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第三部

 祭りへの参加希望者は、豊や岸本、黒岩の予想を上回る人数となった。そのことを豊から聞いた大和は、その現実をうまく受け止められずにいた。そこへ、涼が島を出ることを偶然知ってしまった颯太が意気消沈した姿で帰宅する。大人たちを前にして泣き崩れる颯太。颯太を慰める言葉さえ失った大和たち・・・。

 揺れ動く心を持て余した大和は、本山八幡神社へと足を向けた。そこで偶然出会った鹿股から語られたリ・フェスタ設立の経緯や、豊をはじめ多くの元島民の気持ちが、次第に大和の頑な心を動かしていく。黒岩は気乗りしない祭りを利用して、自分の問題を解決するための計画を立てる。

              8

 連日の刺すような日差しが海をギラめかせ、日中はアブラゼミやミンミンゼミの、日暮れ間近にはヒグラシの鳴き声が島全体を覆い尽くしている。普段は静かで穏やかな本山の海も、土用波が岸壁を打ちつける時期となり、その表情を一変させていた。

 輿が淡々とした事務的な口調で、岸本と黒岩に渡した資料についての説明をしている。資料は二〇枚つづりで、細々とした数字と文字が表組みの中に打ち込まれている。

「岸本主任。そちらの資料は、五月一五日から八月一〇日までの人員、寄付金、スポンサーの募集結果を表にしてまとめたものです。ご報告の通り、各種の募集は主に町役場のホームページ内に開設した本山八幡祭り専用サイトと東京、大阪、和歌山などの主要駅に掲示したポスターによります。

 まず一ページ目からです。そこにはいつ、誰から参加の要望があったのか、希望する役割は何か、参加の動機、この募集を知ったきっかけが記してあります。参加を希望したのは合計・・・」

 黒岩は岸本の顔を横目で盗み見た。岸本は口を半開きにし、呆けた顔のまま、ガチガチに固まってしまっている。

 黒岩の視線を感じた岸本は喜んでいるのか泣いているのか、どちらとも取れるような複雑な表情で黒岩を見返した。目の下はピクピクと痙攣し、何か言いたそうなのだが、酸欠状態の金魚のように口をパクパクと動かすだけで言葉にならない。

 この日の打ち合わせは、昨日急遽セッティングされたものだ。豊も同席する予定だったが、仕事の都合がつかず、一方で、リ・フェスタ側も鹿股が広川町にいる本山八幡神社の宮司との急遽の打ち合わせのため同席していない。

 黒岩はいつも以上に心ここにあらずの状態で、打ち合わせに出席した。黒岩の放心の理由は、沙耶との連絡が完全に途絶えたことによる。これまでは沙耶からの連絡が遅れたり、会話やLINEの内容が黒岩にとって辛いものだったりしても、どうにか沙耶との繋がりは保てていたのだが、七月中旬に入ったころから、まったく連絡さえ取れなくなっていた。

 土日の休みを利用して、大阪のアパートに足を運んでみたのだが、すでにそこはもぬけの殻。それとなく沙耶の実家に探りを入れに行ったのだが、対応に出た沙耶の母親は、引っ越したことは沙耶から聞いているらしかったが、細かい事情については何も知らなかった。

 その話の最中、沙耶の母親が小首を傾げ、「あれ、黒岩さんが引越しのお手伝いをしてくれたのと違いますの?」と訊ねられ、黒岩はとっさに「忙しくて、まあ、ちょっと荷造り程度は・・・」と、その場しのぎのウソで場を取り繕い、逃げるように帰ってきたのだった。

 しかし、目の前に示された本山八幡祭りの現状は、そんな黒岩の放心状態さえ吹き飛ばしてしまった。

―これは大変なことになったぞ・・・。

 黒岩は心の中でそう呟き、岸本と視線を合わせ、互いに事態の進展の激しさにただ唇を震わせた。

 

 夕方六時を過ぎ、本山の青く澄んでいた夏空も、ゆっくりと終日の色に染まろうとしている。

 大和はいつものように自宅のガレージに車を停め、玄関の引き戸を開けた。家の中は静かで、圭子が夕食の支度をする音が玄関先まで聞こえてくる。

「ただいま」

 大和は台所に向かって声を掛けた。

「おかえりなさい。今日は早かったわね」

 圭子がエプロンで手を拭いながら、玄関口まで迎えに出た。

「ずいぶん静かやな? 颯太は?」

 圭子は頬をふくらませ、憮然として言った。

「あの子、夏休みに入ってから海だ! 山だ! って、毎日陽が暮れるまで外で遊んでいるんよ! 帰ってきたら、一言言うてくれな!」

「はい、はい。わかりました・・・」

  大和は作業服についた泥や土を払い、家の中に入った。

「あっ、お帰りなさい」 

  リビングのソファーで、テレビアニメを見ていた聡美が大和に笑顔で声を掛けた。

  大和は右手を上げて聡美に応え、着ている作業着を脱ぎながら、台所に向かって声を掛けた。

「颯太は、涼ちゃんと一緒なんやろな?」  

「そうや。他に誰もいないやないの?」

「まあ、そう言われてみればそうやな・・・」

 大和は洗面所にある洗濯機の中に汚れ物を放り込んだ。

 大和の頭に、豊の顔が思い浮かんだ。

  三月下旬に大和の家で酒を飲んだとき以来、二人の関係はギクシャクしたままだ。職場が一緒なのでそれなりに会話はあるが、仕事上の会話から話は広がらず、時折、豊から誘い水的に祭りの話が出るのだが、何となく気まずい雰囲気のまま会話は終わってしまう。

―あいつが、いきなりあんなことを言い出すからや・・・。

  大和はリビングに戻り、三人掛けの革張りのソファーに身を投げ出すようにして座り、聡美と一緒に女の子向きのアニメの再放送を観るともなく観ていた。そして、台所に缶ビールを取りにいこうと立ち上がりかけたとき、玄関のチャイムが鳴った。

台所から圭子が声を上げた。

「パパ、手が放せんから、出て」

「ああ、わかった」

 大和は重い体をソファーから引き剥がすようにして立ち上がり、玄関に向かった。

 透かしガラスを通して、三人の人影が見える。

「どちらさんですか?」

 大和が疲れのにじむ声で、扉の向こうの人影に声を掛けた。

「俺や、俺! ダイちゃん! ちょっとええか?」

 豊の緊迫感に満ちた声が響いた。

「なんやこんな時間に・・・」

 大和は渋々、玄関の引き戸を開けた。

 豊の後ろには、岸本と黒岩の姿がある。

 大和は出張所の二人をチラッと睨み、軽く会釈をした。二人は大和の視線の厳しさに視線をそらし、申し訳程度の会釈を返した。

 豊はいきなり大和の二の腕辺りを掴み、強引に自分の方に大和の体を引き寄せた。もう一方の手には、筒状に丸めたコピー用紙のような物を握り締めている。

「ちょっとダイちゃんに見てもらいたいもんがあるんや。上がらせてもらってもええか? なっ、すぐ済むから!」

 大和は目の前の三人の顔を見た。

 豊の小刻みに震えている肩の後ろには、懇願しているとも恐縮しているとも見える岸本の複雑な顔と、何かに怯えるように強張っている黒岩の顔が並んでいた。

 豊は大和の腕をさかんに揺すり、「なぁ、ええやろ?」と言い立てた。

 大和は豊たちが醸し出す、その緊迫感に気圧された。

「ああ。こんなとこじゃ、なんやからな・・・。入れや・・・」

 大和は三人をリビングに通した。

「ああ、聡美ちゃん。こんばんは・・・。ごめんな、こんな時間に、突然・・・。すぐ帰るからね」

 豊はそう聡美に頭を下げた。

 突然の来客に、聡美はソファーから立ち上がり、「ハイ・・・、いえ・・・、こんばんは・・・」と困惑顔で挨拶し、台所からは圭子が、「何事か?」と顔を覗かせた。

 豊、岸本、黒岩を三人掛けのソファーに座らせ、大和はその斜め横にある一人掛けのソファーに腰を下ろした。聡美は居場所を突然奪われ、母親のいる台所に入っていった。

 豊はギュッと握り締めていたコピー用紙を自分の腿の上で平らに均し、大和に差し出した。

「なんや、これ?」

 大和は怪訝な顔をして、差し出されたそれを渋々受け取った。

 圭子が台所から、冷えた麦茶とお茶請けを持って出てきた。

「あら、岸本さんに黒岩くん。あなた、ずいぶん珍しいお客さんやね?」

 豊は申し訳なさげな顔で頭を二、三度下げ、圭子に詫びた。

「忙しい時間帯に悪いね。すぐに帰るから、お構いなく」

 岸本と黒岩も恐縮した顔で、圭子に頭を下げた。

「ウチの颯太だって、今日もこんな時間までお宅にお邪魔してるやないの! 気使わんと、まあ、なんや知らんけど、ゆっくりしていってくださいね」

 圭子はそう言い残し、台所に戻った。

 大和は七枚つづりの資料を、パラパラと捲った。

 豊が大和ににじり寄る。

「今日、リ・フェスタの人たちが来てな。その資料を置いていったんや」

 大和は「リ・フェスタ」と聞いて、一瞬、渋い顔を浮かべた。

「それで、これがどうしたんや?」 

 黒岩がカバンから自分の資料を取り出し、資料の内容について説明をした。緊張して口が渇くのか、しきりにグラスを口に運び、唇を湿らせる。

 黒岩の説明が終わるのを、ジリジリと落ち着きなく待っていた豊が口を開く。声はひどく興奮し、上ずり、口調もシドロモドロになりながら、まくし立てる。

「ダイちゃん、いっ、いっ、一ページからよっ、よっ、よ~く見てくれ。なっ、なっ、何人の人が祭りへの参加を希望してる思う。そっ、そっ、それに、だっ、だっ、誰が参加を希望しているか、よっ、よっ、よ~く見てくれ」

 大和は面倒くさそうに資料の最初のページに目を落とした。

「あっ!」

 大和は驚きの声を上げ、資料を食い入るように読み始めた。

 資料は、「神輿」「お囃子」「神楽」「直会(裏方作業)」「その他」の部門ごとの参加希望者が、それぞれ「名前」「年齢」「性別」「住所・連絡先」「参加希望の理由」を記入する方式になっていた。

「これは・・・、正ちゃんやないか?・・・」

 大和は「神輿」の項目のところに、古い友人の名前を見つけた。そして、「参加希望の理由」の欄に目をやった。

「和歌山駅で本山八幡祭りのポスターを拝見し、早速、参加希望のメールをお送りしました。ポスターを見ていると、自分の育った故郷の海、山、そして学校の友人たちの思い出が私の中で膨れ上がり、胸が一瞬にして満たされ、こみ上げてくるものを止めることができませんでした。

 それでも最初は何かの間違いかと思いましたが、このホームページで詳細を知るにつれ、背中がゾクゾクとしてきて、神輿を担いでいた頃のような、血のたぎりを感じました。故郷本山を離れてもう一五年。よその土地へ移っても、何不自由ない生活を送っていますが、何か物足りなさを感じていました。今、それが何だったのかが、しかと分かりました。

 祭りひとつで、こんなセンチメンタルな気分になるのは、私だけでしょうか? また、みんなで神輿を担ぎ、酒でも飲みながら旧交を温められれば、と思います」

 大和は「お囃子」に参加を希望している、ある男性の名前を見つけた。

「これは、大工の筧さんやないか?」

 大和の背中越しに資料を見ている豊に言った。

「おお、そうや、筧さんや、なつかしいな~」

 大和は、また「参加希望の理由」の欄を読み始めた。

「懐かしい地元の祭りの事を人伝に聞き、慣れないパソコンの前に座り、息子に操作を教わりながら、この応募要項を打っております。

 以前は、本山八幡神社の氏子として、祭りでお囃子の笛を担当しておりました。今でも時々、本山八幡祭りのお囃子リズム、鉦の音、太鼓の音を鮮明に思い出します。

 現在、私は大阪の阪南市に住んでおります。この地域にも本山八幡祭りと非常によく似た祭りを秋に行っていて、その祭りにも囃子方として参加させてもらっています。皆さんに良くしていただき、今では後進の指導を任されるようにもなりました。しかし、やはり、土地の人間でないためか、今ひとつ祭りに入り込めない自分を感じております。

 今年の四月に仕事を引退し、私の人生も終盤を迎えました。まだまだ若いつもりではありますが、体が動くうちに、わが故郷の永遠を願い、もう一度、本山八幡祭りでお囃子を奏でることができたらと思っております。よろしくお願いいたします」

「筧さん、今、大阪の阪南市にいるんや・・・」

 大和の頭に、ありし日の記憶が蘇っていた。

 その記憶とは、父親が亡くなる数ヶ月前の出来事で、筧さんと大和の父親が雨宮家の玄関先で突然、大ケンカをしたときのこと。

 家族や近所の人たちが仲裁に入らなければならないほどの大ケンカだったのだが、ケンカの理由を問い質した仲裁者たちは、そのバカげた理由に呆然唖然としたのだ。

 仲裁者一同を唖然とさせたケンカの理由は、雨宮家で当時飼っていた柴犬のための犬小屋の屋根の仕様を、山形にするか? それともフラットにするか? という真に些細などうでもいいことだった・・・。

 大和はプッとふき出しそうになったのを、かろうじて堪えた。

「直会(裏方作業)」の欄に、大和の知らない女性の名前があった。

「ホウちゃん、この人のこと知っとるか?」

 豊は「知らんな~」と首を振った。

「東京駅で本山八幡祭りのポスターを拝見いたしました。

 私は昨年の夏、長年連れ添った夫を亡くしました。夫は本山の出身で、二五歳の時、東京へ出ました。それから今年で五〇年が経ったことになります。

 夫の年代の男性は大方同じかと思いますが、夫も仕事一本やりの人間でした。そんな夫の口癖が、『定年で仕事を辞めたら、本山八幡祭りにまず連れて行ってやる』というものでした。ちょうど定年で仕事をリタイアした年だったかと思いますが、本山八幡祭りがなくなったことを知り、夫は大変なショックを受け、ずっと再開されるのを待っておりました。テレビなどで地方のお祭りが紹介されると、いつも私や娘たちに、『本山八幡祭りはもっとすごいぞ! こんなもんやあらへん!』と、普段は使わない方言で自慢するほど、故郷のお祭りを愛しておりました。

 亡くなる前にもう一度、故郷の風景とお祭りを見せて上げたかった。夫の願いはもう適いませんが、いち参加者として私が本山八幡祭りに参加し、夫が愛したお祭りがどんなものなのかを体験できればと思っております。

 そして、私があちらの世界に行ったとき、『本山八幡祭りが再開して、私が代わりに参加してきたわよ!』と、夫にみやげ話でもしてあげられたらと思っております。私に何が出来るかはわかりませんが、よろしくお願いいたします」

 大和は神妙な顔で、その婦人の「参加希望の理由」を読み終え、ページを繰り、ポツリと呟いた。

「いったい、何人の人が参加を希望してるんや?」

 豊が感慨深げに答えた。

「全部で三〇〇名近くになるな。島の出身者もぎょうさんいる」

 大和はそれを聞いて、思わず「三〇〇名だって!」と呟き、息を呑んだ。

 資料の後半には、寄付希望者の名前と金額、メインスポンサーの名前が載っていた。

 寄付は、「祭りに参加したいが諸事情で見送る」という本山出身者からのものがほとんどで、個々の金額はそれほど大きな額ではないが、合計で二〇〇万円ほど集まる予定になっていた。スポンサーも、和歌山県内に本社を置く全国的にも名の知れた食品会社が名乗りを上げていた。金額などの詳細は、まだ「交渉中」となっている。

 ひたすら沈黙していた岸本が口を開いた。

「その会社の専務が、あの『一本釣りのガンさん』の息子さんらしいんよ」

 「一本釣りのガンさん」とは、土色の顔に深いしわをいく筋も刻んだ八〇代の男性で、カツオの一本釣り漁専門の元漁師だ。ここ五〇年に渡り、本山八幡祭りで神楽を奉納してきたのが、このガンさんなのだ。

 大和は遠い記憶を手繰り寄せるような表情で呟いた。

「そういえば、ガンさんの息子さん、えらい出世したって、そんなウワサ聞いたことあるな・・・」

 それまで大和の背後にいた豊が正面に廻り込み、大和の両肩に手を置いた。

「みんなこうして祭りのために帰ってくるんや。俺たちで気分よく迎えてやろうやないか? 何をいまさらと、ダイちゃんは思うとるやろ? でもな、これだけの数の人たちが、また神輿担ぎたい、本山の祭りでお囃子を奏でたい言うてくれてるんや。それがみんなのダイちゃんに対するメッセージなんやないか? みんな単なるノスタルジーやその場の気分で、祭りに参加したい言うてる思うか? なあ、ダイちゃん」

 岸本が豊に続いた。

「役所によく来る老人たちも楽しみにしとるんよ! 毎日出張所で祭りの話ばかりしとるし・・・」

 毎朝の恒例行事になっている出張所の窓口付近での井戸端会議は、ガンさんを中心にして、祭りの話で毎日大変な盛り上がりようなのだ。ガンさんが小柄な体を目一杯に使って神楽舞の一部を披露し、みんなを喜ばせている光景を、岸本や黒岩が見たのは一度や二度のことではない。

 大和は口を一文字に結んだまま、何も言わない。

 豊はウンともスンとも言わず、煮え切らない態度の大和に痺れを切らした。

「もうええよ! ダイちゃんにやる気がないんなら、俺がやる! 俺が代わりに祭りを仕切っちゃる! よその祭りでは、頭屋は交代制のことが多いそうやしな! 以前、リ・フェスタの人たちも『祭りは時代を経るにつれ変化していくものです』って言うてたわ! そんなら頭屋くらい替わってもいいやろ! 

 これも時代の変化や! 本山八幡祭りは、それまでの頭屋一家の当主が、昔のことにいつまでもウジウジとこだわって、氏子たちの想いを蔑ろにした。それを機に、西尾家当主が祭りの存続のために立ち上がり、頭屋の役割を担うようになった。そのときの西尾家の当主は西尾豊だった! そう島の歴史にも残るやろ! 

 そうと決まれば、今年だけなんていわずに毎年やったる! 引越しも中止や! 自分の気持ちや感情だけやなく、もっと大切なことがあるんや! ダイちゃん、どうしてもイヤならそれでええ。もう頼まん! その代わり、祭りに必要なことは、すべて俺に教えてくれ!」

 シンと水を打ったような静けさのリビングで、上気し真っ赤な顔の豊が不規則に震える背を大和に向け、立ち尽くしている。

「あっ! これ・・・」

 それまで三人のやり取りをただ聞いていた黒岩が、いきなり声を上げた。

 岸本が黒岩の方に顔を向けた。

 黒岩はメガネの奥の細い目をしばたき、資料に見入っていた。

「どうしたんや。黒岩くん?」

 岸本の押し殺した声に、黒岩は我に返った。

「いえ、なんでもありません。突然、変な声出しちゃって、申し訳ありません・・・。ちょ、ちょ、ちょっと、知り合いの名前がリストにあって・・・」

 黒岩は目を左右に泳がせ、口をパクつかせたまま黙ってしまった。

 再びどんよりとした沈黙が、リビングを覆った。掛け時計が小刻みに時を刻む音だけが、カチッカチッと響いている。

 大和は視線を落とし、下唇をきつく噛んでいる。

 リビングに満ちたどんよりとした沈黙を遠慮気味に破るように玄関の引き戸が開く。そして、気だるい足音がゆっくりとリビングに近づいてくる。

「ただいま・・・」

 悄然とした姿の颯太が消え入りそうな声でそう言って、大人四人が立ちすくむリビングに入ってきた。

 台所から迎えに出た圭子が、ひどく落胆した様子の颯太に声を掛けた。

「あっ、颯太、おかえり。どうしたん? なんか元気ないな? 涼ちゃんとケンカでもしたんか?」

 颯太は四人の大人を力のない目で見上げた。真っ黒に日焼けした颯太の顔は青白く、何かに打ちひしがれたように弱々しい。

「どうしたんや、颯太?」

 それまでの渋面を解き、口元にぎこちない笑みを浮かべた大和が、颯太の頭に手を置き、屈みこんで視線を合わせた。

「りょ、りょ、涼ちゃん、おっ、おっ、大阪に行くんか・・・?」 

 颯太が蚊の鳴くような声でそう呟いた。言葉尻が微かに震えている。

 大和は何も言えず、豊の顔を見た。

 豊は腰を屈め、颯太にやさしく話しかけた。

「颯ちゃん、誰からその話、聞いたんや?」

「涼・・・、涼ちゃんのママが・・・」

 豊の顔が曇った。

 大和は豊の顔色がサッと青ざめたのを見て、問い質した。

「お前、まだ涼ちゃんに話してないのか?」

 大和の問いに、豊は動揺に唇を震わせ、ただひとつ頷いた。

「夏休み中にはと思ってたんやけどな・・・。毎日、颯ちゃんと遊んでいる姿を見とるとな・・・。なかなか話すキッカケが掴めなくて・・・」

 だんだんと紅潮していく颯太の顔は、その紅潮の度合いに合わせるようにみるみると激しく歪んでいく。全身がまるで壊れた機械仕掛けの人形のように、不規則に上下左右に揺れている。

 圭子が颯太の脇に屈み込み、頭を優しく包むように抱きしめた。

 リビングに響いていた時計の音が、颯太の天を突くような激しい嗚咽に簡単にかき消された。その泣き声に驚いたのか、聡美も「どうしたん?」と台所から飛び出してきた。

「ボ、ボ、ボク、一人になるやん! 友達、一人もいなくなるやん! なんで、なんで、涼ちゃん、涼ちゃんも、引っ越しちゃうや! それじゃ ボク、一人ぼっちやんか!」

 岸本と黒岩は、その場に凍りついたように立ちすくんだまま。

 声を上げて泣き始めた颯太を圭子が抱き上げた。そして、男たちにコクリとひとつ頭を下げると、リビングから出て行った。

 自室に戻った颯太の泣きじゃくる声は、リビングで棒立ちの男たちの耳にまで届き、途切れることなくリビングの沈黙を破り続ける。

 大和が疲れの滲んだ声で言った。

「今日はもう、ええやろ・・・なっ? 帰ってくれ・・・。みんなの言いたいことは分かったから、なっ? 帰ってくれ・・・」


 大和は豊ら三人を帰した後、一人でそっと家を出た。

 柔らかい海風に吹かれながら、大和は疲労のたまった足を引きずるように港近辺までたどり着いた。潮の香りの濃密さに、自分が港まで歩いてきたことに初めて気が付く。混乱した頭には、どの道を通ってここまでたどり着いたのかの記憶もない。

 大和は訳もなくぼんやりと辺りを見回すと、こぢんまりとした雑貨屋の店先に明かりが点っているのが目に入った。和歌山市内にあるコンビニの三分の一以下の商品量しかないその雑貨屋に入り、無造作に置かれた五〇〇mlの発泡酒を手に取った。

 大和はレジスターさえ置いていないカウンターに向かい、商品をその上に置き、財布から一〇〇〇円札を抜き出し、差し出した。

 店番の老婆は表情ひとつ変えず札を受け取り、客の大和に「ありがとうございます」の一言も言わず、無造作に商品とつり銭を渡した。

―いつもしけた顔しやがって・・・。

 大和は引ったくるように商品と釣りを受け取り、店を出て、またあてもなく歩き始めた。

 海沿いの道をしばらく歩き、途中、岸壁に背中を預けるようにして、生温い発泡酒を一気に空けた。か弱い月明かりの下、闇の向こうに、広川町の町灯りが瞬いているのが見える。たくさんの友人知人があの光を下に渡っていくのを、大和は何度この港から見送ってきただろう。大和はそのたびに、自分たちだけがこの島に取り残されてしまうような、寂寞とした気持ちになった。西尾豊の家族も、来年の春には、あの光の向こうへと旅立っていく・・・。

―俺はここで何しとるんや・・・?

 大和はゆっくりと岸壁を離れ、再び歩き始めた。すきっ腹にアルコールが効いたのか、その足取りは軽くふらついている。

 海沿いの道から離れ、山へ通じる薄暗い上り坂に入る。緩い勾配が尽きたところで、大和は視線を上げた。そこには本山八幡神社の参道に続く石段が伸びている。

 大和はフッとひとつ息を付き、おもりが付いたように重い足を懸命に引き上げて石段を登る。

 境内は頼りない月明かりが差すだけで、見慣れた社殿も神輿庫も闇の中に静かに沈んでいた。

 大和は額に浮かんだ汗を拭いながら、来た道を振り返った。夜、本山八幡神社の境内から眺める風景は、大和のお気に入りのうちのひとつだ。

 海の上の眉月が凪いだ波に歪む。

 静かに寄せる波の音と潮の香り。ポツポツとまだらに灯る家々の明かりと、家路を急ぐ車のエンジン音。そのすべてが、まだこの島が生きていることを大和に感じさせる。

「きれいな光景ですね」

 感傷的な気分になっていた大和は、いきなり後ろから声を掛けられ、「はっ!」と声を上げ、たじろいだ。

 薄暗がりの中に、メガネを掛けた痩身の男が立っている。

「すみません。突然、声なんか掛けてしまって・・・」

 大和の目は闇を通して、そばにいる男の姿格好をハッキリと捉えた。

 大和はその白のワイシャツにスラックス姿の男に訊ねた。

「どないしたんですか? こんな時間に、こんなところで?」

 こんな夜中に神社に足を運ぶのは、地元民でも大和以外にはいない。大和は少し身構えた。

 ワイシャツ姿の男は特に構えた様子もなく、大和に答えた。

「こちらの神社の宮司さんから、夜ここからの風景がなかなかいいですよ、と言われまして、散歩がてら来てみました」

 男は胸からカードケースを取り出して、一枚の紙を抜き取った。

「私、こういう者です」

 大和はその紙を受け取り、目をやった。そこには「株式会社リ・フェスタ 代表取締役社長 鹿股博明」と記してある。

「ああ、あんたが・・・」

 大和は、目の前の男を蔑むような目で見た。

 鹿股は軽く会釈をし、窺うような口調で大和に訊いた。

「ひょっとして、雨宮大和さんでいらっしゃいますか?」

 大和は決まり悪そうな顔をして、顎を突き出すように二、三度頷いた。

「はじめまして。鹿股と申します。以前お宅にお伺いしたのですが、ご不在だったようで。一度、お目に掛かりたいと思っておりました」

 大和はこの場を去る口実を繕おうとしたが、目の前の男に対する数々の非難の言葉が浮かんでは消え、頭は空回りするばかりで、立ち去るための適当な理由がなかなか浮かんでこない。

 鹿股は神輿庫に視線を向けた。

「それにしても立派な神輿ですね。造られてどのくらい経つんですか?」

 大和は自分の大切な心の領域に、突然土足で踏み込まれたようなイヤな感じがした。

「・・・神輿・・・、見たんですか?」

「はい。宮司さんに見せていただきました」

 大和は「チッ!」と軽く舌打ちし、憮然とした顔で言った。

「あっちこっち修理しながら、三〇年は経っているかな」

「私も仕事がら神輿を見る機会は多いほうですが、これだけ格式の高い神輿を見るのは久しぶりです。メンテナンスはどうされているんですか? かなり保存状態もいいようですが?」

―ホウちゃんや出張所の連中から祭りや神輿の事は、それなりに聞いて知ってるくせに!

 大和はそう心の中で呟き、鼻白んだ。

「まあ、それは私の役割やから、しかたなく年に数回、私がやっています」

 大和はひとつため息をつき、いくぶん語気を強めてそう言い、強く噛みしめた奥歯を弛め、吐き捨てるように続けた。

「こんな神輿だってね、島の数少ない財産やからね! 本来は市や県、それか神社の連中がやることを、しかたなく私が代わってやってるんですよ!」

 ウンウンと首肯しながら、鹿股が口を開く。

「お会いしたばかりで、ぶしつけな質問をさせていただきますが、ということは、この神輿は、雨宮家の所有物ではないということですか?」

 大和は少しいらだちの表情を浮かべた。

「ええ、それがなにか?」

「それでは来年行われる祭りで、神輿の渡御に使用しても構わないでしょうか? もちろん、使用後のメンテナンスは、我々のほうでさせていただきますので・・・」

 大和はまた小さくため息をついた。

「ええ、結構ですよ。私が『便宜上』預かっているだけやから! ご自由にどうぞ!」

 大和は話がだんだんと鹿股のペースにはまっているように感じ、皮肉のひとつでも言っておきたい気持ちになった。

「これで肩の荷が下りましたわ。なんなら以後、お宅さんらに全部任せますわ?」

 鹿股は自嘲的な笑みを浮かべ、手を左右に振った。

 大和が続けた。

「なんだかあっちこっち調べまわっとるようですな? 家にもあんたの会社の連中が何度も来たようやし・・・。何をしようと構いませんけど、純朴な田舎モンを騙すようなマネだけはせんといてくださいね!」

 鹿股は畏まった口調で否定した。

「いえいえ、騙すなんてとんでもありません。我々は西尾様はじめ、出張所の方からのご依頼を受けて、出来る限りのことをさせていただいているだけです」

 大和は鼻をフンッと鳴らし、語気を強めて言った。

「私の説得も仕事のうちですか?」

「いえ、それは私たちには出来ない仕事だと、皆さんには申してあります」

大和は侮蔑の表情で、鹿股を睨み付けた。

―やっぱり、こいつら、格好だけつけて適当に祭りを済ませるつもりやな! 

「鹿股さん? なんであんたこんなけったいな仕事してるんですか? こんな小さな島を祭りごときでひっかき回して・・・。世間には、もっとやらなぁならん仕事がぎょうさんあるのと違いますか?」

 大和は呆れ顔でそう言い放ち、それを捨て台詞として、その場を立ち去ろうとした。

 海からの潮風が、サラサラと木々を揺らした。

 鹿股は体を左右に揺らし、自分の足先を見つめている。

 大和が背を向けて帰ろうとすると、鹿股が口を開いた。

「私は昔、大切な人たちの絆をズタズタに引き裂いたことがあるんです」

 大和はその唐突な鹿股の言葉にギクリとして、振り返った。

「はあ? あんた、いきなり、なに意味の分からんことを・・・」

 鹿股は疲れたような笑みを浮かべた。

「ちょっと大げさだったかもしれませんね・・・。でも、私がしたことは、それと大差ないんです」

 鹿股はリ・フェスタ設立のいきさつを、一言一言を確かめるように話し始めた。

               9

 ・・・私は東京の大学を卒業後、大手都市銀行に入社しました。入社の二年後、二四歳のとき、福岡の小倉支店への転勤を言い渡され、初めて東京を離れました。そんな世間知らずの私にとって幸運だったのは、大学時代の親友が福岡に本店を構える地方銀行に就職していたことです。その親友のおかげで、右も左も分からない小倉での生活にすんなりと溶け込め、仕事も順調に進みました。

 小倉に赴任して二年。新天地での生活にも十分慣れた頃、小倉である女性と結婚しました。彼女は先ほど話した親友の奥さんの友人で、みんなで一緒にナイター観戦をしに行ったのが出会いでした。

関の先帝、小倉のぎおん、雨が降らねば金がふる・・・。

 小倉は小倉祇園太鼓でよく知られた町です。

 妻の実家は小倉で代々続く和菓子屋で、草履屋や金物屋などが並ぶ三番町商店街という、昔ながらの商店街の一角にありました。当然、妻の実家も商店街でひとつの「連」作って、祭りに参加していました。

 妻の父、私にとって義理の父親は、その小倉祇園太鼓の振興会で育成委員を務めるほどの人物で、太鼓の「ドロ」と「カン」と呼ばれる独特の技法の「伝道者」でもありました。

 義父は祭りの数ヶ月も前から後進の指導のため、それこそ東奔西走するほど祭り好きの人で、町内でも連のまとめ役として、山車や人形引車の出し物にも熱心に取り組んでいました。

 まったくの「よそ者」の私も、そんな環境の中で、自然に小倉祇園太鼓に参加するようになりました。義父と町の人は熱心に私の指導をしてくれ、その結果、太鼓を始めて二年後には、立派な太鼓叩き・・・、イヤ、一人の「祭り人」として扱われるようになったのです。

 腹の底にまで響く太鼓の音は、腹に溜まった仕事のストレスやモヤモヤを一発で吹き飛ばしてくれます。妻の家族とも町内の人とも祭りを通して親交を深め、仕事以外にも自分の居場所を見つけることができ、その頃にはもう私自身の中に、自分がよそ者である、などというマイナスの感覚は、きれいさっぱりなくなっていました。

 その三番町に都市開発計画が持ち上がったのは、念願の息子を授かった二年後のことです。

 地上三〇階建ての複合施設を建設し、地下二階から五階は商業スペースに、六階から上階は分譲マンションとする大規模な開発計画でした。

 三番町にある住宅と商店街は〝発展的に解体〟し、複合施設が完成した暁には、商店主と旧住民の希望者全員に優先的にテナントと分譲マンションを割り振るという計画でした。

 私が勤めていた銀行は、その開発を行うディベロッパーに多額の融資をしていたこともあり、銀行側の人間として、誰かが計画推進委員のメンバーに入ることになり、地元を知っているという理由で、私に白羽の矢が立ちました。私は地域の発展のための計画と信じて疑わず、計画にまい進しました。

 私は新たな町が生まれれば、またそこに新しい繋がりが生まれる。そして、それが下降線を辿る一方の地域経済へのカンフル剤となり、地域全体に在りし日の輝きが戻るはずだと確信していました。

 私の考えに反して、計画反対の声が三番町商店街を中心に起こりました。その計画反対のグループには、義父もいました。反対運動の中核メンバーとして、開発説明会に参加し、テナント料の高騰による地元商店の排除や、それに伴う地域社会の崩壊を主な理由として、断固として開発計画に反対しました。

 義父の営む和菓子屋は、当然、複合施設への出店を拒み続けました。妻と義母は私と義父の主張の板ばさみに合い、ギスギスした毎日を送っていました。ただ、息子の存在が、バラバラになりそうな家族を必死に繋ぎとめてくれていました。

 開発側の人間の私に対する風当たりが日に日に強くなってくると、義父は私たちと反対派の間に入って、落としどころを見つけるために奔走しはじめました。私の立場を慮って、自分の立場も顧みない義父らしい男気のある行動でした。

 私が活発に動けば動くほど、義父の育成委員としての活動は「あの銀行家の義理の父親」として、猜疑の目で見られるようになりました。それでも義父は祭りへの情熱を失われず、祭り本番では、参加を渋る町内の仲間たちを説得し、連のまとめ役として、太鼓の技能を競う競演大会や山車の曳航にも、自らが先頭に立って参加しました。

 しかし、競演大会では、小倉祇園太鼓独特の絶妙な掛け合いは感じられず、てんでバラバラに乱れ、山車の曳航も覇気なく、ただあてどなく小倉の町を彷徨う夢遊病者の行列のようで、それまでの一体感や連帯感は、まったく感じられませんでした。そこにあったのは、義父に対する腫れ物にでも触るような、よそよそしさだけでした。

  開発計画が立ち上がって三年。

 町内の有志による手弁当の反対運動が、巨大な資力を持つ組織に敵うはずもなく、一人一人と反対派の住民は離脱していきました。反対運動と地域融和に奔走していた義父が、病に倒れたのも、ちょうどその頃です。

 持病の糖尿病に、過度な心労が祟ったようです。粘り越しの交渉とは逆に、病との闘いはあっさりとしたもので、自宅で倒れてから一週間後、病院のベッドの上で無念のうちに亡くなりました。中核メンバーの一人を失った反対運動は瓦解し、完全に崩壊しました。

 地元商店を優先的に誘致するとしていたテナントは、全国展開のチェーン店でほとんどが埋まってしまいました。テナント料が当初の設定よりかなり高額となり、とても草履屋や和菓子屋の収益で賄えるような額ではなくなっていたのです。反対派の切り崩しのための費用が嵩んだため、とのウワサが私の耳には入っていました。分譲マンションに入居したのも、ほんの二、三の家族のみで、結局、三番町の住民のほとんどが転居し、それまであった地域社会は完全に崩壊しました。

 しかし、私にとっての本当の苦悶苦闘は、このときから始まります。

 和菓子屋は義父の死よって、複合施設への移転はおろか廃業を余儀なくされ、義父の言葉を一顧だにしなかった私に対する家族からの風当たりは、日増しに強くなりました。

 その頃になると、家族の絆の象徴でもあった息子の存在が、逆に暗い影となって私たちを覆い始めました。

 物心ついた頃から、小倉祇園の太鼓と鉦の音に包まれて育った息子は、祭りの盛んな地域によくいる典型的な「祭りっ子」でした。祭りを通して義父との関係も深く、親密でした。

 息子にとって、人生で最初の「師」ともいえる義父を失ったことは、死というものを現実として正確に認識しえないだろう年齢にしても、大きな出来事だったのでしょう。

 義父と毎日のように続けていた太鼓の練習が突然なくなり、息子の日常にはポッカリと穴が開いた・・・。息子にとっては、大好きなおもちゃで遊ぶ機会や時間を、強制的に奪われたのと同じことです。どちらかといえばやんちゃ坊主だった息子が、義父の死のショックから、次第に内にこもる性格になっていきました。

  そして、私にとって決定的な出来事が起こりました。

 義父の死から半年ほど経ったある日、息子が泣きながら学校から帰ってきました。「悪いのはお前んちのパパだ!」「町で祭りが出来なくなったのはお前の父さんのせいだ」「お前のおじいちゃんは、お前のパパのせいで死んだんだぞ!」と、よその子供に言われて、泣いて帰ってきたのです。

 「そんなのウソだよね!」と泣きつく息子に、私はなんとも答えられませんでした・・・。子供たちの言っていたことは、ある意味では「事実」であり、ある意味では単なる「言いがかり」です。それでも答えに窮し、ウンともスンとも言わない私に、息子は目に涙をいっぱいに溜めて、「パパのバカ!」と言い放ち、泣きながら自分の部屋に引きこもってしまった。そのときの息子の悲痛な表情は、一生私の頭から離れないでしょう。

 ・・・私は地域社会を破壊し、家族をも粉々にしてしまったわけです・・・。

 

 「祭りなんて傍から見ている分には、ただの乱痴気騒ぎかもしれません。しかし、祭りの当事者にとっては、地域の歴史や文化、社会的または個人的なアイデンティティを確認する場なんです。私はその貴重な場を踏みにじり、奪った。それは祭りをよりどころにしている人たちにとって、犯罪にも等しいことです。

 それに私が犯したもうひとつの過ちは、地域社会なんてすぐに再生できると安易に考え、高を括っていたことです。陳腐な言い方ですが、一度失われたものは、簡単には元に戻りません。それは地域社会でも、家族でも一緒です。かりに過ちに気が付き、強引にかつてあった姿に戻そうとしても、それには膨大な時間とパワーを要します。そして、そのあげくに出来上がった関係性はおそらく、かつてとはまったく違う何物かにならざるを得ない・・・」

 鹿股は、ぼんやりと中空に浮かんでいるか細い月を見上げた。

「つまらない話を長々と、すみません・・・。この話を他人、それも初対面の人に話すなんて初めてのことです・・・。そうですね。私がこんな仕事をしているのは、まあひとつの『業』とでもいいましょうか・・・。罪滅ぼしのようなもの、イヤ、『贖罪』とでも言えばいいのでしょうか・・・。最初は単なるイベント企画会社だったのですが、あるとき地方の祭りの開催に係わってから、自然とそっち方面の仕事ばかりをするようになって・・・」

 鹿股は頭を掻きながら、乾いた笑い声を上げた。

 大和は何か口にしようとしたが、鹿股に掛けるべき言葉が浮かんでこなかった。

 境内は海風が奏でる葉擦れの音と、遠い波音だけに満たされている。夜気に冷たさを感じた大和は肩をすくめ、スラックスのポケットに両手を差し入れた。

 境内の静けさに、蜂の羽音のような音が割って入った。

「ちょっとすみません」

 鹿股はスマートフォンを取り出し、二言三言話をし通話を終えた。

「社員から連絡があって、至急、宿に戻ることになりました。何だかんだとカッコつけたこと言っても、中小企業の社長なんて、日に夜を継いで働かなければいけない因果な立場ですよ・・・。

 それでは、雨宮さん。夜分遅くに私のくだらない話につき合わせてしまって、申し訳ありませんでした。また、どこかでお会いしたら、今度は酒でも飲みながら、懲りずに私の愚痴でも聞いてください」

 鹿股は大和に向かって会釈をし、憂い顔をうつむき加減にして大和の前を通り過ぎる。そして、鳥居の下で振り返り、大和に向かってもう一度深々と頭を下げ、石段をゆっくりと下りていった。

 鹿股が去った後も、大和はしばらく眼下に広がる本山の夜景を眺めていた。よく見ればずいぶん貧相な夜景だが、これはこれですばらしい光景だ、と大和は改めてそう感じた。

             10

 黒岩はアパートの駐車場に車を停めた。

 後味の悪い形で雨宮家を辞した後、豊も岸本も口を開く元気すらなく、そのまま自然解散のような形で、それぞれの帰路に着いた。

 黒岩は部屋に入ると冷蔵庫からコーラを取り出し、エアコンのスイッチを入れた。汗で湿ったワイシャツを脱ぎ、Tシャツとスラックス姿のままソファーに座り、資料とスマートフォンをカバンから取り出した。資料を食い入るように見つめ、コーラで口を湿らせてから、資料中にある一人の参加希望者の電話番号を押し始めた。

 黒岩の視線の先には「大川沙耶」の名前があり、名前の横には住所と電話番号が記されている。

 黒岩のかすかに震える指の動きが、番号の途中で止まった。

―・・・これじゃまるでストーカーやな・・・。完全に個人情報保護違反やしな。それにこのタイミングで変に動いたら、沙耶ちゃんが島に戻ってくる機会をフイにすることになるかも・・・。

 黒岩はスマートフォンの画面を閉じ、机の上にあるパソコンに目をやった。明日、輿と川上を交えて、一回目の参加者選考を行うことになっている。「これからも希望者が増えることが予想されるので、この段階で一旦、ある程度絞っておいた方がいい」という、リ・フェスタ側からの提案によるものだ。

 選考の基準は、氏子として過去に祭りに深く関わってきた人を優先的に選抜し、それ以外は、志望の理由が明確であることに重点が置かれる。氏子でもなく、島の出身というだけで、これといった志望理由が記されていない沙耶は、選考から漏れる可能性が高い。

―どのみち、もうこちらからは連絡できへんのや。参加が決まれば、向こうから何かしらの連絡が入るかもしれん・・・。とにかく焦らず、持久戦や!

 黒岩はパソコンを立ち上げると、エクセルを開き、最初の行に「本山八幡祭り第一回参加希望者選考」と入力した。

 

 翌日。

 朝の一〇時を過ぎたばかりなのに、気温はすでに三〇℃を越え、雲ひとつない空にギラギラと輝く太陽と海から吹き抜ける湿った生暖かい風が、体感温度をそれ以上に感じさせた。

 輿と川上が片手を目の上にかざし、射すような陽の光に目を細めながら、出張所にやって来た。鹿股は他用があり、早朝の電車で松本に向かった。

 黒岩は玄関口で二人を迎えた。

「暑い中、申し訳ありませんね! どうぞ、いつもの場所でお待ちください」

 黒岩はニコニコ顔でそう言うと、そそくさと四人分の麦茶を用意し、商談スペースに向かった。事務の女性職員が夏休みのため、その間、接客などのこまごまとした仕事は、すべて黒岩がこなしている。

 輿と川上はしきりに額や首元の汗を拭い、片手で襟元をパタパタとはたき、エアコンの冷気を体とワイシャツの間に送り込んでいる。投宿した宿から出張所までほんの数分歩いただけなのに、二人のワイシャツはたっぷりと汗を含み、シャツの下のランニングやTシャツのラインがくっきりと浮かび上がっている。

 黒岩が麦茶の入ったグラスを置いた。

「今日は今年一番の暑さになるそうですよ。松本もこの時期は暑いんでしょうね?」

 輿が「いただきます」と礼を言い、麦茶を一口飲み、喉を潤した。

「暑いですが、ここまで湿気がないんで、比較的過ごしやすいんですよ。ですから、東京や大阪、そして、こちらのように湿気の多いところで仕事があると、すぐにバテてしまって・・・。昔はなんともなかったのですが、年ですかね・・・。ここのところ特に暑さに弱くなりました」

 岸本が商談スペースに加わった。

 昨夜の件が気分的に尾を引いているのか、朝から岸本に元気がない。黒岩にとっては、余計な口を挟まれる心配がなく自分のペースで段取りを進めていけるので、岸本の意気消沈は真に都合が良かった。

「それでは、とっととはじめましょか?」

 黒岩のその言葉で、川上がブリーフケースからパソコンと資料を取り出した。

「昨日お話した基準で、これという人を上げていってください。私がパソコンでデータを整理していきまので。それでは・・・」

 黒岩が、パソコンを開きかけた川上を制した。

「いえ。その作業は私にやらせてください! 今まで何もしてこなかったんやから、データの作成くらいは、私に任せてください」

 黒岩は胸を張って川上にそう言い渡し、自分の机からノート型のパソコンを持って戻ってきた。

 これまでとは明らかに違う黒岩の積極的な態度に、輿と川上は顔見合わせ、互いに軽く小首を傾げた。

「そうですか。それでは、岸本主任と我々で選抜してきましょう」

 輿のその一言で、沈んだ表情のままの岸本もようやく資料を手にした。

 三〇〇名以上の参加希望者を三分の一にする選抜作業は、志望者の数の多さと志望者それぞれの切実な志望動機に、「切るに忍びない」という私情が生まれて、予想以上に難航した。

 選抜作業が始まって三時間が過ぎたところで、ほぼ予定数の選抜を終えた。

 手元の資料で人数を確認した川上が岸本に訊ねた。

「九七、九八、九九・・・。これで・・・九九名ですかね? あと一人で・・・」

 黒岩はパソコンの画面をじっと見詰めたまま、川上に告げた。

「いえ、もう一〇〇名ですね。これで、選抜終了です」

「えっ、そうですか? まだ九九名じゃないですか?」

 川上は目を凝らして、赤ペンでチェックの入った資料を確認している。

「いえ、今ので一〇〇名ですよ。カウントし間違えたんと違いますか? 後できちんと整理したデータをメールしますから、それで確認してみてください」

 川上は首を捻りながら答えた。

「そうですか・・・。じゃあ、そうなのかもしれませんね。ボッとしていてすみません。暑さにやられちゃったのかな・・・。あれこれやっているうちに、数を勘定し間違えたのかもしれません。分かりました。それじゃ、お願いします」

 喜色満面の黒岩が深く頷いた。

 エクセル画面の中ほどに、選考作業では志望理由が未記入ということで落選となった「大川沙耶」の名前があった。

―よし! 参加決定や! 沙耶ちゃん、祭り、楽しみにしててな!

 黒岩は周りの三人に気づかれない程度にほくそ笑み、そう心の中で呟いた。

 

 大和は自宅の電話の受話器を置いた。

 今日、豊が仕事を欠勤した。

 仕事場から何度も連絡してみようと携帯電話を手にしたのだが、何となく気後れしてしまい、掛けず仕舞いに終わった。帰宅後、圭子に促されて、ようやく踏ん切りがついた。

 電話の向こうの豊は、特に体調を崩した訳でも大和に対する当てつけで会社を休んだ訳でもなく、欠勤の理由となった昨夜の騒動について疲れの滲む声で大和に語った。

 涼の母親の理恵が豊に語ったことによると、テレビゲームをしていた涼と颯太が、机に置きっぱなしにしていた引越し業者の資料を見つけてしまい、やむを得ず引越しの件を話してしまった、というのが事の発端だった。

 豊がおっとり刀で大和の家から戻ると、夕食も摂らずに自分の部屋に閉じこもってしまった涼を、理恵と純一が出てくるように説得していたところだった。

 それから夜通し、部屋のドア越しで「引っ越す」の「引っ越さない」の説得が続き、日が昇る頃になってようやく、泣き疲れた涼が眠ってしまった。とりあえず事態を収拾するため、涼が起きてくるのを待ち、一日掛けて説得していたのだ、と豊は欠勤の理由を大和にそう打ち明けた。まだ一〇歳の涼に「島の状況」とか「これからの生活」などという現実的な話は当然理解できず、「なんで?」「どうして?」をオウムのように繰り返すばかり・・・。「これにはホトホト参った」と、豊は疲れの滲んだ声で言った。

 颯太の様子を心配する豊を取り成して、大和は電話を切った。

 実は颯太も丸一日外に出ることもなく、二階の部屋に閉じこもっていた。大和の帰宅後、一旦夕食時に部屋から出てきたものの、食卓ではブスっとしたふくれっ面で、聡美とさえ一言も口を利かず、掻き込むように食事を終えると、脱兎の如く自室に引き返してしまった。

 夜九時を過ぎて、颯太が寝支度を始める時間になった。

 大和は「しばらく放っておいた方がいいのでは?」という圭子や聡美の言葉を遮り、颯太の部屋の前まで来た。ドアの隙間から漏れてくる光で、まだ颯太が起きていることが分かった。

 大和はドアをコンコンと二度ノックした。

「颯太、入るぞ」

 大和が颯太の様子を窺うようにして部屋に入ったと同時に、ベッドのスプリングが強く歪む音がした。

 ベッドの上の颯太は、タオルケットで足先から頭までをすっぽりと覆っていた。その姿からは、誰からの説得も頑なに拒絶するといった強い意思を感じさせた。

 大和は勉強机のイスを引き出して腰掛けた。

「颯太、寝ながらでいいから、聞いてくれ」

 大和は諭すような柔らかい口調で、話し始めた。

 颯太はタオルケットを被ったまま、大和に背を向けていた。小さな背中が呼吸のたびに小さく膨らむ。

「涼ちゃんの引っ越しのこと黙ってて、わるかったな。パパ、謝る。許してくれ」

 大和はそう言って、颯太の背中に向かって頭を下げた。

「パパも涼ちゃんのパパとは仲良しやから、颯太の気持ちようわかる。だから、どう颯太に説明したらいいか、ずっと悩んでたんよ。誰だって仲良しと別れるのは辛いからな・・・。でもな、涼ちゃんの家には、涼ちゃんの家の事情があるんや。事情って分かるな?」

 颯太の体はベッドの上で硬直したように動かない。

「いくらウチと涼ちゃんのウチが仲良しやからって、何でもいっしょ、って言うわけにはいかんのや・・・。涼ちゃんのお兄ちゃんの学校のこと、涼ちゃんのパパの仕事のこと、いろんなことを考えて、涼ちゃんのウチは引っ越すことにしたんや。

 昨日、颯太は『ボク、一人になるやん! 友達が一人もいなくなるやん!』って言うてたな。パパもいっしょやで。颯太は、パパは会社に行けばたくさん友達いるやん! 思うかもしれん。でもな、パパにはな、涼ちゃんのパパ以上の友達は他にいいひんよ。

 なあ 颯太! 男の子ならしばらく我慢せなあかん。颯太ももうじき中学生や。広川町の中学校に通うようになれば、また友達はたっくさんできる! パパが保証したる! それにな、涼ちゃんとはいつでも会えるんや。涼ちゃんたちが引っ越す大阪なんて車でひと走りのところなんや。パパがいつでも連れてってやる!」

 颯太の背中が小刻みに震え始めた。

 大和は颯太の震える背中を手で擦った。

「なあ、颯太。涼ちゃんたちが引っ越す前に、お祭りやろ! なあ! お祭りやって、元気いっぱい涼ちゃんを送ってやろな! パパなっ、涼ちゃんや涼ちゃんのパパ、そして、昔の友達のために、祭りやることに決めたんや! だから、颯太! 颯太も協力してくれ! 一緒に、涼ちゃんたちがまた来年も戻ってきたい! と思うような祭りにしようやないか! なっ、颯太!」

 颯太の背中は小刻みに震え続け、時折、鼻を啜る音が聞こえた。

「どうだ! 颯太、やるか?」

 タオルケットの下にある颯太の頭が、コクリコクリと動いた。

 大和は颯太の頭をタオルケット越しにゆっくりと撫でた。

「よし、わかった! これから三月まで忙しくなるで! 颯太もたくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん寝て、祭りまでにもっと力をつけとかなあかんぞ! 

 でも、神輿を担ぐのにはまだまだ小さいからな、颯太と涼ちゃんには、神輿を先導する太鼓を叩いてもらうつもりや! 明日、涼ちゃんにもそう伝えておき!」

 颯太の頭がまた、二度コクリコクリと動いた。

 その姿を見た大和も、静かに頷き、ゆっくりとイスから立ち上がった。そして、震えるままの颯太の背中に向かって、「おやすみ」と声を掛け、部屋を出た。

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