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第四部

 島には続々と祭りの参加者が上陸し、その中には黒岩が待ちわびていた沙耶の姿もあった。二人は夕暮れの中再会し、沙耶は黒岩にこれまでの経緯を語った。

 いよいよ本山八幡祭りが始まった。その中心には、雨宮大和の姿があった。

    11

 九月中旬を過ぎ、長野県の松本市も長く厳しい残暑がひと段落した。特に朝晩には、長袖のワイシャツの上にもう一枚羽織るものが欲しくなる気候となり、緑一色だったアルプスの山肌も赤や黄、橙に染まり始めている。

 鹿股は秋真っ盛りの北海道から、昨日松本に帰ってきた。

 主に道南地域をレンタカーで廻り、真駒内神社例大祭や上ノ國八幡宮例大祭などに顔を出してきた。歴史と伝統のある祭りから、地場産業普及を目的にしたフェスティバルまで、それぞれがそれぞれのカラーを打ち出し、自分たちの「ハレの日」を演出していた。

 鹿股は事務所に入り、札幌空港のロゴの入ったビニール袋を中畑に差し出した。

「おはようございます。中畑さん、はい、これ例の・・・」

「おはようございます。申し訳ありません。お忙しいのに・・・」

 みやげの臭いを嗅ぎつけた川上が、エサを狙う猫のような足取りで近づいてきた。

「なんですかね。北海道ですからね。まあ社長なら、妥当なところでロイズの生チョコか六花亭のマルセイバターサンド。意表をついて北菓楼の夢不思議ってところかな・・・」

 勝手に妄想を膨らませ悦に入っている川上を、中畑が申し訳な気に見つめている。

 鹿股は呆れ顔で、「川上くん、これは会社へのおみやげじゃないだ。中畑さんに頼まれて買ってきた松前漬けだよ。中畑さんの家のおばあちゃんの好物なんだそうだ。まあ少し落ち着けって! 川上くんには、日頃の努力の褒美として、特別なものを用意したから!」と川上を諭し、社長のイスに向かい、カバンの中をまさぐり始めた。

 中畑の手にした物が北海道銘菓でないと知り、川上の顔に一瞬失望の影が差したが、鹿股の一言で一気に弾けるような笑顔を取り戻した。

 西沢が川上に声を掛けた。

「いいじゃない! うらやましわ、川上くん。社長がおみやげを買ってくるなんて、これまでなかったじゃない?」

 リ・フェスタでは、出張先からのみやげはなるべく買ってこないように、社員全員が心掛けている。全員が出張に出て会社にいないという日も多く、特にお菓子類のみやげは食べきれずに捨ててしまうケースもあり、不経済だということで暗黙のうちに社のルールになっていた。

「うん、うん。まあ、何も自分一人で全部頂こうなんて考えていませんよ。みんなにもおすそ分けしてあげますから」

 鹿股がカバンの中から手のひら大の包みを取り出した。

「ほら、川上くん。九州出身のキミには珍しいだろう・・・」

 鹿股はその包みを川上に向かって放った。

 川上は鹿股の手から放られた包みを胸の辺りでキャッチした。

「これ、なんですか・・・。このちょっとした重量感は・・・なんだ?」

 川上は呆然とし、ゆっくりと包みを開いた。

「これは・・・」

 唖然とした表情の川上が目の前の茶色い塊を見つめている。

「どうだ。川上くん! 実物を見るの、初めてだろ? 荷物になるから、その大きさのしか買えなかった。申し訳ないな。でも感動しただろ?」

 西沢は二の句が継げないといった面持ちで短いため息をひとつ付き、ゆっくりと川上から離れていく。

「よかった・・・わね・・・」

 放心状態から抜け出せない川上の前には、鮭を咥え悠然と歩む姿の、小振りだが立派な木彫りのクマが鎮座している。

 鹿股の横で一部始終を見ていた輿が、苦笑を浮かべながら口を開いた。

「あの川上くんの様子だと、ショックで当分口も効けそうにありませんから、本山の件は私から報告させてもらいます」

 鹿股と輿の視線の先には、木彫りのクマを凝視したまま、悄然と固まってしまった川上の切ない姿がある。

「はい。それじゃ、よろしくお願いします」

 輿は鹿股に資料を手渡した。

「先週、イチさんに神輿の点検に行ってもらいました。私も同行したのですが、イチさんもこの規模の島で、これだけの神輿は見たことがないって驚いていましたよ」

 鹿股は、ひと月ほど前に本山八幡神社で会った雨宮大和の姿を思い出していた。

「かなり丁寧に整備していたようですが、なにせ一〇年使われていない神輿ですから、土台の部分だけは補修した方が安全対策上ベターだということで、新年早々にでもイチさんが本山に行って、修理してくださることになりました」

 輿の説明が続く。

「島の中に点在する御旅所の整理には、若干時間と労力が掛かりそうですね。これも一〇年間ほったらかしですから、雑草に埋もれたままだったり、お社が壊れていたり、とにかく状態がよくありません。

 黒岩さんが中心となって、出張所に集まって来るご老人に声を掛け、一つひとつ片付けている状況ですが、肉体的な負担も大きいようで、なかなか思うように進んでいません。今月から近隣に在住する参加希望者を対象に、休日を利用したボランティアを募集し始めました。それに少し期待を掛けています」

 鹿股が言った。

「黒岩さんが、ここのところよく動いて下さっているようですね?」

 輿が幾分、訝しげな表情で答えた。

「ええ、以前はそれほど熱心じゃなかったので、『この人は戦力になりそうにないな』と、川上くんとも話していたんですがね。どういう訳かここのところ俄然やる気が出てきたみたいでして、人材募集の作業も一手に引き受けてくださいました。私たちもだいぶ助かっています」

「そうですか。まあ、これから何かと人手が掛かりますから、積極的に動いてくれる人材が増えるのはいいことですね」

「ええ。まったくです。それから宵宮で奉納される神楽舞ですが、御旅所の整理をお願いしているご老人の中に昔の舞い手の方がいらっしゃったので、お声をお掛けして、参加を了承してもらいました」

 その後、スポンサー企業との打ち合わせの経過報告が続き、最後に祭りに使われる小道具の発注状況などの説明が行われた。

 もし、法被や和楽器類が消失、または、使用に耐えない状態だったら・・・、鹿股は背筋が震える思いがした。金銭的な負担が心配なのではなく、そうした物品の扱いに氏子たちの祭りに対する気持ちが表れているはずなのだ。

「それでどうでした? 備品の状態は?」

 輿が興奮気味の声で答えた。

「まったく心配いりません。法被と鉢巻は最後の祭りの後、氏子が洗濯したものを、雨宮さんが集めて神社に保管するのが習わしのようで、それがほぼそのままの状態で出てきました。多少、かび臭くはありますが、一日天日干しでもすれば、十分でしょう。なんでも雨宮さんの話によると、本山八幡祭りでは、法被と鉢巻は神器と同様に扱うということで、以前からの物が見つかって本当にホッとしました。鉦や太鼓は参加者の皆さん各自が大切に保管していて、大半は明日にでも使える状態だそうです。

 最後になりますが、参加希望者は一〇月いっぱいまで受け付ける予定です。最初の頃の勢いは治まってきていますが、十分に人員は確保できそうです。御旅所の件など細かな問題はありますが、まあ、順調に準備は進んでいるといっていいでしょう。雨宮さんも頭屋として祭りに参加して下さるようですし・・・」

「そうですか、それはよかった・・・」

 鹿股はフウと安堵の息を付いた。

 雨宮はじめ多くの氏子が神輿や和楽器を、祭りが行われないにもかかわらず、丁重に扱っていた。それは「伝統の」「昔ながらの」本山八幡祭りの再興を、氏子全員が心のどこかで願っていたことを意味するのではないか・・・。

 鹿股はまた大和の姿を思い出し、ポツリと言った。

「あれだけ頑なだったのに、よく決心してくれましたね」

「ええ、まったくです。岸本主任も黒岩さんも、あまりその辺の事情については話して頂けないなので、確かな事はわかりませんが・・・。まあ、祭りにとってはプラスに働くでしょうから、そっとしておきます」

 

 鹿股は全国展開しているカレー専門店で適当に夕食を済ませ、三週間ぶりに自宅のアパートに帰った。

 時間は夜一〇時を少し回ったところだ。

 洗濯物が詰まったキャリーバッグを玄関に置き、電気を点けると、そこにはテレビとDVDプレイヤーとベッド、木目のローテーブルだけの生活感に乏しい殺風景な1LDKの部屋があった。部屋の隅には、新聞や雑誌が微妙なカーブを描き積み上げられている。

 鹿股はローテーブルの脇に手持ちのカバンを置き、背広を主人の長期の不在で冷え切ったベッドの上に無造作に放った。そして、台所に行き、冷蔵庫から五〇〇mlのロング缶の発泡酒を取り出し、プルトップを開け、一口口に含んだ。もう片方の手でネクタイの結び目をほどき、むしり取るようにしてはずした。

 スラックスのまま、テーブルの前にあぐらをかいて座り、テレビとDVDプレイヤーの電源を入れた。DVDプレイヤーには、雄一から送られてきたDVDが収められている。

 鹿股は家に帰ると発泡酒を片手に、夜半過ぎまでそれを見て過ごす。見るたびに晴光の表情や仕草に、新たな成長の証を発見できるような気がするのだった。

 テーブルに立てかけてあるカバンの中で、スマートフォンのバイブが震える音がした。

 鹿股はリモコンを机に置き、カバンからスマートフォンを取り出した。画面には「川上雄一」の名前が表示されている。

「もしもし、どうした、こんな時間に?」

 鹿股は電話の向こうの雄一に言った。

「悪いな。まだ仕事中か? それならまた掛け直すぞ」

「いや、たった今帰ってきたところだ。そっちはどうだ? その後、体調は落ち着いているのか?」

「ああ。もう何の心配もない。それでな、一〇月からまた勤め始めることになってな。今日電話したのは、その報告のためだ」

 雄一の声には張りがあり、「もう何の心配もない」という雄一の言葉に、ウソや誇張はなさそうだった。

「そうか。それはおめでとう。それで、どんな仕事だ」

「地元の運送会社での経理の仕事だ。部長待遇での採用だ」

 その運送会社は決して全国区と呼ばれるような会社ではないが、地元小倉では優良企業として聞こえのいい会社だ。

「小倉祇園の仲間からの紹介でな。はじめは裏口から職を得るような感じがして気が進まなかったんだが・・・。向こうの社長さんに、銀行時代の実績が評価されて、是非に、と言われてな。

 知り合いを通じて、その会社のことをいろいろ調べてみたが、経営状況も職場環境も悪くなさそうだ。田舎の小さい会社だから、銀行のときのような醜い派閥争いもないだろうしな・・・。給料は銀行時代よりかなり低いが、妻と二人の生活だ。金についてはどうにでもなる。それよりも何より、健康が第一、ってことを身に染みて感じたからな」

「そうだな。まあ、気張らずに、ほどほどにだ。もし、考えていたような会社じゃなかったら、鹿股のところに行けばいい、そのぐらいの気持ちでいいんじゃないか?」

 電話の向こうで、雄一が声を上げて笑った。

「小倉に支店でも作ってくれるのか?」

「ああ、作ってやるさ。ただ、小倉の支店長は当然、淳司くんだ。お前はその部下としての採用になるがな」

「そうか・・・。じゃあ、今度の勤務先でもクビならんよう、死に物狂いで頑張らなくちゃな!」

 今度は二人で声を合わせて笑った。

 笑いが治まると、雄一が静かに言った。

「小倉といえば、当然DVDはもう観てくれたよな? お前に送るために徹夜して作ったDVDだ。観てないなんて言ったら、ただじゃおかんぞ!」

 鹿股は柔らかな笑みを浮かべた。

「ああ、見たよ。まったくお前らは、余計なことしやがって・・・」

 電話口の鹿股の様子を察したのか、雄一がチャカすように言った。

「そんなこと言って、毎日毎日繰り返し見てんだろ?」

 ズバリと言い当てられ、鹿股は口ごもった。

 雄一が快活に笑った。

「その感じだと、図星だったようだな」

 それまでの雄一の親しげな口調が、聞き分けのない子供を諭すような、哀願するようなものに変わった。

「なあ、鹿股・・・。お前、祭りに人をひとつにする力があると信じているんだろ? 祭りの力を信じているんだろ? でも、父と子の関係は、その限りではないというのか? お前もあまり依怙地にならずに、こっちの祭りに顔ぐらい出せよ。それが一番のいい機会になるんじゃないのか? 祭りの場で香さんや晴光くんと正面からぶつかってみるんだ。どんなにぶつかり合い、罵り合いになろうが、最後には互いに認め合い、許し合えるのが、祭りのいいところだろ?

 そして、自分が今どんな仕事をしているのかを晴光くんにも話してみろ! 晴光くんももう中学生になるんだ。お前の仕事にこめた想いを理解できない年ではないはずだぞ。なあ? 仕事柄いくらでも理由はつけられるはずだ。今度は自分の手で晴光くんの姿をビデオに撮ってやれ!」

 雄一はそう言うと、夜分の電話を詫びて電話を切った。

―お前は祭りの力を信じているんだろ・・・、か・・・。

 鹿股は手にしていたスマートフォンをテーブルの上に置き、生ぬるくなった発泡酒をノドに流し込んだ。そして、DVDプレイヤーの再生ボタンを押した。

 画面に現れた晴光は真剣な眼差しで、山車の巡幸を眺めている。時折、お囃子の文句を叫び、山車の飾りや太鼓の技術について、カメラを構える川上に自分なりの解釈を語っている。

 鹿股にはその顔が、いつもより幾分、大人びて見えた。

             12

 鹿股は全国各地から届いた年賀状を読み終え、顔を上げた。

 目の前には、ご満悦といった表情の川上が仁王立ちしていて、お年賀として届いた金沢・諸江屋のお正月限定の縁起菓子「久寿玉くすだま」を片手に、一枚の年賀状を鹿股に差し出した。

「本山出張所の岸本さんと黒岩さんからです。相当気合が入ってますよ」

 鹿股は黒岩の達筆だが、どこか神経質そうな角張った筆跡の年賀状を受け取った。

「あけましておめでとうございます。三月の本山八幡祭りは絶対に成功させて、新たな本山の礎となる行事となるよう、職員はじめ住民一同、粉骨砕身、準備に励んでおります。まだまだ、貴社の皆様方には、お力添えをいただくことが多々あると思いますが、是非、ご協力のほどお願いいたします」

 鹿股は真新しい手帳を取り出し、二月のページを開いた。

 二月三日の節分。

 頭屋の雨宮大和は、ひと月ほども続く長い物忌みに入る。

 本山八幡祭りは、その日から正式にスタートする。


 ―この数ヶ月間、祭りの準備作業でてんやわんややった・・・。御旅所の整理に、参加者の練習日程の調整と実施。御旅所の整理作業じゃ、あれやこれやと指示を出す立場のはずが、あの老人たち、特に、一本釣りのガンさんに途中から完全に指導権を奪われて・・・。整理作業が終わる頃には、ほぼ丁稚に等しい扱いやった。でも、それもこれも、立派な祭りを開いて、胸張って沙耶ちゃんを迎えるためや!

 黒岩は沙耶からの祭りへの参加確認メールを読み、これまでの屈辱をグッと噛み締めた。

 沙耶は黒岩の「配慮」で、直会など忙しく立ち回らなければならないボランティアではなく、神社内に設置される運営本部で比較的楽な場内アナウンスの仕事が割り振られていた。

 二月三日。雨宮家の玄関先に「オハケ」が立てられ、いよいよ祭りが始まった。枝を削いだ長めの竹の先に紙垂を飾ったオハケが、雨宮家の門前に飾られている。祭りの期間中、頭屋の家に神霊が祀られていることを意味している。

「やあ~、まだまだ寒い日が続きそうやな~」

 岸本が凍えた手に息を吹きかけながら、神社の神楽殿の修繕作業から帰ってきた。自分の席にコートとカバンを置き、熱いお茶を入れに給湯室に入った。

「神楽殿の修繕が終われば、あとは島内の飾りつけだけやな」

 給湯室を出た岸本は、湯飲み茶碗の淵を摘むようにして持ち、黒岩のとなりの席に「よっこいしょ」と腰を下ろした。湯飲みのお茶をひと口飲み、ホッと息をひとつ付いた。

「黒岩くん、それで練習の方はどうなん? 順調なの?」 

 最終的に、参加希望者数は五〇〇名を越えた。当初の予定していた参加者数一五〇名を越え、島内外合わせて二〇〇名が本山八幡祭りの人員として参加することになった。応募者は年齢七〇代から一〇代までの幅広い年代が集まり、親子での参加希望者も多い。

 結局、神輿の担ぎ手である輿舁きとして、一五歳から六五歳までの男性六〇名、囃子手は経験者を中心に太鼓、笛、鉦合わせて、一五歳から六五歳までの男女三〇名が応募者から選抜された。神輿に付き添って随行する輿添えとして、性別年齢などの制限なしで二〇名が選ばれた。

 残りの参加者は、主にボランティアとして、交通整理や警備、女性の場合は、直会の準備など、祭りの裏方を支えてもらうことになっている。

 黒岩が答えた。

「毎週土日にやっていますが、参加者はやはり島に住むじいちゃん、ばあちゃんばっかりで、島外からの集まりは悪いですね。神輿にしろ、お囃子にしろ、みんなで集まって息を合わせなぁいかんと思うんですがね・・・。もう時間も少ないんやし・・・」

 難しい顔をして岸本が言った。

「ホウちゃんも練習には来とるんやろ? 何か言うてないんか?」

 豊は黒岩と共に、島外からの参加者の管理と練習の運営に携っている。一月中はランニングやスクワットなどの基礎体力を養うために当てられ、神輿の修繕が終了した二月からは、神社の境内で実際の神輿を使って、本格的な神輿渡御の訓練が始まっていた。

 一月一〇日から始まったその団体練習だが、肝心の人がなかなか集まらず、まとまった練習はまったくできていない。

 とくに、豊の友人知人が練習にやってくると、それこそ練習どころの騒ぎではなくなり、顔を合わせるや、その場いる全員が(豊とは何の面識のない人も)そのまま豊の家に引っ張り込まれ、「旧交を温め合う」という美名のもと、練習は宴会に変わってしまう。

「西尾さんは、『大丈夫や、心配ない』って笑ってますけど・・・」

「じゃ、問題ないんやろ」

 岸本はそう言って席を立ち、自分の席に戻っていった。

 その岸本の背中に向かって、黒岩が訊ねた。

「それで宮司の件は、どうなりました?」

 現在、本山八幡神社には常駐の宮司はおらず、正月の松の内とお盆の時期の五日間以外は、月に一度、広川町から二五歳とまだ若い三和幸隆という宮司が、社の様子を確認しに来るだけとなっていた。

 その新任の三和宮司は、本山八幡祭りに宮司として参加した経験がないのと、祭りにおける神事の知識が不足しているため、「自分にはそんな大役は受けられない」と、祭りへの参加を頑なに拒んでいた。祭りでは、宮司と頭屋が二人三脚で神事を司ることになり、宮司の役割も大きい。

「ああ。そのこともさっき神社で、話してきた。なんでもな、以前、あの神社にいた宮司さんが、まだ八〇歳でご存命らしくてな。その方がぜひ、宮司として参加させてくれ言うてるそうや。

 今回、その方、え~と、東島幸二さんっていう方が、いうなればメイン宮司や。そして、ひと月に一度来るあの若い兄ちゃんがサブというか、見習いとして祭りに協力してくれるそうや」

「へえ~。そりゃ、よかったですね」

 早くも沈みかけた冬日が、すりガラス越しにぼんやりと浮かんでいる。石油ストーブのほんわかとした温かさが事務所内に広がり、パートの女性職員が電卓を叩く、「パチッ、パチッ、パチッ」という単調な音だけが響いている。

「あっ、ところで、岸本主任はどうされるんです?」

 イスにドカリと腰を下ろした岸本が、キョトンとした顔で黒岩を見た。

「何を、どうするん?」

「どうって、祭りですよ・・・。参加されるんでしょ?」

「運営統括部長やし、家で休んでいるわけにはいかんわな・・・」

「いえ、いえ、そういうことやなくて・・・。その~、神輿担ぐなり、お囃子で笛を吹くなり、太鼓叩くなり・・・」

 岸本は黒岩の質問に、呆気に取られた表情できっぱりと答えた。

「何で? そんなことせいへんよ。だって、俺、氏子でも何でもないもん・・・」

 黒岩は意表を衝かれ、一瞬、声を呑んだ。

「氏子やない・・・? でも、この島の出身でしょ? あんなに祭りに詳しかったし・・・。それにこの島の祭りが好きだから、あんなに一生懸命だったんでしょ?」

「ちゃうよ。俺は広川町の出身で、祭りには一度も参加したことあらへんよ。祭りのことはそりゃ、この島に長くいれば、それなりの知識は付くやろ。それに黒岩くんにも言ったやんか! ホウちゃんのたっての願いやから、純粋に友人として聞いてやらんわけにはいかんって・・・。それより、黒岩くんの方こそどうなんよ?」

 黒岩は虚をつかれて、一瞬、言葉に詰まった。

「どうって? 何がです?」

「お祭りに決まっとるやろ! 毎週、じいちゃんたちと神輿担ぐ練習しとるんやろ?」

「いいえ、してませんよ・・・」

「じゃあ、お囃子の方か?」

「いいえ、なんで私がそんなことせえへんといかんのです?」

 今度は、岸本が目を丸くし、イスから立ち上がった。

「なんでって、黒岩くんはこの島の出身や言うてたやんか! だから、てっきり・・・」

「ええ、私はこの島出身ですよ、でも、両親は大阪出身で、仕事の都合でこの島に越して来たんです。その後、ちょうど祭りがなくなった頃、広川町にまた越したんです。だから、両親共々、八幡神社の氏子やないですし。まあ、人員がショートしたら、神輿ぐらい担がなぁいかんって、意気込んでいたんですが・・・」

「・・・けっこう熱心に仕事してきたんわ、祭りになんらかの思い入れがあったんと違うんか?」

 黒岩は少し顔を赤らめて、多少どもりながら言った。

「それは仕事ですから・・・、きちんとせな・・・あかん思うて・・・」

 岸本の体がイスの上に崩れ落ちた。

「なんや、祭りにな~んのゆかりもない二人が、文字通り西へ東へ奔走しとったちゅうことかい・・・。なんか、いいように使われた感が肩に重くのしかかって来たわ・・・」

 黒岩は虚空を見詰めて呟いた。

「雨宮さんの家、今、どんな感じなんでしょうね・・・」

 岸本は力なく応えた。

「さあ、ようわからんな。大変なんとちゃう?」

 二人の会話を一部始終聞いていたパートの女性職員の「クックックッ・・・」という忍び笑いが、黒岩の耳に聞こえてきた。


 大和は注連縄で四方を囲われた部屋にいる。

 物忌みに入ってから二週間が過ぎ、ようやく心も体もなにかと制約の多い生活に慣れてきたところだ。

 大和が物忌みで使っている部屋は、元は大和の父が書斎として使っていた八畳間で、襖の上には神棚が祀られている。この物忌み部屋にいるときは、昼夜に関係なく三時間おきに神棚に向かって祝詞を上げなければならない。

 部屋の中にはテレビもラジオもパソコンもなく、畳の上には、炊飯器やガスコンロ、小型の冷蔵庫、クーラーボックスが並んでいる。本山八幡祭りの物忌みでは、頭屋の主人は穢れにふれないよう家人が食べる物とは別火で調理した物を食す。

 昔の別火の潔斎の生活は、もっと「それなりの」体裁で行われてきたのだが、大和の父が頭屋を務めていた時代の後半期、二〇年ほど前から、炭や薪などを使った潔斎は行われていない。別に、儀式を端折ったり、簡便さを求めたりしたためではなく、必要な材料が集められなくなってしまった、という物理的な理由による。

 それでも大和が物忌みの間に使う水は、本山八幡神社の手水舎から毎朝汲んでくるものを使うし、主食の米も神社でお祓いを受けた物が使われる。肉食、魚食は控えられ、毎日「あまり人の手を介さないで」雨宮家に届けられる野菜を中心とした食生活となる。

 物忌みの期間も、遠い昔は三ヶ月に渡って行われていたのだが、現代社会では、一家の稼ぎ頭がそんなに長期間、社会との接触を絶っていたのでは、頭家一家の生活が成り立たない。

 大和の父の時代には、すでに期間は一ヶ月と短縮されていて、雨宮家が物忌みに入ると、氏子である漁師たちが漁で得た収入の何割かを寄付しあうことで、雨宮家の生活が成り立っていた。西尾家は代々その寄付を集める役割を果たしていて、自然と雨宮家との関わりが深く濃密になっていったのだ。

 大和も当然、朝から晩まで八畳間に籠もっているわけではなく、毎日自家用車で和歌山市内の建設会社に通勤している。いつもと違うところは、潔斎用の材料で大和自身が作った弁当を、昼飯用に持参していることぐらいだろう。

「パパ、これ、ママから」

 颯太が携帯電話を手に注連縄で示された結界を難なく突破して、大和のいる部屋に入ってきた。

 以前なら物忌み中の部屋に子供が入るなど、言語道断と切り捨てられる行為だ。事実、大和自身、颯太と同じくらいの年の頃、好奇心から物忌み期間中に潔斎部屋に入ってしまい、父親にこっぴどく叱られた経験があった。

 島では、昔でいう元服の年、一五歳になって初めて大人として扱われる。物忌みの儀式が引き継がれるのも、その元服の年からで、それまではどんな事情があるにせよ、何人も物忌み中の潔斎部屋に入ることは許されなかった。

 大和は颯太から携帯電話を受け取った。

「おう、ありがとな」

 仕事関係の連絡なら受けない訳にはいかない。緊急の用件なら、夜でも車を出して現場に急行しなければならない。最低限の文明の利器は、利用しないわけにはいかない。

 大和は元島民が参加してくれる今回の祭りの物忌みが、このような古来の伝統を蔑ろにするような形で行われることに、頭屋として忸怩たる思いを心の片隅に抱いていた。

 一方で、いくら周囲が伝統と格式を求めようと、こうした時代の変化を受け入れていかなければ、いくら頭屋としての使命だからといって、祭りを継続していくことは難しい。

 大和が携帯電話の画面を見ると、豊からのメールが届いていた。「こちらは万事順調」とだけ記されている。

「颯太、ちょっとええか?」 

 大和は部屋を出て行こうとする颯太を呼び止め、胡坐をかいた膝の上に座らせた。

 颯太は涼と一緒に、神輿を先導する太鼓を叩くことになり、毎日、放課後、島に残る囃手の家に行き、太鼓の練習をしていた。

 お囃子には特に決まった楽譜があるわけではなく、すべては口伝えか、各氏子の家に伝わる門外不出の譜によって、その旋律は受け継がれてきた。

「太鼓の練習は順調か?」

 一日たった三時間の太鼓の練習でも、まだ体のできていない子供にとってはハードなはずで、腕の筋肉もパンパンになるはずだ。しかし、颯太は、圭子にも聡美にも愚痴ひとつ言わないらしい。

 颯太は眠そうな目をしっかりと開き、父親の質問に答えた。

「うん。渡部のジイちゃんに、筋がいいって褒められた」

「おお、そうか! あのジイさんに褒められたんなら上等や」

 大和は颯太の頭を撫でた。

「颯太。それじゃ、パパが、ここで何をしちゃるか知っとるか?」

 颯太はキョトンとした顔で答えた。

「物忌みやろ?」

「じゃあ、その物忌みってなんや?」

 颯太はウ~ンと口を尖らせた。

「颯太、物忌みって言うんはな・・・」

 大和は颯太を膝に乗せたまま、今、自分がここで何をしているのかを、噛んで含めるように颯太に話して聞かせた。

 大和は今、潔斎部屋における「禁」を破ってまで、こうして物忌みの意味を颯太に話して聞かせている。それは祭りがどういうものなのかを、幼少の頃から知っておくことに価値がある、と大和は感じているからだ。

 大和は一五歳になって始めて物忌みに参加し、そのまま自分の意思とは関係なく、頭屋としての役割を担ってきた。それが頭屋の家に生まれた者の義務だと考えてきた。

 大和が西尾家のように島を出ないのも、島民の主たる頭屋としての「責任」という言葉が、どこか頭の片隅にあるためだ。考え方によっては、祭りを司る頭屋としての使命が、大和の人生を縛ってきたとも言える。

 大和は颯太にそんな窮屈な思いはさせたくなかったし、もうそんな時代ではない、と考えている。

 しかし、親としては、やはり心のどこかで自分や父親の跡を継いでほしいという気持ちがあった。特に、漁師の仕事を辞め、颯太に受け継いでいくべき物を失っている今となっては、祭りだけが颯太に引き継げるものなのだ。

 大和は祭りを再興すると決めたとき、自身にこう固く誓った。

 元服前から颯太を祭りに本格的に参加させ、一五歳までに颯太が子供っぽい無邪気さの表れとしてでなく、真正の「祭り人」として祭りを好きになり、自分から祭りの先頭に立ちたい、パパのようになりたいと言わなければ、頭屋の役割を引き継ぐことを諦める、と。

「どうや、颯太、わかったか・・・」

 大和は黙って話を聞いている颯太の頭を撫で、颯太の顔を覗き込んだ。

 颯太の頭はグラグラと前後左右に揺れ、ポカンと開いた口の端には一筋のよだれが光り、鼻からはスー、スーという寝息が漏れていた。

 大和は苦笑を浮かべ、膝から颯太を抱え上げた。襖を開けて圭子を呼び、優しい手つきで颯太を圭子に預けた。

 そして、母親に抱かれ子供部屋に向かう颯太に向かってひとりごちた。

「親の心、子知らず・・・、ってとこか・・・」

             13

 夕焼けの中を、二隻の小型の釣り舟が本山港に帰港してくる。オレンジ色に染まる凪いだ海面が、舟の接近に少し荒らいだ。

 山桜がポツポツとほころびはじめ、島も暖かく過ごしやすくなり、釣り目的の観光客がパラパラと現れるようになった。

 釣り舟から数名の釣り客が満足気な表情で港に向かって手を振っている。フェリーの乗降口にある転落防止用の手すりには、すでに「歓迎 本山八幡祭り」という大漁旗に似せて作られた大段幕が掲げられている。

 黒岩は作り笑顔で釣り客に手を振り返し、二隻の釣り舟の向こうに見えるフェリーの到着を待っていた。黒岩の足元には、港をネジロにする白と黒のブチの野良猫がしきりとまとわりついている。

 フェリーには、リ・フェスタの面々が乗っているはずで、翌日の土曜日の午前中から午後に掛けて、リ・フェスタの職員と岸本、黒岩、そして、島内ボランティア一二名が二手に分かれて、最後の飾り付け作業と屋台の設置指導を行う。この日は、その作業全般についての最終的な打ち合わせをすることになっている。

 キョロキョロと下船客の姿に目を光らせていた黒岩は、一台のワンボックスカーが船腹から出てきたのに気付き、軽く手を上げた。

 足元の野良猫は相手をしてもらえないと悟ったのか、フェリーから降りてくる人たちに向かって、猫なで声で愛敬を振りまきながら、黒岩の元を去っていく。

 ワンボックスカーのスライドドアが開き、黒岩は乗り込んだ。

 鹿股が恐縮して頭を下げた。

「わざわざ、お出迎えいただいて、ありがとうございます。宿で待っていていただいてもよかったのに・・・」

 鹿股の言葉に顔を少し赤らめた黒岩は、何度もペコペコと頭を下げた。

「いえいえ。港は出張所から民宿までの通り道ですし、少し暖かくなってきましたから、皆さんが来るまでの時間、ちょっと風にでもあたろうかと・・・」

「そうですか。それならいいんですが・・・。それで、どうですか? あさっての天気は?」

「ええ、ここ二、三日は晴れの日が続くそうです」

 鹿股はそれを聞いて、ホッとした胸を撫で下ろした。

「準備も明日の作業を残すだけで、順調に進んでいるようですね?」

「ええ。神楽殿の修繕も終わりましたし、御旅所の整理、管理も継続して行っています」

 鹿股が苦笑いを浮かべ、黒岩の顔を覗き込むようにして言った。

「だいぶ・・・、ご苦労されたみたいですね」

 黒岩の胸に余憤が沸々とこみ上げてきたが、愚痴りたいのを懸命に堪えた。

「えっ・・・、ええ。でも、いい経験ができましたよ」

 車が民宿に到着し、鹿股たちの荷物整理が終わると、さっそくミーティングが始まった。

 輿が黒岩に訊ねた。

「神輿やお囃子の練習はいかがですか? 以前、かなり集まりが悪いとおっしゃられていましたが?」

 黒岩は一瞬顔を歪め、その表情は段々と諦念の色に変わっていく。「結局、参加者全員が一堂に集まることはありませんでした。まあ、結果として、およそ参加者各人一回は練習に参加したことにはなりましたが・・・。西尾さんは大丈夫だ、と言っているんですが、私は不安で・・・」

 鹿股が笑み声で言った。

「西尾さんが大丈夫と言っているのなら、問題ないですよ」

 黒岩はその鹿股の一言で、内心ホッとした。岸本と同じ事を言っただけなのに、言葉の重みというか信頼度が違うのはなぜだろう? と頭の片隅で呟いた。

「おそらく、皆さん新天地でも神輿を担いだり、お囃子を奏でたりしているんでしょう。それにお囃子は一人でも練習はできますからね。大丈夫! 変に気を揉んでいると馬鹿をみますよ」

 鹿股の言葉に胸を撫で下ろした黒岩だったが、また別種の心配が頭をもたげてきた。

「でも、どこか痛める人とか転んでケガをする人なんかが、たくさん出るんでしょうね・・・。現状、救急処置のできるドクター二人と看護師三名ずつを確保していますが、もう一、二人増やした方がいいんやなかと思うんですけど・・・」

 鹿股は心配顔の黒岩の肩をポンポンと叩いた。

「ご心配される気持ちはよくわかります。主催者としては、確かに安全管理は最重要タスクですからね。神輿の担ぎ手や囃子手だけでなく、見物客に対するケアにも十分配慮する必要があります。でも、こういう祭りには、痛みやケガも祭りのうちって考えるような人たちばかりが集まるんです。

 当日は、言葉は悪いですが、そんな『祭りバカ』ばかりが集まりますから、仮にケガ人が出ても、見物客や仲間内からすぐに助けの手が差し伸べられます。気になるようでしたら、私たちも周辺地区の病院に当たってみましょうか?」

「いえいえ。まあ、鹿股社長がそうおっしゃるなら・・・」

 黒岩はそう言って、話を明日の件に切り替えた。

 ミーティングは順調に進み、一時間半ほどで終わった。

 黒岩は金曜日の夕方を迎え、宿泊客でごったがえし始めた宿の玄関で鹿股たちの見送りを受けていた。

「今日は、どうもありがとうございました。明日から、またよろしくお願いします・・・。あっ、そうだ。まったく話は変わるんですが、西尾さんのご家族、祭りの一週間後に引っ越されることに決まったそうです」

 輿が心配顔で訊ねた。

「新しい住まいや、お子さんの学校の件は解決されたんですか・・・」

「ええ、新居はだいぶ前から押さえてあったらしくて、ある程度の調度品は揃っているので、家族四人すぐにでも暮らせるそうです。涼くんの学校は家から歩いて数分のところにあるようですし、ご長男の通う中学校も自転車でいける距離だそうで、入学手続きもギリギリ間に合った、と聞いています」

 鹿股が黒岩に訊ねた。

「新しいお仕事は、どんなお仕事なんです・・・」

「小中学校で扱う教科書の取次店らしいです。ちょうど新学年が始まる前で、その会社もてんてこ舞いらしくて・・・。それこそ猫の手も借りたいということで、当初は新年度に入ってからの予定だったんですが、早めに召集が掛かったようです。それでも、あまりにも急なことで・・・」

 鹿股がポツリと呟いた。

「後ろ髪惹かれる思いを断ち切るには、いいタイミングかもしれませんけどね・・・」

 その場にいた一同の間に、沈黙が流れた。

「あっ、なんか余計なこと話しちゃったかな・・・。まあ、聞かんかったことにしといてください・・・。」

 黒岩はそう言いなして、ギシギシいう建付けの悪い引き戸を開け、宿の外に飛び出していった。

 

 すっかりと日の暮れた中を、黒岩はトボトボと港へと歩く。海面には、凪に歪む外灯の白い光がプカプカと浮遊物のように漂っている。港に目をやると、すでに最終便のフェリーが到着していて、乗客がパラパラと島に上陸しているのが見える。

 そのほとんどは祭りに参加する人たちのはずで、その中の幾人かは、すでにてんてこ舞い状態にあるあの宿に、その他は、島にいる友人知人の家に宿泊することになっている。その差配をしたのも黒岩である。

―今日は、来ないか・・・。

 黒岩は目の端で三〇mほど先のフェリー乗り場を確認しながら、足早に自分のアパートへの道を進んだ。

「啓ちゃん・・・」

 背後からそう呼ばれた気がして、黒岩はとっさに振り返った。

 薄ぼんやりとした外灯の下には、まだ先ほどの乗客たちがたむろしていて、迎えを待っていたり、久々に再会した友人知人と旧交を温め合ったりしている姿がある。

「気のせいやな・・・」

 そう呟いたとき、停泊していたフェリーが、ゆっくりと動き出した。黄色いライトが辺り一帯を払い、薄暗闇の中に一人の女性の姿を浮かび上がらせた。

「あっ!」

 黒岩は街中で珍獣にでも遭遇したような素っ頓狂な声を上げ、闇に沈む女性のシルエットに目を見張った。そして、口をあんぐりと開けたまま、夢遊病者のような足取りでゆっくりと近づいて行く。

「帰ってきちゃった・・・」

 沙耶は顔を伏せたまま、黒岩に聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。

「ああ・・・、おつかれさん・・・」

―なにが、おつかれさんや・・・。おかえり! でもなんでも別な言葉があるやろ!

 黒岩は突然のことにどう振舞っていいのか分からず、頭に血が上り、落ち着きを失っていくのが自分にも分かった。このときのためのシミュレーションは何度も頭の中でしてきたはずなのに、いざ実際にその場面に遭遇すると、一瞬ですべてが吹っ飛んでしまった。

 沙耶は両手でトートバッグを持ち、じっと肩をすくめるようにして立っている。栗色のショートヘヤーが柔らかな潮風に揺れている。

「日曜の、祭り、手伝ってくれるんやね・・・。聞いたよ・・・。なんか本部でいろいろやるんやろ・・・。そない、聞いてるけどな・・・」

 沙耶は上目遣いで、コクリとひとつ頷いた。

「まあ、本部の仕事ならラクやから、祭りも楽しめるやろ。よかったな、抽選でいい仕事が割り振られて・・・」

 フェリーがボーッという汽笛を残して去っていく。

 フェリー乗り場周辺はだんだんと人影もまばらとなり、黒岩と沙耶、そしてあと数名を残すのみとなっていた。

「久しぶりやろ、こっちに帰って来るの・・・。どうしたん?」

 沙耶がか細い声で言った。

「ごめん・・・」

 沙耶にいきなり謝られて、さらに気が動転してしまった黒岩は、シドロモドロになりながらも、カラ元気を振り絞り言葉を繋いだ。

「謝ることあらへん! うん、あらへん・・・。 沙耶ちゃんにもいろいろあるやろうし・・・、責めてる訳やないんよ。うん、責めてる訳やない・・・。それにオレもここのところ、仕事が忙しくてな・・・、なかなか連絡もできひんかったし・・・。まあ、今会って、元気そうなんで安心したわ・・・」

 沙耶はうつむいたまま、その場に立ち尽くしている。黒岩のカラ元気も空しく、場のぎこちなさが二人の距離を微妙なものにしていた。

 黒岩は沙耶の様子を窺いながら、努めて明るい口調で言った。

「さっ、家まで送るよ・・・。ひっ、ひっ、久しぶりの田舎道やろ。都会暮らしで足腰も鈍っとるやろうから、こっ、こっ、こけんよう気をつけ・・・や!」

 黒岩は沙耶に背中を向け、ゆっくりと歩き始めた。

「啓ちゃん! わたしね・・・」

 沙耶は震える声で黒岩を呼び止めた。そして、所々で詰まりながらも、これまで自分の身の周りで起こったことを訥々と話し始めた。


 見習い美容師の仕事は、社会経験のない若い女性にとって、心身ともに負担が大きい仕事だと言える。営業時間内は掃除、洗濯、雑用と目の回るような忙しさで、夜は夜で深夜までレッスンが続く。日付が変わった深夜に社員寮に帰宅し、朝八時には出勤し開店の準備を始めなければならない。また早く仕事を覚えようと焦れば焦るほど行動は空回りし、失敗に失敗を重ねる結果となる。

 そんな環境に置かれ、沙耶は体力的にも精神的にも続かなくなり、望んで入社したはずの美容室での仕事を、入社して二年で辞めてしまっていた。

 その後、喫茶店のウエイトレスや居酒屋の店員などのバイトでどうにか生計を立てていたが、食べていくのがやっとの生活が続いた。

 美容室を先に辞めていた同期の友人に誘われてキャバクラに体験入店もしてみたが、元来、酒もそれほど飲めず、訳もなく男性に媚びたりするのも苦手な性質。ギラギラした派手な世界に憧れがあった訳でもなく、かといって「お金のため」と割り切れるほど世間ずれしていない沙耶にとって、水商売の世界は苦痛でしかなく、それも一日で逃げ出してしまった・・・。

 沙耶は自分が都会でうらぶれていることを、誰にも知られたくなかった。そして、黒岩にも何も伝えず、家族にも引っ越す旨だけを伝え、アパートを替え、スマートフォンも替えた。

 何度も島に帰ろうと考えたのだが、島を出た経緯もあり、家族に会わせる顔もなく、黒岩にも辛くあたり、一方的に連絡を絶っていたので相談のしようもなく、ただズルズルと時間だけが過ぎてしまった。そんなとき、沙耶は大阪の難波駅に掲示されていた広告で、本山八幡祭りの事を知った。

 そこで自分である「賭け」を設定して、参加希望のメールを出した。参加が認められれば島に帰り、参加できなければ、帰郷は見送る・・・。参加者多数の場合は、厳正な審査がなされる旨が応募フォーマットに記されていたので、自分など九分九厘ダメだろうと思っていたのだが・・・。

 

「それで、今日、帰ってきたん・・・」

 沙耶は涙声でそこまで語ると、自分の理想通りにいかなかった過去への想いと自分に対する憤りで、口元を手で覆って嗚咽し始めた。

 黒岩は微苦笑を浮かべ、沙耶の肩を優しくポンポンと二つ叩いた。

「もお、ええよ、泣かんでも・・・。こうして帰ってきたんやし、ご両親も喜ぶと思うで。仕事なんていろんなモンの巡り会わせ次第で、良かったり悪かったりがあるから気にせんほうがいい。きっと、沙耶ちゃんに合った仕事があるはずや。オレだって役所の退屈でつまらん仕事に、〝明日こそ飛び出してやる!〟って何度思ったことか・・・。でも、俺には現実にそれを実行する勇気と度胸がなかっただけや。さあ、日曜日はみんなと祭りで盛り上がって、イヤなことはパッと忘れよう・・・。なぁ! さあ、もう帰ろ・・・」

 夜のしじまに聞こえてくるのは、波がヒタヒタと打ち寄せる音のみ。

 黒岩は踵を返し、再び歩き始めた。自分の後を歩く沙耶の気配を背中で感じていた。空を見上げると、零れ落ちんばかりの星屑が早春の夜空に広がっている。

 海沿いの道をしばらく行くと、黒岩の後をトボトボと歩く沙耶の右手が黒岩の左手に軽く触れた。黒岩は咄嗟に触れたその手をギュッと握り締めた。沙耶は一瞬ハッとした表情を浮かべたが、二人はそのまま何も語らず、ただポツポツと頼りなく灯る外灯に照らされて、沙耶の家へとゆっくりと歩を揃えた。

             14

 本山八幡神社の石段の両側には、「祝 本山八幡祭り」と記された紅白のちょうちんが二〇本ずつ並び、緩やかな風に揺れている。

 運動靴を履き、スラックスにポロシャツという『リ・フェスタ・スタイル』の鹿股たちは階段を上り、神社の境内に入った。祭りの当日は、あっちこっちを巡回することになるので、軽装で祭りに参加することが会社の決まりになっている。いわば軽装はリ・フェスタの「正装」である。

 春日造りの本山八幡神社は、二間社の拝殿とその奥に一間社の本殿がある。鳥居の脇に置かれた篝火の炎を浴びて、拝殿前に置かれた神輿がギラギラと輝いている。拝殿にも小ぶりな篝火が据えられ、神社全体が炎にユラユラと揺らめいている。

 境内には、岸本と黒岩、それにリ・フェスタの面々のほか、一五名ほどの見物人が祭典の開始を待っている。篝火に照らされた拝殿とは対照的に、見学者は肩を寄せ合うようにして、仄かな闇に包まれている。

 これから拝殿では神輿渡御を翌日に控え、島内外から集まった氏子たちによる祭典が執り行われる。

 太陽が西の空に沈む頃から、さらしにふんどし姿の男たちが神社に集まり始め、それぞれがこれから儀式に入るための禊として、手水舎で手と足を清め、口の中を入念にすすぐ。氏子の中には、手水舎の水を頭からかぶる者もいた。

 むつくけき男たちに紛れて、神輿渡御の先頭で太鼓を叩く颯太と涼の姿もある。二人は祭りの経験がない島外から来た子供たちと一緒に、周囲の大人たちから手取り足取り禊への臨み方を指導され、その通りに手足を洗い清めて、拝殿の中に入って行った。

 拝殿には、冠を被り、ほうに身をまとった東島宮司が、傍らに烏帽子に狩衣姿の三和宮司を従え、本殿に向かって直立不動の姿勢で静かに屹立し、氏子たちが揃うのを待っていた。

 二人の宮司の後ろには、真っ白なさらしの上に濃紺の法被をまとった大和が控えていた。禊を済ませた氏子は、その大和の後ろに一〇名ずつ横一列に並び、入りきれない氏子たちは拝殿前のスペースに整然と列をなしていく。

 一番太鼓の音が拝殿内に響き、大和を除いた氏子全員がその場に着座し、二番太鼓で、進行役の豊により、奏楽を背景に祭典の開式が告げられた。

 まずは「修祓しゅばつ」、お祓いの儀式だ。

 東島宮司が本殿に向かって祓詞はらえのことばを奏上し、大和と着座した氏子たちの頭上で祓具であるぬさを振り、祓い清める。

 拝殿内には厳粛な空気が流れ、篝火がパチパチと爆ぜる音と、東島宮司が祝詞を奏上する滋味豊かな声以外、何の物音も聞こえてこない。大和と氏子たちはじっと頭を垂れ、東島宮司からお祓いを受けている。

 修祓の儀式が終わると、神の御出ましを願う「開扉の儀」が始まる。警ひつ役の「オー」という掛け声と共に二名の禰宜によって、本殿内にある神殿の扉がゆっくりと開けられる。

 そして、祭典の最重要行事である「献饌の儀式」を迎える。これは御酒や御饌みけを神に供える儀式だ。

 本山八幡祭りは元来、豊漁を祈願する祭りであることから、酒や米、野菜に果物、塩といった一般的な「御饌津物みけつもの」以外に、本山近海で獲れた魚がふんだんに供えられる。

 大和が忌火いみびによって調理された「御神饌みみけ」を、神饌所から東島宮司のもとに運ぶ。御神饌は一品一品、頭上に捧げ持たれ、大和と禰宜によってゆっくりと運ばれてくる。

 東島宮司がそれを受け取り、洗米を中心にして、神座に向かって右に酒、魚や海草など海の物や果物を並べ、左には餅や塩、野菜を置いた。

 大和の一つひとつの動作は厳かさと高雅さに溢れ、拝殿内の時間はその大和の動きに合わせるように、緩やかに粛々と流れた。

 東島宮司が最後に大祓詞を唱え、祭員の代表である大和によって玉串奉奠が行われ、祭典は最後の行事「受器の儀式」へと移った。東島宮司と大和の手で、氏子たちに法被と鉢巻が手渡されるのだ。

 大和は恭しく頭を垂れている氏子の方に向き直り、一同を見回し、腹から絞り出すような声で語り始めた。

 大和の声が神社一体に響いた。

「みんな、よう集まってくれた」

 大和のそのひと言だけで、氏子の数人が感極まり、すすり泣きを始めた。

「本山八幡祭りの一〇年振りの復活や。ここまでたどり着くのに、多くの人たちの力添えがあった。それがなければ、今日この場で、みんなにこうして話す機会などなかったはずや。俺はまず、そのことを感謝したい。

 そして、俺が何よりも感謝したいのは、ここに集まったみんなの、祭りに対する深い愛情に対してや。俺は、自分の心の中のわだかまりに囚われ、祭りの何たるかを考えもせずに、自分のエゴだけで祭りをやめてしまった。みんながどれだけこの祭りを愛していたかなど、まったく考えなかった」

 パチパチと爆ぜる篝火の炎が、拝殿を赤くに染めている。

「祭りをやるつもりなどなかった俺に、ある人がこの神社の境内でこう言った。祭りは個人と社会を繋ぐ場であり、自己の存在意義を確認する場である。それを奪うのは犯罪にも等しい・・・。

 そのとき俺は思った。俺はみんなに申し訳の立たないことをしているんやないか、と・・・。その人の話を聞き、みんなの祭りに対する思いを知らされた俺は、ようやく決心できた。だから、今、俺がこのハレの場に立ち、みんなに揃いの法被を手渡すことができ、そして、神輿を担いで大暴れできるのは、全部みんなのおかげなんや! ありがとう!」

 大和は涙混じりの声でそう言い切ると、傍らの法被を手に取り、まず豊の名前を呼んだ。

「ホウちゃん、いろいろありがとな・・・」

 大和が豊に法被を差し出した。

 豊は大和の肩を抱き、しゃくり上げながら答えた。

「礼を言いたいのは、俺の方や・・・」

 豊は東島宮司から濃紺の鉢巻を受け取り、氏子が立ち並ぶ一群の後ろに下がった。

 その後、大和は氏子一人ひとりに法被を渡し、声を掛けた。年配の氏子の中には、大和を拝まんばかりにして礼を言う者もいる。ぐっと歯を食いしばり、感情を抑えている者もいる。感情を抑えられずに、顔を涙でグシャグシャにし、大和から法被を受け取る者もいる。

「雨宮颯太、西尾涼!」

 大和は二人の名前を呼んだ。

 二人は揃って立ち上がり、キビキビとした動きで大和の元へやって来た。大和は、この日のために圭子と理恵の手で仕立て直された小さめの法被を二人に手渡した。

「さあ、これを着て、明日は思いっきり祭りを楽しむんや!」

 颯太と涼は興奮と好奇心に満ちた笑顔で法被を受け取り、深く大きく頷いた。

 それから小一時間掛けて、大和は全員に法被を渡していった。普通なら三〇分ほどで終わるこの儀式も、一〇年間の空白が一人ひとりへの大和の言葉を長く、感悦なものにしていた。その中には当然、畏まり過ぎてぎこちない動きの「正ちゃん」の姿や懐かしげな表情で「受器の儀式」臨む「大工の筧さん」の顔も見られた。

 夜は既に九時を過ぎ、これから夜通しで宵宮が行われる。供えられた御酒や別皿に盛られた「御神饌」の品々を、氏子たちが揃って食し、神との共有の時間をみんなで祝すのだ。

 

 拝殿の脇に設置された神楽殿から、太鼓と笛の音が響く。奉納神楽が始まった。拝殿内には、氏子たちが酒を酌み交わす姿があり、神楽殿には、ガンさんがやさしく力強く舞う姿がある。

 そんな厳かな雰囲気の中、鹿股たちの脇を「まだ残る!」と駄々を捏ねる颯太と涼が、母親に引きずられるようにして神社の境内から出て行った。

「さて、我々も明日の本番に備えて帰りますか!」

 川上がそう言って、ビデオカメラの電源を切った。

 神社の境内から鳥居を潜り、ちょうちんが風に揺れる石段を下り始めても、岸本と黒岩は名残惜しそうに何度も拝殿を振り返る。

 輿がその二人の姿に気が付き、声を掛けた。

「皆さんはまだ宵宮の様子を見学されたいのではありませんか? 宿までの道は分かりますので、我々のことは気になさらないでください」 

 岸本があわてて否定した。

「いやいや、そうとちゃいます。あそこにいるみんなが、なんかちとうらやましい言うか・・・」

 黒岩が岸本の言葉にしきりと頷く。

「そうそう、そうなんですよね! でも、なんかこう・・・、入り込めないというか・・・、素直に感情移入ができなかったというか・・・」 

 鹿股は二人の顔を見詰め、何度も小さく相槌を打った。

「そうですね。祭りは見るものではなく、参加するものですから。ほら、徳島の阿波踊りで有名な『踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損損』という歌詞があるでしょ。あれは誠に祭りの本質を突いている歌詞だと、私は感心しているんです。

 私もこれまで多くの祭りを見てきましたが、やはり、自分が参加していないと、なんかその場に取り残されたような感じを受けるんですよね。仕事で祭りのいろんな場面に係わってきたのに、本番になると蚊帳の外に置かれてしまう・・・。お二人の気持ちはよ~く分かりますよ」

 階段の中ほどで全員が立ち止まり、振り返った。

 篝火の赤い炎が、夜の闇を飲み込もうとしている。お囃子の雅な楽の音が、夜気を滑るように神社全体に響き渡る。

 鹿股たちの視線の先には、祭りを愛する者たちの聖域がある。

 

 神社全体が薄い春霞の中に沈んでいる。

 まだ明け切らない空の下、神楽の音はすでに止み、神社を囲む樹々からは鳥たちの甲高いさえずりが聞こえてくる。夜っぴいて煌々と燃えていた篝火は、炎の羽を静かに畳んでいる。

 大和は御神体を携え、神輿の前に立った。

 喧嘩かぶりの輿曳きたちは、濃紺の法被を羽織った姿で大和の後ろに控え、巻きかぶりの囃子手たちもそれぞれの和楽器を手に、顔を伏せ瞑目して神輿に御神体が納まるのを待っている。

 颯太と涼が母親を急かしながら、神社の鳥居を潜って小走りに神社の境内に入ってきた。

 大和は目端でそれを確認し、神輿を見上げた。そこにはこの一〇年間、昔と変わらぬ愛情を込めて整備してきた本山の神輿がある。大和はその意匠の仔細に眺めた。

 六角形をした屋根と台輪。露盤の上には、黄金に輝く鳳凰が翼を大きく広げ鎮座している。黒漆塗りの六角形の屋根の正面には、屋根紋として本山八幡神社の紋が据えられ、屋根の稜線にあたる野筋には金箔が配され、豪華さと気品を感じさせる。露盤から胴にかけては紫色の化粧綱があしらわれ、これは神輿の高貴さを表している。

 扉と柱の間には「神功皇后しんぐうこうごう」と「赤ん坊を抱いた建内宿禰たけうちのすくね」の彫刻が、そして、柱隠しには龍が彫られている。

 台輪からは二本の花棒が伸び、二本の横棒の先端には、横棒と直角に脇棒が据えられている。また、黒漆に金箔をあしらった台輪には、赤漆と金で彩られた小振りの神明鳥居が正面と後面の二面に据えられている。

 四角形の胴の部分と屋根を繋ぐ斗組み。三段の斗組みは、屋根の重さを吸収するクッションの役割を果たし、その装飾は神輿全体に調和と美しさをもたらしている。囲垣も赤漆を基本に、先端部分にだけ金が配されている。

「なんて美しい神輿なんや・・・」

 大和は御神体を手に、そうひとりごちた。

 東島宮司が神輿の鳥居の奥にある胴の中に、大和から受け取った御神体を安置した。そして、氏子全員が神輿を取り囲むように立ち、出陣前の最後の祝詞を受けた。

 東島宮司による神輿渡御の安全を祈念する祝詞が終わると、「そら! いくで!」という誰の物とも知れない気合の声が一斉に上がり、神輿に氏子たちが群がった。

 まずは三〇名の輿舁きたちが、「せーの!」の合図と共に神輿を担ぎ上げた。残り三〇名は輿脇として神輿に随行し、御旅所ごとに、または、疲労した人が出た場合に代わって神輿を担ぐことになる。残りの二〇名は、輿添えとして神輿の後に従う。

 神輿が高く掲げられたのと同時に、神社周辺に薄く立ち込めていた霞がすっと退いていき、春陽が神輿渡御の一行を照らし始めた。

 神輿の先頭には、大和と豊がいる。

 御幣を掲げた東島宮司がゆっくりと歩を進めた。颯太と涼が視線を合わせ、「せーの!」の合図と共に首からぶら下げた太鼓を両面から打ち鳴らした。

 トン、トトトト、トン!

 トン、トトトト、トン!

 颯太と涼の太鼓の音を合図に、囃子手はそれぞれの音を奏で、輿舁きの一団は、「エッサ、オイナァー」の掛け声と共に一斉に歩み始めた。

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