのがわかる。めげずに体当たりして、拳でドンドン叩くけど……微動だにしない。
「あっコレ引きゃ開くんだ」
「ちょっと!!」
「いいじゃねえか開いたんだからよ!」
「気づくのが遅い!!」
「押してダメなら引けって鉄則だろォ!?」
「先に引けよ!!」
わずかに開いた隙間から強引に突破してドアを抜けると、外の明かりが届いている!
薄暗いくらいの光でも眩しく感じるほどで、その先にも少しだけ階段が続いていた。小さな踊り場を挟んで右に折れた先が出口だろう、風の音や鳥のさえずりが、やけに遠くから聞こえるような気がして。無我夢中で走り出た先は、何の変哲もない……でも見たこともない山道。自然歩道でもないし、管理用の道路でもない。こんなところ本当に「オイ、カズヤ!」「はぇ?」
びっくりしたヨシダさんの声につられて、何も考えずに振り向いてしまった。
「え、これなに」
「な、これだろ」
本当にあった。古ぼけたごく短いトンネル。まるでそこだけ黒く切り抜いたような細長い空間がぽっかりと口を開けている。
「あったな…!」
「あったね…!」
言うが早いか、もう歩き始めている。
「待ってよ」
「早くしろ」
「いいじゃん入らんでも!」
「あんでだよ!」
「あっただもんで、ほいでいいじゃんか」
「バカ野郎お前ここまで来て入らねえ奴があるかよ!」「ヤだよ!」「なんでだよ!」「さっきあんな目に遭って同じようなとこ入る!?」「入らなきゃわかんねえだろ!?」
「入らんでもわかるわ!」
「じゃあ~お前どぉすんだよ!?」
そう言われても……どぉしようもない。あの階段を今度また降りていくことも出来ない。どちら側に出るにしろ、このトンネルを抜けて山を下りるしかない。逡巡に強く苛まれながらもヨシダさんの後についていくしかない自分が憎い。
小さく狭いと思っていたが、目の前に迫ってくるとそれなりの威容を感じる。照明が無いどころか内壁も路面も舗装すらされていない。砂と埃と黴と……あと何か言い知れぬ不気味さが混じり合ったような湿っぽい空気が刻一刻と濃くなってゆく。薄暗い山道と、真っ暗な旧トンネルの境目は湿った土くれでしかなく。
懐中電灯を突き出し、強張る肩を丸めて、腰が引けたまま踏み込んだ。前を歩くヨシダさんが滑るように遠ざかってゆく。歩いても歩いても距離は開くばかりで、慌てて追いかけようとする僕の左足を誰かが掴んでいる!?
気づいた時には地面と頬がくっ付いていた。鈍く激しい痛みと、頭蓋骨の中で響く衝撃音と、口や鼻の中に入り込む砂粒と、舞い上がる黴臭い埃と、ひんやりとした泥。足元を確かめようにも頼みの懐中電灯は転んだ拍子に放ってしまい、数メートル先で転がって在らぬ方向を照らしている。手を伸ばしたくても体が磔に遭ったようで芋虫のように身じろぎするしか出来ず。左足に食い込む冷たく硬い感触がどんどん強くハッキリしてくる。手で掴まれているというより錆びてささくれ立った細い金属で締め付けられてるようだ。空いた右足をこすり付けて外したいけどビクともせず。ただ靴底や爪先にハッキリと硬い手応えを感じて、かえって怖くなる。叫び出したいが咳き込んでしまう。目の中にも砂埃が舞い込んで涙があふれてくる。前が見えない、真っ暗闇だ、どうしよう!?
ずるっ。
あっと思った瞬間、引きずられていた。100㎏ある僕が地面にうつ伏せのまま声も出せず成す術もなく。トンネルの反対側に向かって波打ち際で漣に洗われているように地面だけが目の前を走っている。全身のアチコチが擦れて痛い。相変わらず左足は骨まで軋むほど掴まれたまま。体は全然動かないのに真っ暗闇の中を物凄い勢いで引き摺られてゆく恐怖。終わりのない地滑りに巻き込まれているような、目覚めることすら許されない悪夢から逃れようとした罰のような「カズヤ!!」
「……!?」
「お前どうした!?」
「立てない、動けない、喋れない!」
「喋ってるじゃねえか、立ってみ?」
気が付くと目の前にヨシダさんが立っていて、怒鳴りながら僕を呼んでいた。
でも、ほら、立てないんだってば!
と怒鳴り返そうと思って顔を上げたら自然と膝をついて拳で体を支えてアッサリ立てた。
「あれ?」「立てるじゃねえか」「いや、でも、今」「いつまで経っても来やがらねえから逃げたかと思って見に行ったら、反対側で突っ伏したまま唸ってたんだぞ」「は?」
僕は今あった出来事をそっくりそのまま話して聞かせた。
「じゃあ何か、オレの後をついて行こうとしてスッ転んで」「うん」「見たら真っ黒い手がお前のアンヨ掴んでて」「うん」「そのまま何処ぞに引き摺ってかれた、と」「そう」「こんなタヌキダルマみてえな奴をか!?」「何さそれは!」「お前わかるだろ、うつ伏せで踏ん張ってる100㎏を片手で引き摺ってけるかよ!?」「でもホントに」「オイ……お前それ」「えっ」
ヨシダさんが指さしたのは、さっきまで冷たい手が掴んでいた僕の左足首。勿論もうそんなものは影も形もない。それなのに「大丈夫かよ」「え……うわ!」
僕はアトピーなのだが、まるでそれが極限まで悪化したような有様だった。どす黒くめくれ上がり縮み上がった皮膚から血の混じった体液がダラダラと流れ落ち、爛れた傷跡の向こうで腐ったような臭気を放っている。
「え、なんで、なにこれ」
「どうやらホントに掴まれてたらしいな」
「だからそう言っとるじゃん」
「よほどその豚足が美味そうだったんだろ」
「ブタなのかタヌキなのかハッキリしろ!」
「怒るとこそこかよ!」
結局この旧トンネルを謎の手に引きずられたまま先を歩くヨシダさんにも気づかれずに通り抜けたことになる。そんなバカなと思うが、しかし実際ヨシダさんは引きずられてゆく僕に少しも気づかなかったし、僕もヨシダさんとすれ違った覚えがない。おそらく途中で意識も失いかけていた。まあ一応、幸か不幸かトンネルの向こう側まで来ることは出来た。ただ、もう戻るのは二人とも御免だったので今度は急で殆ど道もないような山道を這う這うの体で降りてゆく羽目になるのであった。
「なあ」
狭い山道を下から登って、汗だくでスカイラインまで戻って来た僕にヨシダさんが言い放った言葉。
「あの階段、まだあるかな?」
「……」
(また行くの?)と顔に書いてあったのだろう。
「大丈夫だ、クルマで通るから」
それならまあ……いや、そういう問題か……あの恐怖を思い出すのとズッシリとした疲労が背中から全身を覆い尽くしてゆく気分だ。それなのに無情にもスカイラインは再び発進し軽快に山道を走った。トンネルに入って少し速度を落として、こわごわ窓の外を見た。階段どころか、あの凹んだスペースすら見当たらなかった。
見当たらなかったけど……運転してるヨシダさんが前を向いてて、僕だけがトンネルの壁を見つめた瞬間。ほんの一瞬、その壁の前を通り過ぎるとき確かに見た。
無数の黒い影の手が、ぼわっと壁から生えてきて僕を手招きしているのを。
つづく。




