その2「同業者」
今から15年以上前。ヨシダさんは某Y県に住んでいました。仕事は当然タクシー運転手。T市のタクシー会社に雇われて、駅前のロータリーでお客を待つ日々が始まりました。ヨシダさんが雇われたタクシー会社は従業員が20人ほど。その街近隣ではまずまずの規模だったそうです。
T市は山がちな土地で、駅前から10分も走ればすぐ山道。電車もあまりなく交通の便はあまり良くなかったそうです。このT市からさらに奥にあるA市に向かうには、バスや電車よりも国道を車で走るのが一番手っ取り早かったとか。それは切り立った崖のうえを縫うように走っているこの辺りのメインストリートでした。
ある夜、この会社に雇われて間もないヨシダさんがこの道を走ることになりました。営業所で帰り支度をしていたヨシダさんに、当時の営業所長が声をかけます。
「ヨシダくん、悪いんだけど今からひとっ走りしてくれないかね?」
聞けば駅前のロータリーでタクシーを呼んでいる人が居るとか。近くに居た別の人は都合が悪いと言うことで、たまたま電話を受けた部長の側に居たヨシダさんに白羽の矢が立ったと言うわけ。
「いいですよ。じゃあ、行って来ます」
ヨシダさんは快く営業所を出て、駅前のロータリーへ向かいました。時刻は22時。わずかな明かりの灯ったバス乗り場のベンチに、待ち人がちょこんと座ってました。ハンチング帽をかぶった初老の男性で、隣のA市まで帰るのに足がなかったとか。この時間ではバスもない。夜中だし距離もあるのでいいお客だと、ヨシダさんも張り切って走り出しました。
駅からA市まで国道が道なりに伸びているので、しばらくそのまま青看板だけを見て走ればいいという気楽な道のりでした。いくつか信号待ちをして、20分も走ればもう山道に入ります。ハンチング帽の男性は後部座席に座って間もなく、ウツラウツラと眠ってしまいました。音量を絞っていたラジオも山道に入ってノイズが混じり始めます。
目の前の暗い道路にぽつり、ぽつり、と街灯がのびています。ヨシダさんはハンドルを握りながら、到着するのは23時半を回るかなあ~と考えていました。前からも後ろからも他に車はありません。ヨシダさんのアイボリーに緑のラインが入ったタクシーだけが、ごおーっと走ってゆきます。
山道も中腹に差し掛かった頃。バックミラーにチラッ、と光が映りました。ヘッドライトのようです。こんな時間ですが、後続車があること自体に不思議はありません。電車もバスもない時間にA市に入るには、この国道を通るしかいないのですから。誰か遅い帰宅をする人が居るんだな~と、近づいてくる光をバックミラー越しに確認しながら、ヨシダさんはまた前を向いて運転に集中します。光が不規則な点滅をくり返すのは、急なカーブが続くからでしょう。その車がとうとうヨシダさんの後ろにピタっとくっついた時。ヨシダさんは初めて恐怖を覚えました。
近づいてきた車は無人のタクシーでした。
街灯に照らされた古いデザインのボディには、白地に赤のラインが二本。なんだか薄汚れて、やけに古い自動車でした。そしてヘッドライト越しで影になった運転席には、誰も乗っていなかったのです。
(げえっ! なんだあれ!? 見間違いか?)
もう一度バックミラーを確かめる余裕はありませんでした。さっさと走ってしまおうと腹を括ったヨシダさんはほんの少し、アクセルを強く踏みました。あと数分も走ればA市に入る。そこまで行ってしまえば目をパチクリさせながら夢中で走りました。運転席の外側を後続車のヘッドライトが照らします。確かに後ろに居るんです。
あのタクシーが。
ハンドルを握る手のひらは、じっとりと汗で濡れていました。一本道ですから逃げ場はありません。手前に青看板が見えてきました。ああ、ようやく街へ着く。突き当りがT字路になっていて、左へ曲がるとさらに山奥の集落へ。右へ曲がって15分ほどでA市です。
右折してしばらくのち、後ろからのヘッドライトが無い事に気が付きます。
(ああ、左へ折れて山道に入ったのかな)
散々感じた寒気を振り払うように、ヨシダさんはそう考えました。
A市に入ったところで、ヨシダさんはお客さんを起こしました。
「もしもし?そろそろ道案内をお願いしたいんですが」
お客さんは起きるなり言います。
「いやあー運転手さん、今夜は冷えますねえ」
ヨシダさんは乾いたような相槌を返すので精一杯でした。
ハンチング帽のお客さんの自宅は、山道から程近い新興住宅地の中にありました。自宅の門前に車を横付けして、荷物を降ろし、料金を受け取ります。お客さんが家に入ったのを見届けると、ヨシダさんは帰路に着くために運転席に座りました。そしてエンジンをかける前に、バックミラーを覗くと……ヨシダさんがそこに見たもの、それは50メートルほど後方でぼんやりとした街灯の明かりの下に停まっている、白地に赤いラインの入った古いタクシー。そして、そのタクシーには誰も乗っていませんでした。運転手さえも。
ついてきている? 再び背筋がゾクッとします。確かにさっき後ろを走っていた車です。いや、同じカラーリングの車なのかも。さっきのタクシーは自分とは逆方向に曲がっていったじゃないか。
ハッと、ヨシダさんは思い出してしまいました。
さっきのT字路を左に曲がれば、山奥の集落に辿り着きます。ただし、その集落は1970年代に廃村になって、ダムの底に沈んでいるのです。あんな方に曲がっていっても、何も無いはず。
(いや、まてよ。あの時、俺は本当にあのタクシーが左折して山道に入るのを見ただろうか。いや、見ていない。ヘッドライトが見えなかったので、そう思い込んでいただけだった)
(それにしてもおかしい……じゃあ、やっぱり)
ヨシダさんは意を決して車を走らせました。帰りはまたあの山道を通らなくてはいけません。怖くて怖くて、走っているうちに夜が明けやしないかと願いました。
時刻は23時半。静かな山間の田舎町全体が、もうすっかり寝てしまっているようでした。あの国道に合流して最初の交差点。真夜中ですが当然信号を守ります。
すると、青信号になっている側の道路を、すごいスピードで走りぬけた車がありました。
白地に赤いラインのタクシーでした。
(うわあ)
ハッと後ろを見ると、付いて来てはいないようです。信号が青に変わりました。そろそろと走り出したヨシダさんでしたが、恐怖がぬぐえません。手の震えでハンドル操作もおぼつかず、とにかく必死で運転をしました。
やがて国道は山道に差し掛かりました。T字路は直進と左折に分かれています。
左に曲がれば、山道。真っ直ぐ行けば、集落。ヨシダさんの顔がヘッドライトで照らされました。正面から車が近づいてきたのです。
白地に赤いラインの、古びたタクシー。
(あ、あ……)
車はどんどん近づいてきます。すぅーっと滑るように近づいてくるタクシーは、やはり無人でした。
(ぶつかるっ!)
目をぎゅっと閉じたヨシダさんの視界が一瞬、白くなって。次の瞬間、真っ暗闇に包まれていました。恐る恐る目を開けてみると、何事もなかったかのような夜がありました。そのまま峠道を走ってT市に帰りましたが、もう、あのタクシーを見ることはなかったといいます。営業所に帰ってくると、部長がヨシダさんを待っていてくれました。
「いやーヨシダくん、悪かったね! これ、残業手当!」
と封筒を手渡してくれました。部長と営業所を後にして、ヨシダさんも車に乗り込みました。借りていたアパートの駐車場に停車して、そういえば! と封筒を覗いてみると、なんと現金2万円が!!
と思ったら、お札は1枚だけ。もう1枚は、お札でした。
「おさつ と おふだ を一緒に貰っちまったよ。両方 おさつ で良かったんだけどなあ!」
と、電話越しのヨシダさんは笑っていました。酔っ払ってたんだと思います。部長がなんで おふだ をくれたのか。ヨシダさんはあえて聞かなかったそうです。