其の二・『その男3,900円で買う』
とある土曜日。東京都中央区の住宅街。
僕は週末の休みを利用して趣味に明け暮れていた。
日々酷使される中間管理職としての抑圧から解放される世界。
それは僕にとって掛け替えのない時間だった。
「加佐平さん、急いでくださいね」
「うっす」
まだ深夜2時30分。早朝というか夜だ。
だがこの世界は既に朝が始まっている。
僕の前の机に並ぶ様々な紙束。
求人広告やスーパーの特売、不動産情報などなど地域のありとあらゆる情報が紙媒体としてここに集う。
そして僕は、僕達はその紙束を一種類ずつまとめ、さらに大きな紙の中へ織り込んでいく。およそ一時間半、ひたすらに同じ作業を繰り返す。『時間がない』そのために集中していく。
気が付くと僕の前には幾つもの紙の山が積み重なっていた。
明け方4時前、ここからがこの仕事の始まりだ。
僕は紙の山を自転車に積み込む、積み込む、積み込む。これでもかという位に自転車の前かごに突き刺していく。
これぞ秘儀・タケノコ積み……
と、業界人しか分からないだろう覚えたての必殺技を発動。
よし、準備は完了した。
薄暗い街、静まり返ったオフィス街へ向け僕はチャリンコを発進させた。
◇◆◆◆◆◆
「おはよーございますー!」
「おう、おはよう……えっとキミは確か」
「はい、土日バイトの加佐平です!」
「そうだったね、今朝も宜しく頼むよ」
僕は日常生活で御馴染み、『街のバーニングステーション』のキャッチコピーで有名なコンビ二へ立ち寄った。
そこの店長さんは愛想が良い人でいつもこうやって気にかけてくれる。
僕は入口の”新聞棚”から昨日の読経新聞とスポーツ日報の売れ残りを取り出す。
そして空いたスペースに今日の読経新聞とスポーツ日報を差し込み、正面のポップも新しいものに差し替えた。
最後にノートに納入分と回収分を記入し、店長さんへ挨拶すると退店する。
そう、僕が今行ってているのは新聞配達だ。
日常見たことはあってもやったことはない業界。非常に新鮮だ。
例えば新人の僕がどうやってこんなに配達先を把握できているのかも、この先達の叡知の結晶『順路帳』のおかげだ。
この細長いメモ帳には一ページ5、6件の件名が記されている。
そしてその件名の隣には謎の記号。
『↑』とか『「』とか『+』とか。
まぁ、要は次の配達地までのメートル単位の行先や、その家ごとのポストの位置など、細かい暗号が記されている。
いや、ホントこれ最初に考えた人すごいや。
犬マークとか書いてあってなんのこっちゃと思ったら猛犬がいた時はびっくりしたよ。
まぁベテランの先輩ともなるとこの『順路帳』など不要らしく既に暗記しているらしいが、常に顧客が移り変わる業界。専任地域の順路帳更新をついついサボってしまって僕の様な代配(休日の代わりに配る人)へ迷惑をかけ店長に怒られる配達屋さんも少なくないと聞く。
どの仕事もやるべきことは雑務からしっかりこつこつと、ホントそう思う。
僕はチャリを加速する。
商業ビルを回る、集合住宅を回る。
そしてポストに新聞を配って走る。
本紙の読経、スポーツ紙の日報以外にも色んな新聞がある。まぁ所謂『諸紙』と総称される各業界のニッチな新聞だ。
金属新聞、工業新聞、繊維新聞、株式新聞、農業新聞、競馬新聞、こんにゃく新聞、刀剣新聞、自動車新聞、電波新聞、マッサージ新聞、きのこ新聞、将棋新聞、釣り新聞などなど。
なかには冗談みたいなものもある。
だけど本当にあるから怖い。
でもって、そんな色んな種類の新聞を間違えずに配らないといけないから新聞屋さんも侮れない。
一部でも配り間違えるとクレームものだし、店長からの雷がまじ怖い。
いやはや、たかがバイト、されどバイトだ。
僕は心地よい疾走感を得ながらも街を駆け巡る。
陽が高くなる。
時には同業者の二経さん夕陽さん毎朝さんなどとすれ違い挨拶を交わす。
新聞社に悪意はあっても配達人に悪意はない。
そして早起きのご老人から労いの言葉や差し入れのジュースやお菓子なんかも頂ける。
役得である。
だけど配達の忙しいときに「遊園地のチケットくれ」とか「映画のチケット出せ」とか言う輩は勘弁だ。
頼むから集金や営業の担当とかに言ってほしい。
配達中に持ってるわけないだろう!
そんなこんなで今朝の業務も無事終了した。
◆◆◇◆◆◆
朝7時、辺りはすっかり明るい。
配達店はすっかり片付けられ、いい匂いが充満していた。
専業の社員さんや、住み込みの奨学金学生バイトなど多くの従業員が在籍する同店舗。
今朝は女将さんのご厚意で豚汁が振る舞われていた。
「はぁい、加佐平くんもお疲れ様。はぁい、たっぷり食べて行ってね」
本来は苦学生も多い配達員向けのサービス。
別に僕は住み込みの方々ほど食費に苦労はしていないが、この女将さんの優しさは別だ、ありがたく頂戴しよう。
器を一口すする。
なんとも温かみのある手料理特有の優しい出汁。おそらく顆粒出汁だろうが、冷え切った身体にはこれが美味い。
丁寧に下処理され煮付けられた牛蒡や人参、大根には程よく味が染み込みホクホクだ。
口の中ではふはふしながら根菜たちのハーモニーを堪能する。
一口ごとに蕩けていく。
そして極めつけは豚バラ肉。出汁に混ざった味噌・砂糖・生姜の香りをコイツが上手く中和し、絶妙なバランスを醸し出している。
うん、白米が欲しい。
……そう思っていたら今度は女将さんがお手製のおにぎりをくれた。
よし、会社やめてここに転職しよう! と思うほど胃袋をガツンと掴まれる。
米に豚汁。
想像して欲しい。
シンプルなだけに涎止まらないよね?
もう最強のコンビだよこいつら。
さて、食事も堪能し手持無沙汰になった時ふと思った。
ちょっと疲れたし、帰りは電車の中でゆっくり読書でもして帰りたいんだよね。
確かにこの職場には持ち込まれた週刊マンガ誌が積まれていたが、今は活字の気分だった。
そう思った時、僕は財布を握りしめ……店長の下へ歩み寄った。
「すいません、店長」
「どうした加佐平、おかわりか?」
「いえ、それは充分堪能しました、ご馳走様です」
僕はそう言いながら店長に千円札を四枚差し出す。
「あの……新聞ください」
「は、一部ぐらいなら駄賃替わりだ、持ってけよ」
「いえ、出来れば月間契約で」
「……あ、あぁ……毎度あり」