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混沌の死  作者: 周荘
第2話. 渾沌の国にて
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第2話. 渾沌の国にて

 儵と忽の旅は、彼らの国の常識が一切通用しない、驚きの連続であった。彼らの国では、道はどこまでも真っ直ぐに整備され、旅程は正確な地図と計画によって寸分の狂いもなく進められた。しかし、渾沌の国へと至る境界に近づくにつれて、道は次第にあやふやになり、やがて獣道のように細くなって、森の緑の中へと溶けるように消えてしまった。


 「これは、どうしたことだ。道が、ないではないか」


 案内人を務めていた自国の役人に、儵が苛立ちを込めて問うた。役人は、ただ狼狽えるばかりであった。

 忽は、天を仰いで太陽の位置を確かめようとしたが、渾沌の国の上空には、常に柔らかな光を帯びた薄い雲がたなびいており、太陽も星も見えなかった。時は、朝とも昼とも夕ともつかぬ、曖昧な光の中に漂っていた。


「どうやら、我々の暦も、ここでは役に立たぬらしい。この国では、時間は流れるのではなく、ただ、たゆたっているかのようだ」


 忽は、その知性をもってこの現象を分析しようとしたが、彼の心には、これまで感じたことのない不安が広がっていた。

仕方なく、彼らは、ただ気の向くままに歩を進めることにした。森を抜けると、広大な草原が広がっていた。

 そこでは、人々が思い思いの姿で過ごしていた。ある者は、空を流れる雲を一日中眺めて飽き足らぬ様子であり、またある者は、川のせせらぎに耳を傾けながら、静かに微笑んでいる。幾人かの子供たちは、名も知らぬ草花で冠を編み、それを互いの頭に載せ合っては、鈴を転がすように笑っていた。

 彼らの誰一人として、働くということをしていなかった。儵と忽が近づいても、彼らは驚くでもなく、警戒するでもなく、ただ、そこに吹く風や、そこに差す光を受け入れるように、自然に二人を迎え入れた。


 一人の娘が小走りで儵のもとにやってきた。そして、手に持っていた赤い木の実を黙って彼に差し出した。その瞳は一点の曇りもなく澄み渡っており、そこには何の意図も計算もなかった。儵は戸惑いながらもその実を受け取った。

 そしてそれを口に含むと、これまで味わったことのない、素朴で深い甘みが、じんわりと広がった。それは、彼の国で最高の料理人が、あらゆる技術を尽くして作り上げた菓子の、どの味とも異なっていた。それは、大地の恵み、そのものの味がしたのであった。



 やがて、一行は国の中心へとたどり着いた。そこに、帝・渾沌は座していた。

 それは、宮殿とも呼べぬ、簡素な草葺きの小屋の中であった。いや、小屋というよりは、ただ雨露をしのぐためだけの、大きな屋根があるばかりであった。渾沌は、その中央に、静かに鎮座していた。噂に聞いた通り、その顔には目も鼻も口もなかった。のっぺりとした、大きな卵のようでもあり、磨き上げられた岩のようでもあった。しかし、その全身からは、春の陽光のような、温かく、すべてを包み込むような気が、絶え間なく発せられていた。

 儵と忽は、その圧倒的な存在感を前にして、思わず息を飲んだ。彼らは、帝として、これまで数多の臣下を従え、その威光を示してきた。しかし、目の前のこの存在が放つ静かな威厳は、彼らが知るいかなる権威とも異質のものであった。それは、力で人を従わせるものではなく、ただ、その懐に、安らぎを求めて自ずと人が集まってくるような、そんな不可思議な力であった。

 渾沌は、二人の訪問を予期していたかのように、身じろぎ一つしなかった。言葉はなかった。身振りもなかった。しかし、儵と忽は、自分たちが心から歓迎されていることを、肌で感じ取っていた。渾沌の前に座ると、旅の疲れが、そして彼らの心を常に占めていた緊張や焦りが、すうっと消えていくのを感じた。


「……何という、安らぎだ」

 儵が、思わず呟いた。彼の声は、自分自身のものとは思えぬほど、穏やかであった。


「うむ。ここには、我々の国にあるような、競い合う心も、何かを成し遂げねばならぬという焦りもない。ただ、在ることの喜びだけが、満ちている」

 忽もまた、深く息をついた。



 彼らは、数日の間、渾沌の国に滞在した。その間、渾沌は、ただ黙って座しているだけであった。しかし、それが、最高のもてなしであると、二人には思われた。食事は、国の人々が、黙って運んでくる木の実や清らかな泉の水であった。夜は、柔らかな苔の絨毯の上で眠った。夢を見ることもなく、ただ深い休息が、彼らの心身を癒していった。

 滞在も三日目になった頃、儵と忽は、渾沌の前に座して、自分たちの国の話をした。彼らは、自分たちが築き上げた壮麗な都の様子、作物を豊かに実らせるための灌漑技術、そして、民を正しく導くための精緻な法律について、熱心に語った。それは、一種の誇りであり、同時に、この渾沌の国に欠けているものを、暗に示そうとする意図があったのかもしれない。

 しかし、渾沌は、何の反応も示さなかった。ただ、変わらぬ温かい気を放ち続けるだけであった。渾沌の国の人々もまた、彼らの話に耳を傾ける者は、誰一人いなかった。彼らは、遠い国の華やかな話よりも、目の前で羽を休めている蝶の翅の模様や、風にそよぐ木の葉の音の方に、よほど心を惹かれているようであった。


 その夜、儵と忽は、二人きりで語り合った。

「渾沌殿は、大いなる徳をお持ちの方だ。我々は、これほどまでに深い安らぎを与えられたことはない。この御恩に、何とかして報いたいものだ」

 儵が、真剣な面持ちで切り出した。


「全く、同感だ。しかし、この国には、我々の国の富も技術も、何の価値も持たぬように思える。一体、何を以て、我々の感謝の心を示せばよいのだろうか」

 忽は、腕を組んで思案した。

 そこで、儵が、はっとしたように顔を上げた。


「忽殿、気づいたことがある。人には誰しも外界を認識するための七つのあながある。目、耳、鼻、そして口。それらがあって初めて人はこの世界の美しさを知り喜びを味わうことができる。しかし渾沌殿にはその大切な竅が一つもないのだ」


 その言葉は、まるで天啓のように、忽の心にも響いた。


「おお、そうか! 我々は渾沌殿にこの世界を知るという最高の贈り物をすることができるのだ。目があれば、この美しい花々の色を眺めることができよう。耳があれば鳥のさえずりや我々の感謝の言葉を聞くことができよう。口があれば美味を味わい喜びを語り合うこともできよう。これこそ我々ができる最大の恩返しではないか!」


 二人の心は、善意と興奮に燃え上がった。彼らは自分たちの行いが渾沌を、そしてこの国をより素晴らしい世界へと導くものであると微塵も疑わなかった。それは、光を知らぬ者に光を与え、道を知らぬ者に道を示す帝として当然の務めであるとさえ信じていた。


「よし、決まった。我々の手で渾沌殿に七つの竅を穿って差し上げよう。一日一つの竅。七日後に渾沌殿は全く新しい世界に生まれ変わられるに違いない」


 彼らの声は静かな夜の闇に力強く響き渡った。その時、どこかで小さな梟が、悲しげな声で鳴いたのを二人は気づかなかった。彼らは自らの善意が生み出す輝かしい未来を夢想し、その心は憐れみと、そして傲慢さにも似た高揚感に満たされていたのであった。

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