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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん #2
36/41

その1「三ツ寺(ミッテラ)能面少女」

 千日前通の交差点でタクシーを降りて、イルミネーションがきらめく冬の御堂筋を北へ。

 さすが大阪の中心地、夜遅くでも大勢の歩行者や自転車が行き来していて、車道でもタクシーやトラック、パトカーまでもがバンバン走っている。


 横断歩道を渡ってロイヤルホストを通り越し、グリコの看板を横目に見ながら橋を渡って、さらに歩く。吐く息が白く、騒がしい街角に流れて溶ける。ドラッグストアの店先に置かれたラックの足元で、古いラジカセが色々な国の言葉で何やら叫んでいる。

 検問と無言のお巡りさんがじっと立ち並ぶ通りを進んで御堂筋三ツ寺の交差点を左に折れてすぐ、焼肉の匂いと煙の向こう、人も車も絶えず行き来する狭い交差点の角に立つ古いが立派なビルが見えてくる。

 それが日宝三ツ寺会館、今日のヨシダさんとの待ち合わせ場所だ。


 この背が高くて二枚目だがちょっとガラの悪い酒豪のオッサンとの付き合いも長い。元々は東京で知り合ったときに同じ愛知にゆかりがあることが判明したのが、今じゃこうして大阪のど真ん中で酒を飲むようになっているのだから世の中わからないものだ。新宿駅西口であのオッサンのタクシーを停めたのが五年ぐらい前だったから……おっと着いた。待ち合わせの時間よりちょっと早い。えっと聞いてたお店は地下にあったはず……。


 タイルが割れたり手すりがひしゃげたりして凄い様相の階段をおっかなびっくり降りていくと、どこの壁やお店のドアにも無数のステッカーにポスター、いつからそこにあるのかわからないようなフライヤーが所狭しと貼られている。

 低い天井と白っぽい灯りの狭い通路に、そこかしこのお店から漏れ聞こえる笑い声や歌がこだまして、外の喧騒に溶けてゆく。


 目的のバー「プカプカ」はすぐに見つかった。ギターの形をした看板に白い文字でプカプカと店名が書いてあって、そのすぐ下の年季の入ったドアをガチャリと開けると、あたたかな空気がふわっと流れてきた。店内はカウンターに並ぶ酒瓶のほかは殆どが映画のポスター、様々なレコード類、さらには書籍にマンガなどで埋め尽くされている。

 昔、近所の団地に住んでた年上の洒落た男友達の部屋がこんなだったっけな。ヨシダさんは黒縁眼鏡に赤いベレー帽の店主らしき男性と何やら話し込んでいたのをやめてコッチを向くなりひと言。

「おお」

 と言って手元のグラスをぐいっとあおった。店主は僕にも椅子をすすめてくれて、腰掛けると小鉢に入ったスナック菓子を用意しながら

「なんにします?」

 と尋ねてきた。とりあえずコーラを頼むと

「お前は相変わらずだな」

 とまたヨシダさん。

「弱いだもん、知っとるじゃん」

 と言い返しながら椅子の位置をずりずり直す僕。

「カウンターに腹がつっかえるんだろ、デブ」

「るせえやい、飲んだくれ」

 会うなりこんなやり取りをしている僕らを見て苦笑いをしつつ、店主が

「まあまあ、仲良く、ね」

 とノリを合わせつつ大袈裟に仲裁するような仕草で僕の前にコーラを置いた。どうやら気さくな人らしい。


「どっから来た」

「生玉? ってとこ」

「早かったじゃねえか。まーたタクシー乗りやがったな、テメエ」

 この人は何故か僕が自分以外のタクシーに乗ると機嫌が悪い。業界に貢献してるのに。

「まあいいや。あ、コイツ格闘技とかプロレス好きなんすよ」

 急に店主に僕を紹介し始めるヨシダさん。それにしたってあんまりな紹介だ。性別とざっくりした趣味以外の情報がなさ過ぎやしないか。

 でも、まあ、そんなもんか。

 だいたい僕とヨシダさんにしたって奇妙な趣味がもとで今もこうして飲んでいるのだから。ちなみにその奇妙な趣味とは……。


「で、今日どこ行くの」

「なにが」

「またなんかあったんでしょ、おっかないとこ」

「ああー」

「どーすんの、もう結構飲んじゃってるじゃん」

「大丈夫、大丈夫」

「なんでさ」

「だってココだもん」

「は!? ココぉ?」

「そ」

「ココに出るの?」

「そ」


 確かに古いビルだが、こんな繁華街の。しかも難波からも心斎橋からも近くて便利で賑やかな……言うなれば世の中にここまで立地のいい怪奇スポットがあるもんなのか。

「しょーがねえだろ、出るんだから」

「見たの?」

「いーや」

 壁にかけられたマーチンのアコースティックギターと、そのすぐ上の天井に貼られた映画ブルースブラザーズのポスターを見ながら僕はさらに問い詰めた。

「さてはアンタそれを確かめるつもりだな」

「そ」


 ガチャリ、とドアが開いて、お客さんが入ってきた。店内にこもっていた熱気が外のコンクリートのにおいがする冷たい空気と入れ替わって心地よい。僕とヨシダさんは一つずつ奥に詰めて、ついでに飲み物のお代わりをもらうことにした。

「ハイボール、あとコイツにも同じで」

「オイオイ」

「いいじゃねえか、どうせ腹いっぱい食ってきたんだろ」

「そうだけどさ、なら梅酒のロックがいい」

「何をテメエ」

 またしても苦笑いしつつ二人分の飲み物を素早く用意してくれた店主が向こうのお客さんと話し始めたのに背を向けるようにして、ヨシダさんは再び話し始めた。


「俺もコッチ来て暫く経つけどよ。とにかくミナミで酒飲む客は言うんだよ。いっぺん三ツ寺会館ココは寄ってみるとイイって。特に俺みてえな酒飲みにはピッタリだって。んでな、じゃあ今度行ってみますわー、って答えるだろ? すると、せやけど明け方気ぃつけや、って必ず言うんだよ」

「(ゴクッ)」

「ココで夜通し飲んでるとな、明け方ぐれえになると突然、廊下をバタバタバタッ! と走る音がするんだと。最初は、まあ他の店で飲んでる奴が騒いでるんだろって思うんだ」

「(グビッ)」

「実際、そーゆー酔っ払いもいるからな。だけど、それがだんだん近づいてきて……自分の飲んでる店の周りを走り始めたら……」

「(ゴキュッゴキュッ)」

「テメエ聞いてやがんのか! ビビってるかと思いきや酒ばっか飲みやがって」

「いや怖い話をツマミに……」

「バカ野郎。このあとオメェーも行くんだよ」

「やっぱり」

「でな、その足音がバタバタ聞こえるわな。そこに笑い声が混じるんだよ。ケラケラ笑ってる女の声がする。そのうちそれがゲタゲタゲタゲタ! って尋常じゃないぐらいバカでかい狂ったみてえな笑い声になって……ただ事じゃねえなと思って店の外に出てみると──」


 そこにはな、顔に能面をくっ付けた若い女がフラフラしながら立ってやがるんだと。

 ソイツは夏でも冬でも薄着で、ボロボロのキャミソールだとかワンピースだけ着て、千切れたり破れたりしたままの網タイツに目の覚めるような赤いヒールを履いてんだ。

 肌もアチコチ傷だらけで、長い茶髪はボサボサ。そのうえヘラヘラ薄ら笑いを漏らしてるかと思いきや狂ったように


ゲタゲタゲタゲタ!!


 って急にまた笑う。声は確かに聞こえっけど、顔はお面でわかりゃしねえ。生きてる人間なのかもハッキリしねえ。そもそもソイツがいつから、なんでここにいるのかすら誰も知らねえんだ。

 それに必ず出るってわけでもねえ。ただ出やすい周期だとか、なんか法則があるはずだと思ってな。それで、このビルで飲むついでにアチコチのお店で色々聞いたんだ。そしたら、このプカプカさんがこのビルで二十年以上やってるって言うんでな。マスターから色々話を聞かせてもらった。

 そうしたら、やっぱたまーにココの前、通るんだと。お客さんもビックリするかと思いきや、みんなそんな時間じゃグデングデンだろ、大して驚きもしなきゃ気にする奴もあんまりいなかったんで、割とほっとかれたらしい。


 店にしても何か悪さしたり、迷惑かけられるわけじゃねえからな。何しろ普通に生きてる人間の客の方が酔いつぶれたり、そこらでゲロ吐いたり、店のグラス割ったりしてさ、そっちのがよっぽどなぐれえだって。

 でさ。まあそんな風に無害だってんでそっとしておかれてたんだけどよ、今度は舐めてかかった奴が捕まえたり追いかけたりしようとしたことがあったんだ。噂じゃ十年ぐらい前だったか、ある店で飲んでた奴ら数人が足音と笑い声を聞いたあとで、この話を知って調子に乗ったんだな。店のドアの内側で待ち構えていて、近づいてきたところをバーン! と飛び出して追っかけていった。能面の女は構わずに店の前を走り去って行ったんだが、それっきりその夜は戻ってこなかった。


 能面の女も、追いかけていった奴らもな。


 最初は飲み逃げされたかと思っていた。ところが、その愚痴混じりの噂が広まった頃、店にやってきたのは二人組の警官だった。その警官が言うには、最近ここの店で飲んだっきり消息がわからなくなった人が立て続けにいるから聞き込み調査をしているんだと。それで知ってる限りのことを話したんだが、何しろ飲み屋さんだから顔見知りばかりが来るとも限らない。あの夜、別の店で足音を追いかけていったのも一見の客たちだったっていうしな。そんで……


「ギャハハハハハハハハハハ!」


 バタバタバタバタバタバタッ

 ヨシダさんの話をさえぎるように、突然張り裂けるような笑い声が響き渡り、店の外を誰かが勢いよく走り抜けていったようだった。ビクッと背筋を伸ばしてドアの方を見る僕の視界をぬっとさえぎって

「お、早速来たか」

 とヨシダさんの後頭部が言う。

「出たの……?」

「さあーな」

 聞いていたよりずっと時間が早い。それに他のお客さんや店主も、別段気にも留めない様子で話を続けている。

「まあ出たんなら出たで、また来るだろ」

「なるほど」

 僕たちも再び飲み始めた。話が途中で終わってしまったので、その続きを催促しようとした、その時だった。

「あはははははは! きゃはははは!」

 ばたばたばたばた!

 また来た。

 今度ばかりは店の中の空気が一瞬だけ止まった。他のお店から聞こえてくる音も、心なしか小さく遠く聞こえた。

「ヨシダさん、おいでなすったよ……」

「おう、いよいよだな」

 お会計を、と言おうと思った次の瞬間また聞こえてきたのは


「え、や、ちょっとホンマ待って! めっちゃ痛いー!」

「アホやん自分!」

「ちゃうねん、もー!」

 さっきの笑い声の主と思しき声と、その連れ。女性二人組がどこぞで飲んでて、片割れが寄って走り回っていたが角で滑って転んだらしい。

「な、なんだ人騒がせな」

「お前ホントはビビってたんだろ」

「うるさいな酔っ払い」

「お前のが顔が赤いじゃねえか」


 さらに夜もふけて。日ごろの疲れや酔いも回ってきたこともあり、正直ちょっと目的を忘れてしまっていた。暖かな空気のこもった室内でいつも通りの不毛な議論に熱を上げ、ときに罵倒し合いときに笑い合うひととき。すると


「ギャハハハハハハハハハハ!」

 バタバタバタバタバタ!


 その不意を突くように突然響き渡る笑い声と足音。その時はお客も僕とヨシダさんだけになっていたので、少しシンとしていた店内の静寂を切り裂くように左から右にバタバタバタバタと通り過ぎていった。

僕は驚きと恐怖で一気に酔いが醒めた。ヨシダさんもさっきまでの下世話な話(とてもじゃないが書けない。ジャンルも変わっちゃうし)をしている時とは打って変わって、目つきが一気に鋭くなった。手に持ったグラスをそっとカウンターに置いて、二人でじっと耳を澄ます。

 店主がBGMに流していた落語の音量を絞って、桂米朝の「まめだ」がスピーカーから遠ざかって行く。そしてそれと慌ただしく入れ替わるように


「ギャハハハハハハハハハハハハハ!」

 バタバタバタバタバタバタッ!


 また来た。地下の通路を走り回っているらしい。息を殺すようにしているせいで周囲のお店の音や声が漏れ聞こえてくる。その重低音と嬌声をつんざくような笑い声と足音。やがてその静けさは三ツ寺会館の地下をじわじわと侵食し、そっと、確かに黙り込んでゆく。不自然なほど静まり返った地下の回廊には賑やかなフライヤーにステッカー。行きに見た光景の中を走り回っているであろう笑い声と足音。


「ギャハハギャハハギャハハハハハハ!」

 バタバタバタバタバタ!

 バタバタバタバタバタバタドタバタ!

 さらに響き渡る声と足音。

「ギャアーーーーーハハハハハハハハ!!」

 バタバタバタバタバタバタバタバタ!


「よ、ヨシダさん……これ」

「今度こそ決まりだな、さて」

「え、い、いぃ行くのぉ!?」

「生野も鶴橋もあるか、なんのために来たんだオメェーは。いつまでも酔っ払ってるんじゃねえよ。あ、すいませんチェックで」

「ギャハハハハハハハ!」

 バタバタバタバタ!

「はい、ホンマに行かれるんですね」

 店主も苦笑いだが、その瞳の奥にほんの少しだが好奇心が見え隠れする。誰だってみんな気になるのだ。だが付き合わされる僕は引きつり笑いだ。飲み代をヨシダさんが持ってくれたことがそのことをより強固に決定づけてしまった。

「ええ、じゃ、ちょっとそのツラ拝んで来ますよ。ホラ、早くしろデブ!」

 ヨシダさんは言いながらグレーの長いコートをさっと翻して店のドアに手をかけた。僕は慌てて阿倍野区の古着屋さんで買ったアメリカ製の赤と黒のジャケットをひっつかんで立ち上がった。

「あの、ごちそうさまでした」

「気ぃつけてくださいね、ほな」

「ギャハハハハハハハ!」

 さっきからやけに声がよく聞こえる。

「ねえ、さっきからやけに声がよく聞こえない?」

 思ったことをそのまま口に出してみた。

「ああ、行ったり来たりしてやがら。話が早えや」

 言うが早いか、ヨシダさんは店のドアをバン! と勢いよく開けて顔を出した。


「イヒーーーーーイヒッイヒッイヒッ!」


 つられて僕も顔を出した。途端に冷たい空気が鼻の奥を刺す。コンクリートとしめっぽい匂いが入れ替わる空気に交じって滑り込んでくる。

 すると、さっきまで行ったり来たりを繰り返していたらしき挙動で、この寒いのに薄着に黒いロングヘアの女性が踵を返して走り去って行くのが見えた。

「アイツだ、行くぞ!」

 ヨシダさんはグレーのコートをバサバサとなびかせて夜の地下回廊をやおら駆け出した。僕はそれについて行こうとする。

「バカ、お前までコッチ来るな! 向こうだ、向こう!」

「あ、そっか!」

 走りながら怒鳴るヨシダさん。僕はUターンして走り出した。挟み撃ちにしようというわけだ。案外アッサリとカタが付くかもしれない。あの時、一瞬でもそんな考えが頭をよぎった自分が憎い。ひんやりと冷え切った地下を走る、走る。バタバタとこだまする幾つかの足音。

「和哉、行ったぞ!」

 廊下の反対側でヨシダさんが叫ぶ。僕も角を曲がる。

 誰もいない。何もかも嘘だったように静まり返った回廊に、表の喧騒に混じって足音と笑い声が響く。

「上だ!」

 曲がり角には階段。角から現れたヨシダさんは躊躇なく階段を駆け上がった。僕も続いて表に出た。そのままさらに上に続く階段を駆け上がって、ヨシダさんは二階へ、僕はそのさらに上の三階へ。下でヨシダさんが走る音が聞こえる。


「ギャハハハハハハハ!」

 いる! 近くにいる!

 バタバタバタバタバタバタバタバタ!

「ギャハハハハハハハハハハ!」

 いた! この廊下の奥だ!

「ヨシダさん!」

 僕が叫ぶより早く彼は階段を駆け上がってきた。夜遅くまであれだけ飲んで、おまけにいい年こいてるくせに息一つ切らさず背中を向けたまま叫ぶ。

「お前は向こうだ!」

 そしてまた走り出す。僕もヨシダさんと反対側に走り出した。ドア、フライヤー、ポスター、ゴミ箱、傘、自転車、パンティ、ドア、ポスター、ビールケース……びゅんびゅん移り変わる色とりどりの狭い景色の向こう、天井の明かりと街灯の光が差し込む交差点、その影のなかに能面が浮かんで、長い髪の毛をなびかせて消えた。


「ギャハハハハ!」

 僕は既に息切れをして、ぜえぜえ言いながら彼女を追いかけた。もつれる足を引きずるように走って、ドアばかりのこのビルには珍しい引き戸の前を通り過ぎ、さっき登ってきた階段の前まで来た。ヨシダさんも反対側からやって来た。

 いない……?

「オイ、どこ行った?」

「え、そっち行ったけど……?」

「バカ、お前の方に走ってったんじゃねえか」

「だから、挟み撃ちにしたん、じゃない、のさ……」

 ゼエゼエ息を切らして反論する僕のケツを軽く蹴って、不機嫌そうに振り向いたヨシダさんが絶句したまま立ち尽くした。

「どうしたの……」

「和哉、後ろに」

 ヨシダさんの顔と、そこまで聞いて全部わかった。

「よせ!」

 ヨシダさんが止めるより一瞬早く、僕は振り向いてしまった。体が完全に後ろを向くより早く、まったく無表情で冷たい目をした能面が僕の顔を覗き込んで、しゅうしゅうと荒い呼吸をしていた。

「ぎゃあああああああああ」

「カズヤ!」

 ドタドタバタバタ、ドスン! 

 驚きのあまりバランスを崩した僕はそのまま階段を転げ落ちた。そのまま這うように二階へ退却して息を整える。体中が鈍く熱いが不思議と痛みは感じない。これほどの大立ち回りをしているにもかかわらず、往来から聞こえてくる賑わいとお店のドアの向こうから聞こえてくる話し声や音楽が混じり合った不思議な静けさを保ったままの三ツ寺会館を吹き抜ける、冷たい夜風が汗ばんだ体に心地よい。


「だいじょうぶー?」

 廊下の片隅に倒れ込む僕の顔を覗き込んだのは、世にも派手な髪色をした美人のお姉さんだった。

「あ、あの、はい、大丈夫……です」

「酔っぱらった?」

 甘くて良いにおいがする。

「あ、はい、ちょっと……」

「気を付けてね、寒いからね」

 顔中ピアスだらけで、ちらりと見える素肌もタトゥーに覆われている。なにより、とっても美人だ……。


「ぬぁに鼻の下伸ばしてんだ、デブ」

「よ、ヨシダさ」

「バカ起きろ!」

 美人のお姉さんと入れ替わりにやってきたこの無慈悲なオッサンは軋む体を引きずるようにのそのそ起き上がろうとする僕の背中を軽く蹴り、腕を組んで引き上げた。

「イテテテ」

「怪我してねえか」

「大丈、ぶ……? ヨシダさん、あれ」

「あん……?」

 僕が指さして、ヨシダさんが振り向いた視線の先には小豆色の狭いドアをぴったり閉ざしている、明かりの消えた古いエレベーター。


「このビル、エレベーターなんて洒落たもんがあったんだな」

「あんたしょっちゅう飲んでるんじゃないのかよ」

「バカ、ここじゃ誰もエレベーターの話なんかしとりゃせんわ」

「てかこれ、誰か使ってるのかな。いやむしろ使えるのか……?」

「さあーな、こんなもんでも動きゃ便利だろうが……」

「そういえば、その、アイツは?」

「ああ、お前が転げ落ちてったのを見てすぐまたどっか走ってったよ。まだいるんじゃねえの? 上に」

「じゃあ、アレなに……?」

 僕が指さして、ヨシダさんが振り向いた視線の先の小豆色の狭いドアの小さな窓に明かりがついていて、古いエレベーターがまるで手招きをしているかのようにじっとそこで停まっていた。

「いま、誰も乗ったり降りたりしてない……よね」

「オメェーそこでずっと見てたんだろ」

「……乗る?」

「……」

 ヨシダさんは僕の問いかけに答える代わりに、踵を返してツカツカと歩き始めた。エレベーターは相変わらず明かりだけを灯してじっとしている。すっかり文字のかすれた白いボッチを親指で押すと

 かしゃっ。

 と間の抜けた音がしてボッチが引っ込んで、それとほぼ同時に

 かこん。

 と低く小さな音を立てて小豆色の狭いドアが左側に開いた。ヨシダさんは躊躇うことなく、黙って乗り込んでこっちをじーっと見ている。こんな動くのかもわからない、いつあの能面の少女が出てくるかもわからない、おんぼろエレベーターの狭い箱のど真ん中で腕組みをして仁王立ちだ。僕が意を決して乗り込むのを待っていやがるんだ。そんでもって乗らないとあとで何を言われるかわかったもんじゃないんだ。参ったなあ……やだなあ。


 うつむき、めいっぱい躊躇いながらも恐る恐るエレベーターに乗り込んだ僕の顔を見てヨシダさんはニヤっと頬の端で笑った。

「とりあえず降りっか。下へ参りまぁす」

「はーいお願いしまーす」

 ご丁寧に行き先まで告げてくれたので、もう僕も腹をくくってこのオンボロ昇降箱に身を委ねることにした。

 かこん

 とビルの片隅の闇に紛れてしまいそうなほど低く小さな音がしてドアが閉まり、ググーっと内臓まで震えそうな振動と共にエレベーターが下降してゆく。ごくゆっくりとした速度なのは、元々こういう仕様なのか、それとも経年劣化なのか。やがて小さな箱が二階部分に差し掛かった、その時──

「あっ!?」

「うお!!」

 僕とヨシダさんは同時に声を上げた。二階のエレベーター扉の前に、こっちを向いて能面の女が立っていた。廊下の明かりが逆光になって能面のゆるやかな起伏を薄暗い影がなぞる。エレベーターはゆっくりと、微動だにせず立ち尽くす能面の女を通り過ぎ、やがてまた暗いビルの床の中へ。


「い、いた……」

 ゴトン! ガタン!!

「わあっ!」

「上か!?」

「ギャハハハハハハハハハハ!!」

 なんてこった! 能面の女がどこをどうしてか僕らの乗っている箱の真上に乗ってきた。戸板一枚下は地獄、バンバン響く足音とけたたましい笑い声。鳴りやむことのない恐怖の騒音が小さな箱の中に充満する。エレベーターの間抜けた白ボッチを押せるだけばんばか押すけど、止まるどころか反応すらしない。ボタンを押してたはずの、このオンボロ昇降箱が止まるはずの一階すらもゆっくりと通り過ぎ、そのまま地下に向かって降下してゆく。いっぽう上ではお構いなしにバンバンのギャハハハだ。


「わあーーっ! わーあーーー!」

 僕はやみくもにボタンを叩いては怯えるばかりだった。何しろ真上では

「ギャハハハハハハハ!」

 バタバタバタバタ、バンッバンッ! ダンッダンッ!

「こんにゃろう、ナメやがって……!」

「ヨシダさん、まさか!」

「ギャッハ、ギャハハ、ギャハハハハ!」

 バタバタバタバタ

「おう、あの洒落たお面かっぱいで、ちょいと可愛いお顔を拝んでやろうじゃねえか。バカ野郎この野郎」

「やめりんって、そんなんアンタわやだでいかんて!」

 恐怖と焦りと、だけどちょっと高揚した好奇心とで三河弁が丸出しになった僕を無視してヨシダさんはエレベーターの天井から外に出るための四角い板を留めている金具をガチャガチャといじくっている。


「ギャハハハハハハ!」

 バン! バン! バン! バン!

「だーくそ、長いこといじってねえからピクリともしねえ……年寄りのポコチンじゃあるめえし」

「こんな時によくそんなこと言えるな!」

「あーーーもう!」

 バァン!

 この音は上からじゃない、いや僕の頭上ではあるものの、エレベーターの内部から出た音だ。業を煮やしたヨシダさんが天井の四角い板を思いっきり拳で突き上げたのだ。背の高い彼が拳を突き上げると、天井板ぐらいなら楽勝でブッ叩くことも出来た。いわゆるアントニオ猪木の ダーーッ! と同じ格好で何度もその場で天井板を突き上げる。その間も上じゃバタバタのギャハギャハだ。

 バァン! バァン!

 流石の金具も段々とひしゃげてきて、板が天井から少しずつ浮くようになってきた。ヨシダさんは真っ赤な顔をして、拳からはうっすら血がにじんでいる。その手を少しさすりながらキッと僕の方を見るや

「乗れっ!」

 と言ってしゃがみ、自分の肩を指さした。僕はヨシダさんの首を跨ぐようにして立ち、そこに体重を預けた。

「行くぞ! カズヤ、やれ!」

 そう言いながらヨシダさんは膝のバネを使って一、二、と呼吸を合わせて勢いよく立ち上がった。それに合わせて今度は僕がウルトラマンのように拳を突き上げ、四角い天板に激突した。

ガッパン!

 と、鈍く強烈な音がして金具がひしゃげて弾け飛び、天板はエレベーターの内側にだらりと垂れ下がって蛍光灯の明かりを遮りながら揺れていた。僕とヨシダさんはそのままの勢いで倒れ込み、天井の四角い穴を見上げる格好になった。

「あっ!」

「げ……!」

 見上げた四角い穴をひょい、と覗き込む能面がひとつ。息をのむ。せいぜい数十秒だったはずの沈黙が重く永遠に感じるほど静かな小箱。

「……」

「……」

「……」

 笑わない、逃げ出しもしない、僕も起き上がれずにいた。硬く冷たい眼差しが細長い相貌から突き刺さる。じーーーっと音がしそうなほど、こっちを見つめて視線を離さない。エレベーターの明かりが反射して、箱の外側の配管やワイヤーまでうっすら見えてくる。不意に、視点のピントが能面から外れた。ゆっくりと、前後左右にゆらゆらと回転しながらそれが落下してくることに気付いた、その刹那。

 カツーン!

 と固く乾いた音が四角く細長い暗闇に響いた。

「ひぃっ!」

「うお!」

 僕は勿論、流石のヨシダさんも驚いて、座ったまま後ずさった。天井の穴から落っこちてきたのは、つける人のいなくなった能面がひとつ。

「……いない?」

「そんな」

 見上げた天井には、もう誰もいなかった。さっきまでそこに、こんな能面がひとつ浮かぶようにして存在していたのが嘘のように、ぽっかりと四角い穴だけが開いている。


 かこん。

 低い音がして、エレベーターのドアが開いた。

「オイ……」

「ココ、どこ?」

 ドアの外に広がっていたのは、さっきまで走り回ったりお店が並んでいたあの地下ではなく。もっと廃れたというべきか、天井の明かりだけがぽつりぽつりと点いているだけのセピア色の寂しい廊下だった。

 お店があった形跡はある。というか構造自体は上と似ている。だけど、廊下の左右にあるどのドアも看板も煤けていたり汚れていたり掠れてしまったりで名前はおろか一体いつからあるお店だったのかもわからない。そんな埃っぽくて不気味過ぎるほど静かな廊下がまっすぐ伸びている。コンクリートがむき出しになったうえに砂ぼこりの溜まった床に、足跡が点々と続いていた。


「これって」

「来い、ってことだろうな」

「ええええー……」

「るせえ、どーせ戻れっこねえだろ」

「ええええー……」

 どのボタンを何度押してもエレベーターはウンともスンとも言わない。

「いーから行くんだよ。それから、コレ持っとけ」

「ぎゃ!」

「るせえ!」

 ヨシダさんが手渡してきたのは、さっきエレベーターで拾った能面だった。

「僕が持つのかよ」

「そ」

「なんで!」

「ヤだもんよ、オレ」

「こっちだってイヤだよ!」


 散々罵り合いながら、寂れ切った無人の地下街をおっかなびっくり歩く。薄気味悪いのと怖いのもあって自然と声が高くなる。閉ざされたドアの向こうからは、なんの音も声も聞こえてこない。ただ二人分の足音だけがコツコツと響くだけ。

 時々、曲がり角がある。通路の端に寄せられたまま埃をかぶった看板も、転がったままの自転車も、畳んだままの台車も、閉ざされたままの引き戸も、頑丈にふさがれたドアも、長い間微動だにしなかったはずの空間に紛れ込んだ違和感が空気に交じって鼻から肺に滑り込んでくる。つまりはかび臭い。

 ひとつ、ふたつ、角を曲がって行くたびに口数が減る。靴音だけが二つカツンコツンと響く。まるでカタコンベだ。この街に、このビルに残された色んな思念や人生や汚れや感情が埋葬された、三ツ寺会館という五十年もの歴史そのものを乗せた幻の地下墓地。

 この閉ざされた扉ひとつひとつが霊室のようなもの、このビルそのものが霊廟のようなもの。そしてこの地下通路は……唐突に行き止まりになった。


 目の前には古びたドアがひとつ。他のくすんだものとは違って一枚板を濃い赤で塗った立派な片開きのドアが僕たちを待っていたかのように閉ざされていて、足跡もココで途絶えていた。つまり次の一歩は、このドアの向こうということになる。

「ヨシダさん、どうする?」

 と最後まで言いきらないうちに、何も言わずにドアノブをガチャリと回すヨシダさん。相変わらずこの人には躊躇なんてものがない。

 ガッチャ

 イイイイ

 ギギっと砂を噛む嫌な音と蝶番のきしむ音が混じり合った不協和音が地下通路に響き、呆気なく最後のドアが開いた。


「お……?」

 思いのほか反応が鈍い、というよりも戸惑っているようなヨシダさんの声。その後ろからドアの向こうを覗き込んでみると、そこには。

「え、これって」

「可愛い、フツーの、女の子の部屋……だな」

 ドアの向こうは小綺麗な、普通の部屋だった。どこか田舎から上京してきて、電車を乗り継いで郊外のアパートで一人暮らしをしている若い女の子の部屋って感じだ。昔お付き合いをしていた女の子の部屋もこんな感じだった。

「ウソつけ」

「ホントだもん」


 さっきまでの風景とあまりに違っているので驚くやら、かえってマトモ過ぎる風景が異様なやらで、僕とヨシダさんは狭い玄関で立ち尽くしていた。そういえば、と振り向くとドアもよくあるアパートのドアだった。さっきまでの濃い朱色の重厚なものではなく、もっと軽くて白い薄板のドアだった。


 つまりここは名実ともに、どこかにあるどこにでもある普通の女の子の、一人暮らしの部屋だった。二人して一応靴は脱いでお邪魔してみる。玄関からすぐに狭いキッチンと、このドアの向こうはユニットバスだろう。その向こうに六畳ほどの部屋がひとつ。

 壁にかかったハシゴはロフトに上がるためのもの。狭い路地に面した窓から良く晴れた青空と、向かいの家のブロック塀、その向こうにこんもりとした木立、土手、鉄橋を走って行く電車が見える。


 さっきまでと打って変わった明るい世界。ただ一つ、気味が悪いほど静まり返っている世界。鉄橋を渡る電車のガタンゴトンも聞こえない。というか、自分たち以外に人が居る気配がない。

「ヨシダさん、あれ、阪急じゃない?」

「おお、本当だ。お前よくわかったな」

 鉄道が好きなおかげで関西在住ではないものの、あの茶色くて四角い車体には見覚えがあった。つまりここは、大阪近郊のどこかにある、フツーの可愛い女の子の部屋なわけだ。

「誰もいないね……」

「ああ、この部屋には、な」


 ぴちょん……。


 その時。ずっと静かだったこの部屋のなかで初めて僕たち以外の物音がした。

 ぽちょん……。

 また。物音というよりはもっとわかりやすい、水音。そしてそんな音がしそうなのは

「やっぱり、そこ?」

 僕とヨシダさんが同時に指をさしたのは、この静かな世界で唯一閉ざされたドア。玄関入ってすぐ横、バスルームに繋がる縦長の扉だった。これだけがこの部屋の中で閉じたドア、つまり、僕たちが開くべき次なるドアということになる。

「あ、開けるの……?」

「ったりめぇだろォ~」

 そう言いながら、ヨシダさんは早速その白いプラスチックで出来たL字型の取っ手に手を伸ばした。この人には怖いものが無いんだろうか。でも、僕もそのドアの向こうから目が離せなかった。カチャッと拍子抜けするほど軽い音がして、キイィィ、と蝶番を軋ませながらゆっくりとドアが開く。

 バスルームの中は暗い。狭い浴室と洋式便器だけの細長い箱のような空間だけが真っ黒に塗りつぶされたように、ぽっかりと口を開けた。

 そして、次の瞬間。部屋中に得体の知れない異臭が充満し始めた。

「うえ……うげええ」

「なんだこれ……オイ! 何かあるぞ!?」

 猛烈な異臭に流石のヨシダさんも片手で口元を抑えつつ、もう片方の手で浴室の壁を手探りで叩くようになぞり、やがて照明のスイッチを探り当てた。

 バチッ!

 という音から一瞬遅れて、淡いオレンジ色に近い明かりがポウと灯る。そして照らし出された浴室には──


 壁一面に素手で塗りたくられたような血痕と、便器いっぱいに溜まった血液と赤黒い何かの塊。そしてバスタブの水の中にうつ伏せのまま沈んでいる、髪の長い女性。

「わあーーーーーーっ!」

「落ち着け、カズヤ! 落ち着け!」

 これが落ち着いていられるか。この狭い箱状の浴室内は壁といい天井といい狂ったように血が塗りたくられており、便器には溢れんばかりにそれが溜まっている。さらに悪いことに、その血だまりの奥には……何かもっと厭なものが沈んでいるのがうっすら見えてしまった。辛うじて目玉や背骨のようなものが判別出来る、何かが。


 そしてバスタブには、うつ伏せに沈んだ女性の黒く長い髪の毛が、血と腐肉の溶けこんだ水のなかで、ゆらゆらと揺れながら広がっていた。

「う、うげ!」

「だーっ、吐くな吐くな!」

「だって、だって、これ……この人、し、し」

「ああ……死んでるな」

「どうしよう」

「どうもしねえよ」

「どうして!?」

「るせえなあ、死人が目を覚ますぞ」

「うるさいって、だって、……げっ!?」

 僕たちの騒ぎを聞いて、浴槽の中の彼女が寝返りを打つようにゆっくりと体の向きを変えながら浮かび上がってきた。そしてぷかりと見せたその顔には

 ひび割れた能面

「ぎゃあああああああああ!」

「だからうるせえって!」

 だって、だって、これ……もう口がパクパク動くだけで言葉にならない。声も出てこない。ただたださっきまで僕たちを追いかけ回してきた、あの能面の正体が頭の片隅でチラチラと理解できてしまいそうで、僕の脳みそはそれを全力で拒んでいるようだった。だって、こんなの、酷すぎる……惨すぎる!


 水死体は能面を被ったまま、音もなくバスタブの中で揺れていた。腐った体と血液と衣服が全部混じった最悪の浴槽のなかで。人知れず、大阪の繁華街の地下世界で。きっと、ずっと、揺れていたんだ。

「……帰ろう」

「よ、ヨシダさん!?」

「あん?」

「帰るって、この人どうするのさ」

「どうもしねえよ。それより、彼女を起こさないでやれ」

「へ?」

「続きは後だ。それよりこっから出るぞ」

「出るったって……どうや」


「「って?」」

 僕とヨシダさんは会話を続けながらも彼女の元を後にしようと、バスルームのドアから出た。と思ったら、そのまま日宝三ツ寺会館一階のエレベーター前に突っ立っていた。

「で、出た?」

「ああ。あの子も気が済んだんだろう」

「どういうことさ」

「飲み直すぞ、話はそれからだ」

 それだけ言って踵を返したヨシダさんは慣れた様子で凄い様相の階段をカツコツと降りて行く。僕はとりあえずそれに続こうとして気が付いた。やけに冷たい足元に。


「ヨシダさん!」

「あんだよ」

「く、く、靴!」

「おっ」

 そうだ、僕たちはあの部屋の玄関で靴を脱いでいた。そして今も、僕たちは靴下のままだった。

「どうしよう!」

「どうもこうもねえーよ、なんとかなるだろ」

「どうにかったって……」

 あの靴、高かったんだぞ! と言いたいのを飲み込んで後をついてゆく。ちょっと足元を濡らしている液体が何なのか気にかかるところだが、うまく避けて歩くしかない。地下に入り、さっきのお店に戻ってきた。ギターの看板を見つけると漸くホッとした気分になって、少し勢いよくドアを開ける。


「ああ、おかえりなさい」

 ちょうど店内に客はおらず、黒縁メガネでベレー帽の店主がグラスを磨きながら出迎えてくれた。助かった。

「いやあー参った、きつかったっすよ」

 ウソつけ、嬉々として突っ込んでったじゃないか。

「えらい走り回ってましたね」

「ええ、派手な鬼ごっこさせられましたよ」

「靴まで失くしちゃって、ね」

「ああー、それなら。はい」

 店主がカウンターの向こうの足元からひょい、と掴みだしたのは紛れもなく僕とヨシダさんの靴だった。

「えー!?」

「いやあ、さっき例の足音がして店の外見たら誰もおらんし、けったいやなーと思って足元見たら揃えて置いてあって」

「思ったより親切な子なんだな」

「じゃあ、コレ持ってきてくれたのって」

「そ」

「あの能面の……?」

「そ」

「あの子はねえ、三ツ寺会館ココの座敷童みたいなもんやからねえ」

「座敷童ぃ?」

「そやねん、ここでよー飲んではった子やねんけどな。まあ色々あって来られんようになってしもてからも時々そこら辺走ってるから」

「走ってるだけならまだいいですよ、あの子追いかけてたらエレベーターは壊れるし地下にわけのわからない部屋はあるし」

「え、エレベーターなんか乗らはったんですか」

「ええ、そしたら地下の変な空間に、あの、ねえヨシダさん?」

「それ本当ですか? 僕このビルで長いこと店やってますけど、あのエレベーター動いてるとこも乗ってる人も見たことないですよ」

「じゃあ、あの部屋は……」

「まったく、人騒がせな座敷童ちゃんだ」

「で、素顔見れましたん?」

「あー、忘れてた。でも、また来るでしょ」

「キャハハハハハハハ!」

 バタバタバタバタ

「ホラ、お礼言うてはりますよ。楽しかったーって」

「勘弁してくれよ、もう鬼ごっこは御免だよ」

「そんなこと言ってると、店、出たら待ってるぞあの子」

「げえーっ! 帰れないじゃん」

「どんだけでもおってくれて構わんですよ、飲んでてくれたら」

「じゃあ、とりあえずコーラを……」

「お前は相変わらずだな」


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