第4話. 秩序の牢獄
渾沌の国は、その姿を日ごとに変えていった。
かつて、人々が気の向くままに歩いていた草原には真っ直ぐな道が、まるで大地に引かれた傷跡のように、どこまでも伸びていった。人々は、帝・渾沌の命令に従い、慣れぬ手つきで石を運び、土を固めた。その労働は彼らがこれまで知ることのなかった疲労と苦痛を伴うものであった。
「なぜ、我々は、このようなことをせねばならぬのだ?」
一人の若者が、汗を拭いながら隣で働く老人に尋ねた。老人はただ黙って首を振るだけであった。彼にもその答えは分からなかった。ただ、帝の命令は絶対であり、それに従うより他に道はなかった。
かつて、鳥のさえずりと共に目覚めていた人々は、今や役人が打ち鳴らす硬い木の音で、まだ薄暗い内から叩き起こされた。「時」というものが、彼らの暮らしを支配し始めたのだ。食事も、労働も、休息も、すべては決められた刻限に従って行われた。彼らの内なる自然なリズムは、外から与えられた無機質な規律によって、無残にも断ち切られてしまった。
川の流れは変えられ、水は新しく作られた田畑へと引かれた。人々は、初めて米というものを栽培した。それは、多くの収穫をもたらしたが、同時に、新たな争いの種をも生み出した。水の分配を巡って、これまで穏やかであった人々の間に、いさかいが起きるようになった。自分の田が隣の田よりも小さいことに、不満を抱く者も現れた。
「所有」という概念が、人々の心に、深く根を下ろし始めたのである。
渾沌は、国の中心に新しく建てられた質素な宮殿から、そのすべてを見ていた。彼の目は、もはや、ただ世界を映すだけの澄んだ泉ではなかった。それは物事を測り、評価し、判断するための冷たい道具となっていた。
(これで、よいのだ。国は豊かになり、民は飢えることがなくなる。無為に時を過ごす怠惰な暮らしからは、何の進歩も生まれぬ。儵殿と忽殿の国のように、この国もまた、秩序ある文明の国となるのだ)
彼は自らにそう言い聞かせた。しかし彼の耳には人々の疲れたため息や、夜ごとどこかから聞こえてくる、忍び泣きの声が否応なく届いていた。彼の鼻は、豊かに実った稲穂の香りと共に、人々の心に芽生えた嫉妬や憎悪が放つ、淀んだ匂いをも嗅ぎ取っていた。
儵と忽は、渾沌の国が自分たちの国のようになっていくのを目の当たりにして大いに満足した。
「見事だ、渾沌殿。貴殿は真の帝として目覚められた。この国は、今や暗闇を抜け出し文明の光の中へと歩み始めたのだ」
儵は、渾沌の功績を、心から賞賛した。
「左様。法が定められ、民がそれに従う。これこそが国の礎。あとは文字を作り、学問を奨励すればこの国は我々の国と肩を並べるほどの、偉大な国となるでありましょう」
忽もまた、さらなる改革のための助言を惜しまなかった。
彼らの善意は純粋なものであった。しかし、その純粋さゆえに、彼らは自分たちが渾沌の国から何を奪ってしまったのかに気づくことができなかった。彼らは秩序がもたらす光の側面だけを見て、その光が生み出す濃い影の側面からは無意識的に目をそむけていたのである。
渾沌は彼らの言葉に力なく頷いた。彼は二人の期待に応えようと、さらに厳しい法を定め、民に勤勉を強いた。しかし、そうすればするほど国の空気は重く、よどんでいくのを感じた。
かつてこの国に満ちていた、あの生命の躍動はどこへ消えてしまったのか。人々が何の理由もなく歌い、踊っていたあの喜びは何処へ行ってしまったのか。
夜、一人になると渾沌は内から湧き上がる声に苛まれた。それは七つの竅を得る以前の、あの古き渾沌の声であった。
(お前は誰だ。この私をどこへ連れて行こうとしているのだ。見よ、人々は苦しんでいる。大地は呻いている。これがお前の望んだ世界なのか)
新しい帝としての渾沌は、その声に反論しようとした。
(黙れ。これは進歩のための必要な痛みだ。いずれ民も、この秩序の価値を理解する日が来る。安逸に溺れていては真の幸福は得られぬのだ)
(幸福とは何だ。未来のために今を犠牲にすることか。効率のために生命の輝きを失わせることか。お前が竅を通して見ている世界は、切り刻まれ序列化された、ただの情報の断片に過ぎぬ。かつて私が感じていた、すべてが一つに溶け合ったあの大いなる調和こそが真の世界の姿であったのだ)
(違う。それは、ただの混沌だ。未開の闇だ。私はそこへは戻らぬ)
(違う。お前は戻れぬのだ。竅という名の牢獄に、お前自身が囚われているのだから。お前は、見ることで区別し、聞くことで疑い、語ることで偽る。お前が得たものは世界そのものではなく、世界についての貧しい知識に過ぎない)
このような内なる対話が夜ごと、彼の心をさいなみ続けた。彼は眠ることさえ、ままならなくなっていった。七つの竅は彼が眠っている間でさえ、外界の情報を容赦なく彼の意識へと流し込み続けた。彼は生まれて初めて「孤独」というものを知った。世界から切り離され、自分自身の内なる声とも引き裂かれた、絶対的な孤独であった。
ある晩、彼は宮殿をそっと抜け出した。月明かりが白々と、整然と区画された田畑を照らしていた。かつて、そこが名もなき草花が自由に咲き乱れる草原であったことを、彼はまるで遠い夢のように思い出していた。
彼は、人々が眠る家々の間を歩いた。どの家からも、かつてのような、穏やかな寝息は聞こえてこなかった。代わりに、苦しげなうめき声や不安に満ちた寝言が、漏れ聞こえてきた。
彼は川のほとりに立った。かつては蛍が乱舞し、魚たちが生き生きと跳ねていた清流は、今や上流の田畑から流れ込んだ泥で濁り、よどんでいた。水面に映る彼の顔は、やつれ、深い苦悩の皺が刻まれていた。
(私が、これを。私がこの国を、このようにしてしまったのか)
その時、彼の目に一人の老婆の姿が映った。老婆は川岸の岩に腰を下ろし、ただじっと濁った川の流れを見つめていた。その背中はひどく小さく、寂しげに見えた。
渾沌は、思わず、その老婆に声をかけた。
「このような夜更けに、どうされた」
老婆は、ゆっくりと振り返った。その顔を見て渾沌は息を飲んだ。その老婆の瞳には何の光もなかった。それは希望を失い、ただ時が過ぎるのを待っているだけの虚ろな瞳であった。
老婆は、渾沌が帝であることに気づいた様子もなく、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「昔はねえ。この川も空の星をみんな映して、まるで天の川が、もう一つここにあるようだったよ。魚たちも、銀の矢のように、きらきらと泳ぎ回っていた。わしらは腹が減れば、その魚を少しだけ分けてもらい、喉が渇けば、この水を飲んだ。それだけで、わしらは幸せだったんじゃよ」
老婆の声は、風に震えていた。
「帝さまが、新しい目や耳をお持ちになってから、何もかもが変わっちまった。みんな難しい顔をして、明日の米のことばかり心配するようになった。隣の家のことが気になって仕方ないようになった。そして、誰も歌わなくなっちまった」
老婆は、渾沌の顔を、じっと見つめた。
「帝さま。あんたさまの新しいお顔は、とても賢そうで立派だけれども。わしらは前の、何にもない、のっぺらぼうの、ただ温かいだけだった、あんたさまの方が、好きだったよ……」
その言葉は、鋭い刃となって渾沌の胸を深く、深く貫いた。
彼は何も答えることができなかった。ただ、その場に立ち尽くすだけであった。
宮殿に戻った渾沌は、初めて、声を上げて泣いた。それは国を憂う帝の涙ではなかった。それは、自分が犯した取り返しのつかない過ちに気づき、失われた楽園を思って泣く、一人の孤独な存在の慟哭であった。
彼は、自分に竅を穿った儵と忽を初めて心の底から恨んだ。
(彼らの善意が、すべてを破壊した。彼らの正しさが、すべてを汚した。彼らは、私から、そして、この国から魂を奪い去っていったのだ!)
しかしその激しい憎悪の念も、やがて深い絶望へと変わっていった。
なぜなら彼は知っていたからだ。儵と忽を責めることは、そのまま彼らの価値観を受け入れ、国を変えようとした自分自身を責めることに他ならなかったからである。
牢獄の鍵は、外からかけられたものではなかった。彼自身の内側からかけられていたのだ。そして、そのことに気づいた時、渾沌は自分の命が、もはや長くはないことを悟ったのであった。




