その6「心斎橋地獄変」(夏のホラー2025参加作品)
小説家になろう夏のホラー2025参加作品はコチラです。
大阪。心斎橋。BARプカプカ。
「だからよ、んなラブホねえのよ」
「じゃあさ、どうやって入るのさ」
「それがな……一人だけ、そのドアをくぐれる奴が居るんだよ」
「誰さ」
「ババア」
あまりといえばあまりな言い草に、僕とダイゴローさんは思わず吹き出してしまった。
「尾崎ん家の?」
「マリちゃんズはカンケーねえよ!」
「また懐かしいですね、音源ありますヨ」
ダイゴローさんが手元の端末を操作して、今まで流れていた桂米朝の「池田の猪買い」が良いところでスッと消え、賑やかな歌が流れ始めた。
「ババアが居んだよ。そのラブホに向かって歩いてく、誰も知らないババアがよ」
「誰も知らないババアをなんでアンタが知っとるだん」
「見た奴が居るんだよ、ついてった奴が居るんだよ、それを俺に話した奴が居るんだよ」
「いらん事して、まー……」
思わず三河弁でボヤく僕に構わずヨシダさんは話し続ける。
このミナミの街んなかにな、夜中歩いてんだってよ。ババアが……婆さんがな。で、その婆さんってのが異様な風体なんだと。いや、見た目は水色のワンピースに白いエプロンして、見るからに掃除のおばあちゃんって感じなんだ。白髪を頭のてっぺんでお団子にして、若い頃からぽっちゃりしたまま婆さんになったタイプでな。
それだけなら、まあそこいらで見かけたって年食っても働きモンの婆さんだなで済むんだろうけどよ。異様な風体ってのは……その婆さんが持ってるモン、それなんだよ。
何だと思う? なに、獅子舞ぃ!?
お前な、婆さんだっつってんだろ! まあいいや。それがな、籐籠いっぱいの洗濯モンなんだ……普通じゃねえかって? その洗濯モンがな、いつ見ても物騒なぐらい……びっちり、べっとりたっぷり血まみれだったとしても……お前そう言えるか?
わかりゃいいんだよ。で、その血で汚れた洗濯モン抱えた婆さんの後をついてくと……見たこともねえボロボロのラブホの勝手口に入ってくんだと。
それが心斎橋のどっかにあるらしいんだが、誰もそんなラブホ知らねえって。それどころか、そのババアのあとをついてった奴等が口を揃えて、道も場所も建物も覚えて無えっ言うんだよ。
な!?
「なにが、な!? なのさ」
「お前、気にならねえのか」
「いや、まあ、そりゃ」
ならないことは、ないけども……。
「無えことは無えけど、わざわざ行くのは怖いしダルいしやめときたい……みてえな顔しやがってテメエ!」
「なんでそんなお見通し……じゃなかった決めつけてるのさ!」
「じゃぁ行くのかよ」
「そんな都合よく婆さんが通ればね!」
「言ったな!? ダイゴローさん聞きましたね!!?」
「ええ。言わはりましたネ」
「しまった……ダイゴローさん抱き込むなんて汚えぞオッサン!」
「もう遅い」
「ホントだ。もうすぐ2時だよ」
「そうじゃねえよ! けど、2時か。長居しちゃったな」
午前2時。バーテンダーが美しくなる時間。そろそろお暇したいところだが……いま店を出たらこのオッサン、いつものように千鶴、ちょこPARTY、はたまた桃色宇宙に行くとは到底思えない。一晩中、洗濯かごを抱えた婆さんとやらを探し回るに決まっている。
「じゃあ、僕ラムコークください」
「お前っ、まぁだ飲むのかよ!」
「今日、話してばかりで全然飲んでないじゃん。それじゃ悪いよ」
「話の長ぇのなんかいつものことじゃねえか」
「じゃあもうヨシダさん飲まないの?」
「ああ? あー、じゃあハイボールください。ダイゴローさんも一杯どうぞ」
よし。腰を上げかけたヨシダさんをプカプカの椅子に引きずり戻したぞ。あとはなんとか、このオッサンが酔っ払って眠くなって「めんどくせえ、もう寝る!」とでも言い出せばコッチの勝ちだ。大体、四六時中ドコ見たって人、人、人の心斎橋のど真ん中で婆さんひとり探そうだなんて無茶もいいとこだ。もう電車も無いことだし、こうなりゃ早いとこ酔っ払ってもらって……。
「ごちそうさまです! ヨシダさんが押し切られるのも珍しいですねえ」
「まあ、たまにはコイツに付き合ってやろうかと」
「毎度、豊橋から呼び出されて付き合ってあげてるの誰だと思ってんのさ」
「なにコノヤロウ」
まあまあ、とダイゴローさんがラムコークとハイボールを差し出した。
「僕もいただきますね」
ダイゴローさんは手早くお茶割りを作り、三人でグラスをカチンと鳴らしたところでヨシダさんがカウンターにあった古い野球雑誌に目を留めた。
「おっ、懐かしいもんがありますね」
「ホントだ。デストラーデじゃん」
「お前デストラーデなんか知ってるのか」
「僕デストラーデ大好きだったよ。子供の頃ライオンズに居たもん」
あの頃、デストラーデが出てくるからという理由で野球中継をよく見ていた。ガタイが良くて名前がカッコいいのと、とりあえずデカいホームランを打つからだ。
「野球よく知らないけど、この人だけは見てた」
「そういやデストラーデもお前と同じで左利きか」
「いや、確か両打ちやなかったですかね」
「そうだっけ。ふーん」
それ以上大した話もなく、ヨシダさんはグイーっと飲み干すと
「ごちそうさま! じゃあ~チェックで」
と、席を立ってしまった。さらに「コイツのぶんも一緒につけてください」という追い打ちつき。
「ちょっと、僕まだ」
「あんだよ、いーーから早く飲め!」
「な、なんでそんな急かすのさ」
「お前、俺が酔っ払っちまえば勝ちだと思ったろ?」
僕が急いで流し込んだラムコークを危うく吹き出しそうになっていると
「バカ野郎、そんなこったろうと思ったよ。早く行くぞ、ババア捕まえる前に夜明けが追っついて来やがらぁ」
「どうやら全部お見通しのようですネ」
お茶割りを美味そうに飲むダイゴローさんがグラスを掲げて、笑いながら僕達を見送った。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
「お気をつけて」
「また来るから!」
「お待ちしてます、また!」
「待ってよ、ヨシダさん!」
バタバタと店を出た僕とヨシダさんが湿った床を駆け抜け、その勢いで階段を駆け上がり、ファミマと味穂の十字路に立つ。午前2時半ちょい過ぎ。
が、特に行くあても無いヨシダさんは結局、三ツ寺会館の地階店舗ご案内の看板の前で立ち止まって辺りを見渡している。こんな時間でもワラワラいる酔客と、それを縫って走るバイクやタクシー、軽トラック。別に変わったところはない……むしろ愛知の田舎にいる僕にとっては変わったところばかりの非日常が、ここでの日常なのだ。繁華街の夜、大阪ミナミの夜は今日も賑やかで「オイ! カズヤ!!」
横に並んであたりを見渡していた僕の肩を、ヨシダさんが肘で突いた。
「なにさ!」
「あれ、見ろよ!」
「はん……?」
「ホラあっち、アメリカの向こう!」
「あっ!」
三ツ寺会館のスグ隣りにある細長いラブホテルの看板を少し通り過ぎた辺り。三ツ寺筋をリトルシープに向かう方角の人混みに紛れて歩いているそれは種々様々な酔客たちの人の群れにあって、確かに一種異様な風体と言えた。
ほとんど白くなった髪をてっぺんに丸くまとめ、日に焼けた素肌には深いシワが刻まれ、鮮やかな水色のワンピースに白いエプロンをして、洗濯物が山盛りになった籐籠を抱えて、肥った老婆がひとり闇夜に紛れようとしていて、それをみすみす見逃すヨシダさんではなくって。
「ほ、ほんとに居たんだ」「行くぞ!」
唖然とする僕を尻目に勇躍、駆け出したヨシダさんだったが何しろ往来が激しい。バイクにぶつかりそうになったり、男女連れが邪魔なとこ歩いてたり、一旦停止を守らない黒いセダンと一触即発になったり。ヨシダさんの後ろをついていく僕はバイクの運転手に睨まれ、男女連れにはクスクス指さされ、セダンのハンドルを片手で大義そうに操る刈り上げダボダボ金ネックレスのラッパー野郎にはガキ丸出しの顔で精一杯凄まれる始末。このバカから先にオバケにしてやりたかったが、オバケより怖いあのオッサンが辺り構わず突っ走ってゆく。でも、このまま走ればきっとすぐに追いつけ「おぉい」「はい?」
セダンの運転手がせっかく黒くした窓をズイーっと開けて僕に絡んできた。
「なんやお前?」
「なんや、とは」
「お前どこ見とんねん」
「すみません、連れが急いでいたもので。失礼します」
「待てや、おかしいやんけ」
「何がですか」
精一杯の笑顔を浮かべながらも足の裏からハラワタを巡って背骨を通り抜けた怒りの震えが両肩まで満ち満ちて、今にも怒鳴り声になってゴジラみたく口から飛び出しそうなのを堪えながら、バカのバカみたいなセダンのバカみてえな車高の低さに合わせ屈んで微笑む僕にバカがネチネチグズグズと絡み続ける。
「お前なんやヨソもんか」
「だったらナンだよ」
「はぁ?」
愛想笑いを引っ込めて怒りを露わにした僕に、なおもバカが凄む。
「何やってんだ、バカ!」
後頭部をスパーンと叩かれて我に返ると、鬼の形相のヨシダさんが息を切らして立っていた。
「ちっとも追いついて来ねえから戻って来て見りゃあ、こんなバカ相手してやがって!」
「だって!」
「お前な、仮にも腕はあるんだからこんな奴になんか」
「コッチが先に絡んできただに、それにアンタがこのバカの前に飛び出すもんで」
「やかましい! ホラ行くぞ!!」
「……!」
腑に落ちなかったが、これ以上ココにいても邪魔なだけだ。それにどうやらヨシダさんが睨んでいたのは僕だけじゃなかったらしい。彼を見た途端にバカの顔が急におとなしく、見る見るうちに萎れていくのが今更に可笑しかった。
「だーーっくそ!!」
「まーはい居りゃせんじゃん(もうすでに居ないじゃないか)」
「お前があんなバカ構ってるからだろ!」
「なんだん、だで言っとるじゃんアンタがあのバカの前に飛び出したもんで」
「やかましい、構う方もバカだ!」
「ほいじゃあなにぃ、言われっぱなしで夜中に走らされて、何やっとるだかわかりゃせんじゃん。ワヤだでかんわ、まー!」
「まー、じゃねえよお前がババアみてえなこと吐かしてやがるから、ババアどっか行っちまったじゃねえか!」
「もぉーいいじゃん、今からでもどっか戻って飲み直すか、生玉帰ろうよ」
生玉にはJさんのお寺がある。いつも大阪に来ると泊めてもらっているのだ。もっとも朝まで飲んで始発で帰ることもあるから、バチ当たりな話だ。
「バカ野郎、このまま帰れるか。絶対とっ捕まえてやる」
「捕まえてどーするだん」
「どうもこうもねえ。どんなだか確かめてやる」
「ほいだで確かめてどーするだん」
「るせえな、イチイチ聞くな! そこに変なババアが居るんだから仕方ねえだろ」
「オマケに行き着く先は謎のラブホ? 冗談じゃねえのはコッチだよ」
周防町筋から阪神高速を潜り、地下鉄の四ツ橋を通り越し、堀江公園の角まで来てまだブツクサこぼす僕にとうとうヨシダさんがキレた。
「そうかい、わーったよ。じゃあもう勝手にしな」
「勝手にって、どうするのさ」
「帰りゃいいだろどこだって!」
「わかったよ帰るよ! あとで何か言わんでよ!」
「……」
何も言わずにスタスタと足を早めて、ヨシダさんは夜の帳へと溶け込んでいってしまった。どこか角を曲がったのか足音が遠ざかり、やがて消えてしまう。
「帰るか」
こころなしか少し大きめの声で独り言をこぼした僕は踵を返して、環状線を潜って、さっき絡まれたことを思い出して、阪神高速に沿って湊町ジャンクションに向かって、千日前通を歩いてくことにした。
「オイ、何やってんだ」
「へ?」
「見ろ、あそこだ!」
汗ばんで息を弾ませたヨシダさんが指差す先には、血まみれの洗濯かごを抱えた老婆。
「見つけたぞ……!」
喜色満面のヨシダさんが駆け寄った先には、今にも崩れそうな鉄筋コンクリート造りの建物跡。確かに大昔ラブホだったんだろうな、と思うような感じ。
昭和の終わりには既に少し古くなってて、それゆえに作りが頑強でモダンな四角張った外観にタイルやプラスチックの看板が割れたり色褪せたりしたまま残されている。
この建物に付けられていた名前は、もうわからない。満室と空ありを示すランプもそれらしき正方形が二つ並んだ枠だけがあって、パネルも電球もとうに割れて跡形もない。
植え込みが辺りの領域を伸び放題に侵食して、絡まり合いながら伸び続けた割れた外壁や窓から建物内部にまで入り込んでいる。この建物にまつわる無機物を記憶の街角に置き去りにして、植物やそこを這い回る生き物にだけ時間が流れている。
大阪ミナミ心斎橋のどこか。忽然と姿を現した時の霊廟に、洗濯かごを抱えた老婆が毎日のルーティーンのように、いささかの躊躇いも感じさせずに、天井の低い駐車場の汚れきって色の抜けたビニール幕を潜り、勝手口に向かってゆき、やがてバタンとドアを閉めた。それが街灯も届かない暗がりの奥でぼんやりと浮かび上がるようによく見えた。
「あそこだな」
その老婆の後を追ってヨシダさんもビニールを潜った。分厚いビニールは埃にまみれていて、そばに寄るだけでカビくさい塵埃を撒き散らしている。なるべく顔や服が触れないようにそれを押しのけてドクダミやヨモギの生い茂った駐車場に入る。コンクリートのひんやりした匂いに加えて、それらを踏み潰して漂う緑色の匂いも鼻をくすぐる。
粗末な扉は鍵もかかっておらず、若干緩んだドアノブを回しただけで引くともなく開いた。錆びついた蝶番が軋んで鳴いた。駐車場の倍ぐらい濃縮されたカビくさい空気が止まった時間の長さを思わせるが、ホコリまみれのカーペットには確かに一人分の足跡が続いていた。
「ホントにこんなとこ歩いてやがるのか……」
独言するヨシダさんもまた躊躇わずに踏み込んだ。ドアは風を待たずしてひとりでに閉じてバタンと鳴った。真っ暗になった廊下にヨシダさんが持ち込んだ懐中電灯の黄色い光輪がひとつ。足跡を辿りながら、辺りを照らしながら。
壁や天井にも変わったところはない。ドア付近の換気扇から入り込んだ蔦が暫く伸びていたけど、それも及ばなくなり。照明や調度品が設置されていたであろう痕跡だけを伺わせて、空っぽの廊下だけが残っている。そしてそこを日夜往復する老婆がいる。さらにそれを追いかけるヨシダさんが居る。
廊下の左右に幾つかドアがあって、それぞれリネン室やキッチン、事務所だったのだろうか。ホコリを被ったプレートやホワイトボードが時々、ライトの端にチラリと見える。フロアに敷かれた重たい紅色のカーペットの足跡はしかし、それらに目もくれず真っ直ぐ奥に向かっている。試しに触れてみたドアは、どれも固く黙り込んで開かない。
光も動くものもない、時間すら止まった廊下を黙ったまま歩いてゆく。靴底が砂埃を吸い込んで重たくなったカーペットを踏みしめる鈍い足音が、やがて突き当りのドアの前で止まった。そこで足跡も途絶えている。つまり
「こん中、か……」
ヨシダさんが懐中電灯を上下左右に振って辺りを見渡す。やはりこの中に入っていったと思われる。再びためらうこと無くドアノブに手をかける。当然のごとく、呆気なく開く。そして地下へと続く階段が姿を表す。何処からともなく水の流れる音がする。ヒンヤリとした空気が流れてきて、さらなる深みへと誘う……。
カツーン、カツーン、と乾いて硬い足音が湿っぽい階段に響く。地面を直接、掘り抜いたような壁や天井の岩肌がしっとりと濡れている。水音が心なしか大きくなってくる。老婆の姿は、もう見えない。長く深い階段だけがずっと下まで続いている。自分たちの周り、懐中電灯の光がうっすらと届く範囲のほかは、まるで黒く塗りつぶされているようだ。その真っ暗闇のなかに時々、虹色のあぶくが大小さまざまに浮かんで漂い、弾けてはまた浮かんでくる。これは一体なんなんだろう、ここは一体どこなんだろう、脳裏に浮かぶ疑問が酸素と比例して薄くなってゆくころ。どのくらい降りただろうか、足音すら響くそばから溶けてしまいそうな暗闇と階段が終わった。最後に弾けたあぶくの向こうから突然に現れたのは地下水路だった。
大阪ミナミを流れる文字通りの広大な暗渠であり、この街のあらゆるものを流して運ぶ血脈のような場所。轟々と鳴り響く濁った水流。カマボコ型の壁を覆う苔むしたレンガは暗い色に変わり果て、そこかしこにヒビの入ったコンクリートの床に染み込んだ水が灰色の傷跡を浮き上がらせている。
「なんだ……こりゃあ」
呆然と立ち尽くすヨシダさんの肩の向こうにも、背中の向こうにも、地下水路が伸びている。さてどっちへ行こうかと逡巡するヨシダさんの背後に、ゆらめく悪夢のような影。
「!?」
「ヨシダさん」
「っだよ、お前かよ! いきなり後ろに立つんじゃねえよ」
ヨシダさんがボクの右尻に鋭い蹴りを入れる。ばすん、という音が地下水路にこだまする。
「あれ見て」
「あん?」
振り向いたヨシダさんが見たものは……老婆の後ろ姿。頭越しに洗濯物までこんもり見える。「こんなとこまで歩いて来てるのか」驚きながらも後を追って歩き出すヨシダさん。
滑るように遠ざかる老婆。水音に巻かれながら響く足音。何処から流れてきて、何処へ流れてゆくのか。暗灰色の濁流がそこかしこから流れ込み、水路の歩道すれすれまで水があふれている。天井からも濁った雫がこぼれて来る。やがて角を曲がる老婆。低い天井と汚れきった床に転々と足跡。
老婆が姿を消した角にはエレベーター。古く小さな狭いエレベーター。えんじ色の扉が固く閉ざされ、汚れた窓の中は暗い。昔懐かしい丸い白ボタンやランプに書かれた数字はかすれきって読めない。というか一体全体何階なんだここは。
「オイ、ボタン押してみろよ」
「ボクが?」
いいながら右手で白いボタンを押した。たぶん昇るほうのボタンだ。かしゃり、と乾いた間抜けな音がして、どこかでエレベーターが動き出したのがわかった。消えかけのランプが瀕死の明かりを灯し、それが徐々に、しかし確実に降りてきているであろうことを示している。だが中々来ない。古いからか、ボロいからか、あるいは「お前、そういや野球好きだったな」
「な、何さ急に」
「いや。クロマティって居たなと思って」
「……まあ、ねえ」
「あれもお前と同じで右利きだろ」
「確かそうだったと思うよ」
言っているうちにエレベーターが来た。ぼんやりと薄暗い電球が切れかけて点滅している。かこん、と静かに開いたドアの向こうは天井からの水漏れでびしょ濡れになっている。のに、何の躊躇いもなく乗り込むヨシダさん。少しは怖くないんだろうか。
「オイ、行くぞ」
僕がおずおずと乗り込むとドアが閉まり、ボタンを押すまでもなくエレベーターが昇り始めた。ガタゴトと振動しながら壁天井の雫を滴らせ、それが「うえっ、冷てえ!」ヨシダさんとボクにも降りかかる。
電球の点滅が激しくなる。エレベーターも揺れる。前後左右に、縦横無尽に、そして水が溢れてくる。天井と壁と繋ぐあらゆる隙間から流れ込んで滴り落ちて、あっと言う間にボクたちもずぶ濡れだ。
「くそーっ、早く止まれ!」
シャツがピッタリ張り付いて素肌の透けたヨシダさんが、すっかり乱れた髪の毛からも水を滴らせて悪態をつく。激しく頭を振るしかめっ面の横顔に明滅する電球の光が陰影を刻む。
「これじゃラチがあかねえ! オイ、カズヤ!!」
ヨシダさんがボクを手招きしてエレベーターの中央に立つ。
「何やってんだ、乗れっ!」
しゃがんだヨシダさんの背中から広い肩幅と筋張った背中が透けて見える。その筋肉の蠢きまでしっかり視認るほど、彼の火照った身体が脈動している。その背中にゆっくり、ゆっっくりとボクが近づく。両手を伸ばし、すっかり濡れて光る首筋に指先が近づいてく。その気配を察し、ため息と苛立ちと怒りと、そしてその厚い胸の中に渦巻く疑念を燃料と動力にしてヨシダさんがゆっくり、ゆっっくりと立ち上がり向き直る。
「オイ、お前」
「な、なに?」
エレベーター内の雨量が増してゆく。土砂降りになった地下水脈直通昇降装置内は床上浸水、踝まで水に浸かっている状態。髪にも顔にも服にも膝から肩にも濡れた顔を拭う手のひらにも激流と化した水が降りかかり、飛沫を舞わせて霧になる。
ボクの髪から、顔から、服から、肩から膝から体温を奪われて、身体と空気の境目がなくなって、濡れた顔を拭う手のひらが溶けて、ボクがボクじゃなくなって。
濡れそぼつヨシダさんが束になって額に張り付き雫を含んだ豊かな前髪の向こうでギラつく視線をボクに突き刺す。
「お前……」
「……」
呼吸が荒く、怒りに燃えて熱くなる。
「俺の、」
手に持った懐中電灯を真っ直ぐ向けて照らし出す──
「俺の友達、何処へやった……?」
エレベーターの中でヨシダさんに詰め寄られていたのは、顔や頭皮が無様に溶け出し崩れかけた、170センチ100キロの肉塊。
「と、も……だち?」
「たしかにお前はあのデブそっくりだ。でもなあ、あいつは左利きだし」
「ぐ、ぐぶ、ぐぶ……」
「こんなとこまで、ずぶ濡れになるまで、黙ってボケっと付いちゃ来ねえ。ビビってガタガタピーピー言ってやがんだ、いつも」
「カズ、や」
「そうだよ。お前はカズヤによく似てらあ。でも、お前は、俺の友達じゃねえ!」
いびつになった口元から歯が抜け落ち、腐った歯茎の向こうに這い回る舌が糸を引く。ガアッと大きく開いた口からどす黒い液体を撒き散らしながら泥人間のようになった偽物が嗤う。アババババババ、と最早声にもならない音を口から鳴らして、真顔の目玉をしたまま嗤う。ヨシダさんに掴みかかり、首根っこを締め付けようと組み付いて嗤う。
「答えろ!!」
それを力づくで振り払ったヨシダさんの怒りに満ちた左ハイキックが、その泥人間の顔面をマトモにとらえた。湿った炸裂音と硬いものの砕ける音が狭い箱の中に響いて、濡れた内壁に目玉や鼻や顎だったものが飛び散った。がくり、と膝をついた衝撃でエレベーターが大きく揺れた。
ガタン、と、バチン、が同時に来て、古びた小箱が暗転した。と同時に動きを止めると、不吉な衝撃音とともに落下し始めた。激しい振動と金属やコンクリートの摩擦音が狭い空間に充満する。首のもげた泥人間は痙攣しながら横たわり、ほんの数ミリずつヨシダさんににじり寄っている。
「畜生、偽物も面倒な奴だな!!」
毒づきながらも足を踏ん張り懐中電灯を振り、天井の点検口を探す。
「だーっクソ!!」
が、届かない。前にエレベーターで怖い目に遭ったときは、肩車してフタを突破したんだけど……言ってる間に一際、大きな音が炸裂してエレベーターが暗闇の中に不時着した。跳ね飛ばされ壁に身体を強か打ち付けたヨシダさんが再び悪態をつきながら立ち上がり、ドアに手をかけようと──
かこん。と小さな音を立てて、ひしゃげたドアが呆気なく開いた。といっても歪んだ板が引っかかって、三分の二ほど開いたところで止まってしまった。それでも細身のヨシダさんなら、少し背をかがめれば楽に通れた。二、三歩歩き出して振り返る。粗末な四角い箱の残骸が時間を失って、二度と動き出さないであろうほどに朽ち果てている。そのわずかに開いたドアの向こうには、苔むした泥の塊がこんもりと山になっている。
それにはもう興味も関心も失くしたヨシダさんが歩き出した先には、薄暗い廊下。ほのかに、どこかから明かりが入っているのか暗闇に目が慣れて来たのか。懐中電灯の明かりが僅かに届かない天井の片隅もぼんやりと見通せる気がした。
濡れて重たくなった衣服と、鈍痛を伴う疲労で重たくなった足を引きずるように歩く。太ももを上げることも億劫で、靴底が床のカーペットを擦って逆立たせて、ここはさっき入ってきた廊下だと気づいて。
老婆の足跡、さっき自分がつけた足跡、そして……もうひとつ。さっきは無かったはずの足跡。見覚えのない、でも、心当たりのある足跡。
まさか。早打つ鼓動が目玉の奥まで圧迫して背中まで脈打つような、全身を血が巡る感覚。それを辿る、廊下を進む、突き当たる。眼の前のドアが揺れている。それを向こうからブチ破ろうと、激しく揺らしている奴が居る。ためらうことなく、外からドアノブを握って強く引っ張る。
それは実に呆気なく、そして勢いよく開いた。
悲鳴を上げながら泣き顔で転がり出てきたのは、170センチ100キロの肉塊。
「カズヤ!?」
「うわーーっ……ヨシダさん!」
それは間違いなくヨシダさんだった。暗がりに目が慣れていたせいで、懐中電灯の光が眩しい。眩しい、眩しいって言ってるだろ!
「何さ、そんなヒトの顔じろじろ照らさんでよ!」
「うるせえ、ドコほっつき歩いてやがった!」
「歩いとらんよ、閉じ込められとったじゃん!」
「なぁんでこんなとこ居るんだっつってんの」
「……あのあと、やっぱり引き返したんだ。ほいでヨシダさん見つけただけど、横に僕がおったじゃんね。それも一緒に歩いとるでオカシイと思って追っかけただけど、このドアを入ってくのが見えたもんで僕も入ったら真っ暗で、出れんくなって」
「ずっとここで暴れてたってわけか」
「んー、まあ」
「……帰るか」
「うん」
建物を出ると、紫立つ空を背負ったビルの隙間を縫うように、ひんやりとした風が吹いてきた。
「もうすっかり朝か」
「ところでヨシダさん」
「あん?」
「誰が友達だって?」
「……ああ?」
「オイ、俺の友達どこやった、って」
「!?」
流石のヨシダさんも驚きと恥ずかしさで足を止めた。僕は彼の方を向き直り、明け方の空に浮かぶネオンや看板の灯りを見ながら続けた。
「あのとき、僕は閉じ込められとったけど……たぶん意識が偽物と同調しとったじゃんね。化けるのにアタマの中、覗いてたのかも。だからアイツの見聞きしたことは全部、僕も」「だーーうるせえ!!」
耳まで真っ赤にしたヨシダさんに思いっきりケツを蹴られたが、今回ばかりは気分がいい。
「痛ってえな! でね、エレベーター乗る時も」
「うるせえってんだよ! 」
「イヒヒヒ、やっぱり一人じゃ寂しいもんね」
「ドアん中で泣きながら暴れてやがったくせに!」
「一人じゃ寂しいくせに」
「バカヤロー、まだ言うか」
「まあまあ、とりあえずJさんのお寺に帰ろうよ。御堂筋まで出ればタクシー捕まるでしょ」
「なにい!? もう千日前線だって動いてるだろ、乗るぞ!」
この期に及んでもタクシーには乗らないヨシダさんであった。
「心斎橋地獄変」おしまい。




