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第二部

 黒岩との会談の後、鹿股たちは、大和から拒絶とも言える非協力的な態度に会いながらも、豊たちと共に本山八幡祭りの再興のために動き出す。

 リ・フェスタの社長として、全国の祭りを駆け回る多忙な生活を送る鹿股の元に、雄一から一枚のDVDが届く。そこには離別後、一度も会っていない妻の姿と、小倉祇園太鼓で躍動する息子の姿があった。

             4

 鹿股が玄関先を箒で掃いている輿に声を掛けた。

「伸さん、おはようございます。朝からご苦労様です」

 朝陽に春らしい丸っこい温みを感じたが、時折、刺すような冷気が風に乗り、肌を掠めていく。

 鹿股はハァ~と手に息を吹き掛けた。

 輿が掃除の手を止めた。

「おはようございます。今日は本山出張所の黒岩様が来社されますので、少し玄関先をきれいにしておこうと思いましてね。黒岩様から松本駅に着いたら連絡いただけるそうなので、誰か迎えに出します」

「お手数掛けてすみません。打ち合わせには、私も同席させてもらいますね」

「ええ、そうして頂けると助かります。午後二時にはお見えになると思います」

「そうですか。わかりました。まあ、詳しいことは朝のミーティングで」

 鹿股はそう言い残して、事務所のある二階へ向かった。

 リ・フェスタの始業時間は九時。週明けは、ほとんどの社員が八時半には出勤し、おのおのが身の回りの掃除をしたり、休みの間に届いたメールのチェックをしたりしている。

「社長、おはようございます。昨日の夜、ニュースで福井での仕事の様子が取り上げられていましたよ。一緒に働いている仲間の仕事だと思うと、うれしくなっちゃって、録画して近所の人に見せて回っちゃいました!」

 会社の女性事務員の中畑さちが、事務所前の踊り場で鹿股に声を掛けた。中畑は輿に次いでの古参の社員だ。

 会社を設立した当初から、鹿股と輿は、全国各地を営業で飛び回わる日々が続いたため、一日でも早く事務所の留守を任せられる人材が必要な状況となった。

 職安を通じて事務員募集を掛け、真っ先に応募してきたのが、この中畑だった。子育てがひと段落し、もう一度社会に出て働いてみたいというのが応募の動機で、地元松本の商業高校を卒業し、二四歳で結婚するまでの期間、大手食品製造会社での十分な事務経験があった。そして、何よりも愛嬌のある全体にまん丸とした姿と、その温和そうな面持ちが二人に好印象を与えた。

 面接の場で即採用となり、以来「リ・フェスタの母」的な存在として社員から慕われ、なくてならない存在となっている。

「あっ、そうですか。確かにテレビ局の取材を受けましたが、とにかく事故もなく無事に終わったことにホッとして、完全に失念していましたよ。その録画、今度私にも見せてください。疲れてゲッソリした表情で映ってなければいいんだけど・・・」

 鹿股は冗談めかしてそう言い、事務所に入っていった。

 九時間近になって、輿をはじめ営業部員の三人が、事務所の北側にある会議用の長机に集まってくる。全員が席に着き、鹿股は少し遅れて上座の席に腰を下ろした。

 朝の挨拶の後、各人が週の予定を報告し、進行中の物件の経過説明に入った。

 最初に報告に立ったのは、入社二年目の西沢亜紀で、主に広告関連の仕事に従事している。

「わたしの今週の予定ですが、火曜日に埼玉県草加市の市民祭りの協賛企業募集についての打ち合わせで、草加に出張します。木曜日には、恒例の松本ぼんぼんの準備会合に参加します。あとは社内で請求書の作成や計画のスケジュール調整などを行います」

 西沢は大学卒業後、東京の中規模の広告代理店に就職し、約七年間営業畑を歩んできた。経済状況が一向に回復の兆しをみせない中でも、順調に数字を挙げ、指折りの営業ウーマンとして社内でも一目置かれる存在となり、二七歳の若さで営業課長に抜擢され、順風満帆の会社員生活を送っていた。

 男女雇用機会均等法が施行され、女性の社会進出も珍しくなく、重職に就く女性も増えている時代になっても、日本の社会にはまだ「男尊女卑」的な考え方を持っている人間がいる。西沢の運が悪かった所は、そんな人間の巣窟のような会社にいたということだ。

 営業課長になったあたりから、「アイツはお得意と枕営業で繋がっている」「社長の息子とデキているらしい」など、男の下衆な僻みともいえる根も葉もない噂を立てられるようになり、社内で冷たい視線に晒される毎日が始まった。それでもそんな根も葉もない噂など馬耳東風に聞き流し、日々の仕事に取り組んできた。

 しかし、自分ではまったく意識していなかったが、ストレスは西沢の体を確実に蝕み続け、課長に就任して一年半後、過度なストレスからうつ病に悩まされるようになり、結局、退職を余儀なくされた。

 症状が落ち着いてからも、社会復帰してやっていく自信が湧いてこず、持て余し気味の時間を潰すため、退職金と貯金を元手に以前から興味があった株式投資をはじめた。現在でも細々と続けている株式投資に関する知識は、二〇代半ばのときに付き合っていた三歳年上の株屋の彼氏に教わったものだ。

 退職して二年ほど経った頃、退職を知った鹿股から「広告営業のイロハ」の講義を依頼された。代理店時代に一、二度、鹿股とは商談をしたことがある程度で、西沢自身は鹿股のことも、リ・フェスタのこともさっぱり忘れていた。

 結局は、鹿股からの再三の講義の依頼に根負けし、また、日がな一日、実家のパソコンの前でレートの上げ下げを眺めているのにも疲れてきたところだったので、一、二回くらいのことと割り切って引き受けることになったのだが、後々よく考えれば、それが鹿股流の「ラブコール」だったのだ。

 一回が二回に、二回が三回になるうち、色彩のないビルが立ち並ぶ東京の無味乾燥な風景とは違い、自然に囲まれた清々しい松本の風景が、病み上がりの心に一服の清涼剤のように染み入った。リ・フェスタの社員にも変に擦れた所がなく、片意地を張って生きてきた西沢には、妙に居心地が良かった。

 講義のない時間には、安曇野や美ヶ原といった観光地や近場の温泉場などに足を延ばし、ますます松本という土地に魅せられていった。大自然の中に身を置き、自分の来し方行く末を考えているうちに、前職のことでウジウジと考えている「らしくない自分」に気が付いた。

 講義は回を重ねていき、西沢は自然のなりゆきで松本市に居を移した。そして、これも自然のなりゆきで、リ・フェスタ内に自分の席を貰うこととなった。

 各自の報告が終わった。そして、話は朝礼の本題である本山の件へと移った。

 鹿股は書棚から日本地図を引っ張り出してきて、和歌山県のページを開いた。

「和歌山県の本山というと、本山八幡祭りのことでしょうかね?」

「ええ、おそらく・・・」

 輿はそう言って、自分が知っている範囲で、祭りの概要や歴史などについて説明した。

 鹿股は輿の説明に聞き入り、ポツリと呟いた。

「なるほど、印南祭ですか・・・」

 川上がタブレット端末のネット画面を目で追い、口を開いた。

「ネットには、祭りの動画なんかは特にアップされていないようですね。あっ、ちょっと待ってください。このブログに『本山八幡祭りは、ここ一〇年ほど開催されてなく、幻の祭りになりつつある』ってありますね。

 本山はここ数年でかなり人口の流失が続いていて、特に、市町村合併で広川町と合併されてからは、その傾向に拍車が掛かっているようです。これじゃ、祭りどころではないかもしれませんね」

 鹿股は「幻の祭りか・・・」と、心の中で呟いた。

 本山八幡祭りも、その時代時代の影響でそれなりの期間、中止を余儀なくされたこともあったはずだ。その歴史の激動期を乗り越えてきて、なぜ今、その歴史に終止符が打たれようとしているのか・・・。

「それで祭りが開かれない理由は何か分かるか?」

「いいえ、いろいろ調べているんですが、その辺のことに行き当たらなくて・・・」

「今回の件は、その『失われた一〇年』と何かしらの関係がありそうだなあ」

 鹿股はそうひとりごちた。

 腕を組み、じっと話を聞いていた輿が答えた。

「そうですね。どうやら今回の来社は、『スポンサーを探してください』とか、そんなありきたりな案件ではないかもしれませんね・・・」


 昼を過ぎると、休み明けの重たい体も徐々に仕事モードに戻りつつあるようで、事務所内の雰囲気にもキビキビとした締りが出てきた。一人ひとりが、様々な懸案を抱えながらも、懸命にそれを乗り越えようとしている。それぞれがリ・フェスタの社員として成長しているのを、鹿股は肌で感じていた。

 鹿股がそんな想いで事務所を眺めていると、川上が細い黒縁のメガネを掛けた二〇代中盤の青年を伴って事務所に入って来た。

 鹿股と輿が二人を出迎え、来客用の会議室に入り、簡単な自己紹介と名刺の交換を済ませた。

「遠いところ、ようこそいらっしゃいました。どうぞ、お座りください」

 鹿股はそう言って、黒岩と相対するように座った。

 中畑がお茶と川上がこの日のために用意した茶請けの菓子を運んできて、各自の前にセットした。

 茶菓子は開運堂の開運老松。小豆餡を松の実を散りばめた求肥で巻いた和風ロールケーキのようなお菓子だ。

 川上が緊張気味の黒岩に声を掛けた。

「黒岩さんは、甘いものは大丈夫ですか?」

「はい。好きな方です」

「そうですか。良かった! これこの辺りでは、結構有名なお菓子なんで、どうぞ召し上がってください」

「そうですか! それじゃ、いただきます」

 黒岩は遠慮がちに、菓子を口に運んだ。

「うん! 甘すぎなくて、おいしいですね」

 菓子を頬張る黒岩を見ながら、川上は満足げに微笑んでいる。

 輿が柔らかな笑顔で、労うように問いかけた。

「和歌山からですと、ここまで五、六時間ってところですか?」

「はい。島から松本まで六時間半掛かりました」

 その場にいる全員の口から嘆息が漏れた。

 鹿股が、お茶とお菓子で人心地をついたような表情の黒岩に訊いた。

「黒岩さんは、長野にいらっしゃるのは初めてですか?」

「はい。初めてです。しかし、こっちはまだ結構寒いんですね。電車を降りたとき、びっくりしました。和歌山では、もう桜が咲くかどうかっていう気候ですから」

 黒岩は意識して標準語で会話をしているようだが、所々で関西弁のイントネーションが出てしまうようだ。

「皆さんは全員、長野の方なんですか?」

 鹿股が答える。

「いいえ、みんなバラバラですよ。輿はここ松本の出身ですが、長野県出身は、あと事務担当の女性だけですね。川上は福岡県小倉、広告担当の女性社員が神奈川で、私は東京です」

 輿が黒岩に訊いた。

「黒岩さんは、本日中に和歌山までお帰りになられる予定ですか?」

「ええ。明日からも仕事が詰まっていまして・・・。松本なんて、なかなか来る機会もないでしょうから、ゆっくりしたいんですが・・・」

 黒岩は「仕事が詰まっている」などと変な見栄を張った自分が少し恥ずかしく、頬が熱くなっていくのを自覚した。そして、残っていたお菓子を一気にほお張り、お茶で流し込んだ。

「そうですか・・・。それは残念ですね。それでは帰りの電車の時間までに、どこかおいしいお蕎麦屋にでもご案内いたしましょう」

 黒岩の顔がパッと明るくなった。

「じゃ、とっとと用件、済ましまひょか?」

 黒岩が砕けた関西弁で、輿にそう言った。

 場が少し打ち解け、鹿股が改まった表情で仕事の話を切り出した。

「それで今回は、どのようなご依頼で?」

 黒岩は本山の現状から本山八幡祭りの成り立ち(土日で頭に叩き込んだ)、祭りが現在行われていない経緯などを説明した。

「今日は、その祭りを再開させたいということで、ご協力いただけないかと、お邪魔したわけでして・・・。それでウチの上司が、まず、皆さんに一度、本山に来ていただきたいと言うのですが・・・。島にある神輿の状態も見てもらいたいですし、人員確保のノウハウや祭りに掛かる費用面の話なども、上司を交えてお伺いしたいものですから・・・」

 話がひと段落したのを見計らって、輿が口を開いた。

「祭りを再興するきっかけは、何かあるのでしょうか? さしつかいなければで結構ですが・・・」

 黒岩は幾分言いにくそうな顔をして、ひとつ咳払いをしてから輿の問いに答えた。

「一〇年以上も行われていない祭りですが、地元では、人それぞれ思い出のある祭りなんです。初デートが、あの祭りだっていう人も多いですし・・・ね」

 黒岩はもうひとつ咳払いをした。

「でも、今回の件は、先ほどちょっと名前が出た西尾さんって言う方が、島を出る前に、息子さんたちに一度だけでも祭りの勇壮な神輿渡御を見せてやりたい、自分が生まれ育った島の思い出として、記憶に残してやりたい。そんな気持ちから出た話のようなんです。祭りで村おこしをしようとか、観光客を誘致しようとかではないんです。まぁ、出張所の職員としては、将来そうなればいいかなぁ、くらいには思っていますが・・・」

 黒岩はそこで一端話を止め、目の前の三人それぞれの表情を窺った。

「あの~、個人的な疑問なんですが、ひとつお伺いしてもよろしいですか?」

 鹿股たちは〝当然〟と言った顔で頷いた。

「祭りというのは、本来の意味からかけ離れた目的で行っていいものなのでしょうか? 本山八幡祭りは、元々、豊漁と操業の安全、子孫繁栄を祈願するための祭りです。そんな祭りを、ただ息子に見せたいという個人的な動機で開催していいものなのでしょうか?」

 黒岩の問いに鹿股が腕組みをし、苦笑いを浮かべた。

「う~ん。いきなり祭りの核心を突く難しい質問ですね」

 鹿股はしばらく思案顔を天井に向け、自分の考えを整理してから答えた。

「これはあくまで私の個人的な意見ですが、たとえ個人的な感情が動機であったとしても、その祭りが、その人にとって重要な意味を持ち、必要な儀式であるならば再興する価値は十分ある、と私は考えます。

 そもそも祭りの語源には諸説ありまして、そのひとつに〈待つ〉という言葉に由来するという説があります。神を〈まつる〉とは、神を〈待つ〉ということです。一人で〈待つ〉のか、家族で〈待つ〉のか、それとも村の全員で〈待つ〉のかで、その表現方法は違いますが、一人静かに神が現れるのを〈待つ〉のも祭りですし、本山八幡祭りのように、共同体の構成員で激しく舞い踊りながら〈待つ〉のも祭りです。

 動機がどうであれ、その西尾様個人にとって、祭りが必要ということならば、そこに、つまり西尾様の心の中に、神を〈待つ〉場所があるということになります。したがって、祭りを行う価値があるということになりますね」

 黒岩はしきりに頷き、「へえ、そうなんですか。そんな意味があるんですね」と呟いた。

「『ハレノヒ(晴れの日)』には、祭りは付き物です・・・。『ハレノヒ』とは、七五三、入学式、結婚式なんかを『晴れの日』って言いますよね、そのことです。この『ハレ』という言葉は、共同体の祭りや儀礼など『非日常』を表した言葉だと言われています。ちなみに、その反対は『ケ』といって『日常』を表す言葉です。『ハレノヒ』には、『晴れの舞台』に『晴れ着』を着て立つ。

 これも余談ですが、盆踊りで身に付ける鉢巻の手ぬぐいも『ハレ』の日の被り物だったようですね。つまり、七五三も、結婚式も、入学式も、共同体にとっては、『非日常』という意味で、祭りの一種なんです。人々の新しい門出を祝うには、古来祭りが必要だったんですね。

 西尾様とご家族にとっても、祭りという『晴れ舞台』で、故郷の島との結びつきを再確認し、それを門出に新たな地へと旅立つ・・・。祭りを開催するのには、十分な根拠にはなります」

 黒岩は真剣な表情で、鹿股の話を聞き入っている。

「『本山八幡祭りが、豊漁と操業の安全、子孫繁栄を願う祭りだ! だから神事として、それだけしか願ってはいけない!』ということではない、と私は考えます。幼いお子さんを持った母親は、祭りに舞い降りた神様の前では、『子供が無事成長しますように』と願うでしょうし、雨宮家の歴代の当主にしても、本山八幡神社の宮司にしても、豊漁や操業の安全だけではなく、村に疫病が流行れば疫病退散を、病気になる村人が多ければ無病息災を祈念したはずです。そうした歴史を積み重ねて、祭りは続いてきたんです。個人として何を祈念して祭りに臨もうと、それを包容するのが祭りなんです」

 鹿股の祭りに関する講釈は二〇分ほど続き、黒岩が会話の合間に発する質問にも輿と二人で丁寧に答えた。鹿股は話がひと段落したところで言った。

「こちらと致しましても、今回の件が、仕事として皆さまのお役に立てるのかどうか見極めなければなりませんので、一度本山にお邪魔させていただきましょう。私個人といたしましても、伝統のある祭りが一〇年以上もの間開催されず、本山の、そして日本の歴史から消えてなくなるのを、ただ眺めているわけにはいきません。できる限りのことはさせていただきます。私も時間をみてお邪魔させていただきますが、直接の担当はこちらの二人、輿と川上になります。本山の皆さまのお力になれるよう、精一杯頑張らせていただきます」

 鹿股はそこで一旦、言葉を切った。

「でも、つぎの点だけはご了承しておいていただきたいのですが・・・」

 黒岩は鹿股の表情がこれまでの温和なものから、苦虫をつぶしたような渋いものに変わったのを見て、一瞬息を呑んだ。

「はい・・・。それはどのような・・・」

 鹿股は黒岩に目をじっと見据え、言った。

「雨宮様の心の問題は、私共には扱いかねます・・・。ということです」

 黒岩は鹿股に突然急所を突かれ、目を伏せた。

「はい・・・、その点は・・・、重々・・・」

 その後、細々としたスケジュール面での調整などで時間はあっという間に過ぎていった。

 会議が終わり、輿と川上が、「よろしくお願いします」と深々と頭を下げ、黒岩に握手を求めた。黒岩は伏し目がちに、二人の手を交互に握った。


 黒岩は会社の玄関口まで見送りに来た鹿股に頭を下げ、礼を述べた。

「今日はありがとうございました。お話、大変参考になりました」

 川上と輿が社用車に乗り込み、エンジンを掛けた。

 これから帰りの電車までの時間、黒岩、輿、川上の三人は約束どおり蕎麦を囲んでのミーティングを行う。

 車の中では、助手席に座った輿が川上に蕎麦屋の場所を指示している。

 川上が運転席から顔を出した。

「それじゃ、黒岩さん、行きましょうか?」

 黒岩は後部座席のドアを開け、車に乗り込もうとしたところで、ふと頭に浮かんだ疑問を鹿股にぶつけた。

「不躾な質問ですが、祭りに特化したコンサルティング会社なんて全国でも珍しいですよね? 鹿股社長はなぜ、この会社を立ち上げようとお思いになられたんですか?」

 鹿股は苦笑いを浮かべ、しばらくの沈黙のあと呟くように答えたが、その答えは、車のエンジン音にほとんどかき消さてしまった。

 しかし、黒岩にはこう聞こえたような気がした。

「・・・罪滅ぼしのようなもの・・・、ですかね」

           5

 午前中の用件を済ませ、鹿股と川上は会社を出た。

 黒岩の来訪から、すでに三ヵ月が過ぎた。

 この間、輿と川上は本山出張所で、岸本を交えて数度の打ち合わせを重ね、今後の再興計画の大雑把なスケジュールと、それに合わせた開催費用面での課題などを話し合ってきた。

 しかし、祭り再興への具体的な動きは、豊から祭りの概要について詳細なレクチャーを受けたのと、関係各所に祭り再興を打診しただけでペンディング状態に陥ってしまっていた。

 よって、正式に事業契約を結べるような状態には至らず、それ以上の動きが取れない状況にあった。その上、頭屋の雨宮大和は、形式的な挨拶のつもりで訪れた輿と川上に一切取り合おうともしない・・・。

 今回、社長の鹿股が本山行きに同行するのは、先方に今後の方針を伝えるためと、正式な事業契約を結ぶ意思があるのかをどうかを確認するためだ。大和の件は、「面会は無理強いせず、静観する」という方針を鹿股は立てた。

「社長、お見舞いありがとうございました。叔父から連絡があって、とても喜んでいました」

 事務所前で、社用車に乗り込んだ川上がコクリと頭を下げた。二人は他の社員に心配を掛けないようにと、社内では雄一の話はしないことにしていた。

「ああ、元気そうで、俺も安心したよ・・・」

 

 雄一への見舞いは、約二ヵ月振りのことだった。仕事が立て込む前に一度顔だけでも見ておこうと思い立ち、出張先の東京から直接、福岡に向かった。

 川上からは、「今回の入院は検査入院的なもので、夏には全快するだろう」という報告を受けていたが、その時期はいくつかの仕事が佳境を迎えている頃で、とても小倉に行く時間は取れそうになかった。「顔だけでも見ておくか」と決めてしまえば、誰にも気兼ねなく動けるのが、独り身の強みでもあり、身軽さでもあった。

 ベッドの上の雄一は、前回の見舞いのときよりも、頬の辺りの肉付きが多少戻ってきているように鹿股には見えた。

「そりゃ、とうに四〇を過ぎているんだ! 筋肉だって落ちてくるさ。当然、太鼓の練習もしてないしな。それに入院中は、貧乏くさい病院食続きだろ・・・。それで筋肉ムキムキだったら、俺は怪物だよ!」

 雄一はそう言って、体のアチコチを手の平で叩き、コリをほぐした。

 雄一の言った太鼓とは、小倉祇園で演じる太鼓のことだ。

 毎年七月に行われる八坂神社の例大祭で、映画『無法松の一生』の舞台にもなり、博多祇園山笠、戸畑祇園大山笠と並んで福岡県の三大祇園祭のうちのひとつである。

 小倉出身の雄一は、小倉祇園太鼓で太鼓を叩くことを年中行事としていて、どんなに仕事が忙しくても、毎年のように参加していた。

「それで、どうだ、仕事のほうは? おぼっちゃんが、まだ迷惑かけてるんじゃないか?」

 雄一はベッドから降り、鹿股に屋上に行こう、と指で天を指し示した。

 二人は肩を並べ、病室を出た。

「右も左も分からない世界に飛び込んできたわりには、彼なりに頑張っているよ。職場のみんなとも仲良くやっているし、クライアントからの評判もいい」

 雄一は快活に笑った。

「そうか。まあ、話半分ということで聞いておくことにするよ」

 二人は病院の屋上に出て、備え付けのベンチに座った。

 南からの風が、物干しに掛かった真っ白なシーツをパタパタとはためかせている。

 雄一が鹿股をからかうように言った。

「社長のクセに、じっと会社の席に座っていられない性質らしいな?」

 鹿股は当然といった態度で答えた。

「社員四名の会社だぞ。社長だからって、イスでふんぞり返っているわけにはいかんだろ。俺にとって社長というのは、対外的な肩書きに過ぎないんだよ。名刺にそう書いてあるというだけのことだ。実際は、社長兼営業兼総務兼人事兼経理といったところだ」

「まあ、忙しいのは何よりだが、俺のようにくたばらないように、なっ!」

 雄一は大きく胸を張り、気持ち良さそうに伸びをした。雄一の視線の先には、抜けるような青空が広がっている。

「それにしても、お前が祭り関係のコンサルティング会社をやるとは思っていなかったなぁ」

 雄一は感慨深げにそうポツリと言い、鹿股を見やった。

 鹿股は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。

「誤解しないでくれ。嫌味で言ったわけじゃないんだ。あんなことがあった後だから、祭りに係わる仕事だなんて意外だったんだよ」

 屋上の金網越しからは、小倉の市街地の様子が見えた。

 鹿股はベンチから立ち上がり、眼下の人の流れを見つめる。

「そうだな。まったくだ。やっている俺だって、時々『こんな仕事をしていていいのか?』って、自問することがある・・・」

「社長がそんな根性なしで務まるのか?」

 雄一はそう言って、手の甲で鹿股の太ももの辺りを叩いた。

「社員の生活が掛かっているんだ。一時の感傷に浸っている暇なんてないよ・・・」

 雄一が立ち上がり、鹿股の横に並んだ。そして、改まった口調で言った。

「今年の小倉祇園太鼓までには、俺も退院できそうだ。どうだ、鹿股。久しぶりにお前も来てみないか?」

 雄一は鹿股の肩に手を置いた。

 鹿股は「どのツラ下げて帰ればいいんだ?」という言葉を飲み込んだ。

「七月は一番忙しい時期だからな、ちょっと難しいな。淳司くんもアテにしないでくれよ。ウチの大事な戦力だ。まぁ、『祭りをやりましょう!』っていう会社が、社員を祭りに出さないというのも本末転倒だがな」

 雄一は苦笑いを浮かべ、ウンウンと頷き、遠慮ぎみに鹿股の顔をチラチラと見た。

「香さんや晴光くんには、会っていないのか?」

 雄一の口から突然、別れた妻と息子の名前が出たので、鹿股は一瞬表情を硬くした。鹿股と雄一の会話でこの二人の名前が出ることは、ここ数年まったくなかった。

「ああ。離婚してから一度も連絡は取っていない」

「晴光くんはもういくつになる」

「今年の一〇月で一一歳だ」

「そうか・・・。もう一一歳になるか・・・。ということは、来年には中学生か・・・」

 香が生まれたばかりの晴光を抱いている姿や、香の両親が孫の誕生に大喜びしていた姿が、鹿股の脳裏に蘇った。

 香と晴光は、この小倉の空の下、そう遠くはない場所に住んでいるはずだ。鹿股は通りを行き交う人の流れを見つめ、そう思った。

 雄一が鹿股の方に体を向け、真剣な表情で切言した。

「あまり過去のキズに触るようなことは言いたくないが、もう昔のことは忘れろよ。お前は会社の一員として、やらなければならないことをやったまでだ。かりに、もし俺がお前の立場だったとしても、同じことをしたと思う」

 鹿股は雄一の顔色を伺うように、声を落として言った。

「あそこは今どうなっているんだ?」

「連日、買い物客で溢れているさ! お前が開発した当時とは、テナントはだいぶ入れ替わったけどな。何だったら、これから自分の足で見に行ったらいい」

 雄一はひとつ咳払いをした。

「本当は口止めされているんだが・・・。まあ、いいだろう。俺のカミサンが、香さんとよく会っているんだ。香さんと晴光くんは、おばあちゃんと一緒に西小倉駅近くのマンションに住んでいる。香さんも晴光くんも元気だそうだ。晴光くんは今年から昔とは別の連で太鼓祭りに出るらしい。どうしても参加したいという本人の希望でな。今日は土曜日だろ? 小倉駅近くのたばこ会館で太鼓の練習があるはずだ。そこも覗くだけでも覗いてきたらどうだ?」

 それから小一時間ほど鹿股は雄一と話した。

 しかし、鹿股は始終、うわの空の状態で、まだ幼い晴光を連れて参加した小倉祇園太鼓の思い出が、繰り返し繰り返し鹿股の頭に鮮明にフラッシュバックしていた。

 面会を終え、鹿股は病院を出た。

 病院を後にした鹿股の足は、無意識のうちに小倉駅方面に向かっていた。その途中、鹿股は成長した晴光が無心で太鼓を叩く姿を何度も想像した。足の運びを早めるような喜ばしい晴光の姿のはずが、なぜか、その想像上の太鼓の音に押し返されるかのように、鹿股の足の運びは徐々に鈍っていった。

 そして、ついには、晴光が打ち鳴らすその想像上の太鼓の音の迫力に抗いきれなくなり、踵を返し、来た道を悄然と戻っていくことになった。

 

「社長・・・、社長! 着きましたよ。気分でも悪いですか?」

 鹿股は川上の呼び掛けで目を覚ました。車はすでに松本駅の駐車場に止まっていた。

「ああ。すまん。ちょっと考え事をしていた・・・」

 二人は車を降り、駅に向かう。

 駅ビル内の飲食店で遅い昼食を済ませ、一三時五二分発のしなの一四号に乗り込んだ。

「向こうの神輿の状態、どうだったんだ? イチさんに写真を見てもらったんだろ? なんか言っていたか?」

 イチさんとは、長野県諏訪市に在住する宮大工で、これまでもリ・フェスタの仕事に時々手を貸してもらっていた。輿との付き合いは、もう三〇年近くになり、そのよしみでリ・フェスタの仕事を引き受けてくれている。

「一〇年間使っていない割にはキレイで、しっかりしているみたいです。それでも、安全のため、土台部分は補修しなきゃならないかもしれない、と。まあ、実際に現物を見てみないと細かな所は分からないそうなので、時期が来たら自分の目で確認したいとのことです」

「そうか・・・。宮司さんが定期的にメンテナンスをしていたのか?」

「いいえ。宮司さんは禰宜さん数人とひと月に一度、神社に足を運んで、神社内の清掃やら雑用するだけのようです。そもそも宮司さん自体が代替わりしていましてね。新任の若い宮司さんは、本山八幡祭りについては、あまり知識がないようなんです。そんな方が神輿の細かなメンテナンスをするとは思えませんけど・・・。神輿庫の鍵は宮司の手許にもあるので、神輿があることは知っているようですが・・・」

「役所の人間が定期的に見に行っているとか?」

「いえ。それもないようです。黒岩さんも岸本さんも、つい最近まで神輿の存在すら忘れていたようです。再興の話があって、ようやく思い出した、っていうくらいですから」

 鹿股は正面に座った川上の表情を窺い、口を開きかけたとき、川上が右手を上げ、それを制した。

「ええ。おっしゃりたいことわかりますよ。頭屋の雨宮さんじゃないか? って、おっしゃりたいんですよね? 雨宮さんなら神輿庫の鍵も持っているし、代々神輿の管理もしてきた方なんで。でも、雨宮さんが何にも話してくれないので、その辺のところはわかりません。状況証拠だけは揃っているんですけどね」

 なぜ、祭りの再興を望まない雨宮が、神輿の手入れをしているのか? という腑に落ちない点はあるが、メンテナンスが行き届いているというのは、悪い話ではない。神輿を一から作り直すとすればひと作業だし、金銭的な負担も大きい。

「今でも雨宮さんへの説得は続いているのか?」

 川上が小首を傾げた。

「ええ。そのようなんですが・・・。輿さんは、僕たちが西尾さんや黒岩さんたちと島を動き回ったり、雨宮さんの家を定期的に訪ねたりすることも、ひとつの説得になっているのだろう、っておっしゃっていましたが・・・。実際は、ほとんど意味がないみたいですけどね」

 川上はそう言い、肩をすくめた。

 鹿股は川上の言葉に頷いた。

―まあ、そんなところなのだろうな・・・。

「あと、これは余談なんですが、西尾さんと雨宮さんのウチの子が、僕たちの行くところ行くところ、全部に付いてくるんですよ。『神輿だ!』、『祭りだ!』ってうるさくて、うるさくて! 向こうでの仕事中は、社長も覚悟しておいてくださいね。コバエみたいに自転車でウロチョロして・・・。やかましいし、うっとうしいですから!」

 しなの一四号は木曽から恵那峡の山深い光景を抜け、名古屋に向かって順調に進んでいる。新幹線、在来線と電車が遅延なく順調に進んでも、JR和歌山駅に到着するのは夜の七時過ぎだ。和歌山駅に到着後は、二日前から駅の側のホテルに宿泊している輿と落ち合い、翌日、レンタカーで、本山に向かう予定となっている。

 鹿股は腕を組み、目をつぶった。つぶった途端、昨日、一昨日の強行軍の疲れが体に重くのしかかり、川上に肩を揺すられ、鹿股はようやく目を覚ました。しなの一四号は名古屋駅に到着し、乗客それぞれが下車の準備をしている。鹿股も急いで荷物をまとめて、下車する乗客の列に並んだ。

 鹿股の前に立つ川上が、振り返って言った。

「細かいことは言いたくないですが、移動中も勤務時間です。社長が部下の前で眠ったりして・・・。よっぽど起こそうかなぁって思いましたけど、叔父の件もあるのでやめました。以後、気を付けてください」

 鹿股は川上の横顔を見入り、「はい。はい。以後、注意いたします。私も社長として、あまり細かいことは言いたくないんだがね・・・。川上くんも、もう立派な大人なんだから、どんなときでも、身だしなみぐらいは気に掛けるようにしてくれよ!」とため息交じりに言って、背広のポケットからティッシュを一枚抜き取り、川上の目の前に差し出した。そして、もう一方の手で自分の口元を指し示した。

 川上は一瞬ハッとした表情をし、口元を指でこすった。そして、指先に付いた汚れを見て、鹿股の差し出したティシュを恥ずかしそうに受け取り、口の端に付いたチョコレートを拭った。

              6

 本山ではこの一週間、冷たい雨が降り続いていた。この日も空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうな空模様だ。

 ゴールデンウィークを目前に控え、どこに行ってもソワソワと浮ついた雰囲気に満ちている。テレビでは、ゴールデンウィーク中に訪れたい注目のスポットを連日のように紹介し、フライング気味に世間の休日気分をしきりに煽っている。

 本山は、そんな世間の喧騒から取り残されたかのように静かだ。休みに入れば数組の釣り客がやって来て、この深閑とした小島も少しは賑やかになるのだが・・・。

 本山出張所の朝も、周囲の静寂によく馴染んでいる。八時前の事務所内には、岸本とパートの女性職員が世間話をする声と、眠りに誘うような緩やかな波の音が聞こえるだけ。

 そんな中、黒岩は鹿股たちの到着を、ただボンヤリと窓の外を眺めながら待っていた。

 岸本もおしゃべりをやめて、窓から本山港の様子を窺い始めた。

「おっ、フェリーが来た。黒岩くん、八時半着のフェリーやったよな?」

「はい。そうです」

 黒岩は立ち上がり、イスの背もたれに掛けた背広を手に取った。

 時間は八時二〇分を少し過ぎていた。漁港である本山港に併設されているフェリー乗り場から出張所まで車で五分ほどの距離だ。

 黒岩が事務所を出る。

 潮の香りを含んだ湿った風が海から流れてくる。

 正面玄関で、黒岩と岸本が肩を並べて待っていると、「わ」ナンバーのシルバーの軽自動車がゆっくりと左折し、敷地内に入ってきた。

 車を降りた三人が、鹿股を先頭に出張所に向かってくる。

「ようこそおいでくださいました」

 岸本が三人にゆっくりと歩み寄り、鹿股と初対面の挨拶を交わした。

「こちらこそ、お忙しいところお時間頂戴いたしまして、ありがとうございます」

 岸本は大仰に手を左右に振った。

「忙しいなんことはありません。私らは一日中、イスに座っているのが仕事のようなもんですから、なあ、黒岩くん!」

 黒岩は恥ずかしげに苦笑を浮かべ、三人を中に招いた。

 事務所の一角にある商談コーナーには、小振りな革張りのソファーが机を挟んで二脚あった。大の男五人全員が、そこに肩をすぼめるようにして座った。

 岸本が申し訳なさそうな顔でペコペコと頭を下げ、言いなした。

「狭いとこで、すんません。少しの間、我慢してください。ホウちゃ・・・、いや、西尾さんも、もうじき来ると思いますから、まあ先に始めてましょうか」

 窓口付近で、五、六人の老人がイスを勝手に持ち寄って、井戸端会議を始めた。時折、ケラケラというしわがれた笑い声が、商談スペースまで聞こえてくる。

「え~と、あちらのお客様は大丈夫ですか?」

 事情を知らない鹿股が窓口の様子を窺い、そう訊ねた。

 岸本がまた大仰に手を振った。

「大丈夫です、大丈夫です。気にせんでください。ご老人方がよく暇つぶしに、ああやって集まって来るんですよ。まあ、役所もサービス業ですんで、ムゲに追い返すわけにもいかんので・・・」

 鹿股は朗らかな顔で頷いた。

「では、あちらさまの邪魔にならないように、こちらもはじめましょうか?」

 岸本は初対面の鹿股に、本山の置かれた状況を大げさな身振り手振りで解説した。鹿股たちは話の合間に相槌を打ち、その話を熱心に聞いている。

「やっぱり漁業が衰退してからは、人口の流失も激しくて、どんどん活気がなくなっていきました。まあ、世間は不景気だし、この本山もまったく元気がない。祭りでもして、パッと心機一転、みんなで頑張っていこうか! ってとこですわ!」

 岸本はそう言って、快活に笑った。

 岸本の笑い声を聞いて、それまでにこやかに笑みを浮かべ、聞き役に回っていた輿の顔が厳粛なものに変わった。

「岸本主任。今回の訪問の第一の目的は、皆さま方のご意向を確認させていただくことなのです」

 黒岩はキョトンとした顔をして、岸本は目を左右に泳がせ、要領を得ないといった表情で、輿に訊いた。

「ご意向というと?」

 輿が案じ顔で切り出した。

「皆さまがご要望された祭りの人員の募集や神輿の修復、それから祭り再興を金銭的に下支えする協賛企業の獲得や寄付の募集に関しては、弊社はノウハウを持っておりますので、十分お力になれると信じております。

 しかし、すべては祭りの開催が正式に決定して、初めて動くことができる類の仕事です。神輿の修復にしても、やるやらないがハッキリしないうちに動いては、ムダに終わる可能性があります。

 要するに、現状のままだと、我々はこれ以上動くに動けないのです。つまり、仕事にならないのです。私たちも一企業として先の見えない事業に、これ以上経費を掛け続けるわけにはいきませんので・・・」

 岸本はウ~ンと唸り、腕を組んだ。

「輿さんの言いたいことは、ようわかります。しかし、私たちにもその辺は判断のしようがないというか・・・」

 鹿股が話を引き継いだ。

「雨宮さんの気持ち次第で、皆さんの返事の内容も変わるということですよね。確かに、本山八幡祭りは、雨宮家が先導的な役割を担います。その当主である雨宮大和さんを欠いた本山八幡祭りは、『魂を入れない仏』と同じです」

 鹿股はひと息ついてから続けた。

「しかし、雨宮様を抜いた形で『それなりのこと』をすることも可能です。物忌みや神霊入りの儀式などは、簡略化してしまえばいいことです。お囃子や神楽舞にしても、祭りのビデオでもあれば、形をまねることはできます。神輿も使えないということになれば、我々でそれなりの物を用意します。それでいいのであれば、今日にでも正式に仕事としてお引き受けさせていただきますが・・・」

 一同の間に沈黙が流れた。

 岸本がひょこりと手を上げ、発言を求めた。

「正直言います。私には、その辺りの違いがようわかりません」

 輿が岸本の方に身を乗り出し、ゆっくりと口を開いた。

「ええ。岸本主任の言われることはもっともです。要するに、雨宮様が祭りに参加しないことで本山八幡祭りは、本来の『祭り』ではなくなってしまうのです」

 岸本は意味が分からずポカンとした顔で、輿の話の続きを待った。

「これはあくまで定義上の話ですが、あの有名な民俗学者・柳田国男は、祭りにおける物忌みや精進、いわゆる祭儀の重要性を説いています。そういった祭儀や儀礼は、聖なる祭りの世界に入っていく上で、重要な手段だというのです。

 ひるがえって、鹿股の言った『それなりのこと』とは、祭儀を極力省いて、祝祭の部分だけを行うということです。祝祭とは、祭儀の後に行われる音楽や踊りのことと考えてもらっていいでしょう。祝祭は、退屈で過剰な形式や、規則でがんじがらめの祭儀からの開放を意味します。

 祭りというのは、順番的に祭儀があってから祝祭がある場合が多いですね。聖なる祭儀によって、神様と共にいるという意識が生まれて、初めて祝祭が行われる意味があるのです。

 頭屋の雨宮さんが祭儀に参加されない本山八幡祭りは、本来の意味での『祭り』ではなく、単なる今流の『フェスティバル』に近いと言ってもいいでしょう。『パッと心機一転、祭りをやろう!』という開催意図であれば、それでも十分だとは思いますが・・・まだ来年の三月までには時間がありますので、正式な仕事の依頼は西尾様を交えて、皆さんでゆっくりご検討なさってからでも遅くはないと・・・」

 井戸端会議を終えた老人が、ゾロゾロと事務所を出て行く。

 岸本が居住まいを正し、口籠りながら言った。

「そうなんですか・・・。たかが祭り・・・、イヤ、失礼・・・、そう思ってましたが、むずかしいものですなぁ~。しかし、理屈が分かったところで、私には返事のしようがない・・・。ですから、おっしゃられた通り、この件はこちらで一度、引き取らせてもらいますわ。鹿股さんがおっしゃったように、どういう体裁で祭りを行うかもう一度、我々で検討します。で、その検討の結果は、いつまでに連絡すればよろしいんでしょうか?」

 輿が手帳を括り、日程を確認した。

「そうですね・・・。一〇月中旬ぐらいまでに、ご連絡いただければ・・・」

 本山八幡祭りの開催予定日まで、すでに一年を切っている。一〇年以上のブランクがあることを考えると、時間はあるに越したことはない。祭りの細部までを再興するとなると、一〇月中旬でもギリギリのタイミングだ。

 岸本は胸ポケットから手帳を取り出し、輿の言った日程を手帳に書き込んだ。黒岩は、ただ肩をすくめるようにして、その場に静かに座っていた。

 そのとき、鹿股が突然立ち上がり、腰を屈めた。商談コーナーの一同は、鹿股が頭を下げた先に視線を向けた。そこには、額や首元から流れる汗を拭おうともせずに、仁王立ちしている西尾豊がいた。

「三郎! いまさら、何を検討する必要があるんや! 祭りは昔と同じ体裁でやるんや! そうやないと何の意味もない! ダイちゃんのことは俺が何とかする! 俺はやるからには、間に合わせでやるようなことはしたくないんや! リ・フェスタの皆さんも、お願いします!」

 顔を真っ赤にした豊がそう声高に言い放ち、リ・フェスタの三人に向かって深々と頭を下げた。

 鹿股、輿、川上の三人は、突然の展開に顔を見合わせた。

 今度は黒岩が素っ頓狂な声を張り上げ、ソファーから立ち上がった。

「キミたち、そんなとこで何しとるんや?」

 豊に向かっていた視線が、ガラス窓の方に一斉に向けられた。

 川上が窓の外の人影に気が付き、声を上げた。

「あっ、また来た!」

 二人の子供が換気のために開けられた窓の隙間から目だけを出し、事務所内の様子を覗いていた。

 いがぐり頭の涼が、とくに悪びれる様子もなく言った。

「お昼に家に帰ろう思うたら、父ちゃんの車を見つけて、後つけてきたん。なっ! 颯ちゃん」

 涼の視線の先には、涼と似たような背格好の颯太がいた。

「これ祭りの相談やろ? 西尾のおじさん、祭りやるんか? ほんまに祭りやるんか?」

 豊は窓外にいる二人に向かって、声を張って言った。

「ああ、颯ちゃん! 来年の三月二〇日や! 楽しみに待っとれ!」

 子供たちのヤンヤの歓声が事務所中に響く。その場にいる大人たちは一人を除いた全員が、物事の急な展開に茫然自失といった体だ。

「颯ちゃん、祭りだ! イエ~い」

「祭りだ! イエ~い」

 涼と颯太はそう何度も叫び、小躍りし、ハイタッチを繰り返す。

 豊は「子供たちを家まで送るので・・・」と言い残し、風のように出張所を後にした。去り際に何度も振り向いては、鹿股たちに「お願いします」と頭を下げた。そして、颯太と涼に纏わりつかれながら自分の車の所まで行き、子供たちの黄色い嬌声と軽快なエンジン音を残して去っていった。

 嵐のような喧騒が一時の内に消え去り、気の抜けたような雰囲気が事務所中を覆った。

 輿が沈黙を遮った。

「どうされますか、岸本主任? ご検討されるのに時間が必要でしたら、後日、お電話でということでも結構ですが?」

 岸本は「ヨシ!」と気合を入れると、鹿股、輿、川上へと順番に目をやった。

「やりましょ! 乗りかかった舟や! 鹿股社長、さっき言ったことはなしです! 今日から祭りの準備にかかってください」

 黒岩が血相を変え、横から口を挟んだ。

「主任、いいんですか! もう一度冷静になって考えた方がいいと違いますか?」

 まなじりを決した岸本が、動揺する黒岩に言い放った。

「黒岩くんもさっきの子供たちの喜びよう見たやろ? あの二人のためにもやったろうやないか! 運動会も学芸会も何にもやってもらえん二人や島の子供たちのために、祭りくらいやってやらんでどうする! それが大人の責務というもんや!」

 黒岩はまだ得心いかない顔をしていたが、岸本の勢いに押されてシュンとした顔をして黙ってしまった。

 鹿股が岸本に言った。

「わかりました。それでは正式に仕事として、お引き受けさせていただきます。明日にでも契約書と簡単なものになりますが、今後の作業スケジュールなどお渡しいたします。精一杯やらせていただきますので、よろしくお願いします」

 鹿股はそう言って腰を上げ、岸本に握手を求めた。岸本はいくぶん上気した顔で、鹿股の求めに応じた。

 握手の後、翌日の打ち合わせの時間を調整して、この日の打ち合わせは終わった。

 鹿股たちが車に乗り込み、出張所を後にした。

 それを見送った岸本と黒岩は、しばらく玄関前に立ち尽くしていた。海からのさわやかな微風が吹き抜けていき、サラサラ、ザブンと寄せる波の音だけが聞こえる。

 岸本がポツリと呟くように言った。

「これでええよな? 黒岩くん」

 岸本の顔には先ほどまでの威勢のよさはなく、明らかに『不安』の文字が浮かんでいる。

「さあ、私にはわかりません・・・」

 黒岩はあっさりとそれだけ言うと、踵を返し、事務所内に戻っていった。

             7

 すでに時間は夜九時を回り、島全体が静寂と安寧に包まれている。

 大和は自宅のガレージに車を止め、汚れやシミがこびりついた建設会社の作業服姿で車から降り、玄関口に立った。家の外にまで、颯太のはしゃぎ声が響いている。

―こんな時間になにごとや?

 大和はゆっくりと引き戸を開けた。

「ただいま・・・」

 大和が家に入ると、颯太が小躍りしながら飛びついてきた。

「パパ、祭りや! 祭りやで!」

「何や騒々しい! 祭りって何のことや?」

「涼ちゃんのパパが、今日、来年には絶対に祭りをするって言うてたねん! そうなんやろ! パパ!」

 大和は豊や出張所の岸本と黒岩、そして、どこかのコンサルティング会社の連中が、本山八幡祭りの再興に向けて動いていることを思い出した。

 大和は体の奥底に溜まった疲れが一気に滲み出てきて、体全体にまとわりついてくるようなイヤな気分になった。

「颯太、どこでそんな話、聞いてきたんや?」

「今日、出張所でそう言ってた」

 颯太は迎えに出た妻の圭子にも纏わりついた。

「おかえりなさい。ついさっき、またなんとかって会社の方が見えたわよ。今度は社長さんがお見えになって。これ名刺って、置いていったわ」

 大和は「株式会社リ・フェスタ 代表取締役社長 鹿股博明」と名前の入った名刺を、汚れにまみれたままの手で受け取った。

 これまでも同じ会社の人間がたびたび家を訪れてきたが、門前払いにしてきた。新聞受けに入れられた名刺も、すぐにゴミ箱に捨てた。どこの悪徳コンサルティング会社の職員かもわからない奴らが、この島に勝手に乗り込み、田舎モノの素直さからくる世間知らずな点に付け込み、自分たちの都合のいい理屈を並べ立て、金儲けを企んでいる。

―こいつらがやりようないものを「できる」などと言うてるから、ホウちゃんや出張所の連中が踊らされるんや! 

 圭子は大和の着替えを用意するために寝室に向かい、大和は汚れた作業服のままリビングに入り、受け取った名刺を引きちぎってゴミ箱に捨てた。

 颯太も大和に付き従うようにリビングに戻り、たこ踊りのようにクネクネと体をくねらせて、「祭りや! 祭りや!」と騒ぎ続けた。

 リビングでテレビを観ていた聡美は大和に「お帰りなさい」と声を掛けると、颯太の騒々しさに閉口した様子で二階の自室に戻ろうと腰を上げた。

 日々鬱積する肉体的な疲れと、自分のどこから湧いてくるのか分からないイラダチが、大和の心の中で複雑に絡まり合い、はけ口をみつけられないまま爆発した。

「颯太! うるさい! アホみたいなカッコして、はずかしくないんか! 祭りなんか絶対にやらんぞ! 絶対にやらん!」

 突然の怒声に聡美は体を強張らせ立ち止まり、目を見開いて大和に目をやる。颯太の顔は、怒鳴られた驚きと恐怖に強張った。

 大和は踵を返し、玄関に向かおうとした。と同時に、颯太は弾けんばかりの泣き声をあげた。

 颯太の泣き声を聞きつけた圭子が、大和の着替えを抱えリビングに戻り、颯太の脇に膝を落とした。

「颯太・・・、どないしたん? パパ・・・、ねえ、パパ・・・、こんな時間にどこ行くん?」

「散歩や・・・。ちょっと遅くなるから先に寝とき・・・」

 全身の力が抜けたようにがっくりと肩を落とした大和は、呟くようにそれだけ言うと、乱暴にサンダルに足を突っ込み、家を出た。

 忙しさにかまけて、神輿庫の扉は針金で括り、『触るな! 危険!』と赤字で記した張り紙だけの応急処置で済ませてきたが、ようやくこの日、仕事の合間に和歌山市内のホームスーパーで南京錠を手に入れることができた。

 大和は、作業ズボンのポケットから車のキーを取り出し、助手席にある南京錠が入ったビニール袋を手に取り、悄然とした足取りで夜の中に消えていった。

 

 本山八幡祭りは、頭屋の雨宮大和の参加の確約のないまま作業スタートとなった。

 リ・フェスタ側からは契約書と事業計画書が岸本に提出され、数週間後、出張所の本部機能がある広川町役場で正式に承認された。

 輿は参加者募集の宣伝用ポスターの作成を受け持ち、七月上旬までに東京都、大阪府、和歌山県内などの主要な駅に掲示する。

 祭りのための寄付金集めとスポンサー、それと宣伝・広報関連の仕事については西沢が担当となり、和歌山県内をはじめ、東京、大阪など大都市を中心にすでに営業活動に入っていた。

 川上は本山八幡祭りのホームページを立ち上げ、そこでも寄付や参加者の募集のサイトを設置する。基本的には、元氏子に集まって欲しいところだが、最悪の場合も考えて、参加条件に括りは設けず、オープンな募集にすることになった。

 情報を集約する本部は、リ・フェスタに据えることに決まった。本山出張所のITインフラの状況では、大量のデータを扱うことが難しいためで、岸本と黒岩は、出張所に掛かってくる問い合わせへの対応と、警察や消防など関係部署との折衝の担当となった。交通規制などのノウハウは、警察や消防が持っているので、それほど難しい交渉ではない。人手の足りない出張所の二人に大きな作業負担を強いることがないようにという輿の配慮だった。

 しかし、神輿の修理の日程や祭りで着用する法被をどうするか、市内の飾りつけ、参加者に渡す小物の準備・・・と、詰めておく項目はまだ多数あり、輿と川上は本山以外の物件の処理と並行して、連日のように本山や広川町で関係各所との折衝に追われた。

 祭りの規模は、参加者がどの程度の数になるかによって変わってくる。当面の出費は町の予算でペイするとしても、寄付やスポンサーの集まり具合によっては、思い切って規模を縮小しなければならない可能性もある。

 鹿股は、岸本とも密に連絡を取り合って一〇月中旬までに祭りの全貌を決定するよう、輿に指示を出していた。


 鹿股は本山への出張の後、全国各地を飛び回る生活を続けていた。

 五月には出雲大社大祭礼に参加し、遷座四〇〇年の奉祝大祭の年にあたる神田祭りと舟渡御以来の慣例で三社祭に顔を出し、そして、七月に入ると、都市部での祭りが各地で盛んに行われる時期となり、博多祇園山笠や大阪の天満天神祭りなどに参加した。

 元来、祭りとは、稲作と密接に結びついた行事である。

 農作物の成長に害をなす虫を封じることと、豊作を神へ祈願する春祭り。そして、収穫を神に感謝する秋祭り。このふたつの祭りは農村地域では重視され、特に秋祭りは、収穫祭として特別な意味を持ち、各地で盛大に行われてきた。

 都市部(城下町など都市計画により造られた町)でも、その成立初期の段階では、農村地域と同じように、祭りは主に秋に行われていた。農村部から移住してきた人々が、田舎での慣わしに倣って秋に開催していたためだ。

 しかし、都市部には、農村地域のように、神に感謝の意を表さなければならないような収穫物はない。要するに、秋に祭りを行なう目的が、都市部には存在しないのだ。

 一方で、都市部では人口の密集により、疫病の発生と蔓延が社会問題として顕在化してくる。特に暑苦しい夏には、疫病の他にも体力の減退や夏バテで、通常の生活すら難しくなる季節だ。

 そこで新たな活力を神から得て、なおかつ疫病も神の力によって退散してもらおうという新たな目的ができ、都市部の秋祭りは、徐々に夏祭りへと移行していった。それが都市部での夏祭りのルーツで、京都の祇園祭がその発祥といわれている。

 八月に入ると、鹿股は東日本大震災の被害にあった福島県、宮城県、岩手県を中心に東北地方に足を運んだ。

 盛岡さんさ祭りや仙台七夕祭りを見学し、祭り人たちの姿に被災を乗り越えていく気概や力強さを感じた。また、普段からお世話になっている関係者への挨拶回りから、被災した方々のお見舞いにも足を向けた。

 この間、いまだに仮設住宅で不自由な生活を余儀なくされ、「祭りどころの話ではない」と言う人にも数多く出会い、いくつかの被災地域では、一年後、二年後を見越した祭りの再興の相談も受けた。鹿股は会社としての利益をど返しして、再興に協力することを約束し、東北出張からの帰路に着いた。

 鹿股は、久しぶりに座る会社のイスにぐったりと体を預けるように腰掛けた。各地で感受した祭りの熱狂が、まだ心身を酔わせている。事務所には、中畑以外には誰もいない。西沢は一昨日から本山八幡祭りのスポンサー獲得の件で東京へ、輿と川上は本山へと出張に出ていた。

 鹿股は不在時に届いた郵便物の整理を始めた。請求書の類はすでに中畑によって整理されているので、鹿股の手許にあるのはダイレクトメールや私信ばかりだ。

 その郵便物の山の中に、茶色のパッキン付きの封筒があるのに鹿股は気が付いた。積まれているダイレクトメールを脇によけて、封筒を手に取り、差出人を確認した。

 差出人は、雄一だった。

 封筒を軽く振ると、カチッ、カチッ、とプラスティックと何かが当たるような音がし、封筒を開くと、ケースに入ったDVDと二つに折られた便箋が出てきた。

 手紙には、四月の見舞いの礼と退院の報告が簡潔に記されていて、DVDの中身についての説明が続いた。

 DVDは、今年の小倉祇園太鼓の様子をビデオに撮ったもので、「病みあがりの痩せこけたオヤジと、毎日イヤになるくらい顔を合わせているボンクラ社員の顔など見たくないだろうから、いいところだけを編集しておいた」と、手紙にはそうそっけなく書かれていた。

 鹿股はDVDを手に持ち、立ち上がった。

「中畑さん、下の資料室にいますんで、何かあったら内線ください」

 中畑の「ハ~イ!」という甲高い声を背中で聞き、鹿股は事務所の扉を開けた。

 リ・フェスタの一階は、倉庫兼資料室になっている。玄関を入って右手が四畳半ほどの大きさの資料室。下駄箱を挟んで左手には、その二.五倍ほどの広さの倉庫室がある。

 資料室には、各地の祭りの模様を収めたビデオやDVD、文献資料などがあり、会社内でその資料映像が観られるよう、DVDプレイヤーとビデオデッキも完備している。それらの資料映像の大半は、輿と鹿股が全国の祭り行脚をしていたときに録画・ダビングした物がほとんどで、資料として貴重なモノも数多い。

 倉庫には、小ぶりの神輿や法被などの衣装サンプル、お囃子で用いる笛や太鼓、鉦などが納められ、いつ何時でも、祭りのひとつくらいは軽くできる品揃えだ。

 鹿股はモニターの前に座り、DVDをプレイヤーにセットした。

―今年の小倉祇園太鼓で、何か新たな催しでもあったのか・・・?

 鹿股は雄一がわざわざ祭りの模様を、DVDにして送ってきたことを訝しく思った。小倉祇園太鼓は毎年の行事である。これまで雄一からDVDはおろか、写真一枚届いたことはない。

―それなら当然俺の耳にも入っているはずだし、川上くんも何も言ってなかったしな・・・。

 鹿股は川上に早めの夏休みを取ってもらい、小倉祇園太鼓に参加させていた。祭りがどうのこうのというより、雄一のその後の状態を確認させるためだった。

 鹿股は画面に目をやった。

 画面が立ち上がり、黒バックに今年の小倉祇園太鼓の開催日時が表示された。

 字幕がゆっくりと消えていき、続いて「七月一日 打ち初め式 魚町一丁目銀天街にて」というタイトルが表れ、鉦や太鼓の音と共に、小倉祇園太鼓の光景がフェイド・インしてきた。

 鹿股は意外と凝った作りの編集に感心し、不慣れな手つきで悪態を付きながらパソコンを操作する雄一の姿を想像して、微苦笑を浮かべた。

 耳に馴染んだ懐かしい鉦や太鼓のリズムが、スピーカーから流れ出てくる。


小倉名物 太鼓の祇園  太鼓打ち出せ 元気出せ

ア、ヤッサヤレヤレヤレ


 揃いの法被をまとった一群を捉えていた画面が、ゆっくりと右へとパーンし、一人の少年の姿を捉えた。ピントが狂い、画面が左右に細かく震える。

 鹿股は一瞬、体が強張るのを感じ、目が画面に釘付けになった。

 ビデオに撮られることに慣れていないのか、少年は面映い表情を浮かべ、しきりに手でファインダーを遮ろうとする。

「晴光くん、なに照れてるの? ダメだよ、顔隠しちゃ!」

 晴光をからかう声が、カメラを構える川上から発せられた。

 カメラはだんだんと晴光の顔をズームアップしていく。

「淳司にいちゃん、そのアイス、今日、何本目? 普通、大人はこういうときビールとか飲むんじゃないの?」

 晴光はカメラに視線を合わせ、川上にそう言い放った。

 画面の中の晴光は浅黒く日焼けしていて、その健康的な肌の上を、玉のような汗が幾筋も流れ落ちていく。興奮混じりの声は甲高く、まだ幼さが感じられた。

 晴光が左上のほうに視線を向け、何かを受け取ろうと手を差し上げた。

 画面からは、小気味いい太鼓とお囃子の音が響いてくる。

 

小倉祇園さんはお城の中よ 赤い屋根から太鼓がひびく

ア、ヤッサヤレヤレヤレ


 画面が少し左にずれた。

 白のTシャツにジーパン姿の香が、川上の構えるカメラを手で遮り、晴光にペットボトルを渡した。そして、自分ではなく、晴光を撮るよう川上に促している。

「いいのよ、わたしは! 淳司くん、主役はあっちだから、あっち!」

 晴光はペットボトルを受け取ると、それを半分ほど喉に流し込み、残りを傍らの香に返した。

「さあ、休憩終了! 淳司にいちゃん、カメラはいいから一緒に太鼓叩きに行こうよ!」

 晴光はそう言って立ち上がり、川上からビデオを強引に奪い取り、こちらも陽に焼けて真っ赤になった川上の顔にファインダーを向けた。

「コラッ! 坊主! それは少ない給料を貯めて、今日のために買った最新型ビデオカメラだ! そう振り回すな! そこには触るな!! そこは・・・」

 川上の叫ぶ声が途切れ、画面が切り替わる。

「七月一九日 太鼓競演大会 小倉城大手門前広場にて」とタイトルが映った。

 シャン! シャン!

 ドン、ドド、ドドドン!

 摺り鉦を擦り上げるようにして打ち鳴らされるジャンガラの音と、太鼓の小気味いいリズムに導かれるように山車が進んでいく。山車の後部に括りつけられた太鼓に寄り添うようにして、晴光が画面に現れた。

 晴光は鮮やかなスカイブルーの法被を着て、「ドロ」といわれる太鼓の基本リズムを懸命に叩いている。膝と腰で軽快にリズムを取り、力強いバチさばきで太鼓を打つ。

 晴光の隣では、バチを握った腕を優雅に振り下ろし、滑らかに太鼓を叩き上げる「カン」が、晴光の「ドロ」のリズムを受けて、甲高く品のある音を響かせる。

 カメラは遠巻きに晴光を捕らえている。

 晴光は、揃いの法被に向こう鉢巻、白足袋にぞうりを履いた少年組の一団の中で、カメラを意識することなく、口を真一文字に結び一心不乱に太鼓を叩いている。晴光は他の子供たちに比べ、ややほっそりとしているが、頭ひとつ分背が高い。

 

太鼓打つ音 海山越えて 里の子供も浮かれ出す

ア、ヤッサヤレヤレヤレ


 太鼓やジャンガラを奏でる少年組の一団に向けて、沿道から歓声が浴びせられる。

 カメラは晴光を追う。

 晴光の向こうには、息子の様子を心配そうに見詰めている香と、胸の前で手拍子を取りながら、時折、孫に向かって手を振る義母の姿が映った。

 山車はゆっくりと小倉太鼓のリズムに導かれ、カメラのアングルから消えていった。

 また、画面が切り替わった。

 「七月二〇日 太鼓広場『廻り祇園』小文字通りにて」

 晴光は今までと同様、法被と向こう鉢巻姿で、廻り祇園に声援を送っている。

 廻り祇園とは、九〇台以上の山車が太鼓広場を周回し、一八〇張以上の太鼓を四,〇〇〇人以上で代わる代わる叩く、小倉祇園太鼓の最終日を飾るメインイベントだ。

 竜や天狗、小倉城を模った山車が小倉の中心地を渡御し、四方八方で打ち鳴らされる太鼓の野太い音が、大気を震わせ、画面を小刻みに揺らす。

 祭り好きの男たち女たちが汗を滴らせ太鼓を叩き、声を枯らして掛け声を上げる。ジャンガラのリズムが画面のあちらこちらで激しく鳴り響いている。野太い声とジャンガラが絡み合い、縺れ合い、太鼓の弾ける音がこだまする。

晴光はその光景を眺めながら、お囃子の文句を口ずさんでいた。


笹の提灯 太鼓にゆれて 夜は火の海小倉の祇園

ア、ヤッサヤレヤレヤレ


画面が切り替わった。

 休憩所で、晴光と香が揃って焼きそばを食べている。二人ともカメラに慣れたのか顔を寄せ合い、カメラに向かってVサインを出して応えている。

 川上が晴光に声を掛けた。

「晴光くん、今日で小倉祇園は終わりだけど、感想をひとつ」

 さらに日焼けの度が増した晴光の顔には、祭りを満喫した証の朗らかな笑みが浮び、その口元からは、健康的な真っ白な歯が覗いている。

「もう最高! 今日で祭りが終わっちゃうの、すごく残念! 今年は競演会で賞を取れなかったから、明日から練習を始めて、来年は絶対、賞をもらえるよう頑張ります!」

 晴光は立ち上がり、法被のヨレを直すと、勇んで祭りの輪の中に飛び込んでいた。

 晴光の背中が路上にユラユラと揺れている陽炎の中に消えていく。お囃子と太鼓と鉦とで奏でられる、小倉に生きる人々の魂の音が晴光を迎える。


八坂神社に揃うて参れ  揃い浴衣で皆参れ

ア、ヤッサヤレヤレヤレ


 目の前の画面が歪んで見えていた。

 天候が崩れてきたのか、明るかった資料室内は薄暗く、テレビ画面のぼおっとした光だけが鹿股を包んでいた。

 鹿股はふと気が付くと、画面の中で遠ざかっていく晴光の背中に向かい、手を伸ばし引き止めようとしていた。

 画面がゆっくりと暗くなり、ディスクの挿入口が開いた。

 鹿股はしばらく、真っ暗な画面を見続けていた。

 一粒二粒、涙が頬をつたう。

―元気な姿を見たのに、なんで俺は泣いているんだ?

 鹿股は胸の中でそう呟いた。冷静になろうとすればするほど、小倉祇園太鼓の舞台で高揚する晴光の姿が頭の中で蘇り、取り乱しそうになる自分を抑えることが出来ない。

「あの、社長、どうされたんですか? 今、お邪魔して大丈夫でしょうか?」

 鹿股は西沢の声に我に返り、目頭を押さえ振り返る。

「ああ、西沢さん・・・。戻ってたんだね・・・。イヤ、なんでもない、大丈夫・・・だ。で、どうした?」

 鹿股は咳払いをして、声の振るえを抑えた。

 西沢は鹿股のただならぬ様子に気後れした顔をして、話を続けた。

「ええ・・・。先ほど社に戻ったのですが、本山の件でお話がありまして・・・。ご都合が悪いようでしたら、もう少し後でもよろしいですけど・・・」

 鹿股はポケットからティシュを取り出し、鼻をかみ、声の調子を調えた。

「ああ、わかった。今聞くよ。それで、何か問題でもあったのかな?」

 今度は、西沢が声のトーンを落とした。

「いえ、問題というわけではない・・・んですが・・・」

 珍しく煮え切らない物言いをする西沢の様子に、鹿股は幾分正気を取り戻した。何か予想外のことが起こったに違いないのだ。

「わかった。ここを片付けて、すぐに上に戻るから、待っていてくれ」

 鹿股はDVDプレイヤーからディスクを取り出し、丁寧にゆっくりとケースに収めた。そして、何かを振り切るようにすっと立ち上がり、事務所への階段を駆け上がった。

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