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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

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人類って弱くないですか?

大学の研究室特有の、埃っぽい書類と薬品の混じった匂いが好きだった。生物学教授、佐久間さくまの研究室は、まさにその巣窟だった。


「先生、やっぱりおかしいですよ」


僕は持ち込んだレポートの束を机に置き、パイプ椅子に座るなり口を開いた。佐久間教授は老眼鏡の奥から目を細め、「何がだね、柏木かしわぎ君」と穏やかに返す。


「人類ですよ。弱すぎるじゃないですか。鋭い牙も爪もない。体毛は薄くて環境変化に弱い。走るのも遅ければ、泳ぐのも下手だ。こんな欠陥だらけの生物が、なぜ地球の支配者面をして、これほどまでに繁殖できたんです? 何より、なぜ僕らには『天敵』がいないんですか?」


食物連鎖の頂点だから、という高校の教科書のような答えは聞き飽きていた。ライオンだってゾウだって、群れをなさなければ簡単に狩られる側になる。だが、人間を専門に捕食する生物は、現代には存在しないとされている。それが不自然でならなかった。


佐久間教授はゆっくりとコーヒーを啜り、カップを置いた。


「柏木君。君の問いは正しいが、前提が間違っている可能性がある」

「前提?」

「君は『天敵がいない』と言った。だが、もしもだ。『いるけれど、見えていないだけ』だとしたら、どう思う?」


僕は思わず笑ってしまった。

「先生、オカルトの話をしに来たんじゃありませんよ。幽霊か何かが僕らを食べているとでも?」


「幽霊ではない。実体を持った、生物学的な捕食者だ。ただ、我々の脳がそれを認識しないように進化してしまったとしたら、という仮説だよ」


教授の目は笑っていなかった。研究室の空気が、急に冷えたように感じた。


「太古の昔、人類には確かに天敵がいた。それはあまりにも強大で、恐ろしく、遭遇しただけで人間は恐怖のあまりショック死するか、あるいは精神が崩壊して繁殖どころではなくなってしまうような存在だった。まともに向き合えば、種として絶滅してしまうほどの捕食圧だ」


教授は立ち上がり、窓の外を指さした。眼下には、学生たちが行き交うキャンパスの平和な風景が広がっている。


「そこで人類は、生き残るために奇妙な進化を選んだ。戦うための牙でも、逃げるための脚力でもない。脳の『検閲機能』を発達させたのだよ」


「検閲、ですか」


「そう。その捕食者を、視界に入っても『風景』や『ノイズ』として処理し、意識に上げないようにする強力な認知フィルターだ。認識しなければ恐怖はない。恐怖がなければ、日常を送り、繁殖活動もできる」


教授の声が低くなる。


「例えば、君の隣で仲間がその捕食者に食い殺されたとしよう。血飛沫が上がり、肉が引き裂かれる音がしても、君の脳はそれを都合よく解釈する。『ああ、彼は突然の心臓発作で倒れたんだな』とね。そうやってパニックを防ぎ、社会を維持してきた。それが人類の繁栄の代償だという説だ」


背筋が寒くなった。隣で人が食われているのに、それを病気だと認識する? そんな狂った進化があるだろうか。


「……先生、それはあくまで仮説ですよね? 証明できないなら、ただの空想です」


「証明? できるとも」


佐久間教授はデスクの引き出しから、遮光瓶に入った小さな点眼薬のようなものを取り出し、僕の前に置いた。


「これは私の研究チームが偶然合成してしまった化合物だ。脳の視覚野にある、特定のパターン認識フィルターを一時的に麻痺させる作用がある。マウスの実験では奇妙な行動が見られたが、人体への影響は未知数だ」


琥珀色の液体が、瓶の中で揺れている。


「試してみるかね? ただし、忠告しておく。必ず家に帰り、戸締まりを厳重にして、一人きりになってから使うんだ。何が見えても、私は責任を持たんよ」


馬鹿げている。そう思いながらも、僕はその小瓶をポケットに入れてアパートに帰った。

ワンルームの安アパート。玄関の鍵をかけ、チェーンまでかけた。これで教授の言いつけは守ったことになる。


飼い猫の「ミイ」が、足元にすり寄ってくる。いつもの平和な日常だ。

僕はベッドに腰掛け、天井を見上げた。教授の話は、きっと悪い冗談だろう。あの人は時々、学生をからかうようなブラックジョークを言う。


でも、もし本当だったら?


好奇心が恐怖に勝った。僕は震える手で小瓶の蓋を開け、両目に一滴ずつ、その液体を垂らした。

少し沁みたが、それだけだった。数回まばたきをする。


「……何も変わらないじゃないか」


部屋の風景はいつものままだ。散らかった本、飲みかけのペットボトル、丸くなって寝始めたミイ。

騙されたな。明日、教授に文句を言ってやろう。


そう思い、立ち上がってカーテンを開け、窓の外を見た時だった。


思考が凍りついた。


夕暮れの街。駅前の交差点は帰宅ラッシュの人々で混雑している。

その中に、「それ」はいた。


ビルほどの高さがあった。半透明で、ゼラチン質のような質感の、ひょろ長い巨人が、街をのっしのっしと歩いていた。輪郭は曖昧で、陽炎のように揺らめいている。手足の関節は奇妙な方向に曲がり、顔にあたる部分には、目も鼻もなく、ただ巨大な空洞のような「口」が開いていた。


一体だけではない。三体、四体……街のあちこちに、その異形の巨人が徘徊していた。


だが、道行く人々は誰も彼らに気づいていない。巨人の足が道路を踏みつけても、車はその足をすり抜けるように走っていく。人々は巨人の体を幽霊のように通り抜けて歩いている。


違う。すり抜けているんじゃない。脳が認識していないから、そう見えるように補完しているんだ。


交差点で信号待ちをしていたサラリーマンの一人に、巨人の長い腕が伸びた。

腕はサラリーマンの体を掴むと、そのままゆっくりと持ち上げた。周囲の人は気づかない。スマホを見たり、談笑したりしている。


サラリーマンは空中で手足をバタつかせたが、声は聞こえなかった。巨人は彼を、顔の空洞へと運んだ。

次の瞬間、バキン、と硬いものが砕けるような音がして、サラリーマンの体が腰のあたりでへし折られた。


鮮血が飛び散り、内臓がこぼれ落ちる。それは紛れもない現実の光景だった。

サラリーマンの下半身が、アスファルトに落下した。


その時ようやく、周囲の人々が反応した。


「えっ、嘘、あの人!」

「大丈夫ですか!? 誰か、救急車!」

「いきなり倒れたぞ、心筋梗塞か?」

「嫌だ、血を吐いてる……」


人々は駆け寄り、上半身を失った遺体を介抱するフリをしたり、遠巻きにスマホで撮影したりしている。彼らの目には、体が半分食いちぎられた無惨な死体ではなく、「突然の病気で倒れて吐血した人」として映っているのだ。


脳が勝手に、耐えられる映像へと変換している。

佐久間教授の仮説は、真実だった。


「う、ぐ……あぁ……」


僕は腰が抜けて、その場にへたり込んだ。

ガタガタと歯が鳴る。窓を閉めなきゃ。カーテンを閉めなきゃ。見なかったことにしないと。


這うようにして窓から離れようとした時、部屋の隅で寝ていた猫のミイが、突然跳ね起きた。

全身の毛を逆立て、尻尾を膨らませ、「フーッ!」と激しく威嚇の声を上げている。


ミイの視線は、僕の方を向いていた。

いや、違う。僕の背後だ。僕のさらに後ろ、部屋の上の方を見つめて威嚇している。


なぜ猫や犬は、何もない空間を見つめて威嚇するのか。

その疑問に対する、最悪の答えが脳裏をよぎる。


動物たちには、見えていたのだ。人間が進化の過程で捨て去った「恐怖」の源が。


――なぜ、頑丈なコンクリートのマンションに住んでいるのに、毎年数万人の「行方不明者」が出るのか。

――なぜ、人は理由もなく突然、耐え難い不安や視線を感じる夜があるのか。


僕のアパートは六階だ。窓の外の巨人が手を伸ばせば届く距離だが、鍵はかけてある。ここは安全なはずだ。ここは僕の城で、安全地帯で、シェルターで……。


違う。

ここは、「牧場」だ。


軋む首を、ゆっくりと上へ向けた。


狭いワンルームの天井。そこに、「顔」があった。


天井板の木目やシミにカモフラージュされていたが、薬の効果で認識フィルターが外れた今、それははっきりと見えた。

天井全体を覆いつくすほど巨大な、青白い、のっぺりとした顔。

体は壁や床の隙間に溶け込んでいるのだろう。この部屋自体が、こいつの巣だったのだ。


こいつは、ずっとそこにいた。

僕がこの部屋に引っ越してきてから、いや、もしかしたら僕が生まれた時からずっと、僕に張り付いて、僕が十分に太るのを待っていた「飼い主」。


天井の顔が、ゆっくりと歪んだ。巨大な目が開き、ギョロリと僕を見下ろした。


視線が合う。


にたり、と顔の口が裂けた。耳鳴りのような、低い音が頭蓋骨に直接響いた。


『あ、目が合った』


次の瞬間、天井が落ちてきたような衝撃が走り、僕の視界は永遠の闇に閉ざされた。


【後日談】


朝のニュース番組が、無機質な声で原稿を読み上げている。


「……昨夜未明、都内のアパートの一室で、この部屋に住む男子大学生(21)が死亡しているのが発見されました。外傷や争った形跡はなく、警察は急性心不全による病死と見て……」


アナウンサーは次のニュースへと移る。

画面の端には、今日も行方不明者が増え続けていることを示すテロップが、誰にも気に留められることなく流れていた。



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