その7「湖のひみつ」
大阪市郊外。真夜中。春先。黄色い看板を見つけて入ったコンビニの駐車場で、僕は白いスカイラインの助手席に座っていた。まだ夜は少し肌寒い。シマシマの長袖シャツの肩の辺りが冷えている。カチャリと音を立てたシートベルトもヒンヤリしている。
やがて煌々と灯る白い光の中から彼が姿を現した。自動ドアを出て、のっそりと痩せたシルエットが歩き出す。手にはUCCの缶コーヒー。そして
「ホレ、お前これ好きだろ」
「ありがとう」
赤いボトルのウィルキンソン炭酸水。これは僕の好物だ。
「あれ、ちょっといいやつじゃん」
「なんかクーポン出んだよ、今」
ヨシダさんが持っていたのはいつもの小さな缶じゃなく、フタ付きのボトル缶。
「50円引きだってさ」
「へえー、珍しいね」
別段、彼がケチだというんじゃなく。ホントに常日頃あの小さな缶コーヒーばかり飲んでいるんだ。それにヨシダさんがケチじゃないにしても……「うし、行くか」
「アパート帰るんじゃないの」
「バカ言え」
「じゃあJさんとこ?」
「いいだろ別に」
「何処行くのさ!?」
「るせえな、いいから乗ってろ!」
「またどっか連れてく気だな?」
「気が付きゃがったか」
ほら、おごってもらうと〝高くつく〟のだ。
その後、助手席から散々ぱら罵詈雑言を浴びせられても一切めげない動じないヨシダさんは一時間以上スカイラインを走らせた。さらに夜が更けて、気温も一段と下がった。
着いたのは湖のほとり、それもボロボロの桟橋だった。
「さむーい」
「来い。こっちだ」
「……げっ」
お誂え向きにもやってある一艘の手漕ぎボート。
「ヨシダさん、ボートなんか漕げるの?」
「お前が漕ぐんだよバァカ!」
「ヤだよ、自分で漕ぎなよ!」
「ふざっけんな、なんでオレが」
「アンタが連れて来たんだでアンタが漕ぎんよ!」
揉めている間にもボートに近づき、なんだかんだ言いながらも腰かけてオールを握ってしまう僕だった。自分で自分の性分が憎い。
ちゃぷ。
「で」
「はん?」
「どこまで漕ぐのさ」
オールの軋みと波打つ水音に包まれて暗闇の中を漂っている。あまり揺れは感じない。が、やはり心もとない。しばらく漕いでも別に何も起こらない。ヨシダさんは悠然と煙草をふかして、時々あくびなんかしてすっかりリラックスしているし……。
「ねえ」
「?」
返事もせず眼だけでこっちを見ている。
「そろそろ代わってよ」
「ヤ」
「僕、疲れたんだけど!」
「俺だって運転して疲れてんだよ!」
「アンタが勝手に連れてきたんじゃんか!」
「お前も勝手についてきたんだろ!」
いうよりも早くヨシダさんの爪先が僕のスネを突いた。
「っ痛な! 何すんだよ」
「バカ野郎お前重てぇんだから暴れるんじゃねえ!」
「先に蹴ってきただろ!?」
「俺の倍も目方あんだからよ、転覆しちまうぞ!」
「んな重かないやい!」
「オイ」
「?」
携帯用灰皿で煙草を揉み消したヨシダさんが声のトーンを落として僕を制した。その声で何かが起こっていることを察した。相変わらず湖面は静かで、別に変ったところもない……冷たい空気は流れが止まっているようで、風が吹いているというより僕たちがその中を揺蕩っているような感じだ。
「何さ」
「何か聞こえないか」
……そういえば何も聞こえない。僕たちの罵りあう声がやけに響いていたのは、風も波も殆ど聞こえなかったからだ。
「何も。でも、なんか静かすぎない?」
「じゃ、ありゃ何だ」
じゃぷ。
さっきから聞こえていたはずの水音とは違う、鈍く濁った音がひとつ。
「うっ」
そして辺りに漂い始めたのは……。
「魚か、動物の死体でも腐ってるんじゃないの」
じゃぷ、じゃぶ。
「出やがったな」
「な、なにがさ」
ヨシダさんは返事をする代わりに、アゴで水面を指示した。
「!!?」
手だ。それも腐った手。
「手だ……腐った手!」
僕は思ったことがそのまま口から出た。
「バカ野郎お前そんな動くな!」
「だって!」
「コッチ来るんじゃねえよ沈むだろ!」
「だって!!」
「どっちに居たって同じだ、見ろ!」
真っ黒な湖面から次々に腐った手が生えてくる。それも大人から子供、老人らしき皺だらけの手、小さな赤ん坊の手、腐りかけの手、腐り切った手、ありとあらゆる腐った手が……!
「うわ、うわわわわわ!」
「だーっ! 来るな来るな!」
ヨシダさんは手どもじゃなく、僕の背中を蹴りながら怒鳴った。手のほうはお構いなしにボートの縁につかまり、ずるずると這い上がってくる。どうも胴体というものは無いらしく、どこまでも手と腕のまま伸びてくる。
「どど、どぉーすんのさ!」
「何が!」
「これ!」
「知るか、勝手に生えてきてんだからしょーがねえだろ!」
「柄杓、柄杓は無いの!?」
「有る訳ゃねえだろバカ!」
「どぉするのさ!」
「踏んづけてやれ、相手はお手々だ!」
「あっそうか!」
ついに最初の一手が僕たちの足元にかかった。そこを容赦なく踏みつけるヨシダさんの右足。そして僕の左足。
「いいぞ、どんどん踏んでやれ!」
「うひー! 気持ち悪い!!」
踏んづけた手には、ちゃんと感触があった。それもきっと腐乱死体を力いっぱい踏んづけたらこんな感じなのだろうという、柔らかすぎて潰れたり崩れたりする感触が。
「だーっクソ、どんだけ沸いて来やがる!」
「キリがないよ、戻ろう!」
「戻ってみやがれ、コレ見てもか!?」
見渡せば、もはや水面を埋め尽くすほどの手、手、手、手!!
「ぎゃーーっ!」
ぎゃーーっ、ぎゃーっ、僕の悲鳴がこだまになって真っ暗闇の湖面を走ってゆく。
「ギャーギャー言ってねえで踏んづけろ!」
「踏んでも踏んでも出てくるじゃんか!」
「あっおい、お前……!」
「えっ……うわーっ!」
「カズヤ!!」
冷たかった。それが僕の左足首をしっかり掴んだ。ショックで体が強張って、心臓が一度か二度ばかし空打った。そしてボートの上でスッ転んだ僕に、腐った手が群がった。
「……!」
叫ぼうとしてるのに声も出ない。歯が震えてガチガチぶつかるけど、それを止めることも出来ない。あ、あわわわ。逃げようにも足首はシッカリと掴まれている。そして手が増えてゆく。僕の全身を掴み取ろうと迫ってくる。膝から肩へ、太もも、脇腹、肘、そして手首まで。
「阿っ!」
反射的に、僕はその手を捻っていた。腐った手がボロリと崩れて、水の中へ引っ込んだ。そうか、この手があった。勢いづいた僕は全身を掴む手を次々に掴み返し、そして捻ってねじっていった。
ある手は上から、ある手には横から手のひらを覆い重ね、逆方向にねじったり曲がらない方へグイと捻ったり。手のほうも抵抗するので、その時はその力を利用して押し込んだ。
「おっ、いいぞ! その調子だ」
ヨシダさんもボートに乗ってくる手を次々に踏んでは蹴り払い、時々は僕を掴もうとする手も踏み潰してくれた。
「だいぶ減ってきたね」
「ああ、でもまだ」
湖には、いつの間にか満月が浮かんでいた。
「真打が残ってたみたいだぞ」
その月の影に隠れるように、何かが僕たちめがけて迫ってきていた。暗く深い湖の底から。
「何が出るのさ」
「見てのお楽しみさ」
「楽しいの!?」
「ビビっててもしょーがねえだろ!」
〝それ〟は静かに浮かび上がった。ちょうど月がうつって煌めく水面を額縁みたいにして、確かにそこに居た。僕も、さすがのヨシダさんも息をのんだ。青白い月明かりに照らされた〝それ〟は……ひとり、だった。だけど体は、ふたつあった。
ただ真ん中でシンメトリに分かれていて、腰から下は一人分。でも腕は二対、つまり四本ある。頭は真ん中でくっついていて、その巨大な顔面の真ん中に目玉がひとつだけ。
口と鼻は引き裂けているらしいが、腐っているせいかよく見えない。
「なに……あれ」
「あれが、この湖の主さ」
いつの間にか大勢の手も姿を消し、ただ悠然と浮かぶ〝それ〟だけが、今この湖を支配していた。ボートが自然と〝それ〟から離れてゆく。月に雲がかかって光が薄れてゆく。やがて水面の煌めきも失せて、それは見えなくなった。
「……帰るぞ」
「え、あ、うん」
「漕げよ」
「ぬぁんでさ!」
「ぬあんで、ぢゃねえよ漕げよ!」
「行きは僕だったんだから帰りはアンタが漕ぎんよ!」
「帰りの運転も俺なんだぞ、舟ぐらい漕げ!」
結局、ひーこら言いながらボートを岸までつけると漸くスカイラインに乗り込んで一息ついた。そしてエンジンがうなり、僕たちは帰路に就いた。
「それにしても大活躍だったじゃねえか」
「少林寺拳法やっててよかった」
「あんな関節技、使えたんだな」
「逆小手ってやつだね。裏固め、小手巻き返し、天秤固め……」
「能ある豚はヒヅメを隠すってか」
「なんだとぉ……でも、あれ最後のあれは」
「だから、あれが主だよ。まあでも、まさかホントに居たとはなあ」
「まさか、って、居なかったらどうしたのさ」
「お前がボート漕いで俺は優雅に月見て一服さ」
「踏んだり蹴ったりだよ、これじゃ」
「確かに踏んだり蹴られたりしてたもんな、お前」
「誰のせいだ!」




