その1「K病院」
ヨシダさんが某県で仕事を始めた頃、今から7~8年ほど前のある冬の寒い夜のことでした。よく晴れた夜空に星が綺麗だったそうです。
ヨシダさんは駅からお客さんを乗せて走っていました。 そのお客さんの自宅と言うのが市郊外の里山を随分登っていった場所にあるとかで滅多にない上客なのでヨシダさんも張り切っていました。県道をずんずん進んで行くと間もなく、まっすぐ伸びた田舎道に出ます。 まばらな街灯がぽつん、ぽつんと立つ寂しげな灯り以外は目に付くものもありませんでした。
乗せたお客さんは結構酔っていて、その辺りまで来たら眠ってしまいました。 幸い迷うほどの道筋ではなく、道路に沿って走っていればやがて里山を登り、お客さんの家に付くと言った按配で。ボリュームを絞ったカーラジオから中年男性と知らない歌手の話し声が小さく聞こえてきます。あとはエンジンとタイヤの音がごぉーっと鳴るだけ。
ふと、100メートルぐらい前の外灯が目に付きました。 向かって右手の青白い灯りの下に、誰か立っています。
(ん?)
グレーっぽいコートに薄汚れたスカート、ロングヘアーが顔までかかっています。身なりからして若い女性でしょう。奇妙に思ったヨシダさんでしたが、あまり気に留めずに走り去ったそうです。
それから苦労して酔っ払いを送り届けた帰り道。 ヨシダさんはさっきと同じ道を逆方向に走っていました。 すると。
(んん?)
さっきと同じ道の、同じと思わしき外灯の下に、やっぱり誰か立っている。 注意して見ていなかったけれど、おそらく同一人物だ。 どうしたんだろう。時計を見ると午前1時。
何かヘンだな~と思いつつも、ヨシダさんは車を近づけて、窓を開けて尋ねました。
「どうしました?」
女性はかすれるような声で答えます。
「K病院まで行ってくれませんか?」
夜中に危篤が出てタクシーでも呼んだか待ってたかしたのかな。怪しいけど放っておくわけにもいかない。 少し迷った後、ヨシダさんはこの女性を乗せてあげることにしました。
K病院は進んできた方向と逆になります。片側1車線の道路でUターンして再び里山に向かって走るヨシダさん。通り過ぎる外灯の明かりが後部座席の女性を照らすたびに、バックミラーに不気味な顔がうつります。
青白く生気がなくて、無表情。目の部分はくぼんだように真っ黒に見えます。うつむいたまま喋ろうともしません。でも、道案内だけは例のかすれ声でちゃんとしてくれました。
言われたとおりに進んでいくと、どんどん山奥に入っていきます。道も細くなってすれ違うのがやっとなぐらい。うっそうとした木々の合間から、いつの間にかポツリポツリと雨が。後はこのまま進めば病院に着くのですが、走るほどにだんだん雨が酷くなってきました。
ぽたん、ぽたんと車の屋根を打つ雨粒の音が、やがてごおーっという猛烈な轟音に変わり、とうとうワイパーが追いつかないほどの豪雨になってしまいました。ヨシダさんは目を凝らしてハンドルを握り、運転を続けます。すると上り坂の切れ目が見えてきて、その先に建物が見えます。 明かりは点いていないけれど、大きな影は確かに病院のようでした。
さて入り口はどこだろう、と敷地に入った瞬間。
ゾワーーッ
凄まじい寒気。 それでも我慢してハンドルにかじりつき、なんとか正面玄関らしき場所の前に車を停めました。 病院にしては暗いと言うか、どうもおかしい。幾らなんでも明かりが一つもないのはおかしい。 そして運転席から振り返ったヨシダさんが見たものは。
誰も乗って居ない、空っぽの後部座席でした。 さっきまで乗っていたはずの女性が居ない。そういえば、最後にあの女性を見たのいつだろう。ずっと乗っていると思っていたけれど、どこかで飛び降りたわけもないはずだけど。乗せたことは覚えている。道案内も聞いている。どこからだ?そうだ、雨が降ってきて。それで前をずっと見てて……その間に?
雨はいつの間にか止んで、黒く澄んだ夜空がヨシダさんを吸い込むように広がっていました。
ハッ!
と気が付くと、そこはさっきの道路でした。 あれっ!? 俺どうしたんだろ!? ヨシダさんはハザードを点けて路肩に車を停めたまま意識を失っていたのです。 時計を見ると、午前1時。外灯の光の向こうには、よく晴れた夜空に星が綺麗でした。
ヨシダさんはおかしな気分のまま、営業所に帰ってきました。
さすがに今あった出来事は話せませんでしたが、先輩の運転手にそれとなく聞いてみました。
「K病院って、どこにある何の病院ですか? 」
「ええっ、どうしたんだ急に。 あの精神病院ならとっくに潰れたけど。そうか、ヨシダ君は知らなかったか。で、どうしたんだ? K病院が」