18-3 アーニャの過去
「パパー! ねぇパパってばー!」
当時8歳のアーニャは父親の袖を引っ張りながら構ってもらおうと必死だった。
「ごめんなアーニャ、今パパはお仕事中なんだ、後で遊んであげるから今はお母さんと遊んでいなさい」
「もー! いっつもそればっかり!」
ロシアにある小さな町、その町の外れにアーニャの住む家はあった。
父親であるエヴァン・アレクセイ・イリイーチ、母親であるリリア・パーシャ・イリイーチ、二人は人里から離れた家で能力の研究を行なっていた。
主な研究の目的は能力を用いた兵器開発、当時ECSの研究者としてその研究をしていたエヴァンは妻を助手として日夜研究に励んでいた。
もちろん幼いアーニャは自分の両親が何をしているのか理解できず、何か難しいことをしている父親と母親としか思ってはいなかった。
「いいもんいいもん、一人で遊ぶから」
「ごめんよアーニャ」
日頃から忙しいエヴァンは娘のアーニャに構ってあげられる時間が少なく、仕事に付きっきりの生活であった。
それはアーニャの事を愛していないからではなく、いつか自分の研究が世界平和の役に立つためだと信じてのこと、それは妻であるリリアも分かっていた。
しかし8歳の女の子にそんな事を分かってくれというのは無理な話である。
父親に構ってもらえないアーニャは日々寂しさを募らせていた。
「ねぇポム、パパは私のこと嫌いなのかな?」
アーニャは飼い犬であるポムに聞いてみた。
しかしもちろんワンという泣き声以外の返事は返ってこない。
「パパはいっつもお仕事ばっかり、きっと私よりもお仕事の方が好きなんだよ」
そんなある日のこと。
その日のアーニャはいつもよりも早く目を覚ました。
そして軽い足取りで朝食を作る母親の元まで行くと、その朝食の準備を手伝い始める。
「あら、今日は一体どうしたのアーニャ?」
「なんでもなーい!」
食器を並べ終えるとアーニャは尋ねた。
「ねぇねぇママ! パパまだ寝てるかな?」
「んーどうかしら? 昨日も遅くまでお仕事してたみたいだしね」
「そっかぁ」
アーニャは朝食を食べると寝間着から学校用の服に着替え、玄関へと向かった。
「それじゃあ行ってくるね!」
「気をつけるのよー」
「うん!」
玄関の扉に手をかけた時、誰かが階段を降りてくる音を聞いてアーニャは後ろを振り返った。
そこには眠そうに目を擦りながら階段を降りるエヴァンの姿があった。
「ふわぁ、おおアーニャ、今から学校かい、気を付けて行くんだぞ」
「パパ!」
そういってエヴァンに抱きつくアーニャ。
突然のことにエヴァンは思わず驚いてしまう。
「ど、どうしたんだアーニャ」
「それがこの子今朝からどこか様子がおかしいのよ」
「今日か……」
「パパ! 今日は学校が早く終わるの! だから、だからね──」
「そうだ! リリア、今日はECS本部に研究成果を出さなきゃいけないんだった、悪いが今すぐアレックスくんに電話をかけてくれないか」
「あらそうなの、ちょっと待っててね」
エヴァンの言葉に急いで電話を取りに行くリリア。
「それでどうしたんだいアーニャ?」
「……ううん、なんでもない、学校行ってくるね」
アーニャは笑顔でエヴァンにそう言うと駆け足気味で外へ出ていった。
家の外に出るとすぐにポムがアーニャの元へ駆け寄ってくる。
「ポム……」
そんなポムの頭を撫でながら独り言のようにアーニャは喋る。
「今日は私の誕生日なのに……」
自然と流れる涙。
その涙をポムは自分の舌で拭き取る。
「ありがとうポム……パパは忙しいから仕方ないんだよね」
学校に着いてから元気の無いアーニャに周りの友達は大丈夫? と声をかけてくれたがアーニャの気は晴れることはなかった。
それでも周りに心配はかけまいとアーニャは学校の中では終始笑顔で過ごした。
帰り道、重い足取りで帰路につくアーニャはぼんやりと去年のことを思い出していた。
「そういえばこの前の誕生日もパパはお仕事でいなかったっけ……」
自分なんかよりも仕事の方が大事なんだ、そんな思いがアーニャを支配する。
もっと一緒にいて欲しい、そんな単純なことを直接言えずにいる自分が情けなくなってくる。
アーニャはトボトボと雪の降る帰り道を歩いた。
しかし家の前に着いたアーニャはあることに気が付いた。
玄関に貼られた一枚の紙、それを見たアーニャは急いでそこまで駆け寄ってみる。
『お誕生日おめでとうアーニャ!』
そう書かれた紙を見たアーニャは去年には無かった父親の車があることに気が付く。
「パパ……」
忘れていなかった、パパは私の誕生日を忘れてなんかいなかった。
期待に胸を膨らませながら扉を開けたアーニャはリビングのドアの前に転がる物体に眉を顰めた。
「ポム……? ポム!!!」
それは冷たくなったポムの死体だった。
動かなくなったポムを抱き上げ、必死にその名前を叫ぶがポムは動かない。
「なんで、なんでポムが!?」
すると混乱するアーニャに追い打ちをかけるようにドアの向こうからガタッという物音がする。
「パパ……ママ……いるの? ポムが、ポムが……」
恐る恐るアーニャはそのドアを開けた。
静かに開いたそのドアの向こうは今朝とは全く違う光景であった。
9歳の誕生日おめでとうと書かれたケーキは床に落ちて潰れ、折り紙で手作りしたであろう飾り付けは壊れ辺りに散らばっている。
「なに……これ……」
そんな部屋の中心に立っている男の顔にアーニャは見覚えがなかった。
赤い髪、目に映る十字架、そして男の足元に転がる血塗れの父親と母親。
何が起きたのか全く理解できずに呆然としているアーニャに対し男は言った。
「なんだ、子供か」
呆然と立ち尽くすアーニャの横を興味無さそうに男は横切るとそのまま玄関から外へと出て行った。
残されたアーニャはフラフラとおぼつかない足取りで両親の遺体に近づいた。
「パパ? ママ? どうしたの? ねぇ、起きて、今日は私の誕生日なんだよ……」
揺すっても揺すってもピクリともしない両親にアーニャは悟った。
これが人間の死なのだと。
死を理解したアーニャは叫んだ。
怒りとも悲しともとれる幼い少女の叫びはその小さな家に鳴り響く。
そして彼女は覚醒した、能力者の一人として。
「殺す……殺してやる……」
そこにはもう悲しみに暮れる少女の姿はなかった。
いたのは憎しみに支配された復讐者、アンナ・エヴァン・イリイーチであった。




