第3話. 創造と破壊
翌朝、夜の気配を帯びたしっとりとした光が大地を包む頃。儵と忽は決意を固めた顔で渾沌の前に進み出た。彼らは、自国から持参した道具箱の中から岩をも砕くという鋭い鑿と、滑らかな槌を取り出した。
渾沌の国の人々は、二人が何事を始めようとしているのか、解しかねるといった様子で遠巻きに眺めていた。その瞳には不安も期待もなく、ただ子供のような純粋な好奇心が浮かんでいるだけであった。
儵は、渾沌に向かって、恭しく言った。
「渾沌殿。我々は、貴殿から受けた大いなる恩に報いるため、貴殿に、世界を見るための窓を贈りたいと存じます。これから七日間、我々の手で、貴殿に七つの竅を穿たせていただきます。どうか、お受け入れください」
渾沌は、答えない。ただ、いつもと変わらず、静かにそこに座しているだけであった。その沈黙を、儵と忽は、同意と受け取った。
一日目。
儵は鑿を手に取り、渾沌の顔と思われるあたり、右側にそっと当てた。そして忽が槌を振り上げ、澄んだ音を立てて、こつん、と打ち込んだ。硬いようでいて、しかし、どこか柔らかな不思議な感触が槌を通して忽の手に伝わった。
すると、どうであろう。鑿が触れた場所が、まるで硬い蕾がほころぶように、すうっと静かに開き、一つの美しい「目」が現れたではないか。それは深い森の泉のように澄み切った瞳をしていた。
その瞬間、渾沌は初めて「光」というものを知った。
(……ああ、これが。これが、『見る』ということか。なんと眩しい。なんと鮮やかな。これまで、私の内なる世界は、ただ一つの、区別のない輝きに満たされていた。しかし今、私の前に現れたこの光は無数の色を放ち、煌めいている。なんと素晴らしいことだろう)
渾沌の心に、初めての感動がさざ波のように広がった。彼は目の前に広がる世界の色彩に心を奪われた。緑の葉、赤い花、青い空。すべてが驚きに満ちていた。
しかし、その感動と共に彼の心には、これまで知らなかった奇妙な感覚も芽生えていた。光が強ければ強いほど、その傍らに、濃い「影」が生まれることに彼は気づいた。光あるところ必ず影が寄り添う。彼は太陽の光を浴びて輝く葉の美しさと同時に、その葉が地面に落とす暗い影の存在をも、はっきりと認識してしまったのである。
(なぜだ。なぜ、光と影は常に共にあるのだ。かつて、私の世界には影などというものは、どこにも存在しなかった。すべてが等しく輝いていたというのに)
わずかな戸惑いが彼の心の底に、小さな染みのように広がった。儵と忽は、そんな渾沌の内面の変化には気づくべくもなく、ただ自分たちの仕事の成功に満足し、互いに頷き合った。
二日目。
昨日と同じように、今度は左側に、二つ目の目が開かれた。これで渾沌は両の目を手に入れた。世界は、より立体的に、より明確に、彼の前にその姿を現した。
彼は遠くの山の雄大な稜線を捉え、近くを流れる川のきらめきを捉えた。人々の顔かたち、その表情の違いをもはっきりと見分けることができるようになった。
(これが『形』か。世界はこれほどまでに多様な形に満ちていたのか。高い山と低い丘。大きな木と小さな草。太い者と痩せた者。すべてが異なっている。そして、その違いが、世界をこれほどまでに豊かにしているのだな)
知るという喜びが再び彼を満たした。しかし、その喜びは昨日よりも、どこか乾いた響きを帯びていた。なぜなら彼は「形」を認識すると同時に、「区別」というものを知ってしまったからである。
(あの花は美しい。だが、隣の雑草はそうではない。あの鳥の姿は優美だ。だが、地面を這う虫の姿は醜い。……なぜ私はそのように感じてしまうのだ? かつては花も草も、鳥も虫も、すべてが等しく尊い生命であったはずなのに。美しいものと醜いもの、優れたものと劣ったもの。その境界は一体どこにあるというのだ?)
彼の心の中で、世界は次々と切り分けられ、序列化されていった。かつては渾然一体であった万物が、ばらばらに解体されていくような寂しさと不安が彼の心を覆い始めた。
三日目。
三日目には、右の耳が穿たれた。鑿が打ち込まれた瞬間、渾沌の世界に初めて「音」が流れ込んできた。
それは音の洪水であった。風が木の葉を揺らす、さらさらという音。鳥たちの楽しげなさえずり。遠くで聞こえる滝の落ちる轟音。そして人々が交わす話し声、笑い声。
(なんと賑やかな。これが、『聞く』ということなのか。世界は沈黙していたのではなかった。絶えず美しい音楽を奏でていたのだ。なぜ私は、これまでこの喜びに満ちた歌を聞かずにいたのだろう)
渾沌はその多彩な響きに、しばし心を委ねた。それは生命そのものの交響曲のように思われた。
だが、やがて彼の耳は、その交響曲の中に不快な響きが混じっていることにも気づき始めた。楽しげな笑い声の裏に誰かのすすり泣きが聞こえる。鳥の美しい歌声をかき消すように、獣の苦しげな唸り声が響く。そして、何よりも彼を苛んだのは、意味のない騒音であった。それは調和を乱し、心の静寂を破る、ただの不快な存在であった。
(静寂こそが、万物の言葉であったことを、今、知った。あの静寂の中には、すべての音が含まれていた。喜びも、悲しみも、すべてが溶け合い、一つの大いなる調和となっていた。しかし、この耳は、その調和の中から、不協和音だけを拾い上げてしまう。なぜなのだ)
彼の内なる静けさは、もはや失われていた。外からの音の奔流が、彼の心を絶えずかき乱し、安らぎを奪っていった。
四日目。
左の耳が開かれた。これで渾沌は、音の方向や、その細やかな違いを、より明確に聞き分けることができるようになった。そして彼は人々が発する言葉の「意味」を初めて理解した。
「愛している」「ありがとう」
そのような言葉は、温かい蜜のように、彼の心に染み渡った。言葉によって人は心を繋ぎ、温め合うことができるのだと知った。
しかし、彼は、同時に、言葉が持つ恐ろしい力をも知ってしまった。
「憎い」「許せない」
そのような言葉は、冷たい刃のように彼の心を突き刺した。彼は人々が、その口から容易に偽りを述べ、互いを傷つけ合うかを知って、慄然とした。言葉は真実を伝えるための道具であると同時に、真実を覆い隠し人を惑わすための道具でもあったのだ。
(なぜ、心にあるものを、そのまま伝えられぬのか。言葉という、不自由な器によそるがゆえに、心は、その本来の輝きを失ってしまうのではないか。かつて、我々は、言葉なくして、すべてを分かち合っていた。沈黙こそが、偽りのない、真実の言葉であったというのに)
彼は、人々の会話を聞くことに次第に苦痛を感じるようになっていった。その言葉の裏に隠された、嫉妬や、虚栄や、悪意を敏感に感じ取ってしまうからであった。
五日目。
中央に鼻が穿たれた。途端に様々な「匂い」が彼の意識の中へと流れ込んできた。
雨上がりの土の匂い。咲き誇る花々の甘い香り。焼きたての木の実の香ばしさ。それは彼の心を豊かにし、生きていることの喜びを改めて感じさせた。
(世界は、これほどまでに、芳しい香りに満ちていたのか。これもまた、大いなる恵みであろう)
だが、彼の喜びも長くは続かなかった。彼は芳しい香りと共に、これまで気づくことのなかった不快な匂いの存在をも知ってしまった。腐敗したものの放つ悪臭。淀んだ水の匂い。獣の糞尿の匂い。
(善き匂いと、悪しき匂い。かつては、ただ、大気の流れがあるだけであった。そこには、清浄も不浄もなかった。しかし、この鼻は、世界を二つに分けてしまう。快いものと、不快なものとに。そして、私は、不快なものから、顔を背けようとしてしまう。なぜ、ありのままのすべてを、受け入れることができなくなってしまったのだろう)
彼は、かつて自分が世界のすべてを、善悪の区別なく丸ごと受け入れていたことを懐かしく思い出していた。しかし、その感覚はもはや遠い過去のものとなりつつあった。
六日目。
鼻の下に口が開かれた。人々は歓声を上げた。これで帝は我々と同じように、食べ、語ることができる、と。
一人の女が熟した果実を、そっと渾沌の口元へ運んだ。渾沌は初めて「味」というものを知った。
(甘い。なんと、甘美な。これが、『味わう』ということか)
しかし、次に差し出された薬草は強烈に苦かった。彼は思わず顔をしかめた。甘露の味と、苦き薬の味。快楽と苦痛。口は、その二つを、あまりにもはっきりと彼に教えた。
そして彼は、その口から初めて「言葉」を発することができるようになった。しかし、彼が何かを語ろうとすると、心の中にある渾然とした思いが、言葉という形になった途端に、ひどく痩せ細り、陳腐なものになってしまうのを感じた。
(違う。私が言いたいのは、こんなことではない。もっと、大きく、深く、温かいものなのだ。しかし、この口から出る言葉は、なんと冷たく、平面的であろうか。そして、私が一つの言葉を選んだ途端に、選ばれなかった無数の思いが、死んでいく)
彼は、言葉を発すれば発するほど、人々との間に見えない壁ができていくのを感じた。彼の言葉は、ある者には真実と受け取られ、ある者には偽りと受け取られた。言葉は理解を生むと同時に、深刻な「誤解」と「対立」をも生み出すことを、彼は身をもって知ったのである。
七日目。
ついに、最後の日がやってきた。儵と忽は自信に満ちた顔で渾沌の前に立った。彼らの手によって渾沌はもはや不完全な存在ではなく、世界を正しく認識するための全ての器官を備えた「完全な」存在へと生まれ変わるのだ。
彼らは、最後の力を込めて、鑿を打ち込んだ。
その瞬間、であった。
渾沌の国を常に包み込んでいた、あの柔らかな温かい光が、まるで強い風に吹き消された蝋燭のようにぷつりと消え去った。
空はただのっぺりとした灰色となり、風は肌を刺すように冷たくなった。人々は歌うことをやめ、踊ることをやめた。彼らの顔からは、あの満ち足りた無邪気な表情が消え、代わりに戸惑いと不安の色が、暗い影のように落ちていた。
そして、七つの竅をすべて得た渾沌は、初めて水面に映る自らの「姿」をはっきりと見た。
そこに映っていたのは、目があり、鼻があり、口がある、一つの「個」としての顔であった。彼はもはや、世界と一体となっていたあの「渾沌」ではなかった。彼は、世界から切り離された孤独な存在となっていた。
彼は自分の姿を見た。そして、自分の国を見た。
そして、彼は初めて「比較」というものを知った。
(ああ、なんということだ。私の国は、なんと、無秩序で、未開で、遅れているのだろう。儵殿と忽殿の国に比べて、なんと、劣っていることか。道はなく、法もなく、人々はただ怠惰に時を過ごしているだけではないか。これは、恥ずべきことだ。正さねばならぬ。変えねばならぬ)
彼の心にはこれまで知ることのなかった感情が芽生えた。焦燥感、劣等感、そして激しい羞恥心が黒い炎のように燃え上がった。かつて、すべてをありのままに肯定していた心は、彼の中にはどこにもなかった。そこには世界を「あるべき姿」へと変革しようとする、儵や忽と同じ種類の、冷たい意志があるだけであった。
渾沌はゆっくりと、しかし、確かな足取りで立ち上がった。その体から、かつての温かい気配は完全に失われていた。彼は鋭い目つきで民を見渡し、そして、初めて帝としての「命令」を、その口から発した。
「これより、この国に法を定める。怠惰は罪である。すべての者は、明日より、道を造り、畑を耕すのだ」
その声は、冷たく、硬く、人々の心に突き刺さった。
儵と忽は、その様子を満足げに眺めていた。自分たちの善意が、ついに実を結んだことに喜びを感じていた。
彼らは渾沌の心の中で、何かが、決定的に死んでしまったことには、未だ気づいていなかった。それは、一つの世界の静かな終わりの始まりであった。




