第五部
祭りは無事再興され、終わる。大和は過疎化が進む島に残り、豊や元島民のために祭りの継続を決意する。祭りの一週間後、祭りの興奮の冷めた本山に颯太と涼の悲しい別れの姿があった・・・。
本山八幡祭りから三カ月。リ・フェスタの事務所では、新入社員が芳しくない仕事の進捗状況に頭を抱えていた。鹿股はその社員に問題解決の糸口を示してから、自分の席に戻り、机の引き出しを開けた。そこには小倉行きの航空券があった。本山での様々な出来事が、鹿股の気後れする心を揺さぶる。小倉に帰るべきか? そのとき新たなクライアントが事務所のドアをノック音が聞こえた。鹿股はチケットを机にそっと仕舞い、新たな仕事へと歩き出した。
15
神輿が動き始めたちょうどその頃、本山出張所に設置された運営本部では、広川町長の開会の挨拶が行われていた。
黒岩のスマートフォンのバイブが震えた。
「そうですか。はい、それじゃ、よろしくお願いします」
黒岩はそう言って、通話を終えた。
「輿さんからで、今、神輿が神社を出たそうです」
黒岩は、隣で町長の挨拶を聞いている岸本に小声でそう伝えた。
岸本は口を真一文字に結び、緊張した面持ちで二度大きく頷いた。
町長の挨拶が終わり、聴衆からパラパラと拍手が起こった。岸本と黒岩は、演台の前に据えられたパイプイスから立ち上がった。
白いテントの下に長机が五台並べられただけの簡素な造りの本部には、二〇名ほどのボランティアと共に鹿股と川上、そして沙耶の姿もある。
黒岩が川上に報告した。
「神輿が神社を出たそうです」
川上が時計を確認し、鹿股に言った。
「だいたい時間通りですね」
鹿股は黙って頷いた。
黒岩がボランティア席に向かって指示を出した。
「ああ、大川さん、これアナウンス、お願いします」
沙耶は黒岩からメモを受け取り、マイクに向かってメモの内容をアナウンスした。メモには、神輿の現在地や祭りを見学する際の注意事項が記されていて、随時渡されるそのメモをアナウンスするのが、沙耶に与えられた仕事である。
岸本が黒岩のキビキビと動き回る姿を横目に、口元に手をやり、何やら秘密めいた口調で鹿股に話し掛けた。
「鹿股さん。ちとよろしいですか?」
鹿股は式次第が記されているパンフレットを机に置いた。
「ええ。なんでしょう?」
岸本は本部裏を指差し、鹿股を促した。
「どうかされましたか?」
岸本はこれまでにない神妙な顔付きをしている。
「鹿股さんは社長さんをされているので、ちょっとご意見をお伺いしたいのですが・・・」
岸本はアナウンス係りの沙耶と談笑している黒岩に、またチラッと視線を向けた。
「実は黒岩くん、来期から広川町役場に配置換えが決まっていたんですが、それを断ったみたいでして・・・」
「そうなんですか。また、なぜ・・・」
「どうもこの祭りを後世にまで残していくために、この島に残って、その任に当たりたいということらしいです。昨日も祭典を見て、ひどく感激してましたからなぁ~。ただ、俗にいう『栄転』なわけやから・・・。たった一人の直属の上司としては、ここで翻意させるべきなのか、本人の意思を尊重するべきなのか、迷ってまして・・・」
鹿股は、テキパキとボランティア職員に指示を出している黒岩に視線を向けた。
「私は役所の組織については門外漢ですから、なんとも言い兼ねますが・・・。まあ、私が岸本さんなら、本人の好きなようにさせて、今回の件が、彼の将来のキズにならないように配慮してやることを考えますがね。まあ、でもそれは一種のきれいごとで、人員を管理する立場からすると、人事異動を拒否したわけですから、黒岩さんは覚えの良くない職員の一人ということになるでしょうね。その辺りがむずかしい・・・」
岸本はハア~とひとつ嘆息した。
「まあ、まあ、今回の黒岩くんの働きと将来の本山八幡祭りのためにも、ここで私がひと肌脱がなぁあかんということですな・・・。中間管理職は辛いですな~」
岸本はそう愚痴りながらも、その顔には、満更でもないといった表情が浮かんでいた。
颯太と涼が刻む小気味のいい太鼓のリズム、そして、流麗な笛と甲高く澄んだ鉦の音に導かれるように神輿は進む。「エッサ、オイナァー」の掛け声と共に、神輿が上下左右に大きく揺さぶられる。
神輿は本山八幡神社を出て南東方向に緩やかな坂を下り、民家が集まる集落の淵をなぞるようにして、漁港へ続く国道へと向かう。
その約五㎞の下り坂の中間地点に、紙垂で飾られた木製の祠があった。そこが最初の御旅所だ。
神輿渡御の一行は、大和の「トメトメトメ(止め、止め、止め)」という合図で一端、進行を止めた。
東島宮司が御幣を振るい祝詞を上げると、輿舁きたちが「エッサ、オイナァー」の掛け声と共に、神輿を宙に三度放り投げ、受け取る。これが御旅所での儀式となる。そして、御旅所ごとに短い休憩をし、輿舁きの入れ替えなどが行われ、神輿は再出発する。
大和は花棒の先頭から「マエマエマエ(前、前、前)」と指示を出しながら、多くの見物人の様子に目を注いでいた。
腰が曲がったばあちゃんたちや、杖なしでは立っていることもままならないじいちゃんたちが、颯太と涼の太鼓の音に合わせ体を揺らし手拍子を取り、神輿に向かって「エッサ、オイナァー」と声援を送っている。
祭りの復活を目の当たりにして、在りし日の本山の光景を思い出し感極まったのか、目頭を押さえているばあちゃんや、色の褪せた小ぶりの大漁旗を遠慮気味に振るじいちゃんもいる。
おそらく、沿道にいる老人の大半は、昔、大和の父親と共にこの祭りを担ってきた人たちのはずだ。多くの老人の艱難辛苦を乗り越えてきた皺深い顔には、清々しい笑みが浮かんでいる。
―みんな祭りを待っていたんや・・・。
大和は彼らの姿を見て、心の片隅にかすかに残っていた澱のようなものが、すっと溶けてなくなっていくのを感じた。
岸壁沿いの国道には、たくさんの屋台が軒を並べ、ソースやビールの匂いの混ざり合った潮風が、海から山へ吹き上げられていく。朝方の靄も消え、空には薄い雲が流れていているのみ。そして、長く厳しい冬を乗り越えてきた人々の心を安堵させるような柔らかい温もりが、島全体をあまねく包み始めた。
漁港へと一直線に伸びる国道は、鈴なりの人だかりだ。大和の見知った顔もあちらこちらに見え隠れして、大和の脳裏にも昔日の記憶が掠めていく。
神輿渡御の一団が国道を左に折れて姿を表すと、見物客からは盛大な拍手と共に、「エッサ、オイナァー」の掛け声が上がった。それが、輿舁きたちの力強く野太い掛け声と混ざり合う。
全身汗みずくの輿舁きたちは、見物客の声援に押されるようにして、屋台が立ち並ぶ通りの反対側にポツンとある御旅所の前まで進んだ。
そこにはこぢんまりとした祠があり、真っ白な紙垂が潮風にユラユラと揺れている。普段は自動車の排気ガスに塗れているだけの、誰も気に留めないその小さな祠の前で渡御は止まった。紙垂で飾られた祠は、黒岩たちの努力により、昔日の御旅所としての存在感を十二分に取り戻していた。
東島宮司が声を張り上げて祝詞を唱え、「エッサ、オイナァー」の掛け声と共に神輿が三度、宙を舞う。神輿が無事に輿舁きたちの肩に納まると、より盛大な拍手と歓声が辺り一帯を覆った。御旅所での儀式が終わり、神輿周辺の喧騒はゆっくりと治まっていく。
大和は神輿の周りで小休憩を取っている囃子手や輿舁きたちに目をやった。颯太と涼は母親からペットボトルを受け取り、喉を潤している。
囃子手も輿舁きも、それぞれが肩を揉んだり、腰を伸ばしたりと、思い思いの方法で渡御の再出発に備えている。
およそ二時間、神輿を担いでいるというのに、誰一人音を上げる者がいない。というより、海に近づくほどに神輿の勢いが増してきているのが、先頭で神輿を御している大和に伝わってきていた。
神輿を前進させるという物質的な力強さだけではなく、「エッサ、オイナァー」の掛け声と花棒を通して伝わってくる「気」の重さに、大和は何度も負けそうになった。
それを抑えたのは、神輿の動き制御する大和と豊の技量だけでなく、神輿の周囲で心地よいリズムを奏でている囃子手たちだった。神輿が必要以上に勢い付きそうになると、それまで短い間隔で小気味良く奏でられていた鉦の間隔が長くなったり、流れるような一本調子の笛の音が、ゆっくりと抑揚の付いたものに変化したりした。
囃子の変調に気が付いた大和は、神輿の前で太鼓を叩く颯太や涼にもリズムを抑えるよう指示を出し、全体の調和を保って神輿を制していたのだ。一〇年振りでも、全員の息がピッタリと合った神輿渡御が展開されていることに、大和は感激していた。
―身体が覚えているちゅうことか・・・。
一五分ほどの短い休憩が終わり、大和の「よし、いくで!」という掛け声と共に、輿舁きが神輿に手を掛けて中腰の姿勢をとった。そして、「せーの!」の合図で神輿を一気に肩まで引き上げた。
大和は漁港に視線を送った。その視線の先には、神輿渡御のメインイベントである入水渡御をひと目見ようという人たちが、漁港脇の砂浜に移動していく姿があった。
砂浜では島のあちらこちらから人が集まり始め、その人の波の中には、黒岩と岸本、それに鹿股たちの姿もあった。
運営本部から沙耶の声で、「神輿渡御の一行がもうすぐ浜に着く」というアナウンスがあったばかりだ。
「皆さん、お疲れさまです」
渡御の模様をビデオに収めていた輿が、四人に合流した。
鹿股がねぎらいの言葉を掛けた。
「お疲れさまです。大変だったでしょ!」
「いえいえ、自分から川上くんに仕事を代わってくれるよう頼んだんですから、そんなことは言ってられませんよ」
輿は額に浮かぶ汗を拭い、興奮気味に続けた。
「この本山八幡祭りというは、とにかく勇壮な祭りですね。長崎のコッコデショに負けずとも劣りません。それに一〇年振りだというのに、神輿も囃子もブランクをまったく感じさせない安定感があります。いや~、恐れ入りました」
国道沿いから聞こえてくる歓声がだんだんと大きくなり、鉦や太鼓の音と「エッサ、オイナァー」の掛け声が、鹿股たちにもすぐそこに聞こえるまで近づいてきた。
「さあ、やって来たで!」
浜のどこかからそう声が上がり、浜にいる全員が、神輿がやって来る国道に視線を向ける。
「皆さん、おはようございます・・・」
五人が振り向くと、西沢と明るいグレーのスーツを着た五〇代後半と思われる男性が立っていた。
鹿股が西沢の姿を見とめ言った。
「西沢さん。ご苦労さま。今着いたところ?」
「はい。一番いいところには間に合ったみたいですね。それで、社長、こちら・・・」
そのとき岸本と黒岩が「あっ!」と驚きの声を上げ、周章狼狽した様子で背広の男性に頭を下げた。
岸本が鹿股に男を紹介した。
「鹿股さんは初めてでしたね、こちら今回、祭りに協賛してくださった日星食品の専務の大迫さんです。昨日、祭典で神楽舞を披露した方のご子息で・・・」
西沢が大迫に鹿股を紹介した。
鹿股と大迫は、それぞれ挨拶を交わした。
鹿股はスーツを一瞥し、大迫に訊いた。
「失礼ですが、昨夜、神社で祭礼をご見学されていらっしゃいませんでしたか?」
大迫は照れくさそうに、頭を掻きながら答えた。
「自分でもこんな堅苦しいスーツ姿では目立つかな~、とは思ったんですが、やはり場違いなカッコだったようですね。ええ、オヤジの神楽舞を見るために、昨日から島に戻っていました。もうかれこれ四〇年振りの帰郷なんですが、それがオヤジの晴れ姿を見るためなんてね・・・、ハッハッハッ」
岸本が慇懃な物腰で言った。
「このたびは、祭りの開催に際して、多大なるご協力をいただきまして、誠にありがとうございます」
岸本とその隣にいる黒岩は、また深々と頭を下げた。
大迫は最敬礼のお礼に、少し戸惑ったような苦笑いを浮かべた。
「いえいえ、こんなことがなければ、依怙地になって帰郷する踏ん切りがつかなかったでしょうから、こちらが感謝したいぐらいですよ。まあ、お金という形でしか協力できなかったのが、少し恥ずかしいのですがね・・・」
岸本が訊いた。
「踏ん切りですか?」
「ええ。私は小さい頃から、オヤジにイヤと言うほど漁師を継げといわれてきました。しかし、この島に残って漁師をしていても先が知れていると思った私は、家出同然の格好で東京に出ました。奨学金と朝から晩までバイト漬けの生活で学費を稼ぎ、大学まで進学し、どうにか卒業しました。その当時は、この島とは一切の縁を切る覚悟でしたし、実際、この島のことも両親のことも完全に忘れていました。というか、当時の私にはそんな余裕なんてなかった・・・。
そして、大学卒業後、何かのめぐり合わせで和歌山県県南に本社のある食品会社に就職し、シャカリキに働き、まあ、この歳で人並み以上に出世もしました。でも、ふとした瞬間、自分の人生を振り返ってみると、何かポッカリと穴というか、欠落している部分がありましてね・・・。その欠落が自分という存在を、ボンヤリと浮ついた存在に感じさせていることに気付いたんです。
長年、強く思い出すまいとしてきたためか、どうしても私の頭の中に故郷の記憶が浮かんでこない。この欠落感はそこに原因があるのでは? と私は考えたんです。唯一、私が思い出せたのは、この本山八幡祭りの光景でした。まだ、あの青年が頭屋になるずっと前の・・・」
神輿渡御の一行が、颯太と涼に導かれるように浜に入ってきた。
神輿の先頭には、大和の姿がある。
浜からは波音を掻き消さんばかりの拍手と、「エッサ、オイナァー」の掛け声が上がり、神輿の登場に合わせて、どこからともなく三旗の大漁旗が一斉に打ち振られ始めた。
「本当はこの島には帰ってくる資格のない私です。島を捨てて、その上、何かできる立場であったにも係わらず、この島の苦境にも私は何もしてこなかった。ですから、何かのキッカケがなければ、帰って来られませんでした。
そんな折、出張先の東京駅で本山八幡祭りのポスターを見たんです。そこで、オヤジや島のみんなが好きだった祭りの復興に協力することで禊とさせてもらえないか、と考えましてね。あっ、けっして協賛金は会社の金をこっそり流用して作ったものではありませんから、ご安心ください」
大迫はそう言って、哄笑した。
「私は心の欠落を埋めるため、今、こうしてここにいるんです。そして、今、祭りを目の前にして、心のピースがすべて揃い、ようやく私という人間の輪郭が、濃くハッキリと私の中で像を結んだ。そんな感じなんです。
この海の香りや祭りの賑わい、それに昨日オヤジの神楽舞を見て、私の頭の中は、封印のとかれた宝箱のようにさまざまな思い出でいっぱいになりました。これで、これから会うオヤジにも、大きな顔をすることができますしね・・・。それもこれも祭りのおかげだ! おっ、神輿が来たぞ! エッサ、オイナァー! エッサ、オイナァー!」
神輿は波打ち際で一端、停止した。
東島宮司が海に向かって祝詞を唱える。
神輿の頂の鳳凰は、こぼれんばかりの春の光にその黄金の羽を煌かせている。
16
大和の合図で輿舁きの肩から神輿が下ろされる。
大和は眼前に広がる波穏やかな海を見つめた。緩やかに寄せては返す波の音が、高ぶった心を静めていく。
東島宮司が海に向かって御幣を左右に打ち振り、祝詞を唱える。
大和は海から浜に視線を戻した。
大漁旗がたなびく浜には、たくさんの見物客が集まり、神輿を中心にして左右に弧を描くように広がっている。その中には岸本や黒岩の姿があり、リ・フェスタの職員の姿もあった。
そのとき、一瞬、鹿股と視線が重なり、大和が軽く会釈をすると、鹿股もチョコンと申し訳程度に頭を下げた。鹿股の横には、品のいいグレーのスーツを着た初老の男性が、胸の前で子供のように手を叩いている姿がある。
―どこかで見たことがあるな・・・、あの人・・・。
大和が記憶を巡っていると、周囲で歓声がドッと上がり、我に帰った。すべての儀式が終わり、いよいよ神輿の入水ということで見物客が沸いたのだ。
大和は太く短い息をフッと吹いて、腹に力をこめた。
「ええか、これからが本番や! 全員、気合入れや!」
輿舁きの男たちが、野太い声で「オイ!」と応えた。
「いくで!」
大和の掛け声で、一斉に全員が動き出す。
輿舁きは「せーの!」の声で一斉に神輿を担ぎ、囃子手たちは颯太と涼を中心して、海に向かって整列し、一斉にお囃子を奏で始める。颯太と涼がトン、トトトト、トン! トン、トトトト、トン! と太鼓を繰り返し繰り返し打ち鳴らし、笛や鉦と共に海へ向かう神輿を盛大に景気づける。
輿舁きの力強い一歩一歩が穏やかな海をかき乱し、春の日にキラキラと輝いていた銀色の波頭が、荒々しく立ち上る飛沫へと形を変える。
「エッサ、オイナァー」の掛け声は太く重く、海の向こうの紀伊半島まで届きそうなほど。大和たちは海中をすり足で、腰を右へ左へと押し出すように沖へと進み、胸の辺りまで海に浸かったところで神輿の動きを止めた。
エッサ、オイナァー!
輿舁き全員が腕を一杯に伸ばし、神輿を高々と掲げる。
エッサ、オイナァー!
波に足をとられるのを懸命に堪えて、再び神輿を高々と掲げる。
エッサ、オイナァー!
掛け声と共に宙に放り上げられた神輿を輿舁き全員が両足をしっかりと踏ん張り、受け止める。千波万波にもろともせず、誰ひとり体勢を崩す者はいない。
浜からは大きな歓声が上がり、祭りの盛り上がりは最高潮に達する。
輿舁きは慎重に体重移動をし、神輿は進路を浜へ向けた。後方で誰かがバランスを崩しでもしたら、神輿は海の中に投げ出されてしまう。大和には、花棒に伝わる大きな力を通して、輿舁き全員が重く寄せる波に足を取られながらも、神輿の体勢を維持しようと懸命に踏ん張っているのがわかった。
輿舁きたちは慎重な足運びで、麗らかな春の光をいっぱいに浴びる神輿を浜へといざなう。
波頭が大和たちの体を洗い、足元の引き波が砂を削る。大和は歯を食いしばり、懸命に浜に歩を進める。この瞬間、大和の耳には、浜での歓声や手拍子は一切聞こえてこず、ただ、波が体に当たる音と、波に抗う輿曳きたちが息を切らし力の限り叫ぶ、「エッサ、オイナァー」の声のみが響いている。
ひと足進むごとに波頭は腰から膝、そして足首へと洗う位置を下げていく。大和を先頭に揃いの法被をずぶ濡れにした輿舁きの一団が、悠然とその全貌を海面から現した。
浜へと姿を現した大和たちを、拍手と歓声の輪が迎えた。
神輿渡御の一行はずぶ濡れの身体を一旦、タオルで申し訳程度に拭い、颯太と涼を先頭に隊列を組み直し、今度は島の集落へと向かう。拍手と歓声は、浜を去っていく大和たちの背中が集落の中に消えてなくなるまで続いた。
汗と海水が混ざり合った飛沫を跳ね飛ばし、渡御は続く。
普段は閑散とした集落が、この日は人で溢れている。島民の顔にはいつもの打ちひしがれたような暗さはなく、誰の顔にも歓喜の表情が浮かんでいる。
しけた顔で客を迎える港近くの雑貨屋のオバサンも、大和が見たこともないような晴れやかな笑顔で、渡御の一団に声援を送っている。普段、ちょくちょく顔を合わせている大和でさえ、「あれは誰や?」と見紛ってしまうほどの変わりようだ。
神輿渡御も終盤に差し掛かり、沿道からは一層大きな「エッサ、オイナァー」の掛け声が、神輿に向かって浴びせられる。
大和をはじめ輿舁きたちも、観衆に負けじと声を張り上げる。集落内では三箇所で、御旅所の儀式を行なった。御旅所に到着すると、神輿渡御の一行は熱い歓声と拍手に迎えられた。
そして、春の日が西の彼方に沈み始めた頃、すべての儀式を終えた神輿渡御の一行は、浜に沿う形で伸びる国道に戻り、村の北側の斜面から神社への帰路に着いた。
「あっ、あの方が、ガンさんの・・・」
大和は甲高い声のする方に目を向けた。
そこには、ガンさんが背広とネクタイを脱ぎ捨てた息子と肩を並べ、互いに酒を酌み交わしている姿がある。
「宮入の儀」「撤饌の儀」「閉扉の儀」を終え、直会には、輿舁きや囃子手だけでなく、祭りの開催に協力してくれたボランティアや役所の職員、それにリ・フェスタの社員も参加している。
社務所内は祭りの余韻を引きずるような熱気で溢れ、そこかしこで笑い声や歓声が上がる。
すでに真っ赤な顔をした豊は、祭りのために遠路帰島した旧友たち一人ひとりと一升瓶を傾け合い、ねぎらい言葉を掛けている。
颯太と涼をはじめ、祭りに参加した子供たちは母親や父親のそばで、ジュースの入ったグラスを片手に、目の前にずらっと並べられた寿司やら卵焼きを摘んでいる。
黒岩は沙耶と二人、氏子たちが引き起こす騒ぎとは一線を画して、社務所の隅の方でひっそりと親しげに語り合っている。輿も西沢も川上も、氏子たちと共に祭りの最後の儀式を祝っている。
大和は鹿股の姿を探し、社務所の外に出た。
スマートフォンを耳にした鹿股は、大和の姿を見て軽く会釈をした。
「ああ、わかった。あさってには社に出勤できますから。うん、よろしく」
鹿股はそう言って電話を切り、大和の方に向き直った。
「会社からです。今年の冬に山形での仕事が入っていましてね。その件でいろいろ懸案事項がありまして・・・」
大和は呆れ顔をして訊いた。
「鹿股さん、あんたも忙しい人やなあ。祭りの日くらい他の仕事を忘れて、って訳にはいかんのですか?」
鹿股は頭を掻き、自嘲気味に軽く笑った。
「今日は西へ、明日は東・・・。前にも言ったように貧乏暇なし、ってとこですよ」
日もすでに暮れ、昼間の温かさがウソのように、冷たい風が海から流れてくる。
「まあ、でも、今回はリ・フェスタさんの協力がなかったら、ここまで立派な祭りはできんかったでしょう。ほんま、ありがとうございます。感謝してもしきれんぐらい、感謝しとります」
大和は鹿股に深々と頭を下げた。
鹿股は頭を垂れる大和の肩に軽く手を置いた。
「そんな・・・、頭を上げてください。これが私たちの仕事ですから。こちらこそいい祭りを見させてもらって、感謝したいくらいですよ。さあ、主役の頭屋がいないと直会が盛り上がりません。社務所に戻りましょう」
二人は揃って社務所に向かって踵を返した。
大和は隣を歩く鹿股にそっと訊ねる。
「・・・鹿股さん?」
「はい、なんでしょう?」
「もう、奥さんと息子さんのところには帰らんつもりですか?」
鹿股は口元に軽く笑みを浮かべただけで、大和の問いには答えなかった。
「鹿股さん、祭りは祭りを愛する人を絶対に裏切らん・・・。俺はそれを今日、自分の身をもって感じた。それにあの二人を見てみぃ・・・」
大和はポツリと独り言のようにそう言うと、社務所の引き戸を開けた。鹿股の視線の先には、肩を組み、杯を傾け合う大迫親子の姿があった。
その視線が大迫親子の姿を捉えたのと同時に、社務所の中で一段と大きな歓声が上がり、鉦、笛、太鼓が盛大にお囃子の旋律を奏で始めた。
「なんや・・・? どないしたんや?」
大和と鹿股は互いに顔を見合わせ、社務所に足を踏み入れた。
興奮した様子の颯太が父親の姿を見つけ、神棚の方を指差しながら近づいてきた。
「パパ、あれ! 見て! 見て! ちっこいおっちゃん、おもろいで!」
颯太が指し示す先では、川上が真っ赤に染まった上半身を晒して、意味不明な奇声を発し、笛や太鼓の音に合わせて身体をくねらせていた。そのそばでは、周囲に頭を下げながら必死に川上を諌めようとする輿と西沢の姿と、川上の勢いに乗せられ法被や晒しを脱ぎ出す氏子たちの姿があった。
「川上さん・・・、完全に目がイッとるな・・・」
大和はその様子を見て、頬を引きつらせた。
「・・・彼、下戸のはずなんですがね・・・。どうしちゃったんでしょうね・・・」
ただ呆然と川上の「クネクネ」を見遣る鹿股の肩を、大和がドンとひとつ叩いた。
「鹿股社長! 直会を抜け出して、次の仕事の電話なんかしてたらあかん! 一年に一度、あの川上さんみたいにみんなでバカ騒ぎをするのが、この本山八幡祭りの直会や! これは祭りの重要な儀式なんやから、リ・フェスタさんの仕事は、この直会が終わってはじめて完了するんや! さあ、今夜はとことん付き合ってもらいまっせ! この間、『酒でも飲みながら愚痴を聞いてください』言うてましたな! 今日はな~んぼでもお相手させていただきまっせ!」
大和は鹿股の肩に勢いよく手を回し、氏子たちの歓喜の輪の中に入っていった。
17
シンと静まり返った拝殿を、サラサラという葉擦れの音が吹き抜けていく。
大和は拝殿に正座をして、「返器の儀」の始まりを待っている。
東島宮司と三和宮司が本殿奥から姿を現した。
本山八幡祭りが終わり、三日が経った。大和は神社で保管する鉢巻や法被を携えて、神社に来ていた。
東島宮司が朗らかな笑みを浮かべ、大和を前に立った。
「いやー、いいお祭りでしたね。本山の神様も、さぞお喜びのことでしょう。大きな事故もなく、神輿も海水を浴びることなく、無事に神社に戻りましたし、これ以上望むべきものは何もありません。もう本山の祭りは見られないのだろうと思っていましたが、いい冥土への土産になりました。雨宮さん、本当にありがとうございました」
二人の宮司が、大和に深々と頭を下げた。
大和は恐縮に身が縮まる思いがした。
「これからはここにいる三和宮司が、私の代わりを務めてくれることになります。今回、私の隣で祭りについて回ったので、儀式や祭典のおおよその事は理解できたと思いますが、まだまだ経験が足りない点もあるでしょう。雨宮さん、ぜひ、お力添えをお願いいたします」
大和は東島宮司の言葉に深く頭を垂れた。
三和宮司が溌剌としたハリのある声で、大和に言った。
「まだ若輩者ですが、精一杯努めさせていただきます。ご指導の程、よろしくお願いします」
黒岩に三和・・・。若い世代が、本山八幡祭りを引き継いでいく決心をした。大和は若い二人に対して、深い感謝の念を抱いた。
しかし、黒岩と三和宮司がいくら高い志を持っていようとも、バラ色の将来が約束されているわけではない。島民の高齢化と過疎化は、さらに進行するのは目に見えている。島の前途は決して明るくはない。近い将来、その現実を目の当たりにした黒岩と三和宮司の悲嘆にくれた姿を想像することは、大和にとってけっして難しいことではない。
大和は今回、祭りのために馳せ参じてきた多くの元島民の姿を間近に見てきた。そこで彼らの祭りに対する熱い気持ちと心意気を強く感じた。神輿渡御を終え、大和は汗と潮に塗れた氏子たちの爽やかな表情を見て、島を出る豊たちのため、多くの元島民のために「帰るべき場所」を守り続ける。颯太や涼の世代まで祭りを引き継いでいくのが頭屋としての責務である、とそう思い至った。
島の前途にどんな将来が待ち受けていようと、黒岩と三和宮司と共に祭りを守ってみせる。三和宮司の緊張した面持ちを前にして、大和は改めてそう心に誓った。
「何のための祭りか?」と人は問うかもしれない。そんな問いに大和は「俺たちが俺たちであるための祭りだ!」と胸を張って言ってやるつもりだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします。いっしょに本山を盛り上げていきましょう!」
三和宮司が緊張気味の表情をほころばせる。
「それでは、来年までそちらの鉢巻と法被をお預かりいたしましょう。三和宮司、お預かりしてください」
三和宮司は大和が捧げ持った鉢巻の束を受け取り三方の上に載せ、本殿に供えるため拝殿を後にした。
祭りから一週間が過ぎ、あのときの喧騒がウソのように、島はいつもの静かな時の流れの中をたゆたっている。初夏を思わせる陽気をもたらした太陽はすでに力のない夕焼けとなり、島をオレンジ色に照らしている。
出張所の窓から岸本と黒岩が、フェリー乗り場を眺めている。
夕焼けが、出札口辺りに八つの影を落としている。
岸本がポツリと呟いた。
「ホウちゃん、行ってまうんやな・・・」
「ええ。颯太くん、さみしいやろな・・・」
黒岩は窓辺を離れ、自分の席に戻り、帰宅の準備を始めた。パソコンの電源を落とす前にメールの確認をすると、川上からメールが届いていた。
「予定通り来週の月曜日、輿さんと川上さんが、今回の祭りの総括リポートを持ってこられるそうです。同席されますか?」
岸本がフェリー乗り場の様子を眺めたまま答えた。
「ああ。どうせ暇やし、ちょっと聞きたいこともあるしな」
「なんかあるんですか?」
岸本が憤然と黒岩に向き直り、まるで駄々を捏ねる子供のような口ぶりで言った
「黒岩くんはあの祭りを見て、神輿担ぎたい思わんかったんか? 俺、来年はどうしても輿舁きとして、祭りに参加したいねん! 運営統括部長ってなんやねん! 結局、一日、お偉いさんの世話焼きやんか! でも、神輿を担ぐには、やっぱり氏子やないと役不足やろ? じゃあ、どうしたら氏子になれるんや? それを知りたいや。黒岩くん、知っとるか?」
その岸本の物言いに黒岩は鼻白んだ。
「神社に行って、氏子にしてください、って言えば、それでいいやないですか?」
岸本は黒岩ににじり寄り、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「お布施ゆうか・・・、登録料みたいなもんはあるんかな?」
黒岩は壁掛け時計に目をやり、ぶっきらぼうに答えた。
「まあ、三〇〇〇万くらいは必要なんじゃないですかね。じゃあ、お先です」
背中で岸本のアタフタ振りを感じながら、口元に微苦笑を浮かべた黒岩が出張所の扉を開け、外に出た。
「啓ちゃん!」
黒岩は声のした方に視線を向けた。
夕日を背にした沙耶が、出張所の門の所で手を振っている。
黒岩も笑顔で右手を上げ、沙耶の呼び掛けに応えた。
二人はゆっくりと歩み寄った。
そして、肩を並べて、朱色に染まった海に向かって歩き出した。
突堤には広川港行きのフェリーが停泊し、数人の乗客が船内に消えた。
「ダイちゃん・・・、それじゃ、行くわ・・・」
豊が大和に手を差し出した。豊の横で純一が鼻を啜り、頭を垂れている。
大和は目笑を浮かべ、その手をしっかりと握った。
「ああ、気付けてな・・・。落ち着いたら電話くれや。なぁ」
豊は唇を噛み口元を震わせ、大きく頷いた。
大和は屈み込んで、涙で顔をクシャクシャにした涼の頭を撫でた。涼の胸には祭りで使った太鼓が、手にはバチが握られている。
「涼ちゃん、大阪行ってもきちんと太鼓の練習せなあかんで。練習せんと、来年は祭りに参加させんぞ」
大和はそう言って、太鼓を指で弾いた。
涼はしゃくり上げながら、ひとつ大きく頷いた。
傍らでは圭子、聡美、そして、理恵がハンカチで目頭を押さえ、互いに別れの挨拶をしている。
颯太は大和の足に縋り付き、咽び泣いていた。
豊も涙に咽びながら、颯太に語りかけた。
「颯ちゃん、いつでも遊びに来てや! 涼もおっちゃんもみんなで待ってるからな」
フェリーの汽笛がひとつ鳴った。出港まであと一五分を知らせる汽笛だ。
「颯太! いつまでも泣いとらんで、涼ちゃんにきちんと挨拶せい!」
大和はしゃくり泣く颯太を足から引き剥がし、涼の正面に立たせた。涼の顔は泣き濡れ、肩をヒクヒクと震わせている。二人は涙越しに見詰め合った。
颯太は言葉にならない声で別れを告げた。
「りょうちゃん・・・、りょうちゃん・・・、げ、げ、げんきで・・・ね。また・・・、また・・・あっ、あっ、あそぼう・・・、ね・・・」
涼は止めどなく流れる涙を拭い、ただ何度も何度も頷いた。
「さあ、時間や、涼・・・行くぞ。じゃあ、ダイちゃん、圭子さん、それに聡美ちゃんに、颯ちゃん! ほんまにいろいろお世話になった、ありがとう! また来年、祭りで盛り上がろうな!」
豊は片手で涼の手を握り、もう片方の手で理恵の肩を抱き、純一を促すようにしてフェリーへと向かった。
大和はその背中に向かって叫んだ。
「ホウちゃん、理恵さん、純一くん、涼ちゃん! 元気でな! みんなが帰ってくる場所は、俺と颯太がずっと守ったるから、大阪で思う存分、暴れてきてや!」
豊は理恵の肩に置いた手をそっと上げ、フェリーの中に消えていった。
汽笛が二度鳴った。いよいよ出航の時間だ。
ゆっくりと色を変えていく夕映えの空が、どこまでもどこまでも広がっている。
豊がフェリーの後部デッキに姿を見せ、大和たちに向かって大きく力強く両手を振る。その横では理恵が鼻先をハンカチで押さえ、純一は肩口で弱々しく手を振っている。
フェリーがゆっくりと突堤から離れていく。
大和たちはそのフェリーの動きに合わせて、突堤の先端に向かって、ゆっくりと歩を進める。フェリーが茜色の航跡を棚引かせるようにして進み、後部デッキの豊たちの姿が、ゆっくりとフェリーが作る影に飲み込まれようとしている。
そのとき、後部デッキから小気味いい太鼓の音が、潮風に乗り運ばれてきた。
トン、トトトト、トン!
トン、トトトト、トン!
突然、颯太がその太鼓の音に向かって走り出した。
「おい! 颯太!」
颯太は懸命に手を振り、遠ざかってゆくフェリーを追いかけていく。
颯太の身体が夕陽を浴び、真っ赤に染まった。
「涼ちゃん! 涼ちゃん!」
颯太が涼を呼ぶ声と涼が叩く太鼓の音は、いつまでもいつまでも本山の夕空に響いていた。
18
梅雨の中休みなのか松本の上空には、久しぶりに青く澄み切った空が広がっている。
リ・フェスタの新たな男性営業部員マイク・井原が外の爽快さとは正反対の暗く沈痛な面持ちで、パソコンの画面を見詰めている。
マイクは、アメリカ・カリフォルニア州ロスアンゼルス出身の日系三世で、二七歳。幼少の頃から祖先の母国の文化に興味を抱き、大学では日本語学科を専攻し、特に日本のポップカルチャーから日本の祭り文化までを研究の対象にして、卒業後、バッグパッカーとして岸和田だんじり祭りや京都祇園祭、長崎くんちなど、日本各地の祭りを「はしご」していた。
たまたま出張先でマイクを見つけた鹿股が、「あちこちの祭りでよく見掛ける日本人っぽい外国人」ということで声を掛けたのが、リ・フェスタとの出会いだった。
そして、鹿股が社長を務めるリ・フェスタが「祭りのコンサルティング会社だ」と知ると、四月の中頃にいきなり松本の事務所にリックひとつで現れ、「仕事、手伝わせてください!」と倉庫整理や下調べの作業などを手伝いだした。
マイクは現在、輿の指導の元、東北・山形県のとある村役場から依頼の仕事を担当している。
その祭りは、藩政の時代から続く山形県でも有数の伝統ある祭りなのだが、村は全国の農村地域と同様、過疎化が進行し、祭りの担い手に事欠く状況に直面していた。
祭りでは大小一〇〇ほどの松明を担ぎ、山の麓から中腹にある神社まで、雪深い山道を五キロほど練り歩くという肉体的に過酷な儀式があり、どうしても若い担い手を必要としていた。
これまでは村の青年会組織や村役場が先頭に立って、村役場職員の親戚縁者を頼ったり、県職員に頭を下げて参加をお願いしたりして、どうにか人員を都合してきたのだが、そういうやり方にも限界が来ていて、「より効率的な人員動員のノウハウを」と、リ・フェスタにお声が掛かったのだった。
鹿股はマイクのデスクの脇に立った。
「どうした? マイク。難しい顔して」
マイクがパソコンの画面の一点を指し示した。
「参加希望者数、思ったように伸びない・・・。まあ、まだ六月だから仕方ないかな・・・」
山間の狭隘な地域で細々と行われてきた祭りなので、長い歴史の割には県内外でほとんど知られておらず、そのためか、さまざまな方面からの宣伝・広報活動も、反応がいまひとつの状況が続いている。交通の便の悪さや宿泊施設の少なさなど、インフラ面でのマイナスも響いているようだった。
鹿股は仕事の遅滞に顔を曇らせるマイクを諭した。
「とにかく必要人員の確保を優先しよう。人員は俺にも当てがあるから、そっちの方面からも探ってみよう。インフラ面での問題は、我々が今から騒いでも一朝一夕に変わるものじゃない。まずは、今回の祭りを成功させ、祭りの持つポテンシャルを示すことで、地域全体を動かしていくしかないだろうな。川上くん、ちょっと」
机の脇に積み重ねられた資料の山から川上がひょっこりと顔を出し、口の周りに付いた白い粉を払いながら、立ち上がった。
「護国寺の群林堂の大福・・・。どうしてもお昼まで我慢できなくて、すみません・・・」
川上は本山八幡祭りの直会での醜態をまるっきり覚えていず、鹿股たちを唖然とさせた。
鹿股は怒る気にもならず、小さくため息をついた。
「慶政大学の祭り研究会に電話して、一二月中旬に山形県で行われる祭りに参加してみる気はないか聞いてみてくれ」
これまでも人員がショートしそうなとき、鹿股は全国各地の祭りに参加することを活動の主目的にしている大学のサークルに声を掛けてきた。
学生という立場だが、ブログやツイッター、フェイスブックなどのソーシャルメディアを使っての情報発信力があり、彼らから発せられた情報が、祭りに新機軸をもたらすことも少なくなかった。
川上は口に残る大福を懸命に飲み込んだ。
「ほい。わかりぃましゅた・・・」
川上の横では、西沢が全身からマイナスオーラを全開にして座っていた。クライアントの提出する広告媒体関連の資料を作っているようだが、朝からパソコンに向かってため息ばかり付いている。この様子は株でそこそこの損失を出しときのもので、変に声を掛けると藪から大蛇を誘い出すことになる・・・。
「うるさい!」
西沢の鋭い一閃が事務所に響いた。
西沢の横で、川上の体がプルプルと震えている。
―まったく何度同じ轍を踏めば分かるのかね・・・、川上くんは・・・。
鹿股は自分のデスクに戻り、引き出しを開け、中から航空券を取り出した。来月、小倉祇園太鼓が開催される。それに合わせて購入したチケットだ。
―祭りは祭りを愛する人を絶対に裏切らない・・・、か・・・。
小倉の青空の下、晴光が力強く太鼓にバチを振い、満面の笑みを浮かべ振り返る・・・。その視線の先には、鹿股の姿がある・・・。鹿股は視線を横に向ける。そこには昨年より成長した晴光の姿に目を細める香がいる・・・。
事務所の扉がコンコンと遠慮気味に叩かれた。
鹿股はハッと我に返り、そちらに視線を向けた。
扉の向こうから三〇代くらいの男性が恐縮した面持ちで顔を出し、応対に出た中畑に何やら相談をし始めた。そのそばで聞くとはないしに話を聞いていた輿が、すぐに中畑から応対を引き継ぎ、男性を商談スペースへと案内していく。
中畑が商談スペースの様子をしきりに窺いながら、鹿股のデスクに近づいてきた。
「なんだか、高知県の幻のなんとかいう祭りについて、知っていることはありませんか? とか何とか、おっしゃっていましたが・・・」
中畑は心配顔でそう言い残し、給湯室に向かった。
鹿股は苦笑いを浮かべ、フッとひとつ息を付き、チケットを引き出しに仕舞った。そして、ゆっくりとイスから立ち上がり、来客の男性が、身振り手振りを交えて話をしている商談スペースへと向かった。
(完)