ジュリアとの会話 契約違反
灰色の空は不安を漏らすように雪を落とし始める。僕の吐く白い息に負けそうなほどかか弱い雪だ。僕の肩に当たるたびに透明になる。街灯が全部ついたら行こうかと思っていた。ただ二つ。暗いまま。僕はため息をついた。もう息を吸いたくなかった。
そろそろだろう。僕の足はこの汚い町で唯一きれいな場所に向かう。雪を受け入れる寂しい鉢が三つ並んだ角を右に、いつも凍った坂道を上り、ぎしぎしと音が鳴る木製の橋を渡り、酒屋を曲がる。
頭の中ですでになるノックの小気味よい音。何度も会話のシミュレーションはした。何も問題はない。
『コンコン』
僕は返事を待たずに扉を開けた。家にいることはわかっていた。
「少しいいかい?」
「珍しい」キッチンで料理を作っているジュリアと目が合う。
「何が?」
「あなたから扉を開けたことがよ」
「そうだっけ?」
「そうよ。いらっしゃい。座って」玄関にはスリッパが出ていた。
「お邪魔します」
「久しぶりね」
「そうだね」
僕は定位置に座る。自然とカップが出てきた。
「これは?」
ソーサーのあるコップではなくただのマグカップ。
「紅茶よ。珈琲は駄目なんでしょ」
「新しいコップだね」
「近くの雑貨屋に売ってたの。カズ専用よ」
「ありがとう」僕は客からいつも来る人へランクアップした。喜ぶ気になれなかった。
「それほどでも」
僕は僕のために注がれた紅茶を飲む。
「おいしいよ」
「会社ではもっといいやつ飲んでいるんでしょう?」
「いいや。珈琲飲んでいるよ」
「飲めるんじゃない」
「嫌いなんだよ」
「なんで飲んでいるのよ?」
「飲めなくはないんだ。我慢している」
「見栄?」
「飲めないって言い出せなくてさ。最初の一回を許したから飲み続けなくちゃいけないんだ」
「二回目で断ればいいのに?」
「相手の善意がお節介に変わるのはなんか嫌なんだ」
「誰も幸せにならないじゃない」
「僕が不幸になっていればその分誰かの幸せを作っている気がするんだ」
「頭が悪いのね」
「僕もそう思う」
「今日は何しに来たの?」察しのいいジュリア。なんとなくわかっているのだろう。今日は最初から僕を計っていた。
「なんだと思う?」
「失敗したのね」
「」僕は何も言わない。ジュリアの目を見ていた。
「伝わるのは案外簡単なのよ」
「…失敗はしていないけれど絶望的な状況だ」
「そう。ワインでも開けましょうか」食器棚からグラスを二つ出す。
「そんな気分じゃないわ」
「口調おかしいわよ」
「おかしくもなるさ。いいのかい?」じょぼじょぼと注がれるワイン。テーブルクロスに少しだけはねた。
「今しかできないでしょ」
「雑だな」
「私らしいでしょ」彼女が持ったグラスを傾けながら言ってきた。
「確かに」僕は震えた手でグラスを持ち上げた。
「乾杯
完敗」
僕らはワインを飲む。僕はグラスの半分を、彼女はグラスを開けていた。
「おいしい?」
「ワインの味なんて僕にはわからないよ」
「…楽しくないわね」
「楽しいわけあると思うのか?だって」
僕は言葉を止めた。外から感じるぬめりとした濃い視線。この会話が筒抜けなのは明らかだ。
「私が死ぬのね。カズも?」
「え?」
依然として誰かの存在を感じる。それだけで僕らの身に何も起きていない。
不思議だ。これは情報の漏洩に該当しないのか?ジュリアは自分の結末を理解したのに僕らは殺されていない。彼の主な目的は大量殺人ではないのか。毒ガスの効果測定なのか、それとも毒ガスの危険性が国内にどのように伝播するのかを試すのか?これ以上何も考えられなかった。
「言わないほうがよかった?」机に突っ伏したジュリア。机に声が反響して濁って聞こえる。
「当り前だろう」僕はグラスに入ったワインを揺らす。
「お別れに来たなら祝いなさいよ」
「自暴自棄かい?」
「かもね。痛くない方法で頼みたいわ」
「とても苦しいと思うよ」
「苦しいのは嫌い」
「」
「私のこと殺したい?」ジュリアが顔を上げて僕を見る。顔にかかった髪を後ろに持って行った。
「まさか。そんなことはないよ」
「今ここでって言ったらカズはどうする」
「どんな罵詈雑言を食らっても殺すことはないよ」
「私がそうなったときはすぐに殺しなさい。もう私が私じゃなくなってるからさ」
「あぁ。わかった」
「カズは?どうなるのよ」
「僕は違う。僕一人で栄典だとさ」
「おめでとう。私たちの門出じゃない」
「僕も祝っていいのかい?」
「でなきゃ呪うよ」
「なら祝わないとね」
僕らはまたグラスを突き合わした。
「いつの日か来るものだけれど、来るときはあっけないのね」
「」じょぼじょぼとワインを注ぐジュリアがいた。
ジュリアは取り乱すことはなかった。僕ならパニックになって逃げ惑うだろう。彼女は静かに終末を待っているように見える。
「何か聞きたいの?」
「聞いたところで意味のない話だったからさ」
「恐怖なんてないわよ。痛いのが嫌なだけ」
「驚いた。伝わると思ってなかった」
強がりに似た強気な反応。僕のための嘘なのだろう。酔いに押された虚栄。僕は無力だった。
「デブリアは?今日はいつ帰ってくるの」
「そろそろ」
「僕といれ変わりだね」僕はちらっと時計を見る。
「」ジュリアの飲むグラスが机に置かれる。ゆらゆらと揺れる真っ赤なワイン。
「僕は選択から逃げるためにここに来た。君に僕のことを決めて欲しかったんだと思う」
「私になんて言ってほしいの?」
「ううん。何も言わないでいいよ。今まで君に甘えてきた。君に生かされてきた。本当に感謝しているんだ」
「…私さっき嘘ついた」
「恐怖の話?」
「そうね」
「嫌なことしていい?」
「いいよ」
「何も言わずに聞いてくれる?」
「いいよ」
「私に妹なんていないの」
「」
「いないわけじゃないの。あの子は妹よ。母親も父親も同じ。私はあの子より先に生まれただけ。ただそれだけなの」
「」
「あの子がいなければ私はエカチェリーナで幸せに過ごしていた」
「」
「ねぇ。」
「?」
「聞いているの?」
「何も言わずにって言ったじゃないか」
「相槌くらい打ちなさいよ」
「デブリアは妹じゃないの?」
「妹よ。大切な。私が姉を名乗っていい人間じゃないの」
「何があったのさ」
「デブリアが私たちの父親を告発して殺したの」
「」僕はグラスから口を話した。
「私はお父さんが大好きだった。もちろんお母さんもよ。だからデブリアのことが許せなかったの」
「じゃあなんで一緒にいるのさ」
「家族だからよ。お父さんが言ったの。家族は何よりも大事にしなくてはならないって。
その言葉を私は守っているの」
「その言葉があるから家族でいられているんだね」
「それもある。でもデブリアだから続けていられるの。私はどうしてもデブリアを許してあげられない。デブリアからの優しさを受け付けられないの。あれから本当にいい子になった。いいえ。元からいい子なの。密告だって機嫌の悪くなっただけの父親に殴られていた私を守るためにしてくれたことなの。なのに」
ジュリアは泣いていた。この吐露に対して僕は黙ってしまう。
「私は全部デブリアのせいにして、贖罪を受け付けないひどい姉。何もしなかったくせに、してくれた優しさを突っぱねている薄情なのよ。でもわかっているんだけどどうしてもできないの」
「ねぇガス。」
「何さ」
「デブリアだけでもどうにかならないかしら。私がいない世界で生きてほしいの。もっと自由に生きてほしい。どうにかならない?」
「」根底にある懺悔。それを自己犠牲で埋めようとする姿。
「あの子だけはどうにかしたいの」
僕の手を包んで懇願した。ひどい顔。まるで僕みたい。美しいなんてお世辞にも言えない。無様な姿に安心した。
「今日の夜。戦勝報告中にこの地域にガスが散布される。隣町まで行けば問題ないはずさ」
「ありがとう。カズは?」
「起爆スイッチを押すのが僕だ」
「それが仕事?」
僕はワイングラスを一気に空にした。
『コン』グラスの底から軽い音がする。
「最期の仕事だ。僕が選んだんだ」僕はジュリアに伝えた。
「嘘つき。そんな苦しい顔しないよ」
「僕が選んだ道がこの仕事をくれたんだ。僕が生きてきた結果だ」
「なら私の責任でもあるのね」
「違うよ。そんなことない。全部僕の結果さ」
「なら私と出会ってよかったってカズは思ってくれる?」
「うん。もちろん」
「そう。ましな顔になったね」
「早く行ったほうがいい」
「デブリアを迎えに行ってくる」
「もう僕は何もできない」
「いいの。ここまでで。あなたがいなくても私たちは死んでた。でもカズがいたから私はデブリアともう一度家族になれそう」
「僕は君と会えてよかったよ」
「」
別れ際。あっさりとしていた。
靴の先を地面に叩いて靴を履くジュリア。
僕だけが浮ついていたことの証明だ。悲しくはない。嘘ではない。そんな彼女に惹かれていたのだから。嘘つきしかいなかった。僕は騙されてよかったと心の底から思う。
「」ジュリアがドアの前で止まっている。
「どうかした?」
「カズ。」ジュリアはドアノブに手をかけながら言った。
「何?」
「私の気持ちは今度会ったときに伝えるわ」
「僕の気持ちは今言うよ」
「必要ない」
「なんでさ?」わかりきった答えをジュリアに問う。
「もうわかっているもの」
さみしがっている僕の心に必要な言葉をくれる。まるで僕がヒロインになったようだ。
最後の最後まで僕に希望をくれる。求めているものを与えてくれる。
「またね」
「さようなら」聞き覚えのある声がした。扉の奥から聞こえた。
『パン』
ジュリアが扉に蹴飛ばされたように舞った。
玄関ドアから街の人工的な明かりが差している。ジュリアが赤い真ん中で倒れている。
「ジュリア!」血が床に滴る。
「カズ。」扉に空いた穴。そこから知った声が聞こえた。
「アンフェミア…」
大きな音を立てて扉は床に寝る。蝶番が簡単にとんだ。
「お、ねえちゃん?」アンフェミアの後ろにデブリアが立っていた。
「来るなデブリア!見るな」
涙をにじませたデブリアに叫んだ。大きい声に驚いたのか後ずさりをした。
「 」
アンフェミアがデブリアの腕をつかんだ。そしてデブリアを死体に向かって投げる。
「う、゛うう」デブリアは飛ばされた衝撃で鈍い声を出した。
「これはなんだ?」僕は真っ黒い軍服に身を包んだアンフェミアに聞いた。
「カズが私にそうさせているの」ジュリアが土足で上がる。カツカツと音が近づく。
「」まっすぐと僕を見下ろす。僕の首を絞めた彼女がいた。
「情報漏洩を確認。その場で射殺せよと命令が出ています。あなたも知らないはずがない
でしょう」
「…ごめんなさい」丸まっている少女から声が聞こえる。
「え?」僕は少女から出る謝罪の言葉に面を食らってしまう。
「カズさんもごめんなさい。全部私がいけないんです。私がすべて悪いんです」デブリアが僕に謝る。ぐしゃぐしゃになった顔で謝る。
「違うよ。そうじゃない」
「私が消えればよかったんです。みんなの幸せを壊しているんです。私が生きているから
いけないんです」
「ジュリアはそんなこと思っていない」僕はデブリアの手を握った。
「私が全部いけないんです。カズさん本当にごめんなさい」
「違うよ。本当に違う。ジュリアは君がいて幸せだったよ。君がいたからジュリアはここで生きられたんだ。君のおかげで僕はジュリアと出会えた。君がお姉ちゃんを守ったんだよ。だから君は間違っている。」
「」
涙を止めたデブリア。少し心が落ち着いてきた。よかった。
『パン』
音と血を浴びる。握った手がするすると床に落ちる。考えもしなかった。予想外がここにある。二つ死体が転がっているのはなぜだ。どちらかが僕だったはずなのに。どうして僕以外が死んでいる。
「な、何で。どうして」
「全部あなたのせいよ」アンフェミアは僕に言葉を振り下ろした。
「違う。僕は何も関係ない。全部君だ!」
「私に殺させたの。したくないことを全部私に押し付けてるだけ」僕が声を荒げてもアンフェミアは淡々と答えるだけ。
「違う!」
「あなたが女に会わなければこんなことになってないよ」
「そんなことない!」
「この女がいなくてもカズは幸せだったよ。カズの人生を歩めたよ。娼婦の呪にかからずに済んだのにね」
「これは僕への天罰ということか」
「いいえ。ただの寄り道よ」
「もう決まっているのか?」
「カズ。私はあなたを愛しているわ」僕の顎をなめるように触るアンフェミア。
「」告白に心が動く。喪に服さないといけない心でどうにか自分を抑えている。
「カズ。それは義務じゃない。死んだ人間に思いを寄せたり、悲しもうとしなくていいの。その嘘は誰のためなのか私が教えてあげる」
僕の瞼の横に集めた雫を指でそっとなでるアンフェミア。
「」
「また会おうね。カズ。私はあなたを信じている。次の涙は私のために使ってね」少し微笑んだ。妖艶な雰囲気はない。人殺しの気配もない。無邪気な少女の顔をした。そんな可憐な少女は銃口を額にくっつける。
『パン』
転がるアンフェミア。僕に弾丸は降らない。弱い電球は彼女たちに影を落とす。カランと落ちた薬莢が血だまりで止まる。中身からあふれ出す血液に音はない。床を侵食している。扉の破片を飲み込んでゆく。三人を撃った銃の口がこちらを向く。
僕は立ち上がる。生きていく理由がなくなった。銃口がギラりと光った。
壊れた扉。人工的な光が気になる。朝日かと思うほど眩しい。僕は扉の外を出た。声のするほうへ歩いた。
いつもと変わらない町。楽しい声。優しい表情。活気のある町があった。生気のない僕。
血だらけの服。壊れた扉。僕は手に抱えた銃を落とす。
幸せな世界がそこにあった。僕が享受できないものを僕以下の労働者が得ている。
なんで?僕が偉いはずなのに?僕がここまで苦しんでいるんだ?こんなにひどい目に会わないといけないんだ?なんでつらい僕の前で楽しそうにするの?幸せそうな顔をするの?こんな惨めでかわいそうな僕を誰も見てくれないの?誰よりも不幸なのに誰も声をかけてくれないの。
「 」
僕の前で笑うな。僕の目の前で楽しむな。僕ができない幸せを見せるな。明るい世界を聞かせるな。全部いなくなれ。全部俺の前から消えてしまえ。
「 」
走った。俺は笑っていた。僕より幸せな人間に僕より楽しんだ罰を与えられる。全能感に酔っていた。




