市民から見た戦争
ようやくマンションの玄関まで来た。僕の家は無事だ。朝と変わらない。ただ空が明るいのと焼けたにおいがする。
「おい、どこに行っていたんだ」息を切らしながらノイアーが声をかけてきた。
「あぁ、ご飯食べてたんだ。無事だったんだな」
「あ?あぁ。行くぞ」ノイアーの後についていった。
何が起きたのか聞く間もなく走り始めてしまった。どこに向かっているかも聞き忘れた。今は背中を追いかけるので精いっぱいだ。革靴と靴下がうまくかみ合わない。厚底が走る感覚に高度な演算を必要としている。
走り始めて十分と少し、大きな病院についた。次々と埃まみれの車と傷ついた人々が病院へと吸い込まれていく。
エントランスは泥と血でまみれた患者でいっぱいだった。鳴き声と悲鳴と指示が空間を永遠と反響している。
心臓の音が大きい。早く元に戻そう。僕らは必至で息をした。
「豊作省の人?」シーツを大量に抱えた女性が話しかけてきた。
「はい」「はい」僕らは血なまぐさい空気に負けないような元気な返事をした。
「こっちに来て」僕らは女性の後について行った。
廊下にはひどいけがをした人であふれている。生にしがみつくように廊下の壁に背中を預けている。壁から離れたのは生きていないのだろう。そんな人に誰も目をくれない。
「点滴を変える作業をお願いします」速足で僕らに指示を送る。
「わかりました」
「初めて?」看護婦が落ち着かない僕らに声をかける。
「はい」
「ここであなたたちが死ぬことはない。それだけは覚えておいて」
「…」
「あとはあの人に聞いて。あとこれ」
彼女は二人分の白衣を置いてすぐにいってしまった。
今病院で一番きれいな白衣。僕らは袖を通した。
「点滴変えます」
肉がむき出しの体を血のにじんだ包帯が隠す。ベッドの上でほんの少し首が動いた。
「お母さん。助かるの?」横で椅子に座る少女が憔悴しきった声で聴いてきた。血液が染みた赤黒い熊のぬいぐるみを大事に抱えている。
「そうだね。きっと治るよ」僕は糸目でほほ笑んだ。忍びなかった。
病院の大きな会議室。足りない病床を簡易ベッドでその場しのぎ。あふれる患者をせき止める。
医者や看護師は治療をしてそのサポートを素人に任せている。白衣に白い部分はほとんどない医者や看護師を見てひっ迫した状況が読み取れる。
大きい病院だけあって非常に合理的な体制をとっている。受付で軍医が名札のバーコードのスキャンと札を患者につけていく。あれがトリアージだろう。赤、黄、黒、黒、黒、緑。素早く仕分けをしている軍医に表情はなかった。
次、次、次。医者の声が聞こえる。
まだ生きています、と必死に心臓マッサージをする若い男の声は黒い札が増えるにつれ表情が消える。顔は死人と変わりなかった。
点滴も消毒液も包帯も在庫が半分以下になった。ベッドに横たわる人の数は変わらない。人だけが次々変わる。
傷ついた患者を診ていると体がかゆくなる。手足はくっついているよと信号が絶えず来る。逆幻肢痛のようなものだろうか。
心が削られる作業で意識が目をつむりそうになるが強い悲鳴とすすり鳴く声で正気に戻される。
目の前の少女は体液が染み出した包帯越しにベッドに横たわる患者の手を握る。ここにいる人たちが少しでも回復することを心の冷めた僕でも願わずにはいられない。
こんな状況では突飛なことを考えてしまう。
僕が死にそうなときジュリアもアンフェミアも生きてほしいと思ってくれるだろうか。僕はもちろん生きてほしいと思う。僕と同じでいてほしいと強く思ってしまう。ただ下心と殺した相手だと伝えたうえでもそう思ってくれるだろうか。
無くなった点滴を取りに行く途中。夢破れた若い医者がソファーに座っていた。口につけた煙草は消えていた。彼の足元に燃えカスが転がっている。
医者に期待した全能感が壊されている。
彼には能力があるのにここで立ち止まっている。今も人は死んでいる。僕では微力にしかならない。僕の冷め切った心に熱が灯る。僕は動かずにいられなかった。
「救える命を数えなさい。君はそういう役割だ」
彼は咥えた煙草を落とした。目を大きく開いた彼はそのまま走っていった。
数人の命くらいは彼の精一杯によって救われるだろう。僕も僕の仕事をしなくては。足早に戻る。
「点滴追加します」
「 」少女が不安そうにこちらを見ている。
「大丈夫良くなるよ」僕は膝をついて少女の手を握りながら話した。
「うん」少し笑っていた。
「がんばりましょうね」僕は患者に声をかけた。
反応はない。胸の上下運動もない。
「大丈夫ですか?」耳元で話す。反応はない。脈もなかった。
「大丈夫ですか!」僕は大きい声で問いかける。
僕は胸骨を圧迫している。気が付いたら体が動いていた。きっと誰かに必要とされている。生きていてほしいと願われている。
だれか医者を
僕が声に出す瞬間。肩をつかまれた。
「黒。片付けて。次」淡々とした声で医者は言った。
僕が俯いた時にはもういなかった。ただ彼が握った僕の肩に赤黒い手形がついていた。ただそれよりも熱い視線が僕を刺した。
「お母さんしんじゃったの?」椅子に座ったまま少女は僕に聞いていた。僕は何も言えなかった。
僕が悪いわけじゃないけれど少女の傷が少しでも癒えるのなら罵倒も受け入れた。けれど少女はまだ温かい母親の手を握っていた。
母親が担架で運ばれる。少女は手をつないだまま付き添っていた。僕は彼女たちが見えなくなるまで見ていた。見送っていた。
悟っていたのか、母親がいなくても生きていけるほどの自信があったのか、死があいまいだったのだろうか。憔悴しきった少女に聞ける度胸はなかった。
僕は仕事に戻る。汚れたシーツを取り換える。
『 』
僕には聞こえた。最後の力を振り絞るような少女の鳴き声。少女だけが生きている。
僕は止まった。僕だけが止まっていた。周りは何も変わらない。
ぼろぼろの母親とその子供とすれ違う。動かない子供を抱えながら『エカテリーナに死を』ぼそぼそとつぶやき続けている。
僕が工場長に話した願望は夢物語だ。当たり前に暮らしていた僕はそのありがたみを知らなかった。
あぁ。病院というのはいつまでも暗いまま。これは災害ではないのだ。患者のうめき声はすべて憎悪だったのだ。回復した人間は銃をとり向こうの誰かを殺しまわる。
叶った願いも届かなかった祈りもすべて一つの憎悪に変換される場所に救いなんてない。ここはもう体を治すところだけではない。憎しみの増幅装置なのだ。寒さが体に堪える。
僕は戦争をしていた。
うつろな目でお疲れさまでしたと看護師が一言。あとは彼らで回るらしい。汚れた白衣を脱いだ。血がワイシャツまで染みている。
病院にゆとりが生まれたときにはもう朝だった。壁面の掲示板にはここにいる人間の名簿がずらりと並べられている。横線が入っている患者は生きていない人間だろう。
その横に張られた新聞には原型がわからないほど壊れた町と泣いている子どもの写真が一面を飾り、被害の全貌を説明していた。座ったソファの柔らかさにつられて眠ってしまいそうだ。
「お疲れ」ノイアーが言葉通りの表情で僕に聞いてきた。
「酷いものだよ」
「あぁ」僕の横に座るとき疲れた声を口から漏らした。
「この後夕飯でも食べに行くか?」僕はノイアーを誘った。
「もう朝だぞ」
「そうだな。朝飯は?それとも帰るか?」
「いいや。まだここにいるよ」
「まだ何かあるのか?手伝うよ」
「父親がいるんだ。明け方に運ばれてきた」
「大丈夫なのか?」
「まだ生きていればいいがな」
「そうか。お大事にな」
「あぁ。」ノイアーが箱から煙草を出そうとする。しかし一本もない。
僕に空箱を見せる。僕は首を横に振った。
ノイアーは汚れたジッポに火をつけた。
ゆらゆらと揺れる小さな火。少し眺めてから消した。
その意味のない行動に精神的に堪えているのだ。そんな友人に気の利いた言葉をかけられるほど僕にも余裕がなかった。
「またな」そう言ってノイアーは立ち上がった。疲れた顔からは想像できないほど力強い足取り。
僕は小鹿のような足取りで立ち上がった。
窓から外の駐車場が見える。たくさんの遺体がきれいに並べられていた。これから確認作業が始まるのだろう。どれもかけているものばかりだ。
白い壁とワックスでコーティングされた床が眩しい朝日を乱反射しロビーとエントランスを明るく照らす。ロビーは死んでいる。生気はない。毛布にくるまって白い息を出している。弱弱しく出る蒸気がやけどするほど冷たく感じた。生きていることを目視で確認できるだけ。車が排気ガスを出すような機械的な動きに見えてくる。
ここまで大きく膨らんだに憎しみは終わるのか。弾けるような気持ちの落としどころはどこなのだろう。戦争はどうやったら終わるのだろうか。
明日殺す人間のことを考えているほうが正常で、敵の絶滅方法を模索するのが心のよりどころなのだ。いっそのことここが明るくなればいいのに。それ以外に平和の解決方法は思い浮かばなかった。
ご覧いただきありがとうございました。
この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。
次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!




