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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
10/41

その10「廃旅館」

 とある真冬の月曜日。

 ヨシダさんと僕は蒲田の居酒屋にいた。そろそろ東京を離れるつもりだというヨシダさんが、どうしても行きたい場所があるという。嫌な予感しかしなかったが、一応聞いてみた。

「いい年こいてディズニーランドでも行くの?」

 頭をひっぱたかれた。

 そしてその後必死で説得したにもかかわらず、翌日にはヨシダさんの古いスカイラインに乗り込んで出発することになってしまった。北関東のどこかにあるという、ヨシダさんいわく 「すっげーやべー危ない」廃旅館を目指して。

 

 翌朝午前10時半ごろ。僕たち二人は高速道路を走っていた。目的地の廃旅館(正確には温泉ホテルといった感じらしい)は、バブルのときに建てられたものの僅か数年後に倒産。そのまま取り壊されずに現在までずっと残っているらしい。中は荒れ放題、小高い山の上にある建物に向かう道も荒れ放題。そして侵入すれば怖い目に遭い放題。 何でもその小高い山というのが、元々その土地の祟り神のようなものを封じ込めていた場所だったらしい。そこをぶっ潰して開発・建築を進めたところ、お約束の災害・事故・怪現象が出るわ出るわ。ヨシダさんがどこからか調べてきたところによると、

・祠を壊して掘り返した作業員5名が全員怪我を負った。

・現場で指示をしていた監督は突如倒れてきた重機に挟まれて半身不随。

・旅館のオーナーの妻は奇形児を死産。

・泊ったお客もほぼ全員なんらかの怪現象に直撃され、苦情が続出。

 これらに加えて開発の経緯から地元民からも忌み嫌われており、ますます評判は落ちていった挙句オーナーは数々の災難と莫大な借金を苦にして首吊り自殺。その後すぐに運営会社が倒産。廃墟となったという。

 聞いただけでは嘘か本当かわからない、何処にでもありそうな都市伝説のようなものだった。だけど、そこへ実際に出向いて確かめようとなると、やはり尻込みしてしまう。正直言って、怖かった。まあ、この期に及んで怖がってみても遅いのだが。

 高速道路を降りて国道をひたすら走る。もう昼の3時、ずいぶん遠くまで来た。いつのまにか国道の道幅は狭くなり、建物も減ってきた。民家がチラホラある他は田んぼと畑ばかりだ。冬の日差しが力なく傾いて、辺りをオレンジ色にしながら沈んでいく。

 そのうちに白いスカイラインは国道からも逸れて、どんどん寂しい場所に向かってゆく。よくもまあこんな辺鄙な所に旅館なんか建てたなあ、これじゃお客も来ないよ。なーんもないじゃん。ただ旅館が潰れたって話に尾ひれ背ひれがついただけなんじゃないのかな。

「るせえな」

 運転席から不機嫌な声が投げつけられた。恐怖と不安とでつい饒舌になった僕は、ふと道路わきの看板を見つけた。

「ヨシダさん、看板!」

「おっ、あれだ!」

 その看板はもう限界まで錆びて古びて朽ち果てました、と言わんばかりの佇まいで、僕たちを待っていたようだった。かろうじて文字と簡単な地図が残っている。F(仮名)という旅館のようだった。ここからあと十数キロ。いよいよ目的地が近づいてきてしまった。

 どうしよう、やっぱりやめて帰りたい……でも、ちょっとだけ、行ってみたい。

 同じ穴の狢が二匹、潰れてから評判を呼んでいる旅館のふもとにたどり着いた。午後6時。辺りは早くも真っ暗だ。しかも旅館へ向かう山道は私有地であるため閉鎖されており、蔦が絡まったフェンスが行く手を阻んでいた。ああ、これで帰れる……と思った瞬間。

「オイ、ペンチ出せ」

 いやいやさすがにそれはマズイだろ! と思ったが好奇心には勝てず。車のトランクから大きめのペンチを取り出すのであった。見ると金網のアチコチに破られた跡があり、塞いでも塞いでも忍び込む奴がいるらしい。ところどころで金網の色が全然違ったのが印象的だった。一番新しいと思われる修繕箇所を無情にもこじ開けるペンチ。そして僕でも通れるぐらいの穴をこしらえて、懐中電灯と手袋を持って、真っ暗な山道に一歩、足を踏み入れてしまった。

 頂上へと続く山道はひどい荒れようだった。本当に手入れも何もしていないので、草も木も生え放題伸び放題。足元はぬかるんでおり日当たりも良くないみたいだ。獣道と化した道路をひたすら登っていくこと1時間弱。真冬だと言うのに汗を流しながらようやく坂道を登りきった。そしてそこにそびえていたのは。


 廃旅館F。

 地下2階地上5階建の立派な廃墟だった。

どうやら一番ヤバいのは、オーナーが首を吊った部屋のある4階らしい。外から建物を見上げると早くも月が出ていた。青白い光を浴びた巨大な廃墟が無言のままこちらを見下ろしている。ヨシダさんはタバコに火をつけながら

「4階の右端か」

 とつぶやいた。思わず顔を向けようとすると

「見るな!」

 鋭く絞った声で僕を制した。どうやら向こうからも見ているらしい。正面玄関の前まで来て、懐中電灯で中を照らす。なるほどよく荒れている。持ち出せるものは何でも取っ払われたようで広いロビーはがらんとしているが、入り口の頑丈なガラス戸はそのまま残っていた。恐る恐る、派手な飾りの付いた取っ手を引いてみる。

 がじ、がぎぎぎ、がじがじ

 砂をかむ嫌な音がして、ガラス戸はゆっくりと開いた。中の空気がむわぁと流れ出してくる。じめっぽい、かびくさい臭い。ヨシダさんに続いて、僕も中へ入る。

 そのとき、ついドアを閉めてしまった。そのまま2、3歩前に進むと

 バン!!

 外から誰かがガラス戸を思い切り叩いた。ここには僕たちしかいないはず…生きている人間は。


 真っ暗な館内を懐中電灯で照らしながら奥へと入ってみる。左手にフロント。右手にはラウンジ。突き当たりにエレベーターが2基並んでいる。そのさらに奥には階段があって、地下と2階へ続いている。地下1階は厨房や倉庫。2階は駐車場になっているようだった。

 ヨシダさんが目指しているのは4階だった。 何の迷いもなく懐中電灯を上り階段に向け、歩き出した。コツ、コツ、コツ、コツ、靴音が2つ、暗闇に響いて消える。足元で色んなゴミや木の葉がカサカサと鳴る。

 2階のフロアを覗いてみると、伸びた廊下の遠くの窓から青白い月明かりが入ってきていた。無人の客室が静かに並ぶだけで、特に何も異常はないみたいだった。

 2階と3階の踊り場に大きな鏡があった。懐中電灯が反射して、鏡にうつった世界もほんの少し明るく照らされている。

(……?)

 ヨシダさんが黙って僕の横腹をつついた。誰かいる。鏡に映っている。横並びに立った僕とヨシダさんの間に、小さな顔があった。

 真っ白な女性の顔だった。

髪の毛は振り乱され、目玉のあった場所に二つの穴が開いていた。

「わあああああああ!!」

 僕は思わず叫び出した。鏡の前から飛びのいて、そのまま階段を3階まで駆け上る。その後からヨシダさんもゆっくりと上ってきた。

「み、見た!?」

「見た! いやーびっくりしたな」

 オイオイ、あんた怖くないのか!?


 3階も同じように客室が並んでいた。温泉浴場もこの階のどこかにあるみたいだったけど、さすがにそこまでは行かなかった。今度の踊り場の鏡は叩き割られたのか、跡形も無くなっていた。瓦礫が散乱する中をガサガサ音を立てて進む。懐中電灯で照らした壁の色が、なんとなく変わってきていた。なんだかどす黒い。 なんだろう。

 ヨシダさんと僕は、二つの懐中電灯で4階付近の壁一面をぐるぐると照らしてみた。 階段を上るにつれて壁が黒く、ぼろぼろになっている。寒さとひどい臭いに鼻をすすりながらヨシダさんがつぶやく。

「燃えたんだ」

 4階のフロアは無残にも焼け焦げて、さらにかなりの時間が経っているようだった。廊下も窓枠も壁も天井も、至る所が黒焦げで、鼻を突く臭いもどんどん強くなっていた。なんかこう、胸の奥に入り込んだ嫌な臭いが、心の中まで広がっていく感じ。

(これは、死の臭いだ)

 なんとなくそう思った。

 そして4階の正面向かって右端の部屋。ここが問題の部屋だった。ヨシダさんはこの部屋に入るために、はるばるこんなところまでやってきたのだ。

 寒い。階段を上って温まっていた体が、急激に冷えてきていた。懐中電灯をつかむ手が震える。寒い…そして、怖い。耐え難い恐怖と不安感、得体の知れない感触に包まれながら、とうとう部屋の前にたどり着いた。懐中電灯でドアノブを照らすと、幾重にも巻きつけられた鎖がすっかり錆び付いていた。しかしそれは錆びのようでもあり、べっとりとこびりついた血のりのようでもあった。

 ヨシダさんが、その鎖だらけのドアノブに手をかけた。

 ガチャ! ガチャ! ガタガタ!

 当然開かない。ふむ…と、ヨシダさんがドアから手を離し後ろを向いた。そのとき。

 ドンドンドンドンドンドン!

 ドンドンドンドンドンドンドンドンドン!!

 部屋の内側から、誰かがドアを叩いてきた!ものすごい勢いだ。それに、一人や二人じゃない。

「なんだこの、んなろーアッタマ来た!!」

ヨシダさんはそう言い放つと、ぎちぎちに錆びついたドアノブを乱暴に蹴り始めた。部屋に入るつもりらしい。僕も気分が高揚していたのとひたすら怖かったので、一緒になって勢いよく蹴りまくった。

 どんがんどんがんどんがん!!

 どんっ! どんっ! どんっ!

 それでも僕は、ヨシダさんの意図に気づいてなかった。激しいノックを仕返しぐらいにしか考えてなかったのだ。

 どんっ、ずずずず……べり、ばり!

 鈍く重たい音が響いて、長年ほったらかしになっていたドアがとうとう崩れ落ちたその先は、真っ暗闇のなかのさらに真っ暗闇だった。僕は思わず懐中電灯をそらしたが、ヨシダさんはためらわずに中を照らし出した。そして一言「暗いな」とだけ呟いて、中へ入ろうとした。

「よ、ヨシダさん!!」

 僕はあわててヨシダさんに組み付いた。いくらなんでも無茶だと思った。

「なんだよ」

「やめといたほうがいいよ!」

「大丈夫」

「いやいや、今だって」

「いいんだ」

 ジリリリリリリリリ!

 ジリリリリリリリリ!

 僕たちの押し問答を止めたのは、突然鳴り響いた電話のベルだった。部屋の中にある古びた電話がけたたましく鳴り出した。僕は恐怖で脚が動かなくなった。目をぎゅっと閉じて顔を伏せた。もう限界寸前で、自分の行いをひどく悔やんでばかりいた。ああ、数時間前の自分を呪い、ありったけの言葉で罵倒してやりたい。

 ジリリリリリリリリ!

 ジリリリリリリリリ!

 電話のベルは、未だ鳴り続けている。まるで僕たちに早く出ろ!と急かすように。ふと恐る恐る目を開けると、ヨシダさんの姿がない。そして先程ぽっかりと口を開けてた、呪われた部屋の中を懐中電灯の灯りがふりふり飛び回っている。アッサリ入っていったらしい。

 ガチャ!

 ヨシダさんは電話機を見つけて受話器をひったくると、一気に捲し立てた。

「おい○○! お前○○だろ!?」

 人の名前を呼んでいる。誰だろう。こんな時に悪い冗談を……ヨシダさんは部屋の中で僕を手招きした。死ぬほど怖かったが、行かないと後で何を言われるかわからない。もうヤブレカブレだったので部屋の中に踏み込んだ。

 臭かった。ありとあらゆる内臓の腐ったような、悪臭を通り越した「異臭」が漂っていた。 受話器を僕に差し出すと、聞いてみろ。とジェスチュアをした。恐る恐る耳を近づけると……。

 ザーーーーーーーーーーーー……

 ザザーーーーーーザーーーー……

 テレビの砂嵐を電話の向こうで流したらこんな音がするのだろうか。そんな、虚しくざらついた音がするだけだった。よく見ると、この電話には電話線も何もつながってない。砂嵐どころか音が鳴るハズもないのだ。

 ヨシダさんはもう一度だけ受話器を見つめて、静かに置いた。電話は、もう鳴らなかった。

「帰ろう」

 そう言うが早いか、ヨシダさんはもう踵を返して歩き出していた。


 帰りもあの鏡の前を通ったので、その時はとにかく鏡を見ないように注意して通り過ぎた。ロビーに下りると、正面玄関の硝子戸を青白い月光が照らしている。もう一刻も早くここから出たかった。

 そしてドアの取っ手に手をかけた。

「ぎゃあああ!」

 僕は仰け反って驚いた。青白い光が反射して、ガラス戸一面に無数の小さな手形が映っていた。少し迷ったが、思い切って外へ出た。寒かった。振り返らずに、どんどん歩く。ヨシダさんも僕も無言だ。ぬかるむ坂道を焦りながら通り抜けて、滑るようにスカイラインに乗り込んだ。


 そして数十分後。車は高速道路を走っていた。時刻はまだ夜10時。あれから数時間しか経っていない。だけど、恐ろしく長い時間のような気がしていた。そして帰り道で聞いた話。

 自殺した旅館のオーナーと言うのが、実はヨシダさんの数少ない友人だったそうだ。20代の始めごろ、そのころヨシダさんはもう家族がいて、奥さんと子供と暮らしていた。かたや後のオーナーは独身であったが、とある会社でまじめに働いていたそうだ。 二人はとても仲が良かったが、ある時、彼は転勤になってしまう。それ以来あまり連絡を取り合わなかったが、何年も経ってから旅館のオーナーになっていた彼から便りが届いた。今は事業家になって、もうすぐ子供も生まれる。是非遊びに来て欲しい、と。

 しかし、バブル景気を見込んで旅館業をはじめたものの、冒頭で述べたような災難続き。彼は地位も財産も家族も一度に失ってしまったのだ。

 そしてついに自ら命を絶った。


 ヨシダさんはあの旅館が「本当にヤバい場所」に建てられていることを知り、もろもろの事情を関係者から聴いた。ヨシダさんは彼に会いに行かなかったことを心底悔やんでいた。親友の力になれなかったばかりか、命までとられてしまったことが無念で無念で。後で悔やみたくない。体が元気でいるうちに、ヨシダさんは彼に会いに行きたかったんだと思う。

 ヨシダさんは言う。

「あいつはいなかったよ」

 部屋の前に来るまではもしかしたら、と思っていた。だけど受話器をとって、すぐそう感じたらしい。

 彼ら同士のことはわからなかったし、僕は何も知らずに、死ぬほど怖い思いをさせられた。真っ暗な山道を往復した。散々な一日だったけど、そのパートナーに選んでくれたことは、実は嬉しかった。

 一見すると人当たりが良くて愛想のいいこの人は、どこか心の奥底では人を寄せ付けない部分があった。僕はヨシダさんのそこが怖かった。だけど、今その心にほんの少し近づいたのだと思えた。勢い込んで呼んだ名前は、受話器の向こうではなく。

 いつまでもヨシダさんの心の中にいる、遠い日の親友を呼んでいたのだろう。


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